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1巻
1-3
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そしてその翌日、つまりは今朝。
緊張で食べ物が喉を通らないリリアンを説き伏せあやして食事をさせ、つま先から髪の毛の先に至るまで磨き上げ、途中のこのこと顔を出したユーグをあっさりとあしらって追い返し、目を赤くしたメイドたちから見事に仕上がったドレスを受け取り、辺境伯夫人からの指示でリリアンが見たことも触れたこともないような豪奢な宝飾品で身支度をしてくれた。
「とてもお美しゅうございますよ、リリアン様」
クロナの言葉どおり、大きな姿見に映る自分は、これまで見た中で一番美しい。
「何から何まで……本当にありがとう」
望まれて来たわけでも、望んで来たわけでもないリリアンだ。
いきさつを考えれば、どれほど冷遇されても文句は言えない。それを、主に命じられたとはいえ、ここまで献身的になってくれる相手に、そんな言葉だけでは到底足りない。それでもせめて、心からの礼を告げる。
「うつむくことなく、胸を張ってお進みくださいませ」
「ええ」
なぜここまでしてくれるのか……使用人としての建前ではなく、クロナの本心を知りたいと思いながらも、気持ちを切り替える。
今から向き合うべきなのは、クロナではない。
「それでは、ご案内させていただきます」
別室で待機してくれていたらしいオーラスに付き添われ、はき慣れない高いヒールの靴に少々手こずりながらも、リリアンは背筋を伸ばし歩を進める。
礼拝堂の前まで来た時に、すでに姑となる辺境伯夫人が自分を待ってくれていたのに驚きながら、笑顔と共に差し出された手に、そっと自分の左手を添えた。
「ありがとうございます、あの……お義母様」
「どういたしまして。私も貴女みたいな義娘ができてうれしいのよ」
言葉の一部を妙に強調された気がするが、その理由を尋ねて良いのか迷っているうちに、先ぶれが声を張り上げた。
「ご静粛に! 花嫁の入場です」
分厚く大きな扉がゆっくりと引き開けられる。
その先の向かって右側に固まってラファージュ家に縁があるであろう人々が並び、最奥の祭壇前にはユーグとその父である辺境伯が立っていた。
その他は、この式のために来てくれたという司祭が一人だけ。左側のマチス家関係者のための場所に参加者の姿はない。
あまりにも失礼……を通り越して無礼ですらある。
一斉にリリアンを見つめる人々の目に敵愾心とでも呼べそうなものが宿っているのは、当たり前だろう。
――覚悟はしていた。
それでもお世辞にも友好的とは言えない大勢の視線に、思わずうつむきそうになる。
けれど、その寸前に、預けていた片手をきつく握り締められた。
リリアンたちが礼拝堂に足を踏み入れた時点で、すでに式は始まっており、ここから先に口を開いていいのは司祭と新郎新婦のみ。
それゆえの無言での力づけにリリアンは頭を高く上げる。それでいい、とでもいうようにもう一度、姑の手に力が入った。
しん……と静まり返った礼拝堂に、リリアンたちの歩むヒールの音と、長く裾を引いたドレスの衣擦れ、そして降りしきる雨の音だけが響く。その中をゆっくりと進み、やがて、ユーグの待つ場所へたどり着いた。
無言のまま、姑に預けていた手がユーグへと引き渡される。
今日の彼は杖を手にしていなかった。
顔に残る傷、不自由となった左足。
昨日聞いたユーグの言葉によれば、服に隠された部分にも傷があるという。
だが、その原因をリリアンは知らない。
本物の婚約者であるテレーズなら知っているのかもしれないが、それをリリアンに教えてくれるような親切心は欠片もなかっただろう。
それでも。理由を知らずとも、今のユーグを心配することはできる。
支えとなる杖なしに、慎重に祭壇に向き直る彼が、万が一にもそのバランスを崩さぬよう、もしそうなった場合はすぐに支えられるように。注意深くその動きを見守り、無事に方向転換を終えたことにほっとして、思わず彼の顔を見上げ……昨日と同様、片方だけおろした前髪の下の、ひどくイラついたような視線とぶつかった。
(……え?)
ここまで一言もしゃべらず、ただ歩いてきただけだ。ユーグの気に障るような真似はしたくてもできないはずだった。なのに、そんな視線を向けられる意味がわからない。
だが、その視線はすぐに逸らされ、その直後から司祭の説教が始まったせいで、リリアンは式に集中するしかなくなる。
そのまま式は進み、誓約書へ署名を促された。一瞬、ユーグがそれを拒むかもしれないと思ったものの、彼が素直にペンをとってくれたので安堵する。
さらさらと自分の名をそこに記した後、ユーグは同じペンをリリアンに渡す。
リリアン・レナ・マチス。
この署名をするのは、これで最後だ。今日この時より、リリアンの家名はラファージュとなる。
けれど……いつまで自分は、この『名』を名乗れるのだろうか?
