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第三十三計(後) 反間計《はんかんのけい》… スパイに敵内部を混乱させて、思い通りに操ります。
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いっぺん罠にはめた相手の前には、再び姿を現さないのが普通の人間の判断だ。
ところが、その晩、カストは僕の部屋に、あっさりと忍び込んできたのだった。
ちょうど、そろそろ寝ようとして、ベッドの上で蝋燭を吹き消そうとしていたときだ。
「別に用なんかないんだけど」
不法侵入してきた者のセリフではない。
それだけに、カストへのいろんな思いが胸の中にあふれ返って、こう言うのが精一杯だった。
「本当に……こんなことがしたいのか?」
どんなことについて聞いているのか、自分でもよく分からない。
だが、何を聞こうと、カストの答えはひとつしかなかっただろう。
「本当に分かってくれたのは、エドマなんだ」
カストの主であるリカルドはどこまでも悪辣で狡猾な男だが、ひとつだけ、取り柄がある。
それは、どれだけ邪悪で醜く卑小であっても見下したり弾き出したりしない、懐の深さだ。
そのリカルドでも、カストの心の闇は酌み尽くすことはできなかったということか。
しかし、それをわざわざ告げるからには、何か求めているものがあるはずだ。
担当クラスの生徒も扱いきれなかった教員崩れの居候に、それを察しろというのは無理な話だ。
だから。
「分かってやりたい、僕も」
こんなことしか言えない僕を、カストは冷たい眼で見下ろしながら嘲笑した。
「じゃあ……」
そう言うなり、服を脱ぎ捨てて蝋燭の光の中に晒された裸身に、僕は息を呑んだ。
ターニアには比べるべくもなく、また、ディリアよりも遥かに薄い、だが、確かにあると分かる胸の膨らみが、そこにはあった。
そのはるか下の薄暗がりから目をそらす。
いつか見た夢が、頭の中に蘇った。
……ベッドの上で、きれいな背中を見せて僕の傍らに横たわるカスト。
一瞬の妄想にとらわれた僕を、カストは易々と組み敷く。
「こういう訓練も受けてるんだけど……試してみるかい?」
いい年をした男として情けない限りだが、身動きひとつとれなかった。
ディリアやターニアの姿が頭に浮かんだからだ。
鼻で笑うカストの息が、頬をくすぐる。
「根性なし……どんだけ気が多いんだ?」
「何で……」
意外な軽蔑に、唖然とした。
身体は16歳だから、ガキだと小馬鹿にされるかと思っていたのだ。
カストは低い声で囁く。
「バレバレなんだよ……人の顔色ばっかりうかがってきたからな」
孤児となって得体の知れない大人たちと放浪の旅を繰り返し、さらにはスパイ教育まで受けてきたのだ。
別の女の影くらい、察しがついても不思議はない。
「僕は……」
それでも、やましいことは何もない。
カストの顔をまっすぐ見つめると、一瞬だけ、微笑みが返ってきた。
「でも、嫌いじゃないよ」
唇に感じた、甘く柔らかい感触は、キスだった。
その口で蝋燭を吹き消したカストは、闇に紛れて姿を消した。
後に残ったのは、罪悪感だ。
……こういうことを、潔癖なターニアが察知するのは早いのだ。
実際、リントス王国の王笏を探しにダンジョンへ向かう僕は、警備の交代に向かう騎士の馬に乗せてもらうことになった。
白馬に乗ったエルフのターニアが現れなかったからだ。
そんなわけで、すでに制圧した層にも上がってくるようになったモンスターとの戦いで、味方になるのはダンジョンの各層を守る騎士たちだけになる。
第1層に足を踏み入れたところで、いきなり現れたのは合成された人型怪物……シンセティックだった。
僕と目が合ったかと思うと、禍々しい偃月刀で横薙ぎに斬りつけてくる。
だが、僕の器用度はもう、90を超していた。
カンテラを下げたまま、すらりと引き抜いた長剣で目の前の刃を食い止める。
しかし。
……斬れない、どうしても。
だが、シンセティックの刃が僕に届くことはなかった。
この層を守る騎士の剣が、その首を吹き飛ばしたのだ。
「異世界召喚者どのが、相手の気を逸らしてくださったからです」
騎士は謙遜したが、僕は恥ずかしかった。
