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第一夜 トマトいらないよ
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その夜、遅くなってから、私は屋敷を出た。
変な時間だが、空腹を覚えていたので街へと足を延ばし、食事をすることにした。
表通りに面したレストランに入り、メニューを見ながら、ウェイトレスを呼ぶ。
若いウェイトレスだ。
まだ、学生なんだろう。
瑞々しい活力に溢れる若さが羨ましい。
注文した料理が出てくるまでに二十分以上もかかった。
遅い。
遅すぎる。
『女将を呼べい!』とどこぞの食通のように言いたいところだが、そのような度胸はない。
私は小心者なのだ。
せめてもの抵抗として、料理が運ばれてくる間、店内に流れる音楽に合わせ、テーブルの上で指を踊らせて、遊ぶ。
人に見られると少々、恥ずかしいものがある。
時間が時間だけに見られる心配もないが……。
さっきの若いウェイトレスではなく、壮年のウェイターが皿を持って現れた時、私は手を止めて、顔を上げた。
「ちょっと待ってくれ」
ウェイターは明らかに顔に困惑の色を浮かべながら、立ち止まった。
「あんたが運んでくる料理だが、妙なものが混じっていないかね?」
ウェイターの顔色が見る間に青くなった。
「ど、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だよ」
私は手にしていたフォークを置いた。
「例えばだ。このスパゲティに入っている赤い粒々は何だい? それにだ。スープの中にも何か、入っているようだぞ」
ウェイターは黙っている。
どうやら、図星だったようだ。
「まさかトマトじゃないだろうな。こんなところで本物のトマトを食えるとは思えんのだがね」
「いえ、違います。これはトマトじゃありません!」
ウェイターはやっと口を利いたと思ったら、これだ。
「なら、これは何なんだ?」
「それは……」
ウェイターは一瞬、躊躇ったが、観念したように蚊の啼くような声で『人参です』と答えた。
「人参だと? 言うに事を欠いて、人参だと?」
「はい」
「これが人参なもんかい!」
私は思わず、声を荒げてしまう。
ウェイターは逃げるように何も答えず、去って行った。
仕方がないか。
私はスプーンを手にすると、人参らしいものをすくって眺めた。
赤々と光るつぶつぶが無数にある。
とても食べ物とは思えない代物だった。
「これを食うのか?」
うんざりした。
しかし他に食べるものはなかった。
覚悟を決め、それを口に運んだ。
ゆっくりと噛んでみる。
味はほとんどしなかった。
ただ舌触りが悪いだけだ。
「畜生め!」
私が食べ終わる頃には、それでなくても少なかった店内の他の客はすでに姿を消していた。
店に残っているのは私一人になっていたのだ。
勘定を払って外へ出る。
何だか、とても損をした気分になる。
人参だ! 人参に人生を振り回された気がして、損をした。
夜はまだ明けていない。
月が沈みかけているだけで、星がまだ空で瞬いていた。
私はしばらく、ぼんやりと通りに立ちすくむが、やがて諦めるしかないことに気付かされる。
「帰るか」
それから、歩き始めた。
大通りに出た所でタクシーを拾おうと思ったが、時間がさすがに悪いようだ。
どの車も走り去ってしまったあとだった。
仕方なく、徒歩で帰ることにした。
家に着いた頃には既に午前四時を過ぎていた。
玄関の鍵を開けようとポケットを探るが、鍵がないことに気付く。
どこかで落としたらしい。
私は溜息をついた。
それくらいしか、することがなかったからだ。
もう一度、出かけようかとも思ったが、疲れていて無理だ。
諦めて、ここで寝るか。
「もしかしたら、裏口が開いてないか」
裏口のドアをダメもとで開けようと手をかけるとすんなりと開く。
やはり、開いていたようだ。
暗い台所を抜けて居間に入ろうとした時、誰かが廊下に立っていることに気がついた。
ぎょっとして立ち止まる。
女だった。
黒いドレスを着て、頭に黒いレースのボンネットを被っている。
手には銀色の鋏を持っていた。
大きな鋏で剪定鋏に近い両手で使うタイプの物だ。
彼女はじっと私を見つめている。
その目は暗く濁っていて、まるで死者に見つめられているようで怖気が走った。
背筋がゾクッとするとともに全身に鳥肌が立っているのが自分でも分かる。
女の唇の端からは長い犬歯が覗いている。
女は不意にふっと微笑むと鋏をカチャカチャと耳障りな音を鳴らしながら、近づいてくる。
あまりの恐怖に私は後退った。
「や、やあ、どうしたんだい?」
「あなたを食べに来たのよ」
「な、何を馬鹿なことを!?」
「嘘だと思うなら試してみる?」
女の手が私の喉元に触れた。
