ひきこもり令嬢でしたが絶世の美貌騎士に溺愛されてます

砂城

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1巻

1-2

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「あの……お姉さま。それはどういうことなのか、説明してはいただけませんでしょうか? 私の嫁入り先が決まったとは……?」
「説明も何も、当然のことでしょう?」
「……つまり、責任をとってくださる、ということですね」

 ヴァレンティナも、貴族の令嬢のはしくれだ。自分たちの階級の結婚というものが、どのような意味を持つのか理解している。
 重要なのは本人の意思ではなく、家同士のつながりだ。
 基本的に爵位というものは、その領地の広さによって決まっている。ゆえにヴァレンティナの生まれたアルカンジェリ伯爵家もそれなりの広さの領地を持ってはいるのだが、生憎あいにくとその大部分がけわしい山や手のつけられない原生林。わずかな平地はあるものの、これといった特産品があるわけではない――はっきり言って貧乏だ。ろくな持参金も用意できないであろう自分を妻にするのに、責任をとった以外の理由は考えられない。

「我が家の事情もすべて話されたのですね? そのうえで、本当にそれでいいとおっしゃってくださったのですか?」
勿論もちろんよ。そうでなければ、貴女あなたに言ったりはしないわ」
「そ、そうですか……」

 楚々そそとした美女の外見とは裏腹に、シアンがなかなかに苛烈かれつな性格をしていることを、実の妹であるヴァレンティナはよく知っている。
 しかも、昨日の今日だ。ヴァレンティナたちが王都に出てくるのと入れ違いに遠い領地に戻った父に知らせる暇があるはずもなく、『話し合い』を行ったのはこの姉だろう。見ると、上手うまく化粧で隠してはいるが、目の下にはうっすらとクマが浮いており、表情にも疲れた様子がただよっていた。
 急に夜会から姿を消した妹を案じ、ことが露見した後は、その始末に奮闘してくれたに違いない。
 自分がノンビリ(?)と寝ていた間に……と、改めて感謝をする。いや、とりあえずそれは置いておいて――

「それで、その……私をめとってくださるというのは、どこのどなたなのでしょう?」

 何をおいても、まずはそれを知らねば話が始まらない。そう思い、純粋に自分の疑問をぶつけたのだったが、それを聞いた途端にシアンの眉がものすごい勢いで吊り上がった。

「……ティナ。もしかして、貴女あなた、相手が誰か知らないの?」

『ティナ』というのは、ヴァレンティナの愛称である。

「え? は、はい……昨夜は、突然、その……それで、あの……お互い名乗る暇もなく……」
「……そうだったのね。そう。そんな状況だったのね……」

 唇は笑みの形になっているものの、目がそれを裏切っている。それはそれは冷たい眼差まなざしで、シアンは目の前にいるヴァレンティナではなく、違う場所にいる『誰か』を見ているようだ。

「それなら私から教えるわ。貴女あなたの夫になるのはここ――つまり、ノチェンティーニ侯爵家の三男のイヴァンさまよ」

 その姉の言葉を聞いた途端に、ヴァレンティナの顔から血の気が引いた。
 どこぞの貴族の子弟だろうとは推測していても、よりによってこの家の息子とは思わなかった。

「ご、ごめんなさい、お姉さまっ! 私、大変なご迷惑をおかけしてしまって……っ」

 ノチェンティーニ侯爵家といえば、今を時めく大貴族だ。三男坊とはいえ、そんな家の息子がおくれ寸前の自分をめとる羽目になるとは――はっきり言って、相手方にとっては災難でしかない。

「どこが迷惑なの? ――状況はあちらから聞いています。ティナ、貴女あなたは被害者なのよ。何も気にすることはないわ」

 シアンはそう言うが、ヴァレンティナとしては到底そんな風には思えない。

「で、ですが、いくら何でも侯爵家の方と……」
「確かにお父上は侯爵でいらっしゃるけど、後を継ぐのはご長男よ。三男のあの方は子爵位は持っていらっしゃるらしいけれど、今は王都騎士団に所属されているだけだし、ウチとのご縁があっても不自然ではないわ」

 現に子爵家にとついでいるシアンが言うことだ。確かに説得力はある。

「それよりも……一応の事情はあちらから聞かせてもらいはしたけれど、私としてはできれば貴女あなたの口からも、どういう状況だったのか聞かせてもらいたいの。勿論もちろん貴女あなたにとってはとてもつらい出来事だったのだから、話したくないのなら無理はしなくていいわ」

 シアンがヴァレンティナを気遣うのは当然だった。常日頃、しっかり者だと評判の妹ではあるが、普通ならショックのあまり取り乱し寝込んでしまったとしても不思議はない。本人から話を聞くにしても、本来はもっと時間をおいて、ある程度落ち着いてからが望ましい。
 なのにそうしなかったのは、シアンがすでとついだ身であるためだ。
 諸事情あって一時的に妹の保護者代わりを務めているが、間もなく婚家に戻らねばならない。そして、一旦戻れば、実家とはいえ『他家』になり、そうやすやすと口を挟めなくなるのは容易に想像できた。
 無論、ヴァレンティナの精神状態も心配しているに違いないが、ここまでの会話で彼女が予想したほどには衝撃を受けていない様子なので、思い切って尋ねてみたらしい。

「無理いするつもりは本当にないの。だから――」
「……いえ、お話しします。ただ、私もよくわからない部分があるので、そこはごめんなさい」
「いいのよ。貴女あなたが話せることだけでいいのだから」
「はい、お姉さま」

 一旦、そう言いはしたものの、ヴァレンティナはすぐに話し出せはしなかった。
 やや冷めてしまった紅茶を口に運び、何をどう言えばいいのかを考える。
 この一連の騒動の発端は――少し前のことになるが、五年前にとついだ姉のシアンが夫と子供を連れて初めての里帰りをしたことだった。


     ◆


 シアンは貴族には珍しく熱烈な恋愛の末に、裕福な子爵家にとつぎ、すぐに子宝にも恵まれた。その子がようやく長旅に耐えられるようになったため、久方ぶりの里帰りが実現したのだ。
 残念なことに母と兄――長女であり最初の子だったシアンにとってはすぐ下の弟は、三年ほど前に事故で他界していたが、王都にいた父親と弟も彼女の里帰りに合わせて領地に戻ってくる。数年ぶりの再会に、皆うれし涙にくれた。同行してきたシアンの夫も息子と一緒にそんな愛妻の様子を、温かく見守る。
 それだけなら、よくある貴族一家の微笑ほほえましい光景だったろう。
 それが一変したのは、久方ぶりの再会の感激も収まり、家族で夕食を囲んだ時のことだ。

「――ところで、ティナはいつ、お嫁に行くの? デビュタントの舞踏会への出席はお母さまたちのことがあったうえに、私も出産したばかりで手伝えなくて、残念ながら見送らないとならなかったでしょう? だから、今度こそ私もちゃんとお祝いしたいと思っているのよ。たしか、ヴェノン伯爵家の次男とのお話が進んでいたと思うのだけど、お式はいつ頃になる予定なのかしら?」

 この時、ヴァレンティナは十八歳の誕生日を迎えたばかりで、貴族の子女としては適齢期の真っ盛り。縁談の一つや二つ――というか、普通ならとっくの昔に婚約が調ととのっている年齢だ。
 尚、デビュタントというのは、貴族の子女が正式に社交界の一員として認められお披露目の舞踏会に出る際の呼称である。ただし、このお披露目は必ずやらなければならないというものでもない。母と兄の事故死によりヴァレンティナのそれが見送られたのはシアンも知るところであった。
 シアンとしては和気あいあいとした家族の会話にいろどりを加えるつもりでの発言だったらしく、その途端に凍り付いた場の空気に仰天している。

「……どうしたの、お父さま? ティナ?」
「あ、あの……お姉さま。実は……」

 黙ってうつむいてしまった父親に代わりシアンの問いに答えたのは、ヴァレンティナだ。

「婚約はその……お話は進んでいたのですが、少し事情がありまして……」
「事情? どういうこと?」

 シアンの眉が吊り上がる。それが危険な兆候だとわかっているヴァレンティナが慌ててなだめようとするその前に、父親が口を開いた。

「シアン。それは私から言おう――確かにティナの縁談は一旦、まとまりはした。だが……その後で、あちらから破談にされたのだよ」
「破談ですって? 何故なぜそんなことにっ?」
「もっと旨味うまみのある縁談が持ち込まれたのだろうよ。理由は、あれこれ言いつくろってはいたが――一番主張したのは、ティナが『前世持ち』だからということだった。前世が平民の令嬢など、我が家にはふさわしくない、とな」