僕は城の中だけではなくて、この世界でも居候なのだ。
こうして、僕はモンスターに自ら手を下すことなく、第33層にたどりついた。
第32層に現れた、巨大な狼をハンマーの一撃で叩き殺したドワーフのドウニは、僕の後ろでぶつくさぼやく。
「自分で手が下せない奴は、いないのと同じだわい」
反論できないまま、僕は細い洞窟の中を歩き続ける。
やがて足下が湿り気を帯びてきて、どこからか腐臭が漂い始めた。
その源には、すぐにたどりついた。
闇の中で見るからにおぞましい光を放つ、巨大な門。
……地獄門だ。
この向こうには、常にろくでもないものが控えている。
何も考えたくなくなって呆然としているうちに、目の前に現れた者がある。
「地獄門はこの先、いくつもある……それがいやなら、このダンジョンには足を踏み入れないことだ」
闇エルフのエドマだった。
いや、もうひとり。
分かってはいたが、僕はその名を呼んで呻かないではいられなかった。
「カスト……」
「もっと早く気付くべきだったんだ、ここが居場所だって」
ほっとしたような、しかしどこか寂しげな声だった。
その声に胸をしめつけられるようなものを覚えながらも、知力96の感覚は、エドマの微かな息遣いを捉えていた。
僕もすかさず、まともにつかえる数少ない呪文のうち、魔法解除《ディスペルマジック》を唱える。
エドマがどんな魔法を使ったのかは知らないが、これでお互い、物理攻撃しかできなくなる。
僕が長剣を抜くと、後ろでドウニが戒める。
「腹を括れ」
今度こそ、本当に相手を斬らなければならないかもしれないということだ。
エドマも、細身の剣を構えてカストに釘を差す。
「手を出すな」
返事も待たずに、エドマは悠々と間合いを詰めて斬り込んできた。
……速い!
だが、僕は恐れてはいなかった。
ターニアのアミュレットに導かれるまま、剣を振るう。
エドマの繰り出す刃が届くことはない。
いや、むしろ、僕のほうが前に出ていた。
闇エルフが苛立たしげにつぶやいた。
「私が……押されている?」
そこで目配せされたカストは、初めて余裕たっぷりに答えた。
「ご心配なく、すでに誘惑してあります」
それは、ターニアの助けが入らないということだ。
カストが何をどうしたのかは分からないが、地獄門が開かれていく。
その奥からは、息もできなくなるほどの腐臭があふれ出してきた。
禍々しい光の中には、得体の知れない何かとしか言いようのないものがいる。
泥の中に頭を突っ込んだ、巨大な水牛のような生き物だった。
「カトブレパス……」
何とも珍妙な姿をしているが、その眼には、ひと睨みで相手を殺す力がある。
エドマは、僕の剣を防ぎながら嘲笑した。
「これが泥の中から頭を上げたら、お前は終わりだ」
だが、僕に絶望はなかった。
臭気とおどろおどろしい光に満たされた洞窟の中に、澄んだ声が響き渡ったのだ。
「残念だけど、大きな頭はそのままね」
エルフのターニアだった。
その言葉に自ら従うかのように、カトブレパスの巨体は地面に沈んでいく。
土の精霊の力で、地面が液状化しているのだ。
劣勢を悟ったエドマは、すぐさま僕の剣の間合いから飛びすさった。
忌々しげに、カストを睨みつける。
「なぜ……」
カストは冷然と答えた。
「私はカリヤを誘惑したと申し上げただけです」
見事なものだった。
僕の仕掛けた策でないのが悔しいところだ。
三十六計、その三十三。
反間計… スパイに敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
ターニアは助けに来てはくれたが、カストのことは嫌いらしい。
ダンジョンの中から地上に戻った途端に、姿を消していた。
警備の騎士の交代と共に、夕方になって城へ帰った僕は、大広間でディリアに、レガリア獲得の失敗を報告した。
傍に控えていたリカルドは、してやったりという顔をして、いつもの慇懃無礼さでたしなめる。
「ディリア様、このリカルドがお支えいたします。無理をなさいますな」
だが、そこで口を開いたのはカストだった。
「失敗はしていない……姫君は本物をお持ちだ」
リカルドは何やら懐に手を入れたが、いきなり歯を食いしばると、目を剥いてカストを睨みつけた。
