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言いがかりを回避するにはたとえ話を
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垣根を挟んで俺に向き直った紹子は、俺の追及への回答らしき「たとえ話」を続ける。
その巨大な生き物を船頭たちは見たこともなかった。皆が伏せているうちに、それは「見たことを明かせば死ぬ」と言い残して消えた。
説話を専攻していたから、その手の話には聞き覚えがあった。
「日本の昔話とか、中国清朝の蒲松齢『聊斎志異』にそんな話があった気が」
「さて、何の話でしょう?」
紹子はまたしてもすっとぼける。この辺りも、昔から全く変わっていない。都合の悪いことは、こんなふうに、ことごとく知らん顔してしのいできたのだ。
績を俺に紹介したとき、彼女の隣に立っていた紹子は、肘で軽く小突かれたものだ。あのときは、男の子とは会わないって言ったじゃない、という微かな非難の声が聞こえたような気がする。
績が俺の前から姿を消したときは、なりすまし投稿を責めた。わざわざ績が嫌がることをして、どういうつもりかと問い詰めたのだ。
どちらのときも、紹子は同じことを言ってしらばっくれた。
さて、何の話でしょう、と。
その後に起こることは、いつも決まっていた。しばらくの間、妙に重い雰囲気で息も詰まるような思いがして、何も言えなくなるのだった。
だが、今の俺は違う。
「これでも説話を専攻していてな」
とぼけられたら、こちらもとぼけるまでだ。案外、マイナスにマイナスを掛けたら、プラスになるかもしれない。もっとも、そういうやり方をした結果は遠回りでしか得られないということも、勤めてみてよく分かっている。
そんな頭の中を見透かしたかのように、紹子は聞いてきた。
「今の仕事は?」
語るほどのことはない。会社の事務室で、右から来た書類を左へ送るだけの単純作業だ。誰でもできるような仕事だが、その席を俺が温めていられるのは、単に人手不足だからだ。
例のウィルスが蔓延してから、世の中、弱いところからバタバタ倒れていくから、都会では勤め先も簡単には見つからない。つまるところ、そのあおりを食らった弱い俺と弱い地方の利害が一致したということにすぎない。
もっとも、紹子の前では口が裂けてもそんな弱音を吐くわけにはいかない。
「お前はどうなんだ」
とっさに質問に質問を返してやる。剣の理法で言う、「三つの許さぬところ」の「出頭(でがしら)」、相手が動作を起こそうとするところを打つアレだ。だが、紹子はまた、「たとえ話」でごまかした。
ある寡婦が夜なべしごとをしていると、美しい娘がやってきた。内職を手伝って一夜を過ごした娘の色香に、女は「男の身であったならば」と思った。
「何の内職だ?」
「マンガのアシスタント」
一瞬、蛍の光と窓の雪を頼りに机にかじりついて、隠語で修羅場と呼ばれる締め切り前の追い込み作業で血眼になっている辮髪の男たちというステレオタイプの絵が、目の前に浮かんだ。
夜なべ仕事の話だったのだが、紹子は自分のことだと思ったらしい。とはいえ、意外な答えではあったので、尋ねてみた。
「漫画家?」
「なれなくて帰ってきた。無駄な努力はしない主義」
今はその日暮らしのアルバイトみたいなことをしているのだという。そんな挫折経験をさらりと口にできるあたりは、さすがの図太さだ。というか、何も考えていないというべきか。
話がそれたせいで、俺も何が知りたかったのか分からなくなってきた。そういえば、紹子の「たとえ話」は績についてのことだったと思い出して、話を整理する。
「いつの話だ、績がお前のマンガの手伝いやってたのは」
つい最近のことだったら、紹子は績を俺から引き離しておいていくらも経たないうちに、旧交を温めていたことになる。もっとも、そんな怒りが、その場の勢いでしか動かない紹子に伝わるわけがなく、答えは悪びれもしないであっさりと返ってきた。