 この世界には、時々、『前世』の記憶を持って生まれてくる者がいる。おおよそ千人に一人程度の割合で、それが多いか少ないかはともかく、珍しくはあるが『あり得る』存在として認識されていた。
 そういった者たちは、幼児の頃こそ多少普通とは違った反応を示すものの、大抵の場合は四、五歳くらいまでに前世のそれが現世の記憶に吸収され、その後はごく普通の一生を送る。ごくごくまれに記憶を保持する場合もあるが、例えば農民の家に生まれた子どもの前世が王族であったとしても、現世にどれだけの影響を与えられるだろう? 『余は王である』といくら主張しようとも現実には彼はただの平民だし、今更、数代前に死んだ王様に出てこられてはその国も困る。
 それでもそういった前世の記憶を保持した者たちは二回目の人生を歩んでいるわけだから、同世代の普通の人々と比べて知識は無論のこと、洞察力や判断力に優れていることが多い。ゆえに、よほど突飛な――それこそ『自分は王だ!』などと言い出したりしないならば重宝される存在となっていた。
『前世持ち』とは、そんな人々を指した言葉だ。

「――そんなもの、単なる言いがかりではありませんかっ!」

 そういったわけで、シアンは怒った。ヴァレンティナの前世が平民だとしても、それを理由に破談というのは無理やりこじつけたとしか思えない。

「……あちらとの話が持ち上がった頃は、まだアリーシャもフレデリックも健在で、うちの領地経営もうまくいっていた。だが、今の状況を見れば、手を引きたくなっても仕方なかろう」

 アルカンジェリ伯が名を挙げたのは、数年前に亡くなった妻と長男の名だ。実はその二人が亡くなるのとほぼ同時に、領地の経営が傾き始めていた。
 それをヴァレンティナの婚約相手――ヴェノン伯も知ったのだろう。
 しかし、一旦は婚約を結んだ以上、相手方の経済状況を理由に破棄するのは外聞が悪い。
 そこで、普通は問題にはならないはずの、彼女の『前世』のことを押し出してきたということだ。

「……お父さまは、それで納得されたのですか?」

 低い声で再度、シアンが父に問いかける。

「あちらの本音はけて見えるが、ひたすらティナの『前世』のことを言い立てるばかりでな……」

 逆に言うと、その点を除けばヴァレンティナには瑕疵かしがない、ということでもある。
 シアンのように目を見張るほどの美女ではないが、見た目は平均で、性格もおとなしく真面目。贅沢ぜいたくを好むわけでもなく、領政についても明るい。
 少しばかり内向的ではあるものの、大貴族の嫡男にとつぐのではないのだから大した問題にはならないはずだった。

「それで、お父さまは、あちらのそんな勝手な言い分を黙って聞いていらしたのですか?」 

 更に激昂げっこうするシアンを、ヴァレンティナが慌てて止める。

「落ち着いてください、お姉さま――私が前世持ちであることは本当です。その頃の名はとっくに忘れてしまいましたが、確かに平民でしたし、その他の記憶もまだ幾分かは残ってございます。薄気味悪く思われても仕方ありません」

 一部の者ではあるが、そんな風に前世持ちに差別的な見方をする者もいる。が、仮にも貴族――しっかりと教育を受けたはずの者が、そのようなことを言い出すとは。
 ヴァレンティナがどう言おうと、シアンは承諾しがたいようだ。

「だけど、ティナはその知識でこの領地を盛り立ててくれているでしょう? お母さまたちがお亡くなりになって、お父さまも王都でのお仕事で留守にすることが多いのに領地が回っているのは、貴女あなたのおかげじゃないのっ」

 兄が亡くなり、新たに跡継ぎとなった弟はまだ十四歳になったばかり――今は姉の里帰りに合わせて戻ってきてはいるが、普段は王都にある貴族の子弟のための学院で学んでいる最中だ。
 そんな状態でアルカンジェリ領がきちんと統治できているのはヴァレンティナがいてくれるからだというのは、この地に住まう者全員の一致した意見である。