カストは、あの冷たい微笑と共に眼をそらすと、ちらりと僕を見やる。
そこで深々とディリアに一礼すると、一陣の風のように、その場から姿を消した。
ところが、その晩、カストは僕の部屋に、あっさりと忍び込んできたのだった。
ちょうど、そろそろ寝ようとして、ベッドの上で蝋燭を吹き消そうとしていたときだ。
「別に用なんかないんだけど」
不法侵入してきた者のセリフではない。
それだけに、カストへのいろんな思いが胸の中にあふれ返って、こう言うのが精一杯だった。
「本当に……こんなことがしたいのか?」
どんなことについて聞いているのか、自分でもよく分からない。
だが、何を聞こうと、カストの答えはひとつしかなかっただろう。
「本当に分かってくれたのは、エドマなんだ」
カストの主であるリカルドはどこまでも悪辣で狡猾な男だが、ひとつだけ、取り柄がある。
それは、どれだけ邪悪で醜く卑小であっても見下したり弾き出したりしない、懐の深さだ。
そのリカルドでも、カストの心の闇は酌み尽くすことはできなかったということか。
しかし、それをわざわざ告げるからには、何か求めているものがあるはずだ。
担当クラスの生徒も扱いきれなかった教員崩れの居候に、それを察しろというのは無理な話だ。
だから。
「分かってやりたい、僕も」
こんなことしか言えない僕を、カストは冷たい眼で見下ろしながら嘲笑した。
「じゃあ……」
そう言うなり、服を脱ぎ捨てて蝋燭の光の中に晒された裸身に、僕は息を呑んだ。
ターニアには比べるべくもなく、また、ディリアよりも遥かに薄い、だが、確かにあると分かる胸の膨らみが、そこにはあった。
そのはるか下の薄暗がりから目をそらす。
いつか見た夢が、頭の中に蘇った。
……ベッドの上で、きれいな背中を見せて僕の傍らに横たわるカスト。
一瞬の妄想にとらわれた僕を、カストは易々と組み敷く。
「こういう訓練も受けてるんだけど……試してみるかい?」
いい年をした男として情けない限りだが、身動きひとつとれなかった。
ディリアやターニアの姿が頭に浮かんだからだ。
鼻で笑うカストの息が、頬をくすぐる。
「根性なし……どんだけ気が多いんだ?」
「何で……」
意外な軽蔑に、唖然とした。
身体は16歳だから、ガキだと小馬鹿にされるかと思っていたのだ。
カストは低い声で囁く。
「バレバレなんだよ……人の顔色ばっかりうかがってきたからな」
孤児となって得体の知れない大人たちと放浪の旅を繰り返し、さらにはスパイ教育まで受けてきたのだ。
別の女の影くらい、察しがついても不思議はない。
「僕は……」
それでも、やましいことは何もない。
カストの顔をまっすぐ見つめると、一瞬だけ、微笑みが返ってきた。
「でも、嫌いじゃないよ」
唇に感じた、甘く柔らかい感触は、キスだった。
その口で蝋燭を吹き消したカストは、闇に紛れて姿を消した。
後に残ったのは、罪悪感だ。
……こういうことを、潔癖なターニアが察知するのは早いのだ。
実際、リントス王国の王笏を探しにダンジョンへ向かう僕は、警備の交代に向かう騎士の馬に乗せてもらうことになった。
白馬に乗ったエルフのターニアが現れなかったからだ。
そんなわけで、すでに制圧した層にも上がってくるようになったモンスターとの戦いで、味方になるのはダンジョンの各層を守る騎士たちだけになる。
第1層に足を踏み入れたところで、いきなり現れたのは合成された人型怪物……シンセティックだった。
僕と目が合ったかと思うと、禍々しい偃月刀で横薙ぎに斬りつけてくる。
だが、僕の器用度はもう、90を超していた。
カンテラを下げたまま、すらりと引き抜いた長剣で目の前の刃を食い止める。
しかし。
……斬れない、どうしても。
だが、シンセティックの刃が僕に届くことはなかった。
この層を守る騎士の剣が、その首を吹き飛ばしたのだ。
「異世界召喚者どのが、相手の気を逸らしてくださったからです」
騎士は謙遜したが、僕は恥ずかしかった。
僕は城の中だけではなくて、この世界でも居候なのだ。
こうして、僕はモンスターに自ら手を下すことなく、第33層にたどりついた。
第32層に現れた、巨大な狼をハンマーの一撃で叩き殺したドワーフのドウニは、僕の後ろでぶつくさぼやく。