「中学生で漫画家になろうと思って、一年生で初めて公募に挑戦したとき」
無謀な挑戦だという気もするが、紹子ならさもありなんといったところだろう。さらに、その経緯は聞きもしないのに俺の耳に流し込まれる。
「ほら、大きな地震があったじゃない、東北で」
東日本大震災のことだ。俺と同じクラスの男子が紹子の知り合いだったつてで、同じ高校の三年生だった俺と績を引き合わせた紹子は中学二年生だったから、逆算すると当時、小学五年生だったことになる。その年齢では、未だに爪痕を残している津波にも原発事故にも、その程度の認識しかなかっただろう。
「あれからテレビで何にもやらなくて、同じ歌と画面ばっかり繰り返してて、頭おかしくなりそうだった」
公共の電波やネットに載せたら間違いなく炎上する発言だが、こんな感情任せの不謹慎極まりない発言も、紹子ならではだ。
「で、テレビ元に戻って、普通にアニメ見られるようになったもんだから、その分」
サブカルにハマってしまったというわけだ。だが、俺にとってはそんなことはどうでもいい。聞くだけ無駄な話が途切れたところで、本題が何だったか思い出すのは結構、疲れた。
「つまり、その頃から績と知り合いだったんだな?」
「いや、家が近所だっただけで。小学生のとき」
それを早く言え、と思ったが、そんな子どもの頃からの図々しさにも腹が立ってきた。初めての応募だか何だか知らないが、たかが素人のお遊びだ。
「なのに徹夜なんか頼んだのか? 中学二年生が高校三年生に」
民法が改正されて成人扱いされるずっと前の時代でも、績はそこらの大人よりもはるかに落ち着きのある少女だった。それを子どもがこき使うとは、呆れてものが言えない。
だが、紹子はしゃあしゃあと答える。
「気持ちよく引き受けてくれて、横顔なんかすごくきれいで。男に生まれたかったって言っちゃった、つい」
夜中に女子中学生が女子高校生にそんな告白をするというのは、サブカル的にはさぞかし消費者の購買意欲をそそる、あぶな絵になることだろう。
だが、現実はアニメでも漫画でもない。
「マセガキが」
俺は毒づいたが、それが良識ある世間一般の受け止め方というものだ。もっとも、紹子としては半生を否定されたに等しいだろうから、何か口答えしてきてもおかしくはなかったが、「たとえ話」はそのまま続けられた。
娘は、それを言い当てられて怯える女に「そんな小心者では男になれない。言葉を慎むよう」と告げた。
そこで、俺は念を押した。
「自分で言ったんだな、言い当てられたんじゃなくて」
いささか大人げないが、そこは、はっきりさせておきたいところだった。
俺には、まだ績に伝えられないまま終わった言葉があった。それに比べれば、そんなマンガじみた告白など、どうでもいい。
「その辺りは問題じゃなくて」
紹子は必死で話をぼかそうとするが、どういう立場になったのかを言葉で分からせてやる。
「ふられたわけだな」
紹子は紹子で、負けを認めまいとするかのように、績の言葉をかみしめるように告げた。
「男になるって、そんなに簡単じゃないって」
績なら言うだろう。剣の理念とか理法とかいうものが、「三つの許さぬところ」だの何だのと、言葉で丸暗記するのではなく体現できるのだとすれば、それは績の姿そのものだったのかもしれない。
そんな績は、たぶん、分かっていたのだ。
「今なら誰でもいうことだろうけどな」
肉体的なものとは異なる心の性があるということを、したり顔でひけらかす者は多い。だが、それを抱えることの辛さは、当時は想像さえされなかったことだ。
紹子はというと、あまり楽しくない思い出から離れようとするかのように、「たとえ話」へと戻った。
それでも近所の女たちに秘密を漏らしてしまったので、会いたいという者は引きも切らない。
確かに績は、人づきあいの賑やかなほうではなかった。その気になれば、豊かな人脈を築くことができただろう。それくらいの容姿には恵まれていたし、成績も優秀だった。今で言う、スクールカーストというやつの上位に君臨することなど造作もなかっただろう。
