アマービレ・ブリオーソ・アモローソ amabile,brioso,amoroso.

椎葉ユズル

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2章

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「ん……」
 ソファから聞こえた唸るような声に、智弥は鍵盤を奏でる手を止めた。
「なんだっけこの曲……聴いたことある……」
 ぼんやりと天井を見上げ、髪をかき上げながら、ソファの主はぼそりと言った。

「ショパン、ノクターン。作品九の二」
「ああ……ノクターン。……えっ」
 がばりと急に起き上がり、昨夜の大トラはそのまま頭を抱え込んだ。――まあそうなるよな。あんだけ酔ってたら。 
 智弥はピアノの前から離れ、冷蔵庫からペットボトルの水を取り、差し出してやった。

「――どうぞ」
「……ありがとう……って、きみ、誰?」
「……覚えてねえのかよ」
「え? えーと……昨日……ホテル出て……駅前で音楽聴いてて……あ」
 口をぱかんと開けて、智弥を見る。
「ギター弾いてたひと!」
「正解」
 長い睫毛にふちどられた黒目がちの瞳を一度瞬きして、智弥をじっと見つめてくる。吸い込まれそうなほど大きい。

「あの……で、なんで俺はきみのとこに……?」
 智弥はふう、と大きくため息をついた。
「あんた、俺に因縁ふっかけてきてそのまま寝ちまったからさ。仕方なくうちに」
 えええ、と驚きの声を上げる。手元でペットボトルがくしゃりと音をたてた。

「そ、それは……ご迷惑をおかけしまして……」
 
 慌ててぺこりと頭を下げて、いたたた、と額を押さえた。それをみて智弥はまた大きく息を吐いて、
「……キツイなら、まだ寝とけば? 俺は夕方にしか出かけないし」
「い、いや……これ以上の迷惑は……」
「今さらだし。そんな状態のあんた外にほっぽり出して途中でまた倒れられても嫌だし」
「……すみません」
 しゅん、と肩をおとして、毛布を手繰り寄せる。

「あの、俺……羽根田はねだ光希こうき、です」
「……成瀬なるせ智弥ともや
「成瀬、くん……すみません。お世話になります……」
 毛布にくるまったまま、光希はふと先ほどまで智弥が奏でていたグランドピアノに目を留める。

「ピアノも弾くの? さっきの演奏、すごくよかった」
 ふふ、と目だけ毛布から出してこちらを見上げてくる。
「昨日の曲はお気に召さなかったようだけどな」
 自分の作った曲に難癖つけられて、正直気分はよくない。
「あ……ごめん。曲はよかった、すごく」
 曲は、ね。
 光希が持っていた紙袋に目をやる。
 ふう、と大きく息をついて、智弥は黄金色の髪をかき上げた。

「歌詞が嫌だったってこと?」
 びくり、と光希の肩が揺れた。
「……あんた昨日、寝言で言ってた。その、新郎の名前」
 紙袋を指さして、光希をまっすぐ見る。
「え……えっと、その……」
「別にいいよ隠さなくても。新郎が失恋の相手なんだろ?」

 光希の漆黒の瞳が智弥を貫いた。艶のある黒が潤んでくる。智弥は白い頬を伝う光るものを見て、たちまち後悔の念にかられた。

「――帰る」
「あ、おい……」
 智弥が伸ばした手を、光希ははねつけた。
「お世話になりました。じゃ、さよなら」
 すばやく身支度を終えると、光希は振り返りもせずにドアを閉めた。
 バタンと乱暴な音が部屋に響く。

「……なんだよ、あいつ……」
 そう独り言ちたものの、智弥は後ろ髪を引かれる思いでいっぱいになった。おそらく光希の触れてほしくなかった部分を暴いてしまったのだ。

 もう会うこともないかもしれない。知っているのは名前だけだ。
 そう思うと、なぜか足元から焦燥感が襲ってきた。
 一瞬、追いかけようと玄関へと足を向けたとき、つま先に何かが当たった。

「あ……」
 ここちよい手触りの、焦げ茶色に染められた革細工のそれを手に取る。
「あいつ……サラリーマンなのか。あんなガキっぽい顔して」
 光希の残していった名刺入れを眺めながら、智弥はなぜか高鳴る胸の鼓動を感じ、戸惑いを覚えた。

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