ふと、そんな疑問が頭に浮かぶが、間違っても婚姻式の最中に考えることではない。余計な考えを振り切るように、そっと署名を終えた書類を差し出した。
司祭がそれを確認する。
「滞りなく両名の署名をいただきました。これより、ユーグとリリアンは夫婦となります。もし、この結びつきに異論のあられる方は、今、ご発言ください」
型通りの宣言に、声を上げる者は一人もなく――こうして、リリアンはユーグの妻となったのだった。
式の後はお決まりの宴会だ。正式な披露宴はまた別に開催する予定のため、内輪での小ぢんまりとしたものではあったが、そこは辺境伯家である。贅を尽くしたとまではいかずとも、テーブルには十分に豪華な料理が並んでいた。
内輪だけの宴の場合は立食が多いのに、ユーグの体のこともあってか着席方式で、これはリリアンにとって大変にありがたい。
厳かな式の間は口をつぐんでいられても、酒が入れば別となるからだ。
しかし、一段高くしつらえられた席でユーグの隣に座り、その脇で辺境伯夫妻がにらみを利かせていれば、酒で過剰に滑らかになった舌にも歯止めがかかる。
よほどの愚か者でない限りは、この場でリリアンを侮辱するような真似はできないだろう。
あからさまではなく、それとなくにおわせる類の嫌みまで完全に封じることはできなかったが、その程度であればリリアンも聞き流すことができた。
やがて――
「さて、と……そろそろ新婚の二人を解放してやらねばならんな」
宴もたけなわになった頃に告げられた辺境伯の言葉で、ユーグとリリアンが退出する。
その先は、言うまでもなく夫婦の寝室であった。
急ごしらえの、けれど見事に仕上がったリリアンの披露宴用のドレスだったが、寝室にはふさわしくなかった。
いったん、一人で戻った自室ではクロナや侍女たちが待ち構えており、すぐさま浴室に送られた後、朝の婚姻式の時と同じように、いや、それ以上に念入りに全身を磨き上げられ、衣装を着せかけられる。
これほど薄く、扇情的ですらあるものを身に着けるのは初めてだ。周囲にいるのは同性だけだというのに、今すぐ着替えたくなったリリアンだが、これが『初夜の装い』であると言われればそれまでだ。
湯浴み後の体が冷えてはいけないとガウンだけは羽織らせてもらえたものの、こちらも素材は夜着本体と同じであり、本当に防寒の効果があるのかははなはだ疑わしかった。
その姿で、おろしたままの髪をくしけずられ、薄く夜の化粧を済ませて向かった先は、リリアンが気が付いていなかった部屋の片隅にある扉の前――その向こうが夫婦の寝室であるという。
そう告げられた瞬間、本当に今更であるが、自分が『誰かの妻』になるという実感が怒涛のようにリリアンに押し寄せる。
普通であればもっと前に感じるものだろうが、婚姻式では醜態をさらさないようにすることだけで頭がいっぱいで、何より『嫁げ』と告げられたのが数日前のことなのだから、無理もない。
怖気づき……けれど、ここから逃げ出すわけにもいかず、覚悟して扉を開いた。その先はここよりもやや広めの部屋だ。
中央に大きな天蓋付きのベッドがあり、すでにユーグがそこに腰を下ろして彼女を待っていた。
「あの……お待たせして申し訳ありません……」
どうしても声が震えてしまうのは、これから初夜を――それも、昨日初めて会った相手と迎えねばならないせいだ。
薄い絹とレースで作られた初夜のための衣装は、リリアンの華奢な体格を余すところなく新郎の前にさらけ出している。
恥ずかしくて仕方がないが、下手に隠すのも憚られる。
室内を照らす明かりが寝室にふさわしく光量を抑えたものであるのが、リリアンには唯一ともいえる救いだった。
「それほど待ってはいない。それと、女性の支度に時間がかかるのはわかっているから、謝罪は無用だ」
相も変わらずそっけない物言いだが、婚姻式で垣間見せた敵意のようなものは感じられない。
そのことでわずかにほっとするが、この先、どう動けばいいのかがリリアンにはわからなかった。
座っているユーグのところまで行くべきなのかもしれないが、呼ばれてもいないのに勝手に動いてもまずい気がする。
そのリリアンの逡巡を感じ取ったのか、それとも単にそういうタイミングだったのか――
「そこで立っていても仕方ないだろう? 本来なら立って出迎えるべきだろうが、立ち上がるのに少々難儀するので、君がこちらに来てくれると助かる」
受け取り方によっては、『リリアンのためにわざわざ立ち上がるのが面倒だから、勝手に歩いてこちらに来い』と言われていると解釈できるセリフである。そして、本人は気が付いていないのかもしれないが、おそらくそれがユーグの本音だろう。
リリアンとしては粗雑な扱いに憤っていい場面だが、残念なことに彼女はこうした扱いに慣れすぎていた。
素直にその言葉に従っておずおずと足を進め、ユーグに近づく。彼はベッドに腰かけた自分の隣をポンポンと叩いて示した。
そこに座れ、ということだろうが、リリアンとしてはその距離がいささか近すぎるように思われ、結局少し離れたところにそっと腰を下ろす。
「……まぁ、仕方がないな」
手を伸ばせば触れることはできても肩を抱くような親密な行動はとりずらい距離に、ユーグが苦笑する。
「も、申し訳ありません」
「責めているわけじゃない。男の俺に、女性である君の気持ちがわかるとは言えないが、想像はつく」
相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、確かに彼自身の言うように怒ってはいないようだ。
そのことに勇気づけられ、リリアンはおろしていた視線を思い切って上げ、ユーグに向き直った。
お互いの距離が近いため、薄暗い照明の中でも、その秀麗な美貌が見える。
昨日、初めて会った時も思ったが、彼は本当に整った顔立ちをしていた。
軽くウエーブのついたしなやかで艶のある黒髪に、黒曜石の輝きを宿した瞳。絶妙なカーブを描く顔の輪郭に、すっと伸びた鼻梁の下には形の良い唇。整いすぎるほどに整っているのに、そこに女性的な弱々しさはない。
男らしく逞しい首筋から下は着衣の上からでもわかるがっしりとした肩幅で、しっかりと鍛えられていることが察せられた。
そんな、おそらくは多くの女性たちにもてはやされていただろうユーグが、こんな自分を見てどう感じるだろう? 姉のテレーズは小柄で、とても女性らしい体つきをしていた。その彼女に代わって押し付けられたのが、身長ばかりが伸びてやせっぽっちな、女らしい魅力などないに等しいこんな自分では……
そう思うと、知らぬ間にまたうつむいてしまう。
「やはり気味が悪いか?」
「え?」
その時、ユーグからかけられた言葉は、リリアンには全く理解できなかった。
驚いて、再度顔を上げ、彼の顔をまじまじと見る。
「この傷が気に入らんのだろう?」
視線の先でユーグが指で示したのは、自分の左目を縦断するように残る傷跡だ。
秀麗な顔立ちにつけられた無残な傷――だが、確かに目立ちはするが、気味が悪いとは思わない。
「いえ、そうでは……」
「ここでは俺と君の二人きりだ。取り繕う必要はない」
「いえ。気味が悪いとは思いません」
「正直に言ってくれて構わん」
「本当に、そう思っております」
「本音を話してくれても怒らないと誓う」
「本当に本当です」
話にならない。というか、いくらリリアンが本当のことを言っても、ユーグには彼女の言葉を素直に受け入れる気がないようだ。
あまりにもかたくななその様子を不思議に思い、更にはなぜかこのまま流してはいけないように感じたリリアンは、ここで少し話の向きを変えることにした。
「本当に気味が悪いなどとは思っておりません。ただ……」
「何だ? 言いたいことがあれば遠慮なく口にしてくれ。ああ、傷を負う前も負ってからも、陰口の類は聞き飽きるほど聞いてきたので、多少のことで腹は立てない。安心するといい」
傷さえなければ――いや、あったとしても、そこらの令嬢よりもよほど整った容姿の持ち主だ。しかも、国内でも大きな力を持つ辺境伯の嫡子である。嫉妬ややっかみの視線も数多く集めてきただろうことが、その言葉からうかがえた。
「ありがとうございます。では、不躾ながらお尋ねします。その左のお目は、視えていらっしゃるのですか?」
「……これはまた、意外な質問だな。聞かれるのはこの傷の理由かと思ったが、知っていたのか」
リリアンの質問はユーグの意表を突いたらしい。
「いいえ。存じません。ですが、ユーグ様は騎士であられると伺っておりましたので、お仕事中の出来事であろう、と……」
辺境伯の嫡子で、王立騎士団に所属する騎士。リリアンが知るユーグの情報はそれだけだ。
仮にも姉の婚約者であったのだから、普通であれば家族の語らいの中でもっと詳しく知っているのが当たり前なのだろうが、あいにくとリリアンの環境は『普通』とは言い難かった。
唯一、愛情を与えてくれていた父も家にめったに帰ってこないので、彼女の状況を失念していたのだろう。
「いきなり妙なことをお尋ねしてしまい、申し訳ありません」
傷の理由も確かに知りたいが、ここまでのユーグを見る限りではあまり口に出したくなさそうな気配を感じていた。
リリアンは生い立ちのせいで人の顔色をうかがうのが癖になっている。夫となった相手とはいえ、まだろくに言葉を交わしたことのないユーグにそれを尋ねないほうがいい、と彼女の本能が教えてくれた。
ただ、それでも、できることなら早めに告げておきたいことがある。
「いや、いい。なんでも、と言ったのは俺だからな……ああ、視えている。ありがたいことに、この部分の傷は皮一枚だった」
「でしたら。どうか、髪をおろされるのはおやめください」
「……は?」
リリアンの言葉が更に予想外だったのだろう。思わず間抜けな声を出すユーグには構わず、彼女は先を続けた。
「せっかくご無事でしたのに、髪をおろされたままでは、そのうち、お目が悪くなってしまいます。それだけでなく、片目だけ視力が下がれば、もう片方の目に負担がかかり、そちらも悪くなってしまうかもしれません」
最初に見た時から気になっていたのだ。
自分などが口を出していいことか迷っていたが、先ほどからの堂々巡りのやり取りもあり、いっそ、今ここで言ったほうがいいだろうと判断した。
「……気になるのは、俺の目の見え方か? この傷は?」
「負われた時には、さぞや痛まれたかと思いますが、もう完治していらっしゃる様子ですし……もしや、風にあたると痛まれるのでしょうか? でしたら、余計な差し出口をきいたこと、お詫び申し上げます」
「いや、痛みは全くない。そうではなく、この傷が……いや、そもそも、そんなことをどうして知っている?」
「私の実家の領地でも、傷を負った者がたくさんおりましたので」
「……ああ」
戦があったのは二十年以上前だが、その時の負傷者でまだ生き残っている者は大勢いる。
王家や領主から見舞金は出たものの、以前のようには稼げなくなった者たちを、リリアンの母は自分の住む別邸に雇い入れていた。
片手のない者、片足のない者。健常者よりもできることが限られる彼らに、可能な仕事を割り振り、雇いきれない者たちにもできる限りの便宜を図っていたものだ。
彼らの中に、ユーグのように顔面に傷を負った者もいた。
彼は弓が上手な腕のいい狩人で、その腕を見込まれて徴兵された。その後、この辺境伯家への援軍に組み込まれ、北国軍の放った火矢により片腕と顔にひどい火傷をしたのだそうだ。幸い、命に別条はなかったものの、その火傷のせいで前のように弓がひけなくなり、生活の術を失って困窮していたところをリリアンの母が救い上げた。
下男として働いてもらっていた彼は、顔の火傷を気にして髪でその傷を隠した状態にしていたところ、ある日、己の視力がとてつもなく下がっていることに気が付く。
弓を得意とするだけあり、遠くまでよく見える目を持っていたのに、だ。
「――母も心配して、お医者様に診ていただいたところ、おそらくはその髪型のせいではないか、と言われたそうです」