「お姉さまはそうおっしゃってくださいますが、何度も申し上げましたように、私はただの『もじょのおーえる』でございました。前のの知識といっても大したことはございませんし……」

『前世』が、この世界に生きた者とは限らない。
 ヴァレンティナの前世は、こことは別世界の日本という国の、ごく一般的な会社の普通のOLであった。
 三十を過ぎるまで男性と付き合ったことはなく、特にこれといった趣味もなく、ひたすら真面目に、地味に日々を過ごしていた……そんな前世の記憶がそうさせるのか、ヴァレンティナの自己評価は何処どこまでも低い。
 もっとも、この世界より文明が進んでいた『前の世界』での知識は、一般的な教育しか受けていなかったヴァレンティナのそれでさえ、非常に有益だった。
 ヴァレンティナ自身は、誰もが知っていて当たり前の知識――程度の認識だが、これがもし、彼女の前世がライトノベル好きなら、大喜びでその知識を活用していたのだろう。
 ――ただ、その場合『転生キター!』とばかりにはっちゃけていた可能性が高いので、これはこれでよかったのかもしれない。

「……『もじょ』とは、たしか結婚できなかった女性のことだったかしら? でも、前の人生でよいご縁がなかったのは、今の貴女あなたとは関係のないことでしょう。そのせいで貴女あなたが結婚にあまり積極的でないのは知っているけれど、亡くなられたお母さまも貴女あなたとつぐのを楽しみにしていらしたのよ?」
「それは存じておりますが……でも、そんな風におっしゃるお相手のところに無理をしてとつぐのも……」
「私もそう思ったんだよ、シアン」

 ほとんど言いがかりに等しい理由による婚約破棄の申し出だ。出るところに出れば、軍配はアルカンジェリ家に上がる。
 だが、その結果、婚家でヴァレンティナがどのような扱いを受けるか……
 そう言われると、シアンとしてもこれ以上は主張しがたいようだ。
 だが、黙って引っ込む性格はしていない。

「わかりました。その件についてはもう何も言いません。でも――ティナのことだから、このまま独り身を通して弟が成人したら修道院へ……なんてことを考えているのかもしれませんけど、この私が! 決して! そんなことはさせませんからね?」

 この姉が言い出したら、決して後には引かないことを家族は全員、承知している。
 吊り上がった眉とまなじりなのに、それはそれは美しく微笑ほほえむ姿に思わず腰が引ける父親とヴァレンティナ。そしてそれとは対照的に、シアンの夫はニコニコと妻を見つめていた。流石さすがこの姉と熱烈恋愛できただけはあるが、それはさておいて。
 その宣言通り、シアンはおのれと婚家の持てるすべてのコネを使い、あっという間にヴァレンティナを王都の社交界に引っ張り出すことに成功した。
 つまりはそれが、昨夜のノチェンティーニ侯爵家の夜会だったわけだ。


     ◆


「……お姉さまもご存じのように、私はあのような華やかな場に出るのは初めてでございました」

 ヴァレンティナが口を開くのを辛抱強く待っていたシアンは、黙ってその言葉にうなずいた。

「それでも、お姉さまと侯爵夫人から何人かの方にご紹介をいただきました後は、私なりに頑張ってお話をしてみたのですが、そのうち少し疲れてしまって……」

 ド田舎いなか辺境の領地からいきなり王都のきらびやかな社交界へ――それも今を時めくノチェンティーニ侯爵家の夜会に連れてこられたのだから、無理もない。
 貴族の令嬢のたしなみとして一通りの礼儀作法は身につけてはいたが、デビュタントも経験していないヴァレンティナにとっては、何もかもがぶっつけ本番。何かヘマをしでかさないか、という精神的な重圧がかかっていた。
 無論、その辺りは手抜かりのないシアンと、彼女と懇意こんいの侯爵夫人のはからいで、今回の夜会に集められたのは、年が若くまだお相手の決まっていない貴族の子女が主となっている。所謂いわゆる『お見合いパーティー』のような様相を呈するかなり気楽なものであった。ただ、それでもヴァレンティナにとってはハードルが高かったようだ。
 当たりさわりのない会話をするだけでも、精神的疲労が半端はんぱなく、顔に貼り付けていた微笑ほほえみがひきつるのが自分でもわかってきた辺りで、一旦、退却する。
 そのタイミングで、夫と共にヴァレンティナに付き添っていたシアンが知り合いの貴族に声をかけられたことが、この後に起こる悲劇の一因であった。