だが、その言葉にも立ち居振る舞いにも、目立つものはなかった。あまり気を遣ったり無用に神経をすり減らしたりすることのない、周囲への自然な配慮があったからだろう。
放っておいてやれば、高校を卒業するまで、誰に気付かれることもなかっただろう。
俺を除いては。
それなのに。
紹子の「たとえ話」から、だいたい何があったか察した俺は、紹子にくってかかった。
「誰彼構わず紹介したってことか」
別に、績を神聖不可侵な偶像のように崇め奉っていたわけではない。だが、俺にとっては、そんなに気軽に話しかけたり冗談を飛ばしたり、からかったりするような相手ではなかった。
自分はどうかということは棚に上げて、そこらにいるような安易な連中と関わってほしくないと思っていたし、付き合って恥ずかしくない人間になろうという殊勝な気持ちだってあったのだ。
だが、この紹子は、ものの考え方が俺とは真逆だった。
「だって、ちょっと他の人に話したら、すぐ噂になって、いろんな子が狙ってたって分かって、それが羨ましくなって」
績を自分のレベルにまで引き下ろそうとしたわけだ。その結果として何が起こったかは、それほど想像力を働かせなくても分かる。
「告白されたわけだな? 男女構わず」
績は、そんなに安っぽい相手ではない。俺にとっては、尊敬に値する、孤高の人だった。
今でも覚えているのは、ロシアがクリミア半島を併合したときは、高校の前でスタンディングを行っている姿だ。三学期の終業式を前にして、誰もがもう、そろそろ春休みのことを考えはじめている頃だった。それなのに、生徒会が動いて生徒集会を開き、非難決議を挙げて新聞記事にもなったりした。
だから、高校ではちょっとした有名人だったが、生徒にとっては近寄りがたい雲の上の聖人君子でもあった。
だが、俺の心の中で静かに佇んでいるのは、高校時代に通りかかった剣道場で見かけた、凛然とした績の姿だ。まだ、紹子に紹介される前のことで、さらに面を着けていては顔など分からないはずなのに、それと分かったのには、わけがある。
真っ白な道着と真っ白な防具に身を固めて、軽やかな足さばきで鮮やかに片手上段を操って一本を決める。それでいて、勝ち負けなど気にした様子もない。そんな姿を、俺はかつて確かに見たことがあったのだ。
紹子の場合は、気にしないことの次元が違う。
「でも、笑ってたよ。その度に」
内心では、その都度さぞかし煩わしい思いをしていたことだろう。
そんな気持ちも察することができなかったくせに、紹子は「たとえ話」の続きをこんなふうに語る。
女は「女なら会うが、男なら会わない」と告げた。
績としては、最低限の妥協だったろう。それだけに、このくだりだけは、ちょっと気分が良かった。
「でも、紹介したんだよな? 俺を」
高校三年生の秋のことだったかと思う。だが、納得がいかないといえば納得がいかない。
なぜ、紹子は俺だけを績に引き合わせたのだろうか。
他のどんな男と比べても、俺はひけをとらない……わけがない。そう思うのは、決して自虐ではない。そこまで思い上がる気はない。勉強はそこそこできたが、高校生活を目立たず当たり障りなく過ごしてきたのだ。績と接点があるとすれば剣道くらいだが、俺は初段も取れずにやめている。
その辺りについては、あっさり答えが返ってきた。
「受験があるから断ると思って」
口元のニヤニヤ笑いがいやらしい。どうやら、俺がそう聞いてくることは織り込み済みだったのだろう。
まんまと術中にはまったのが悔しくて、声を荒らげながら言い返す。
「断ればよかったじゃないか! 分かってたんなら!」
紹子は俺たちを隔てている垣根を道端までずっと見渡した。こんな日差しの中で、出歩く人はそうそういない。
それなのに、こんな風に睨み合っていられるのは、家と家との間をまたいできた木の枝に生い茂る葉のおかえげだというのは皮肉な話だった。
同じくらい皮肉な口調で、紹子はさらりと応じる。
「アタシもそうしようと思った」
ますます泥沼にはまっている。まるで紹子が績のマネージャーだったみたいだ。その場の勢いで話すヤツかと思っていたが、なかなかの策略家だった。
