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scene 14.
しおりを挟む「……なあ、好きってどういうことなんだろう」
「え、この歳で今さらそんな中高生みたいな悩み?」
手の中のピンク色の液体が入ったグラスを揺らしながら、向かいに座る綾花が大げさにため息をついてみせた。ピーチフィズなんとかというカクテルだったが、遼太郎には覚えきれない。
「悪かったなチューガクセーで」
空になった取り皿を避けつつ頬杖をつく。
あれから、朝、黒木には会えていない。時間をずらしたのか。宣言通り、会わないつもりらしい。
あの遊歩道から見える出窓を毎朝見上げてしまう。いっそのことマンションの玄関で待ち伏せしようかとも思ったが、会えたとして何を話せばいいか分からない。
あのぴょんぴょん跳ねた黒髪を見ないと寂寥感に襲われる。それは、すでに春から習慣づいたものがいきなり消えてしまったせいか、それとも。
だからといってあの時、黒木からのキスを受けていたらどうなっていたのか。それを考えると腰に回されていた手の動きや、黒木の視線、息遣い、いろいろまとめて思い出されて背筋がぞくぞくする。
広い胸板、長い腕。くるまれている感覚。汗の匂い。すべてが遼太郎の五感を刺激して、そして今でもまとわりついている。
「すっごいくらーいカオして『相談がある』っていうから、なにかと思ったら。……何? 告白でもされた?」
鋭い指摘に思わず肩が揺れる。お、と綾花が身を乗り出してきて、
「思いがけない相手?」
綾花がずいずい来るのに合わせて遼太郎は後ずさりする。壁に背中が当たって逃げ場がなくなる。
「……まさか、あの人? こないだ書類探すの手伝ってくれた……黒木、さん?」
黒木の名前が出たとたん、遼太郎はかあっと頬が熱くなるのを感じた。
「え、嘘。マジで!?」
なぜか綾花まで興奮して頬を赤くしている。なんでそんな嬉しそうなんだ。
「で、で? どこで? どんなシチュエーション? どんなふうに?」
「ちょ、ちょっと待て。なんでそんな具体的なこと聞きたがるんだよ」
どうどう、と荒ぶる馬を手懐けるように手で制す。
「あ、ごめん、つい」
綾花もそこで、こほん、とごまかすように咳払いして姿勢を正した。
「へえ、そうか~なるほどねえ。それは悩むねえ」
そんなニコニコしながら言われても。
「……で、告白されて、なんて答えたの」
自分から相談をもちかけておいて、話さないのも本末転倒だ。しどろもどろになりながらも、小さな声で口にする。
「……その……キス、されそうになって、怖くて逃げたら、会えなくなった」
「はあ!?」
どん、とグラスを乱暴に置く。中のピンク色の液体がこぼれそうになった。
「それは相手は振られたと思うよね。で、そんなにうじうじ悩んでるってことは、佐野くん後悔してるってこと?」
「後悔……」
黒木のはにかむような笑顔が脳裏に浮かぶ。あの笑顔が好きだ。ずっと見つめられていたい。黒木がそばにいなくて寂しい。――でも。
『キス以上のこともしたい』
そう言った黒木の獣のような目。仔犬だと思っていたのに、急に狼に変貌したような――一瞬、怖いと思って拒絶した。
あの時の傷ついた黒木の顔を思い出すと、胸が痛い。それはあの日からずっと針のように刺さったままで、ずくん、ずくんと痛みをもたらす。
「好きの定義って難しいよねえ。あたしもよく分かんない」
グラスを傾けながら、綾花がふう、と息をつく。
「その人が好き、っていつからそうなのかなんて。気づいたらもう好きになってるじゃない? そういうの」
遼太郎はいつかの綾花の言葉を思い出した。
「西野……心に決めた人がいるって言ってたよな」
くすり、と微笑んで綾花が遼太郎を見た。
「もうこの際だから言っちゃうけど……川原くん。年上だし、ちょっと無理かなあと思ってるけど」
「え、いや、そんなこと……」
ここで川原の気持ちを言ってしまっていいのかどうか。遼太郎は思わず口を噤んだ。
ぐいっと目の前のお猪口を呷って空にする。
「……それこそ、西野らしくないじゃん。もっとストレートにがんがん行くタイプかと思ってた」
「そうだねえ……あたしって意外と乙女だった」
へへ、と自嘲するように笑う。
「佐野くんの秘密を知っちゃったから、あたしの最大の秘密を洩らしちゃうけど。……あたし、腐女子なんだよねえ」
「フジョシ?」
聞きなれない言葉に眉をしかめる。助詞がなんだって?
「あー、あの、ボーイズラブとかって、分かる? 分かんないか。そういう、男同士の恋愛ものが好きってこと」
「あ、いやちょっと分かる。……妹が、そういう漫画描いてるから」
「マジ? 妹さんなんてペンネーム? なんのジャンル描いてんの?」
だからなんでその手の話になると目がキラキラするんだよ。
「そんなの知らないって。で? フジョシがなんなんだよ」
はあ、と現実に戻ってきたかのように綾花が肩を落とす。
「……だからね。あたし隠し事とか苦手だし、そういうことを黙ったまま付き合うって多分できそうにないし。だから、そういうあたしを受け入れてもらえるのかなって思うと……なかなか踏み切れないというか」
川原のへらへらした顔を思い浮かべる。
「あいつ、へーそうなんすか、って普通に受け入れそうな気もするけど」
まあねえ、と綾花はカクテルを飲み干し、すいませーんと店員を呼んで同じものを追加した。
「怖いよね。お互い」
ニッと笑って綾花がその茶色がかった髪を耳にかけた。
「で、佐野くんはどうしたいの? これから」
俺は、どうしたいんだろう。
遼太郎はしばらく焼き鳥の煙にむせぶ天井を見つめていたが、やがて綾花に視線を戻した。
「……まだ怖いけど……このまま会えないのは嫌だ」
ずっと会えないまま。……遼太郎が動かなければ、きっとそうなる。
もし、エレベーターで出会わなかったら。ボタンを押してやらなかったら。図面ケースを拾ってやらなかったら。
偶然が少しずつ積み重なって今がある。
――黒木に対する想いも、少しずつ。桜の花びらが降り積もるように。
黒木の春の陽だまりのような笑顔が心に浮かんだ。思えばあの笑顔がはじまりだった。
――また、俺に笑いかけてほしい。あの笑顔で見つめてほしい。
うん、と綾花が目の前に置かれた新しいグラスを手に持った。
「だったら会いに行くしかないねえ。……あとでさ、あの時の選択は間違ってなかったって思いたいじゃん。自分がくよくよしないためにもさ」
めっちゃほっぺ赤くなってるよ、と氷の入ったグラスを頬に押しつけられた。
「……そうだな」
黒木に、会いたい。そう思うなら会いに行けばいい。
「ありがと。なんかすっきりした」
「よかった。なんか、佐野くん可愛くなったね」
「……惚れるなよ」
ばーか、とくすくす笑う声とともに軽い罵りが返ってきた。
外に出て、並んで駅へと向かう。
「……あ」
聞いたことのある声だと思って振り返ると、そこには見慣れた後輩が驚愕のまなざしで遼太郎と綾花を見つめていた。
最悪のタイミング。遼太郎は思わず額に手をやった。
「あ、えっと、その……お邪魔しましたっ」
川原が取り繕うような笑顔を張り付けたまま、回れ右をすると駆け出した。
「――悪い。俺のせいだ」
追いかけようとする遼太郎を綾花が腕を伸ばして制した。
「あたし、行ってくる」
強気の笑み。
「今追いかけないと、あたし、後悔しそうだから。これって人生の岐路に立ってるよね」
じゃ、と片手を挙げてヒールの靴で走り出す。
その後姿を見送って、遼太郎は前髪をかき上げた。
西野、カッコいいな。――俺も見習わないと。
scene 14. 〈了〉
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