「少しだけお酒もいただいておりましたので、お庭で涼みたいと思いましたの。勿論もちろん、そんなに遠くに行くつもりもなくて、バルコニーから少しだけ歩いたところで休んでおりました。そうしているうちに、植え込みの陰にしゃがみこんでいる殿方を見つけてしまいましたの……」

 最初、ヴァレンティナはすぐにその場を離れるつもりだった。世間知らずな彼女でも、シアンが口を酸っぱくして言い聞かせたこともあり、こういった夜会にまぎんでは不埒ふらちなことをたくらむ者がいることは知っている。
 きびすを返し、室内に戻ろうとしたものの――その耳にかすかなうめき声が聞こえた。

「暗くてよくはわかりませんでしたけど、その方はとても苦しそうなご様子で……急なご病気かもしれないと思って、つい、声をかけてしまったんです」
「そうだったのね」

 ヴァレンティナが心優しい娘であるのは、シアンも百も承知だ。
 一応の警戒はしていても、その相手が具合が悪そうだと知り、自分の安全など二の次で相手を心配したのだった。

「最初は、私が声をかけても聞こえていらっしゃらない様子でした。それでも、何度か声をかけるうちに、その方も私に気づかれたのです。でも、立ち上がる力もないご様子で――そこまで具合がお悪いのでしたら、私の手には余りますので、人を呼ぶべきだと考えたのです」

 ヴァレンティナの判断は間違ってはいない。成人した男性を、非力な娘が一人でどうこうできるはずもないのだから。

「室内に戻って、どなたか男の方に来ていただこうと思ったのですが……」

 ――丁度その時、一人の令嬢がバルコニーへ出てくる。シアンに紹介された面々には入っていなかったのでどこの誰かは知らないが、ヴァレンティナは彼女に声をかけ、誰かを呼んでもらおうとした。
 その時だ。
 ヴァレンティナが言葉を発する前に、いきなり伸びてきた手に口をふさがれる。
 更には、あろうことか背後から抱きすくめられ、うずくまっていた彼に植え込みの陰へ連れ込まれてしまった。
 突然のことに恐慌状態になりかけたヴァレンティナの頭の上から聞こえてきたのは、ひどく苦し気な切れ切れの声だ。

『っ……す、まない……あいつには、気づかれたくない、んだ……』

 普通に話すことさえつらそうな様子なのに身を隠す必要がある――ヴァレンティナには、その理由が想像できなかったが、背後から伝わってくる切羽詰せっぱつまった気配と、拘束されはしたがそれ以上は不埒ふらちな雰囲気がないこともあり、とりあえず様子を見ることにする。
 正体不明の男とヴァレンティナが息をひそめて見守る中、バルコニーに出てきた令嬢が何かを捜すようなそぶりであちこちをのぞき込む。
 一度など、二人のひそむ植え込みのすぐ側までやってきたので、二人の体に緊張が走った。が、運よく見つからず、しばらくその辺りを探し回っていたものの、やがて諦めたのか彼女はまた邸内に戻っていった。
 それを見送ってようやく警戒を解いた男につられ、ヴァレンティナ自身もほっとする――まではよかったのだ。
 緊張の糸が緩んだことで、ようやくヴァレンティナにも相手にこの状況に対する説明を求めようという余裕が生まれた。身振りで、口をおおっている手を離してほしいと伝える。すると、彼は素直に解放してくれた。
 後から考えると、その時にすぐに悲鳴の一つでも上げていれば、その後の悲劇は防げたかもしれない。
 だが、妙な連帯感が生まれていたせいもあり、まずは状況の説明を求めるべくヴァレンティナは背後の男に向き直った。その時に『それ』が起こる。

「何やらよい香りがした、と思った途端にめまいのような感覚に襲われて……その前にいただいていたお酒の酔いが回ってきたのかもしれませんが、体が火照ほてって、見ている風景がぐるぐると回り……それで、思わずその方に抱き着いてしまったんです」