前髪をおろし続けていれば、目は無意識にそこに焦点を合わせようとする。あまりにも近い場所を見つめ続けることで目に負担がかかり、蓄積した疲労が視力を低下させたのではないか、と。
彼の場合は、加齢のせいもあったかもしれないが、そんな実例を知るリリアンだからこそ、ユーグに告げなければならないと考えたのだ。
「……そういうこともあるのだな」
彼女の説明を受け、ユーグは何か考え込んでいたが、すぐに前髪を上げる様子はない。リリアンとしても、本人にその気がないのに無理にそうさせるわけにもいかず、しばらくは双方が黙ったまま、なんとも微妙なムードになる。
が、それを先に打ち破ったのは、ユーグのほうだった。
「とりあえず、今の話は覚えておくことにして……何はともあれ、今日からは俺と君は夫婦となった」
「はい」
改まった口調で話し出す彼の言葉に、リリアンも姿勢を正して耳を傾ける。
「いろいろと事情が……ここはあえて『奇縁』と呼ぼうか。それによって夫婦となったからには、俺は君を妻として尊重し誠実であることに努めるが、その対価として君に願いたいことがある」
「願い……ですか?」
「ああ――つまり、夫婦にはなるが君に『俺の愛を求めないでほしい』ということだ」
新婚初夜の花婿のセリフとしては、これほど似つかわしくないものもないだろう。
だが、ユーグはリリアンの驚きにも気付かず――というよりも、無視するようにして、早口で言葉を続けた。
「申し訳ないが、俺が君を愛することはない。当然、『夫』としての義務は果たさせてもらうから、いずれは子も授かるだろう。その時には良き父親としてふるまうし、勿論、金銭面でも不自由はさせないつもりだ。だから……それで満足してもらえないだろうか?」
『対価』であると取引を持ち掛け、『願い』と前置きをし、リリアンに問いかける形をとってはいるが、実質はユーグの宣言に他ならない。
愛のない、けれど外面だけは完ぺきに取り繕った仮面夫婦でいよう――要するにそういうことだ。
彼としては、先ほどの己の言葉のように妻になった女性に対して誠実であろうとして口にしたのだろうが、その配慮にはリリアンの気持ちが全く含まれてはいない。そして繰り返すが、初夜のベッドで告げる言葉では、絶対にない。
けれど――悲しいことに、そういった扱いにリリアンは慣れすぎていた。
「……はっきりとおっしゃってくださり、ありがとうございます。私は夫であるユーグ様のお心に従うのみです。どうか、ユーグ様が望まれるようになさってください」
縁あって夫婦になるのだ。最初からは無理でも、精いっぱい、相手を愛せるように頑張ろう。
相手からは……恋人同士のようには愛されなくて当然。でも、もしかしたら夫婦として過ごすうちには、穏やかで温かな愛情をはぐくむことができるかもしれない。
そんな彼女の夢は、この瞬間にあっけないほど簡単に、そして粉々に打ち砕かれた。
いや、身の程知らずにもそんな思いあがったことを考えてしまった自分を恥じつつ、リリアンは相手の望んでいるであろう言葉を告げる。
ユーグがほっとしたように笑った。
「そうか、助かる。実は、さすがに君が怒り出すのではないかと思ったが……君としてもいきなり夫をあてがわれ困っていただろう? 早いうちにこうしてお互いの正直な気持ちがわかって良かった。この婚姻自体はどうしようもないことだが、せめて二人だけの時は取り繕わずにいたいしな」
美しい顔で残酷なことを告げる彼に、リリアンはとっさに否定の言葉が口を衝いて出そうになるのを、唇をかんで懸命に押しとどめる。
ユーグはその沈黙を同意と受け取ったようだ。
「さて、そうとなれば……そろそろ、お互いの義務を果たそうか」
「……え?」
再び、がらりと纏う空気と口調を変えたユーグに反応する間も与えられず――気が付けば、リリアンの体はベッドの上に押し倒されていた。
もともとそこに腰かけていたとはいえ、あまりに早業で、思考が追いつかない。
けれど、シーツの上に仰向けに寝かされ、のしかかるようにしてこちらをのぞき込んでいるユーグを見ると、この先に何が待っているのかは明白だった。
「念のために言っておくが、俺の負傷は『男としての機能』には全く影響していない。最初は、できれば男が希望だが、無事に生まれてくれるならどちらでも構わない。ただ、跡取りとして男児が必要であるのは肝に銘じておいてくれ」
そんな状況で、淡々と告げられるのは、この先、生まれてくるであろう子供の話だ。
当たり前の新婚の夫婦であれば、笑い合い、お互いを温かく見つめ合いながらの会話だろうが、ユーグにとってはどうやらただの確認事項でしかないらしい。
それがひどく寂しくて――けれど、真上から自分を見下ろしているユーグの瞳に、熱っぽい光が宿っているのに気付き、リリアンはほんの少し、救われた気がした。
今、この瞬間――こんなやせっぽっちな体でも、『女』としては見てもらえているらしい、と。
リリアンが生まれて初めて受けた口づけは、かすかに酒の香りがした。
先ほどの宴ではあまり酒を口にしていなかったように思うので、もしかするとユーグは、彼女を待つ間に飲んでいたのかもしれない。
最初は無難に唇同士を重ねるだけだったが、やがて彼の舌がリリアンの唇の間に差し入れられる。そこを開かせるように動くぬめった感触に、ぞわり……と、悪寒とも戦慄ともつかない感触が背中を走り抜けた。
年頃の娘らしく、リリアンも『結婚』や『初夜』というものにぼんやりとした憧れを抱いていた。
貴族の令嬢としての正式な教育は受けさせてもらえなかったとはいえ、下働きに交じって働かされているうちに、それなりの情報を耳にする機会はあった。
政略結婚が常の貴族とは違い、平民である下働きたちの口からは、愛し愛された相手との『初めて迎える夜』がいかに幸せであったかが語られた。あまりにも露骨な表現が飛び出した時は、仮にも侯爵家令嬢が聞く話ではないと、自主的に席を外していたリリアンだったが、そんな状態でもある程度のことは知れる。
甘いささやきや、情熱と愛情の混じった眼差し、性急さをにじませながらも相手を思いやる優しい愛撫……はしたないとは思いながらも、いつかは自分も、とリリアンが願ったとしても誰も責められないだろう。
いずれ、家のために嫁がされるのがわかっていても、ほんの少しでも夢を見たかったのだ。
けれど、やはり現実はリリアンに少しも優しくはなかった。
優しい睦言の一つもなく、それどころか義務と言い切って、自分を抱こうとする『夫』。
しかし、ユーグがリリアンを抱くのが義務と言うのなら、リリアンもまた彼を受け入れる義務がある。
たとえ父親に命じられ、逃げ出せないように見張りをつけられていたとしても、抵抗らしい抵抗もせずにこのラファージュ家に来たのは自分だ。
それに、さぞや冷たくあしらわれるだろうと思っていたのに、意外にもこの家の人々はリリアンを責めることなく迎え入れてくれた。義理の両親となる辺境伯夫妻は勿論のこと、使用人たちもリリアンに嫌な顔一つ見せず、体調を気遣い、徹夜してまでドレスを仕立て直してくれた。
それもこれも、すべてリリアンが『ユーグの妻』となるからであり、彼らから受けた厚意に対して、リリアンが返せるものは一つしかない。
緊張で食べ物が喉を通らないリリアンを説き伏せあやして食事をさせ、つま先から髪の毛の先に至るまで磨き上げ、途中のこのこと顔を出したユーグをあっさりとあしらって追い返し、目を赤くしたメイドたちから見事に仕上がったドレスを受け取り、辺境伯夫人からの指示でリリアンが見たことも触れたこともないような豪奢な宝飾品で身支度をしてくれた。
「とてもお美しゅうございますよ、リリアン様」
クロナの言葉どおり、大きな姿見に映る自分は、これまで見た中で一番美しい。
「何から何まで……本当にありがとう」
望まれて来たわけでも、望んで来たわけでもないリリアンだ。
いきさつを考えれば、どれほど冷遇されても文句は言えない。それを、主に命じられたとはいえ、ここまで献身的になってくれる相手に、そんな言葉だけでは到底足りない。それでもせめて、心からの礼を告げる。
「うつむくことなく、胸を張ってお進みくださいませ」
「ええ」
なぜここまでしてくれるのか……使用人としての建前ではなく、クロナの本心を知りたいと思いながらも、気持ちを切り替える。
今から向き合うべきなのは、クロナではない。
「それでは、ご案内させていただきます」
別室で待機してくれていたらしいオーラスに付き添われ、はき慣れない高いヒールの靴に少々手こずりながらも、リリアンは背筋を伸ばし歩を進める。
礼拝堂の前まで来た時に、すでに姑となる辺境伯夫人が自分を待ってくれていたのに驚きながら、笑顔と共に差し出された手に、そっと自分の左手を添えた。
「ありがとうございます、あの……お義母様」
「どういたしまして。私も貴女みたいな義娘ができてうれしいのよ」
言葉の一部を妙に強調された気がするが、その理由を尋ねて良いのか迷っているうちに、先ぶれが声を張り上げた。
「ご静粛に! 花嫁の入場です」
分厚く大きな扉がゆっくりと引き開けられる。
その先の向かって右側に固まってラファージュ家に縁があるであろう人々が並び、最奥の祭壇前にはユーグとその父である辺境伯が立っていた。
その他は、この式のために来てくれたという司祭が一人だけ。左側のマチス家関係者のための場所に参加者の姿はない。
あまりにも失礼……を通り越して無礼ですらある。
一斉にリリアンを見つめる人々の目に敵愾心とでも呼べそうなものが宿っているのは、当たり前だろう。
――覚悟はしていた。
それでもお世辞にも友好的とは言えない大勢の視線に、思わずうつむきそうになる。
けれど、その寸前に、預けていた片手をきつく握り締められた。
リリアンたちが礼拝堂に足を踏み入れた時点で、すでに式は始まっており、ここから先に口を開いていいのは司祭と新郎新婦のみ。
それゆえの無言での力づけにリリアンは頭を高く上げる。それでいい、とでもいうようにもう一度、姑の手に力が入った。
しん……と静まり返った礼拝堂に、リリアンたちの歩むヒールの音と、長く裾を引いたドレスの衣擦れ、そして降りしきる雨の音だけが響く。その中をゆっくりと進み、やがて、ユーグの待つ場所へたどり着いた。
無言のまま、姑に預けていた手がユーグへと引き渡される。
今日の彼は杖を手にしていなかった。
顔に残る傷、不自由となった左足。
昨日聞いたユーグの言葉によれば、服に隠された部分にも傷があるという。
だが、その原因をリリアンは知らない。
本物の婚約者であるテレーズなら知っているのかもしれないが、それをリリアンに教えてくれるような親切心は欠片もなかっただろう。
それでも。理由を知らずとも、今のユーグを心配することはできる。
支えとなる杖なしに、慎重に祭壇に向き直る彼が、万が一にもそのバランスを崩さぬよう、もしそうなった場合はすぐに支えられるように。注意深くその動きを見守り、無事に方向転換を終えたことにほっとして、思わず彼の顔を見上げ……昨日と同様、片方だけおろした前髪の下の、ひどくイラついたような視線とぶつかった。
(……え?)
ここまで一言もしゃべらず、ただ歩いてきただけだ。ユーグの気に障るような真似はしたくてもできないはずだった。なのに、そんな視線を向けられる意味がわからない。
だが、その視線はすぐに逸らされ、その直後から司祭の説教が始まったせいで、リリアンは式に集中するしかなくなる。
そのまま式は進み、誓約書へ署名を促された。一瞬、ユーグがそれを拒むかもしれないと思ったものの、彼が素直にペンをとってくれたので安堵する。
さらさらと自分の名をそこに記した後、ユーグは同じペンをリリアンに渡す。
リリアン・レナ・マチス。
この署名をするのは、これで最後だ。今日この時より、リリアンの家名はラファージュとなる。
けれど……いつまで自分は、この『名』を名乗れるのだろうか?
ふと、そんな疑問が頭に浮かぶが、間違っても婚姻式の最中に考えることではない。余計な考えを振り切るように、そっと署名を終えた書類を差し出した。
司祭がそれを確認する。
「滞りなく両名の署名をいただきました。これより、ユーグとリリアンは夫婦となります。もし、この結びつきに異論のあられる方は、今、ご発言ください」
型通りの宣言に、声を上げる者は一人もなく――こうして、リリアンはユーグの妻となったのだった。
式の後はお決まりの宴会だ。正式な披露宴はまた別に開催する予定のため、内輪での小ぢんまりとしたものではあったが、そこは辺境伯家である。贅を尽くしたとまではいかずとも、テーブルには十分に豪華な料理が並んでいた。
内輪だけの宴の場合は立食が多いのに、ユーグの体のこともあってか着席方式で、これはリリアンにとって大変にありがたい。
厳かな式の間は口をつぐんでいられても、酒が入れば別となるからだ。
しかし、一段高くしつらえられた席でユーグの隣に座り、その脇で辺境伯夫妻がにらみを利かせていれば、酒で過剰に滑らかになった舌にも歯止めがかかる。
よほどの愚か者でない限りは、この場でリリアンを侮辱するような真似はできないだろう。
あからさまではなく、それとなくにおわせる類の嫌みまで完全に封じることはできなかったが、その程度であればリリアンも聞き流すことができた。
やがて――
「さて、と……そろそろ新婚の二人を解放してやらねばならんな」
宴もたけなわになった頃に告げられた辺境伯の言葉で、ユーグとリリアンが退出する。
その先は、言うまでもなく夫婦の寝室であった。
急ごしらえの、けれど見事に仕上がったリリアンの披露宴用のドレスだったが、寝室にはふさわしくなかった。
いったん、一人で戻った自室ではクロナや侍女たちが待ち構えており、すぐさま浴室に送られた後、朝の婚姻式の時と同じように、いや、それ以上に念入りに全身を磨き上げられ、衣装を着せかけられる。
これほど薄く、扇情的ですらあるものを身に着けるのは初めてだ。周囲にいるのは同性だけだというのに、今すぐ着替えたくなったリリアンだが、これが『初夜の装い』であると言われればそれまでだ。
湯浴み後の体が冷えてはいけないとガウンだけは羽織らせてもらえたものの、こちらも素材は夜着本体と同じであり、本当に防寒の効果があるのかははなはだ疑わしかった。
その姿で、おろしたままの髪をくしけずられ、薄く夜の化粧を済ませて向かった先は、リリアンが気が付いていなかった部屋の片隅にある扉の前――その向こうが夫婦の寝室であるという。
そう告げられた瞬間、本当に今更であるが、自分が『誰かの妻』になるという実感が怒涛のようにリリアンに押し寄せる。
普通であればもっと前に感じるものだろうが、婚姻式では醜態をさらさないようにすることだけで頭がいっぱいで、何より『嫁げ』と告げられたのが数日前のことなのだから、無理もない。
怖気づき……けれど、ここから逃げ出すわけにもいかず、覚悟して扉を開いた。その先はここよりもやや広めの部屋だ。
中央に大きな天蓋付きのベッドがあり、すでにユーグがそこに腰を下ろして彼女を待っていた。
「あの……お待たせして申し訳ありません……」
どうしても声が震えてしまうのは、これから初夜を――それも、昨日初めて会った相手と迎えねばならないせいだ。
薄い絹とレースで作られた初夜のための衣装は、リリアンの華奢な体格を余すところなく新郎の前にさらけ出している。
恥ずかしくて仕方がないが、下手に隠すのも憚られる。
室内を照らす明かりが寝室にふさわしく光量を抑えたものであるのが、リリアンには唯一ともいえる救いだった。
「それほど待ってはいない。それと、女性の支度に時間がかかるのはわかっているから、謝罪は無用だ」
相も変わらずそっけない物言いだが、婚姻式で垣間見せた敵意のようなものは感じられない。
そのことでわずかにほっとするが、この先、どう動けばいいのかがリリアンにはわからなかった。
座っているユーグのところまで行くべきなのかもしれないが、呼ばれてもいないのに勝手に動いてもまずい気がする。
そのリリアンの逡巡を感じ取ったのか、それとも単にそういうタイミングだったのか――
「そこで立っていても仕方ないだろう? 本来なら立って出迎えるべきだろうが、立ち上がるのに少々難儀するので、君がこちらに来てくれると助かる」
受け取り方によっては、『リリアンのためにわざわざ立ち上がるのが面倒だから、勝手に歩いてこちらに来い』と言われていると解釈できるセリフである。そして、本人は気が付いていないのかもしれないが、おそらくそれがユーグの本音だろう。
リリアンとしては粗雑な扱いに憤っていい場面だが、残念なことに彼女はこうした扱いに慣れすぎていた。
素直にその言葉に従っておずおずと足を進め、ユーグに近づく。彼はベッドに腰かけた自分の隣をポンポンと叩いて示した。
そこに座れ、ということだろうが、リリアンとしてはその距離がいささか近すぎるように思われ、結局少し離れたところにそっと腰を下ろす。
「……まぁ、仕方がないな」
手を伸ばせば触れることはできても肩を抱くような親密な行動はとりずらい距離に、ユーグが苦笑する。
「も、申し訳ありません」
「責めているわけじゃない。男の俺に、女性である君の気持ちがわかるとは言えないが、想像はつく」
相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、確かに彼自身の言うように怒ってはいないようだ。
そのことに勇気づけられ、リリアンはおろしていた視線を思い切って上げ、ユーグに向き直った。
お互いの距離が近いため、薄暗い照明の中でも、その秀麗な美貌が見える。
昨日、初めて会った時も思ったが、彼は本当に整った顔立ちをしていた。
軽くウエーブのついたしなやかで艶のある黒髪に、黒曜石の輝きを宿した瞳。絶妙なカーブを描く顔の輪郭に、すっと伸びた鼻梁の下には形の良い唇。整いすぎるほどに整っているのに、そこに女性的な弱々しさはない。
男らしく逞しい首筋から下は着衣の上からでもわかるがっしりとした肩幅で、しっかりと鍛えられていることが察せられた。
そんな、おそらくは多くの女性たちにもてはやされていただろうユーグが、こんな自分を見てどう感じるだろう? 姉のテレーズは小柄で、とても女性らしい体つきをしていた。その彼女に代わって押し付けられたのが、身長ばかりが伸びてやせっぽっちな、女らしい魅力などないに等しいこんな自分では……
そう思うと、知らぬ間にまたうつむいてしまう。
「やはり気味が悪いか?」
「え?」
その時、ユーグからかけられた言葉は、リリアンには全く理解できなかった。
驚いて、再度顔を上げ、彼の顔をまじまじと見る。
「この傷が気に入らんのだろう?」
視線の先でユーグが指で示したのは、自分の左目を縦断するように残る傷跡だ。
秀麗な顔立ちにつけられた無残な傷――だが、確かに目立ちはするが、気味が悪いとは思わない。
「いえ、そうでは……」
「ここでは俺と君の二人きりだ。取り繕う必要はない」
「いえ。気味が悪いとは思いません」
「正直に言ってくれて構わん」
「本当に、そう思っております」
「本音を話してくれても怒らないと誓う」
「本当に本当です」
話にならない。というか、いくらリリアンが本当のことを言っても、ユーグには彼女の言葉を素直に受け入れる気がないようだ。
あまりにもかたくななその様子を不思議に思い、更にはなぜかこのまま流してはいけないように感じたリリアンは、ここで少し話の向きを変えることにした。
「本当に気味が悪いなどとは思っておりません。ただ……」
「何だ? 言いたいことがあれば遠慮なく口にしてくれ。ああ、傷を負う前も負ってからも、陰口の類は聞き飽きるほど聞いてきたので、多少のことで腹は立てない。安心するといい」
傷さえなければ――いや、あったとしても、そこらの令嬢よりもよほど整った容姿の持ち主だ。しかも、国内でも大きな力を持つ辺境伯の嫡子である。嫉妬ややっかみの視線も数多く集めてきただろうことが、その言葉からうかがえた。
「ありがとうございます。では、不躾ながらお尋ねします。その左のお目は、視えていらっしゃるのですか?」
「……これはまた、意外な質問だな。聞かれるのはこの傷の理由かと思ったが、知っていたのか」
リリアンの質問はユーグの意表を突いたらしい。
「いいえ。存じません。ですが、ユーグ様は騎士であられると伺っておりましたので、お仕事中の出来事であろう、と……」
辺境伯の嫡子で、王立騎士団に所属する騎士。リリアンが知るユーグの情報はそれだけだ。
仮にも姉の婚約者であったのだから、普通であれば家族の語らいの中でもっと詳しく知っているのが当たり前なのだろうが、あいにくとリリアンの環境は『普通』とは言い難かった。
唯一、愛情を与えてくれていた父も家にめったに帰ってこないので、彼女の状況を失念していたのだろう。
「いきなり妙なことをお尋ねしてしまい、申し訳ありません」
傷の理由も確かに知りたいが、ここまでのユーグを見る限りではあまり口に出したくなさそうな気配を感じていた。
リリアンは生い立ちのせいで人の顔色をうかがうのが癖になっている。夫となった相手とはいえ、まだろくに言葉を交わしたことのないユーグにそれを尋ねないほうがいい、と彼女の本能が教えてくれた。
ただ、それでも、できることなら早めに告げておきたいことがある。
「いや、いい。なんでも、と言ったのは俺だからな……ああ、視えている。ありがたいことに、この部分の傷は皮一枚だった」
「でしたら。どうか、髪をおろされるのはおやめください」
「……は?」
リリアンの言葉が更に予想外だったのだろう。思わず間抜けな声を出すユーグには構わず、彼女は先を続けた。
「せっかくご無事でしたのに、髪をおろされたままでは、そのうち、お目が悪くなってしまいます。それだけでなく、片目だけ視力が下がれば、もう片方の目に負担がかかり、そちらも悪くなってしまうかもしれません」
最初に見た時から気になっていたのだ。
自分などが口を出していいことか迷っていたが、先ほどからの堂々巡りのやり取りもあり、いっそ、今ここで言ったほうがいいだろうと判断した。
「……気になるのは、俺の目の見え方か? この傷は?」
「負われた時には、さぞや痛まれたかと思いますが、もう完治していらっしゃる様子ですし……もしや、風にあたると痛まれるのでしょうか? でしたら、余計な差し出口をきいたこと、お詫び申し上げます」
「いや、痛みは全くない。そうではなく、この傷が……いや、そもそも、そんなことをどうして知っている?」
「私の実家の領地でも、傷を負った者がたくさんおりましたので」
「……ああ」
戦があったのは二十年以上前だが、その時の負傷者でまだ生き残っている者は大勢いる。
王家や領主から見舞金は出たものの、以前のようには稼げなくなった者たちを、リリアンの母は自分の住む別邸に雇い入れていた。
片手のない者、片足のない者。健常者よりもできることが限られる彼らに、可能な仕事を割り振り、雇いきれない者たちにもできる限りの便宜を図っていたものだ。
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「……そういうこともあるのだな」
彼女の説明を受け、ユーグは何か考え込んでいたが、すぐに前髪を上げる様子はない。リリアンとしても、本人にその気がないのに無理にそうさせるわけにもいかず、しばらくは双方が黙ったまま、なんとも微妙なムードになる。
が、それを先に打ち破ったのは、ユーグのほうだった。
「とりあえず、今の話は覚えておくことにして……何はともあれ、今日からは俺と君は夫婦となった」
「はい」
改まった口調で話し出す彼の言葉に、リリアンも姿勢を正して耳を傾ける。
「いろいろと事情が……ここはあえて『奇縁』と呼ぼうか。それによって夫婦となったからには、俺は君を妻として尊重し誠実であることに努めるが、その対価として君に願いたいことがある」
「願い……ですか?」
「ああ――つまり、夫婦にはなるが君に『俺の愛を求めないでほしい』ということだ」