うかつなことを言うまいと思って口を閉ざすと、紹子は不意に真面目な顔をした。
「でも」
その巨大な生き物を船頭たちは見たこともなかった。皆が伏せているうちに、それは「見たことを明かせば死ぬ」と言い残して消えた。
説話を専攻していたから、その手の話には聞き覚えがあった。
「日本の昔話とか、中国清朝の蒲松齢『聊斎志異』にそんな話があった気が」
「さて、何の話でしょう?」
紹子はまたしてもすっとぼける。この辺りも、昔から全く変わっていない。都合の悪いことは、こんなふうに、ことごとく知らん顔してしのいできたのだ。
績を俺に紹介したとき、彼女の隣に立っていた紹子は、肘で軽く小突かれたものだ。あのときは、男の子とは会わないって言ったじゃない、という微かな非難の声が聞こえたような気がする。
績が俺の前から姿を消したときは、なりすまし投稿を責めた。わざわざ績が嫌がることをして、どういうつもりかと問い詰めたのだ。
どちらのときも、紹子は同じことを言ってしらばっくれた。
さて、何の話でしょう、と。
その後に起こることは、いつも決まっていた。しばらくの間、妙に重い雰囲気で息も詰まるような思いがして、何も言えなくなるのだった。
だが、今の俺は違う。
「これでも説話を専攻していてな」
とぼけられたら、こちらもとぼけるまでだ。案外、マイナスにマイナスを掛けたら、プラスになるかもしれない。もっとも、そういうやり方をした結果は遠回りでしか得られないということも、勤めてみてよく分かっている。
そんな頭の中を見透かしたかのように、紹子は聞いてきた。
「今の仕事は?」
語るほどのことはない。会社の事務室で、右から来た書類を左へ送るだけの単純作業だ。誰でもできるような仕事だが、その席を俺が温めていられるのは、単に人手不足だからだ。
例のウィルスが蔓延してから、世の中、弱いところからバタバタ倒れていくから、都会では勤め先も簡単には見つからない。つまるところ、そのあおりを食らった弱い俺と弱い地方の利害が一致したということにすぎない。
もっとも、紹子の前では口が裂けてもそんな弱音を吐くわけにはいかない。
「お前はどうなんだ」
とっさに質問に質問を返してやる。剣の理法で言う、「三つの許さぬところ」の「出頭(でがしら)」、相手が動作を起こそうとするところを打つアレだ。だが、紹子はまた、「たとえ話」でごまかした。
ある寡婦が夜なべしごとをしていると、美しい娘がやってきた。内職を手伝って一夜を過ごした娘の色香に、女は「男の身であったならば」と思った。
「何の内職だ?」
「マンガのアシスタント」
一瞬、蛍の光と窓の雪を頼りに机にかじりついて、隠語で修羅場と呼ばれる締め切り前の追い込み作業で血眼になっている辮髪の男たちというステレオタイプの絵が、目の前に浮かんだ。
夜なべ仕事の話だったのだが、紹子は自分のことだと思ったらしい。とはいえ、意外な答えではあったので、尋ねてみた。
「漫画家?」
「なれなくて帰ってきた。無駄な努力はしない主義」
今はその日暮らしのアルバイトみたいなことをしているのだという。そんな挫折経験をさらりと口にできるあたりは、さすがの図太さだ。というか、何も考えていないというべきか。
話がそれたせいで、俺も何が知りたかったのか分からなくなってきた。そういえば、紹子の「たとえ話」は績についてのことだったと思い出して、話を整理する。
「いつの話だ、績がお前のマンガの手伝いやってたのは」
つい最近のことだったら、紹子は績を俺から引き離しておいていくらも経たないうちに、旧交を温めていたことになる。もっとも、そんな怒りが、その場の勢いでしか動かない紹子に伝わるわけがなく、答えは悪びれもしないであっさりと返ってきた。
「中学生で漫画家になろうと思って、一年生で初めて公募に挑戦したとき」
無謀な挑戦だという気もするが、紹子ならさもありなんといったところだろう。さらに、その経緯は聞きもしないのに俺の耳に流し込まれる。
「ほら、大きな地震があったじゃない、東北で」
東日本大震災のことだ。俺と同じクラスの男子が紹子の知り合いだったつてで、同じ高校の三年生だった俺と績を引き合わせた紹子は中学二年生だったから、逆算すると当時、小学五年生だったことになる。その年齢では、未だに爪痕を残している津波にも原発事故にも、その程度の認識しかなかっただろう。
「あれからテレビで何にもやらなくて、同じ歌と画面ばっかり繰り返してて、頭おかしくなりそうだった」
公共の電波やネットに載せたら間違いなく炎上する発言だが、こんな感情任せの不謹慎極まりない発言も、紹子ならではだ。
「で、テレビ元に戻って、普通にアニメ見られるようになったもんだから、その分」
サブカルにハマってしまったというわけだ。だが、俺にとってはそんなことはどうでもいい。聞くだけ無駄な話が途切れたところで、本題が何だったか思い出すのは結構、疲れた。
「つまり、その頃から績と知り合いだったんだな?」
「いや、家が近所だっただけで。小学生のとき」
それを早く言え、と思ったが、そんな子どもの頃からの図々しさにも腹が立ってきた。初めての応募だか何だか知らないが、たかが素人のお遊びだ。
「なのに徹夜なんか頼んだのか? 中学二年生が高校三年生に」
民法が改正されて成人扱いされるずっと前の時代でも、績はそこらの大人よりもはるかに落ち着きのある少女だった。それを子どもがこき使うとは、呆れてものが言えない。
だが、紹子はしゃあしゃあと答える。
「気持ちよく引き受けてくれて、横顔なんかすごくきれいで。男に生まれたかったって言っちゃった、つい」
夜中に女子中学生が女子高校生にそんな告白をするというのは、サブカル的にはさぞかし消費者の購買意欲をそそる、あぶな絵になることだろう。
だが、現実はアニメでも漫画でもない。
「マセガキが」
俺は毒づいたが、それが良識ある世間一般の受け止め方というものだ。もっとも、紹子としては半生を否定されたに等しいだろうから、何か口答えしてきてもおかしくはなかったが、「たとえ話」はそのまま続けられた。
娘は、それを言い当てられて怯える女に「そんな小心者では男になれない。言葉を慎むよう」と告げた。
そこで、俺は念を押した。
「自分で言ったんだな、言い当てられたんじゃなくて」
いささか大人げないが、そこは、はっきりさせておきたいところだった。
俺には、まだ績に伝えられないまま終わった言葉があった。それに比べれば、そんなマンガじみた告白など、どうでもいい。
「その辺りは問題じゃなくて」
紹子は必死で話をぼかそうとするが、どういう立場になったのかを言葉で分からせてやる。
「ふられたわけだな」
紹子は紹子で、負けを認めまいとするかのように、績の言葉をかみしめるように告げた。
「男になるって、そんなに簡単じゃないって」
績なら言うだろう。剣の理念とか理法とかいうものが、「三つの許さぬところ」だの何だのと、言葉で丸暗記するのではなく体現できるのだとすれば、それは績の姿そのものだったのかもしれない。
そんな績は、たぶん、分かっていたのだ。
「今なら誰でもいうことだろうけどな」
肉体的なものとは異なる心の性があるということを、したり顔でひけらかす者は多い。だが、それを抱えることの辛さは、当時は想像さえされなかったことだ。
紹子はというと、あまり楽しくない思い出から離れようとするかのように、「たとえ話」へと戻った。
それでも近所の女たちに秘密を漏らしてしまったので、会いたいという者は引きも切らない。
確かに績は、人づきあいの賑やかなほうではなかった。その気になれば、豊かな人脈を築くことができただろう。それくらいの容姿には恵まれていたし、成績も優秀だった。今で言う、スクールカーストというやつの上位に君臨することなど造作もなかっただろう。
だが、その言葉にも立ち居振る舞いにも、目立つものはなかった。あまり気を遣ったり無用に神経をすり減らしたりすることのない、周囲への自然な配慮があったからだろう。
放っておいてやれば、高校を卒業するまで、誰に気付かれることもなかっただろう。
