29 / 56
16章
16章③
しおりを挟む食事を終え、先ほどお裾分けと言って柊吾が置いていったウィスキーの水割りを光希に手渡す。つまみに一緒にもらったナッツを皿に入れる。
「……飲みすぎんなよ」
一言添えると、
「分かってるよ。もうホントにお母さんだねっ」
と、拗ねたような答えが返ってきた。
グラスを片手に、光希がピアノのそばに立つ。
「ここで聴いてていい?」
正直、手元を見られると緊張する。だが、黙って鍵盤に手を置いた。
ピアノソナタ第八番『悲愴』、第一楽章。
それは荘重な和音で始まる。透明な湖を思わせる静謐さと、情熱的な、だが重苦しい響きが入り混じりながら流れる音色は、深い嘆きを思わせる。
流れるような音符の羅列。嵐のような運命に翻弄される。悲愴という言葉が胸に突き刺さる。深い慟哭。だがコーダ(終結)には運命に抗うような強い意志を感じさせる。
続いて第二楽章。
一転、穏やかで優雅な美しい旋律。繰り返し、祈るように。――杏奈の歌声を彷彿とさせる。先程まで感じていた悲しみから癒されるような優しさに包まれる。
そして第三楽章へ。
第一主題の美しく、悲しい旋律。だがその悲しみの向こうにほんの少し、光が見える。
襲い来る運命を受け止め、決然と立ち向かおうとする強い意志。悲しみを突き抜けた先に何かを見つけられる。
――だから、一歩前へ。
演奏を終えると、光希が目を瞠り、拍手を送ってきた。
「やめろよ。最近弾いてなかったからけっこう間違えたし」
「そんなの全然分かんないって。……やっぱり智弥はすごいよ」
ふふ、とウィスキーで少し赤く染まった頬を緩める。その顔に鼓動が速まるのを感じた。
「知らなかった。最初、あんなに暗い感じで始まるんだね」
「うん……」
「きっと、ベートーヴェンにも辛くて悲しいことがたくさんあったんだろうな。――でも」
グラスを傾けてウィスキーを口に含んだ。喉仏が上下するのを黙って見つめる。
「人生には辛いことや悲しいことがたくさんあるけど、きっと乗り越えられる。――そう励ましてくれてる気がする」
そして、そっと長い睫毛を伏せた。
「光希……」
「……俺、高校のとき、死のうとしたことあるんだ」
「……え……」
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる