アマービレ・ブリオーソ・アモローソ amabile,brioso,amoroso.

椎葉ユズル

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16章

16章③

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 食事を終え、先ほどお裾分けと言って柊吾が置いていったウィスキーの水割りを光希に手渡す。つまみに一緒にもらったナッツを皿に入れる。

「……飲みすぎんなよ」
 一言添えると、
「分かってるよ。もうホントにお母さんだねっ」
 と、拗ねたような答えが返ってきた。
 グラスを片手に、光希がピアノのそばに立つ。

「ここで聴いてていい?」
 正直、手元を見られると緊張する。だが、黙って鍵盤に手を置いた。

 ピアノソナタ第八番『悲愴』、第一楽章。
 それは荘重な和音で始まる。透明な湖を思わせる静謐せいひつさと、情熱的な、だが重苦しい響きが入り混じりながら流れる音色は、深い嘆きを思わせる。
 流れるような音符の羅列。嵐のような運命に翻弄される。悲愴という言葉が胸に突き刺さる。深い慟哭。だがコーダ(終結)には運命に抗うような強い意志を感じさせる。

 続いて第二楽章。
 一転、穏やかで優雅な美しい旋律。繰り返し、祈るように。――杏奈の歌声を彷彿とさせる。先程まで感じていた悲しみから癒されるような優しさに包まれる。


 そして第三楽章へ。
 第一主題の美しく、悲しい旋律。だがその悲しみの向こうにほんの少し、光が見える。

 襲い来る運命を受け止め、決然と立ち向かおうとする強い意志。悲しみを突き抜けた先に何かを見つけられる。

 ――だから、一歩前へ。
 

 演奏を終えると、光希が目を瞠り、拍手を送ってきた。
「やめろよ。最近弾いてなかったからけっこう間違えたし」
「そんなの全然分かんないって。……やっぱり智弥はすごいよ」
 ふふ、とウィスキーで少し赤く染まった頬を緩める。その顔に鼓動が速まるのを感じた。 

「知らなかった。最初、あんなに暗い感じで始まるんだね」
「うん……」
「きっと、ベートーヴェンにも辛くて悲しいことがたくさんあったんだろうな。――でも」
 グラスを傾けてウィスキーを口に含んだ。喉仏が上下するのを黙って見つめる。

「人生には辛いことや悲しいことがたくさんあるけど、きっと乗り越えられる。――そう励ましてくれてる気がする」
 そして、そっと長い睫毛を伏せた。

「光希……」

「……俺、高校のとき、死のうとしたことあるんだ」
「……え……」

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