俺を除いては。
それなのに。
紹子の「たとえ話」から、だいたい何があったか察した俺は、紹子にくってかかった。
「誰彼構わず紹介したってことか」
別に、績を神聖不可侵な偶像のように崇め奉っていたわけではない。だが、俺にとっては、そんなに気軽に話しかけたり冗談を飛ばしたり、からかったりするような相手ではなかった。
自分はどうかということは棚に上げて、そこらにいるような安易な連中と関わってほしくないと思っていたし、付き合って恥ずかしくない人間になろうという殊勝な気持ちだってあったのだ。
だが、この紹子は、ものの考え方が俺とは真逆だった。
「だって、ちょっと他の人に話したら、すぐ噂になって、いろんな子が狙ってたって分かって、それが羨ましくなって」
績を自分のレベルにまで引き下ろそうとしたわけだ。その結果として何が起こったかは、それほど想像力を働かせなくても分かる。
「告白されたわけだな? 男女構わず」
績は、そんなに安っぽい相手ではない。俺にとっては、尊敬に値する、孤高の人だった。
今でも覚えているのは、ロシアがクリミア半島を併合したときは、高校の前でスタンディングを行っている姿だ。三学期の終業式を前にして、誰もがもう、そろそろ春休みのことを考えはじめている頃だった。それなのに、生徒会が動いて生徒集会を開き、非難決議を挙げて新聞記事にもなったりした。
だから、高校ではちょっとした有名人だったが、生徒にとっては近寄りがたい雲の上の聖人君子でもあった。
だが、俺の心の中で静かに佇んでいるのは、高校時代に通りかかった剣道場で見かけた、凛然とした績の姿だ。まだ、紹子に紹介される前のことで、さらに面を着けていては顔など分からないはずなのに、それと分かったのには、わけがある。
真っ白な道着と真っ白な防具に身を固めて、軽やかな足さばきで鮮やかに片手上段を操って一本を決める。それでいて、勝ち負けなど気にした様子もない。そんな姿を、俺はかつて確かに見たことがあったのだ。
紹子の場合は、気にしないことの次元が違う。
「でも、笑ってたよ。その度に」
内心では、その都度さぞかし煩わしい思いをしていたことだろう。
そんな気持ちも察することができなかったくせに、紹子は「たとえ話」の続きをこんなふうに語る。
女は「女なら会うが、男なら会わない」と告げた。
績としては、最低限の妥協だったろう。それだけに、このくだりだけは、ちょっと気分が良かった。
「でも、紹介したんだよな? 俺を」
高校三年生の秋のことだったかと思う。だが、納得がいかないといえば納得がいかない。
なぜ、紹子は俺だけを績に引き合わせたのだろうか。
他のどんな男と比べても、俺はひけをとらない……わけがない。そう思うのは、決して自虐ではない。そこまで思い上がる気はない。勉強はそこそこできたが、高校生活を目立たず当たり障りなく過ごしてきたのだ。績と接点があるとすれば剣道くらいだが、俺は初段も取れずにやめている。
その辺りについては、あっさり答えが返ってきた。
「受験があるから断ると思って」
口元のニヤニヤ笑いがいやらしい。どうやら、俺がそう聞いてくることは織り込み済みだったのだろう。
まんまと術中にはまったのが悔しくて、声を荒らげながら言い返す。
「断ればよかったじゃないか! 分かってたんなら!」
紹子は俺たちを隔てている垣根を道端までずっと見渡した。こんな日差しの中で、出歩く人はそうそういない。
それなのに、こんな風に睨み合っていられるのは、家と家との間をまたいできた木の枝に生い茂る葉のおかえげだというのは皮肉な話だった。
同じくらい皮肉な口調で、紹子はさらりと応じる。
「アタシもそうしようと思った」
ますます泥沼にはまっている。まるで紹子が績のマネージャーだったみたいだ。その場の勢いで話すヤツかと思っていたが、なかなかの策略家だった。
うかつなことを言うまいと思って口を閉ざすと、紹子は不意に真面目な顔をした。
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