「自分で手が下せない奴は、いないのと同じだわい」
反論できないまま、僕は細い洞窟の中を歩き続ける。
やがて足下が湿り気を帯びてきて、どこからか腐臭が漂い始めた。
その源には、すぐにたどりついた。
闇の中で見るからにおぞましい光を放つ、巨大な門。
……地獄門だ。
この向こうには、常にろくでもないものが控えている。
何も考えたくなくなって呆然としているうちに、目の前に現れた者がある。
「地獄門はこの先、いくつもある……それがいやなら、このダンジョンには足を踏み入れないことだ」
闇エルフのエドマだった。
いや、もうひとり。
分かってはいたが、僕はその名を呼んで呻かないではいられなかった。
「カスト……」
「もっと早く気付くべきだったんだ、ここが居場所だって」
ほっとしたような、しかしどこか寂しげな声だった。
その声に胸をしめつけられるようなものを覚えながらも、知力96の感覚は、エドマの微かな息遣いを捉えていた。
僕もすかさず、まともにつかえる数少ない呪文のうち、魔法解除《ディスペルマジック》を唱える。
エドマがどんな魔法を使ったのかは知らないが、これでお互い、物理攻撃しかできなくなる。
僕が長剣を抜くと、後ろでドウニが戒める。
「腹を括れ」
今度こそ、本当に相手を斬らなければならないかもしれないということだ。
エドマも、細身の剣を構えてカストに釘を差す。
「手を出すな」
返事も待たずに、エドマは悠々と間合いを詰めて斬り込んできた。
……速い!
だが、僕は恐れてはいなかった。
ターニアのアミュレットに導かれるまま、剣を振るう。
エドマの繰り出す刃が届くことはない。
いや、むしろ、僕のほうが前に出ていた。
闇エルフが苛立たしげにつぶやいた。
「私が……押されている?」
そこで目配せされたカストは、初めて余裕たっぷりに答えた。
「ご心配なく、すでに誘惑してあります」
それは、ターニアの助けが入らないということだ。
カストが何をどうしたのかは分からないが、地獄門が開かれていく。
その奥からは、息もできなくなるほどの腐臭があふれ出してきた。
禍々しい光の中には、得体の知れない何かとしか言いようのないものがいる。
泥の中に頭を突っ込んだ、巨大な水牛のような生き物だった。
「カトブレパス……」
何とも珍妙な姿をしているが、その眼には、ひと睨みで相手を殺す力がある。
エドマは、僕の剣を防ぎながら嘲笑した。
「これが泥の中から頭を上げたら、お前は終わりだ」
だが、僕に絶望はなかった。
臭気とおどろおどろしい光に満たされた洞窟の中に、澄んだ声が響き渡ったのだ。
「残念だけど、大きな頭はそのままね」
エルフのターニアだった。
その言葉に自ら従うかのように、カトブレパスの巨体は地面に沈んでいく。
土の精霊の力で、地面が液状化しているのだ。
劣勢を悟ったエドマは、すぐさま僕の剣の間合いから飛びすさった。
忌々しげに、カストを睨みつける。
「なぜ……」
カストは冷然と答えた。
「私はカリヤを誘惑したと申し上げただけです」
見事なものだった。
僕の仕掛けた策でないのが悔しいところだ。
三十六計、その三十三。
反間計… スパイに敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
ターニアは助けに来てはくれたが、カストのことは嫌いらしい。
ダンジョンの中から地上に戻った途端に、姿を消していた。
警備の騎士の交代と共に、夕方になって城へ帰った僕は、大広間でディリアに、レガリア獲得の失敗を報告した。
傍に控えていたリカルドは、してやったりという顔をして、いつもの慇懃無礼さでたしなめる。
「ディリア様、このリカルドがお支えいたします。無理をなさいますな」
だが、そこで口を開いたのはカストだった。
「失敗はしていない……姫君は本物をお持ちだ」
リカルドは何やら懐に手を入れたが、いきなり歯を食いしばると、目を剥いてカストを睨みつけた。
カストは、あの冷たい微笑と共に眼をそらすと、ちらりと僕を見やる。
そこで深々とディリアに一礼すると、一陣の風のように、その場から姿を消した。
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