 抱き着いたというよりも倒れ掛かったという表現のほうがしっくりくる状況だったが、この場にいる二人共が体調不良というのは非常にいただけない。せめて自分だけでもしっかりしないと、とは思っても、自分の体が自分のものではないような――胸の鼓動が速くなり、呼気も熱くなった。
 四肢ししに力が入らず、それでも必死に気力を振り絞って体勢を立て直そうとしたヴァレンティナだったが、またしても彼女より先に男が動く。

『は、離れて、くれ……さもないと……っ』

 自分からヴァレンティナを引き込んだくせに、そんなことを言ったかと思うと、どん、と乱暴に突き放された。
 貴族令嬢であるヴァレンティナは、こんな風に手荒に扱われことは一度もない。
 ちょうど姿勢を変えようとしていたこともあり、あっけないほど簡単にバランスを崩し、むき出しの地面に倒れ込む。

『っ! すまないっ、そんなつもりでは……っ』

 男のほうも自分のしでかしたことに驚いたようで、慌てて彼女を抱き起こしてくれはしたのだが、その動きによって、先に感じた香りが更に強くなったようにヴァレンティナには思えた。
 この香りは目の前の男性が発しているみたいだが、男性が使うコロンにしては甘すぎる。
 誰かの移り香かもしれないけれど、それにしては強いようにも思えた。それを深く追及するよりも早く――

『しまった……っ! くっ』

 ヴァレンティナを抱き起こした男が苦しそうな声を上げ、何かに耐えるそぶりを見せる。
 必死で何かにあらがっている様子だが、ヴァレンティナには訳がわからない。
 例の香りのせいで思考がまとまらないのに加え、紳士的なのか粗野なのか一向に正体がつかめない男にどう反応すればいいのかわからなかった。 

『……だめ、だっ! すまないっ……っ』

 しばし、ただ呆然と見つめる間にも、男の葛藤かっとうは続いている。やがてひどく苦し気に低く叫んだかと思うと、ヴァレンティナの体を抱き上げた。
 先ほどまでの様子は仮病だったのではないかと思えるくらい素早く背中と膝裏をすくげ――所謂いわゆる『お姫様抱っこ』の体勢だ。余りに突然の変わりように、ヴァレンティナは抵抗を忘れ、なされるがままになる。
 夜会の行われているホールの光で男の髪が金色に輝いているのは見えたが、後は薄闇に閉ざされてよくわからない。自身の体を抱き上げている腕はたくましく、体つきもそれなりに鍛えられているようだ。ヴァレンティナにわかったのはそれだけだった。

『すまない……許して、くれっ』

 重ねられるそれが何に対しての謝罪なのか? その時のヴァレンティナは豹変ひょうへんした彼の行動についてのものだと思ったのだが、まさかその続きがあるとはつゆほども予想していなかった。
 ヴァレンティナの体を軽々と抱き上げた彼が向かったのは、ホールではなく庭園を挟んだ侯爵家の一角だ。
 闇の中、どうしてこんなに素早く的確に動けるのか。不思議なほどに迷いのない足取りで棟に向かい、閉ざされていたドアを開けて窓際に置かれていた寝台の上にヴァレンティナの体を放り投げる――いやそれは、言いすぎかもしれない。
 実際にはそれなりに丁寧なしぐさで横たわらせてくれたのだが、乱暴にだろうが丁寧にだろうがヴァレンティナの意に反した行為であることは間違いなかった。
 そしてここにきてようやく本格的な身の危険を感じたヴァレンティナは、相変わらず酩酊状態に似た感覚にさいなまれた状態でも悲鳴を上げようとするが、男がそんなことを許すはずもない。

「……いきなり口づけられてしまい、誰かに助けを求めることもできなくて……その後は、あまりはっきりとは覚えていないのです」

 切れ切れの記憶はあるものの、それを自分の口から姉に告げるのは流石さすが躊躇ためらわれた。

「っ! もういいわ――ごめんなさい、つらいことを言わせたわね」
「いえ、おかしな話かもしれませんが、あまりショックはないのです。自分に起こったことなのですが、どこか他人事のような気がして……ああ、こういった時、前のでは『野良犬に噛まれたと思え』と言われていた気がします」


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