新婚初夜の花婿のセリフとしては、これほど似つかわしくないものもないだろう。
だが、ユーグはリリアンの驚きにも気付かず――というよりも、無視するようにして、早口で言葉を続けた。
「申し訳ないが、俺が君を愛することはない。当然、『夫』としての義務は果たさせてもらうから、いずれは子も授かるだろう。その時には良き父親としてふるまうし、勿論、金銭面でも不自由はさせないつもりだ。だから……それで満足してもらえないだろうか?」
『対価』であると取引を持ち掛け、『願い』と前置きをし、リリアンに問いかける形をとってはいるが、実質はユーグの宣言に他ならない。
愛のない、けれど外面だけは完ぺきに取り繕った仮面夫婦でいよう――要するにそういうことだ。
彼としては、先ほどの己の言葉のように妻になった女性に対して誠実であろうとして口にしたのだろうが、その配慮にはリリアンの気持ちが全く含まれてはいない。そして繰り返すが、初夜のベッドで告げる言葉では、絶対にない。
けれど――悲しいことに、そういった扱いにリリアンは慣れすぎていた。
「……はっきりとおっしゃってくださり、ありがとうございます。私は夫であるユーグ様のお心に従うのみです。どうか、ユーグ様が望まれるようになさってください」
縁あって夫婦になるのだ。最初からは無理でも、精いっぱい、相手を愛せるように頑張ろう。
相手からは……恋人同士のようには愛されなくて当然。でも、もしかしたら夫婦として過ごすうちには、穏やかで温かな愛情をはぐくむことができるかもしれない。
そんな彼女の夢は、この瞬間にあっけないほど簡単に、そして粉々に打ち砕かれた。
いや、身の程知らずにもそんな思いあがったことを考えてしまった自分を恥じつつ、リリアンは相手の望んでいるであろう言葉を告げる。
ユーグがほっとしたように笑った。
「そうか、助かる。実は、さすがに君が怒り出すのではないかと思ったが……君としてもいきなり夫をあてがわれ困っていただろう? 早いうちにこうしてお互いの正直な気持ちがわかって良かった。この婚姻自体はどうしようもないことだが、せめて二人だけの時は取り繕わずにいたいしな」
美しい顔で残酷なことを告げる彼に、リリアンはとっさに否定の言葉が口を衝いて出そうになるのを、唇をかんで懸命に押しとどめる。
ユーグはその沈黙を同意と受け取ったようだ。
「さて、そうとなれば……そろそろ、お互いの義務を果たそうか」
「……え?」
再び、がらりと纏う空気と口調を変えたユーグに反応する間も与えられず――気が付けば、リリアンの体はベッドの上に押し倒されていた。
もともとそこに腰かけていたとはいえ、あまりに早業で、思考が追いつかない。
けれど、シーツの上に仰向けに寝かされ、のしかかるようにしてこちらをのぞき込んでいるユーグを見ると、この先に何が待っているのかは明白だった。
「念のために言っておくが、俺の負傷は『男としての機能』には全く影響していない。最初は、できれば男が希望だが、無事に生まれてくれるならどちらでも構わない。ただ、跡取りとして男児が必要であるのは肝に銘じておいてくれ」
そんな状況で、淡々と告げられるのは、この先、生まれてくるであろう子供の話だ。
当たり前の新婚の夫婦であれば、笑い合い、お互いを温かく見つめ合いながらの会話だろうが、ユーグにとってはどうやらただの確認事項でしかないらしい。
それがひどく寂しくて――けれど、真上から自分を見下ろしているユーグの瞳に、熱っぽい光が宿っているのに気付き、リリアンはほんの少し、救われた気がした。
今、この瞬間――こんなやせっぽっちな体でも、『女』としては見てもらえているらしい、と。
リリアンが生まれて初めて受けた口づけは、かすかに酒の香りがした。
先ほどの宴ではあまり酒を口にしていなかったように思うので、もしかするとユーグは、彼女を待つ間に飲んでいたのかもしれない。
最初は無難に唇同士を重ねるだけだったが、やがて彼の舌がリリアンの唇の間に差し入れられる。そこを開かせるように動くぬめった感触に、ぞわり……と、悪寒とも戦慄ともつかない感触が背中を走り抜けた。
年頃の娘らしく、リリアンも『結婚』や『初夜』というものにぼんやりとした憧れを抱いていた。
貴族の令嬢としての正式な教育は受けさせてもらえなかったとはいえ、下働きに交じって働かされているうちに、それなりの情報を耳にする機会はあった。
政略結婚が常の貴族とは違い、平民である下働きたちの口からは、愛し愛された相手との『初めて迎える夜』がいかに幸せであったかが語られた。あまりにも露骨な表現が飛び出した時は、仮にも侯爵家令嬢が聞く話ではないと、自主的に席を外していたリリアンだったが、そんな状態でもある程度のことは知れる。
甘いささやきや、情熱と愛情の混じった眼差し、性急さをにじませながらも相手を思いやる優しい愛撫……はしたないとは思いながらも、いつかは自分も、とリリアンが願ったとしても誰も責められないだろう。
いずれ、家のために嫁がされるのがわかっていても、ほんの少しでも夢を見たかったのだ。
けれど、やはり現実はリリアンに少しも優しくはなかった。
優しい睦言の一つもなく、それどころか義務と言い切って、自分を抱こうとする『夫』。
しかし、ユーグがリリアンを抱くのが義務と言うのなら、リリアンもまた彼を受け入れる義務がある。
たとえ父親に命じられ、逃げ出せないように見張りをつけられていたとしても、抵抗らしい抵抗もせずにこのラファージュ家に来たのは自分だ。
それに、さぞや冷たくあしらわれるだろうと思っていたのに、意外にもこの家の人々はリリアンを責めることなく迎え入れてくれた。義理の両親となる辺境伯夫妻は勿論のこと、使用人たちもリリアンに嫌な顔一つ見せず、体調を気遣い、徹夜してまでドレスを仕立て直してくれた。
それもこれも、すべてリリアンが『ユーグの妻』となるからであり、彼らから受けた厚意に対して、リリアンが返せるものは一つしかない。
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