ひんやりとした感触があって、それが女の手の冷たさだと気付くのに時間がかかった。
身震いしそうになったが、必死に耐える。
恐怖心を抑え、相手を睨みつけた。
せめてもの抵抗だ。
「おれを食べるだって? 一体、どうやって……」
「こうやって、食べるのよ」
次の瞬間、鋭い痛みが走った。
首筋を噛み切られたのだ。
血が首から溢れ出して、止まらないのが自分でも分かる。
糸が切れた人形のように私は床の上に倒れるしかない。
視界が急速に暗くなった。
意識を失いそうになる。
しかし、辛うじて、堪えた。
まだ死ぬわけにはいかない。
私は起き上がろうと力を振り絞り、努力したが無駄だった。
体が思うように動かない。
手足から力が抜けていく。
「お望み通りに殺してあげるわ」
女の声が遠くで聞こえる。
「おまえは誰だ?」
私は尋ねた。
「あなたの妻になる者よ。忘れたの?」
女が笑った。
ケタケタと笑う声がやけに癇に障る。
「お、おれの妻?」
私は目を閉じた。
暗闇がジワジワと広がっていく。
夢だった……。
夢から覚めたと感じる。
心臓が激しく鼓動している。
額からは嫌な汗が流れていた。
カーテンの向こうは既に明るいようだ。
どうやら、夜明けが近いらしい。
悪夢の内容を思い出した。
女に殺されるという恐ろしい体験をしたのだ。
殺される夢ほど夢見が悪いものはないだろう。
のそのそとベッドから這い出し、鏡の前に立つ。
寝乱れた髪を撫でつけ、襟を正すと少しだけ、気持ちが落ち着いた。
「おはよう、あなた」
背後で不意に声がした。
良く知っている私を落ち着かせてくれる声だ。
振り向くと、妻が立っている。
「今朝は随分と早いのね」
首を傾げる妻の姿を未だに可愛らしいと感じると口に出せば、惚気ていると取られるだろうか?
「ああ……少し、変な夢を見てね」
私は頭を振った。
「おかしな話だが、君と結婚する前の晩のことなんだ。結婚すれば幸せになれると思っていた頃のことだ。ところがそうじゃなかったんだ……君と結婚したのは大きな間違いだったんだよ。もう二度とあんな思いはしたくないものだ」
「どうしたの? 酷い顔をしてるわよ」
「何でもない……」
私は苦笑いを浮かべて、答えた。
「ただの夢さ」
その時、視界の端にキラッと光る物が映った気がする。
気のせいだと思い、俯いた瞬間、頭に激しい痛みを感じた。
耐えきれるような痛みではない。
私の視界を熟したトマトのように鮮烈な赤が支配していく。
血塗れの菜切り包丁を手にした愛しい妻が迫ってくる。
「あ、ああ……夢じゃなかった」
変な時間だが、空腹を覚えていたので街へと足を延ばし、食事をすることにした。
表通りに面したレストランに入り、メニューを見ながら、ウェイトレスを呼ぶ。
若いウェイトレスだ。
まだ、学生なんだろう。
瑞々しい活力に溢れる若さが羨ましい。
注文した料理が出てくるまでに二十分以上もかかった。
遅い。
遅すぎる。
『女将を呼べい!』とどこぞの食通のように言いたいところだが、そのような度胸はない。
私は小心者なのだ。
せめてもの抵抗として、料理が運ばれてくる間、店内に流れる音楽に合わせ、テーブルの上で指を踊らせて、遊ぶ。
人に見られると少々、恥ずかしいものがある。
時間が時間だけに見られる心配もないが……。
さっきの若いウェイトレスではなく、壮年のウェイターが皿を持って現れた時、私は手を止めて、顔を上げた。
「ちょっと待ってくれ」
ウェイターは明らかに顔に困惑の色を浮かべながら、立ち止まった。
「あんたが運んでくる料理だが、妙なものが混じっていないかね?」
ウェイターの顔色が見る間に青くなった。
「ど、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だよ」
私は手にしていたフォークを置いた。
「例えばだ。このスパゲティに入っている赤い粒々は何だい? それにだ。スープの中にも何か、入っているようだぞ」
ウェイターは黙っている。
どうやら、図星だったようだ。
「まさかトマトじゃないだろうな。こんなところで本物のトマトを食えるとは思えんのだがね」
「いえ、違います。これはトマトじゃありません!」
ウェイターはやっと口を利いたと思ったら、これだ。
「なら、これは何なんだ?」
「それは……」
ウェイターは一瞬、躊躇ったが、観念したように蚊の啼くような声で『人参です』と答えた。
「人参だと? 言うに事を欠いて、人参だと?」
「はい」
「これが人参なもんかい!」
私は思わず、声を荒げてしまう。
ウェイターは逃げるように何も答えず、去って行った。
仕方がないか。
私はスプーンを手にすると、人参らしいものをすくって眺めた。
赤々と光るつぶつぶが無数にある。
とても食べ物とは思えない代物だった。
「これを食うのか?」
うんざりした。
しかし他に食べるものはなかった。
覚悟を決め、それを口に運んだ。
ゆっくりと噛んでみる。
味はほとんどしなかった。
ただ舌触りが悪いだけだ。
「畜生め!」
私が食べ終わる頃には、それでなくても少なかった店内の他の客はすでに姿を消していた。
店に残っているのは私一人になっていたのだ。
勘定を払って外へ出る。
何だか、とても損をした気分になる。
人参だ! 人参に人生を振り回された気がして、損をした。
夜はまだ明けていない。
月が沈みかけているだけで、星がまだ空で瞬いていた。
私はしばらく、ぼんやりと通りに立ちすくむが、やがて諦めるしかないことに気付かされる。
「帰るか」
それから、歩き始めた。
大通りに出た所でタクシーを拾おうと思ったが、時間がさすがに悪いようだ。
どの車も走り去ってしまったあとだった。
仕方なく、徒歩で帰ることにした。
家に着いた頃には既に午前四時を過ぎていた。
玄関の鍵を開けようとポケットを探るが、鍵がないことに気付く。
どこかで落としたらしい。
私は溜息をついた。
それくらいしか、することがなかったからだ。
もう一度、出かけようかとも思ったが、疲れていて無理だ。
諦めて、ここで寝るか。
「もしかしたら、裏口が開いてないか」
裏口のドアをダメもとで開けようと手をかけるとすんなりと開く。
やはり、開いていたようだ。
暗い台所を抜けて居間に入ろうとした時、誰かが廊下に立っていることに気がついた。
ぎょっとして立ち止まる。
女だった。
黒いドレスを着て、頭に黒いレースのボンネットを被っている。
手には銀色の鋏を持っていた。
大きな鋏で剪定鋏に近い両手で使うタイプの物だ。
彼女はじっと私を見つめている。
その目は暗く濁っていて、まるで死者に見つめられているようで怖気が走った。
背筋がゾクッとするとともに全身に鳥肌が立っているのが自分でも分かる。
女の唇の端からは長い犬歯が覗いている。
女は不意にふっと微笑むと鋏をカチャカチャと耳障りな音を鳴らしながら、近づいてくる。
あまりの恐怖に私は後退った。
「や、やあ、どうしたんだい?」
「あなたを食べに来たのよ」
「な、何を馬鹿なことを!?」
「嘘だと思うなら試してみる?」
女の手が私の喉元に触れた。
ひんやりとした感触があって、それが女の手の冷たさだと気付くのに時間がかかった。
身震いしそうになったが、必死に耐える。
恐怖心を抑え、相手を睨みつけた。
せめてもの抵抗だ。
「おれを食べるだって? 一体、どうやって……」
「こうやって、食べるのよ」
次の瞬間、鋭い痛みが走った。
首筋を噛み切られたのだ。
血が首から溢れ出して、止まらないのが自分でも分かる。
糸が切れた人形のように私は床の上に倒れるしかない。
視界が急速に暗くなった。
意識を失いそうになる。
しかし、辛うじて、堪えた。
まだ死ぬわけにはいかない。
私は起き上がろうと力を振り絞り、努力したが無駄だった。
体が思うように動かない。
手足から力が抜けていく。
「お望み通りに殺してあげるわ」
女の声が遠くで聞こえる。
「おまえは誰だ?」
私は尋ねた。
「あなたの妻になる者よ。忘れたの?」
女が笑った。
ケタケタと笑う声がやけに癇に障る。
「お、おれの妻?」
私は目を閉じた。
暗闇がジワジワと広がっていく。
夢だった……。
夢から覚めたと感じる。
心臓が激しく鼓動している。
額からは嫌な汗が流れていた。
カーテンの向こうは既に明るいようだ。
どうやら、夜明けが近いらしい。
悪夢の内容を思い出した。
女に殺されるという恐ろしい体験をしたのだ。
殺される夢ほど夢見が悪いものはないだろう。
のそのそとベッドから這い出し、鏡の前に立つ。
寝乱れた髪を撫でつけ、襟を正すと少しだけ、気持ちが落ち着いた。
「おはよう、あなた」
背後で不意に声がした。
良く知っている私を落ち着かせてくれる声だ。
振り向くと、妻が立っている。
「今朝は随分と早いのね」
首を傾げる妻の姿を未だに可愛らしいと感じると口に出せば、惚気ていると取られるだろうか?
「ああ……少し、変な夢を見てね」
私は頭を振った。
「おかしな話だが、君と結婚する前の晩のことなんだ。結婚すれば幸せになれると思っていた頃のことだ。ところがそうじゃなかったんだ……君と結婚したのは大きな間違いだったんだよ。もう二度とあんな思いはしたくないものだ」
「どうしたの? 酷い顔をしてるわよ」
「何でもない……」
私は苦笑いを浮かべて、答えた。
「ただの夢さ」
その時、視界の端にキラッと光る物が映った気がする。
気のせいだと思い、俯いた瞬間、頭に激しい痛みを感じた。
耐えきれるような痛みではない。
私の視界を熟したトマトのように鮮烈な赤が支配していく。
血塗れの菜切り包丁を手にした愛しい妻が迫ってくる。
「あ、ああ……夢じゃなかった」
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