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河の底から来た危険な罠

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 夜中にケイファドキャの軍勢が放棄していった陣地まで、たいして時間はかからなかった。
 昼前にはもう、ナレイは命令を受けて、地面に倒された天幕や柵の後始末にかかっていた。
「まず、その辺を片づけようか、みんな」
 火を放たれた天幕の燃えかすや、打ち砕かれて散乱した材木の破片が、あちこちに散らばっている。
 張りつめた顔をしていた庶民の新兵たちは、安堵のため息をつきながら地面を這いずり回った。
 確かに、ぼやく者も中にはいる。
「結局、これかよ」
 その隣に屈んだナレイは、焼け焦げた材木を共に担ぎ上げながらなだめる。
「いいじゃないか、戦わなくて済むんだから」
「でも、何もしないで帰るのもなあ……」
 そのとき、ナレイの肩の上で、材木が跳ね上がった。
 新兵が悲鳴を上げる。
「ひいっ! 何だこれ!」
 放り出されて地面に転がった真っ黒の杭が、4本の脚を踏ん張った。
 身体をもたげると、その先にある真っ赤な口が、ばっくりと裂けた。
 しばし茫然としていたナレイだったが、すぐに新兵を背中にかばった。
 小剣を抜いて、低い声で囁く。
「……動かないで」
 新兵は身体をすくめた。
 焼け棒杭が変じた生き物は、喉の奥から鋭く吐き出す鳴き声で、ナレイを威嚇する。
「どうした!」
 他の新兵も集まってきたが、ナレイの対峙した化け物をみて後ずさる。
 誰ひとり、手にした棒を振るい、腰の短剣を抜いて加勢しようとする者はいなかった。
 新兵とナレイと獣を中心に、大きな円を描くばかりである。
 ナレイは、怪しげな生き物から目を逸らすことなく、周りの新兵たちに語りかけた。
「落ち着いて……みんなでかかれば、勝てるから」
 だが、長い丸太のような黒い生き物は、甲高い威嚇の声を上げる。
 ナレイの部下たちは縮み上がった。
 だが、怯んだ人間たちに、化け物が襲いかかることはなかった。
「助かった……」
 円陣の中心でつぶやいたのは、ナレイではない。
 背中にかばった新兵だった。
 小剣を構えたナレイの前で、黒い獣は白い腹を見せている。
 ひと足ひと足、ゆっくりと近づいたナレイが小剣の先でつついても、動かない。
「さすがナレイ!」
「サイレアの勇者!」
 部下たちの歓声を浴びながら、ナレイは荒い息と共に、その場に片膝をついた。  

 それからしばらくの後。
 ナレイは小隊の部下たちを連れて、流れの速い河のほとりに佇んでいた。
 その傍らには、鎧をまとったヨファがいる。
 最前線の隊長からの命令を伝えに来たのだ。
「驚きました……君にあんな力があるとは」
 それは、あの怪物を倒したことを言っているのだった。
 ナレイは白く瀬を噛む河の水面を見つめながら、抑揚のない声で答えた。
「ああいうのが、この中にたくさんいるんですね?」
 あの生き物は、カワヒトカゲ(川の火トカゲ)というらしい。
 ケイファドキャの河川では珍しくないということだった。
 真っ黒な身体で川底に潜み、魚などを捕食する獰猛な生き物らしい。
「水がなければ、あっという間にああなるらしいんですが」
 陸に上がると仮死状態になるが、人が触ったりすると噛みついてくる。
 この習性を利用して、河向こうに逃げるとき、残した陣地に放っておくのだということだった。
 ただし、水のないところでは長く生きられないので、逃げ場がないとすぐに死んでしまうのだという。
「渡れっていうんですか? そんなのがいるところを」
 その命令を伝えに来たヨファは、励ますように答えた。
「浅いところには棲めないらしいですよ。歩いて渡れるくらいの」
 それだけ言い残して、さっさとその場を離れていった。
 残された小隊の部下たちは、身を寄せ合って囁き合う。
「つまり……俺たちに浅瀬を探せっていうのか?」
「自分で歩いて?」
「食われるってことじゃないか! 深いところハマったら!」
 ひとり残らず、すっかり腰を抜かして縮み上がってしまった。
 だが、その背後からやってきた者たちがあった。
 貴族出身の新兵たちだ。
「何だ、怖気づいたのか?」
「だったら、あまりいい気にならないでほしいね」
「ゆうべの度胸はどこへ行ったんだい?」
「頼むよ、河さえ渡れば、我々にも出番が来るんだから」
 その挑発は、かえって庶民の新兵たちを奮い立たせた。
 喧嘩っ早いのが跳ね起きると、貴族の子弟に食ってかかる。
「悔しかったら命張ってみろよ、てめえらも!」
 だが、鼻で軽くあしらわれる。
「話を聞いてなかったのかい?」
「こんなのはね、貴族の死に場所じゃないんだよ」
 庶民の若者たちが次々に立ち上がった。
 凄まじい形相で、貴族の子弟たちに詰め寄る。
 甲高い笑い声が上がった。
「おや? 殴るかい? 殴る? 貴族を?」
「庶民から手を出せば、死刑だよ?」  
「まあ、カワヒトカゲに食われて死ぬのも同じことだろうけど」
 庶民の新兵のひとりが叫んだ。
「構わねえ、だったら、ひとり殺してやらあ!」
 だが、そこでナレイが叫んだ。
「やめろ!」
 もっとも、叫んだ新兵は聞かない。
「だって! 俺たちに死ねって!」
 間髪入れず、ナレイは言った。
「僕が行く。僕ひとりで行く。君たちは、死なない」
 貴族も庶民も構わず、その場にいる全員を見渡して告げる。
 庶民の若者たちは、目を見開いた。
 貴族の子弟たちは、苦々しげに顔をしかめて、その場を立ち去っていく。
 ナレイは無言で背を向けると、そのまま急流に向かって歩き出した。
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