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水中花壇編
3,夏至の池‐1
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夏至の池へ行く当日、空は朝から雲ひとつなく晴れた。
店の軒下に休業時間を表す白翡翠を置いたルウは、店のなかで出掛ける準備をしていた。
採取容器やタオルを鞄に詰め込むと、テーブルには、方向音痴を治す魔法薬が入った小瓶が残った。
硝子同士の擦れる音を鳴らして蓋を抜くと、薄荷の香りが微かに鼻腔まで届く。
それをスプーンに垂らしたルウは、舌の上に載せた。魔法薬はさらりと舌に馴染み、味はなく、体に異変をもたらすことなく飲み込まれる。
そこへ、様子を見に来たガルバナムが扉を開けた。
「支度はできたか?」
「はい」
テーブルに置かれた小瓶を見て、ガルバナムは言う。
「魔法薬を飲んだのか。コンパスなら持ったぞ?」
「念のためです。僕だけがはぐれないとも限りませんし」
ルウは手早く魔法薬を片付けると、荷物で膨らんだ鞄を肩から斜めに掛けた。
外に出て扉の鍵を閉め、待っているガルバナムの元へと駆け寄る。
すると、ガルバナムは、すっと片手を差し出した。
「ほら」
「え?」
「……手」
「手?」
ルウがガルバナムの手を見つめたまま意味を理解できないでいると、
「はぐれないように、連れていく」
と、ガルバナムは言った。
「え……っ、あ、はいっ!」
予想外の提案に、ルウは緊張しながらも手を重ねた。
ルウより一回り大きい手が、ぴたりと寄り添ったやわらかい手を包み込む。
「……初めて」
ルウは、思わず独り言を漏らした。
「ん?」
「いいえ。なんでもありません」
ルウは、余計なことを言って手を離されてしまわないように、口をつぐんだ。
しかし、その口元は、喜びをこらえきれずに緩んでいた。
二人は並んで歩きながら、空間移動路をいくつも通って、夏至の池を目指した。
湿気を帯びた木肌の香りをくぐり抜け、休むことなく歩く。
ガルバナムが持つコンパスは、最後に出た空間移動路から歩けども歩けども、更に鬱蒼とした森のなかを前進することを促していた。
ガルバナムは、休憩を求めないルウに訊ねる。
「疲れていないか?」
「大丈夫です。……あ、紫陽花の花が咲いていますね」
突然、前方に現れた紫陽花の小道は、景色に華を加えた。
花盛りと見え、ルウは言う。
「遅咲きでしょうか」
「そうだな」
「あっ! カタツムリだ」
ルウは、瑞々しい葉の上に一匹のカタツムリを見つけた。指先で片方の触覚をつつくと、触覚は引っ込んでしまう。
紫陽花の木はルウの背丈ほどあり、木から溢れんばかりの恋しい空色の房が、二人を囲んでいた。
小道を抜けると、密集する木々の間に、ぼんやりと光に満ちた空間が浮かんで見えた。
薄暗い森の出口だった。
太陽が燦々と降り注ぐそこは、森と崖に挟まれながらも植物が輝いて見え、オアシスを彷彿とさせた。
「やっと着いたな」
「ここですか?」
草地に足を踏み入れたルウは、一瞬、体がふわりと浮く心地を覚えた。
「わあ……」
「わかるか?」
「はい。空気が、一段軽くなったような……」
「あまり人が立ち入らない場所だからな」
ルウは、ふと地面を覆う緑に視線を落とした。
そして、ここが明るく見えたのは、太陽のせいだけではなかったと知った。
「ここの植物は、皆、淡い色づきですね。花も、茎も、葉も。だからといって、弱っているわけでもない」
ルウは、しゃがんで足元に茂る草花に触れる。
「あそこを見れば、理由がわかる」
ガルバナムが指を差した先には、崖を背に水を湛えた大きな池があった。
湧水から成る池は深く、それでも水底まで見える透明度だった。
池に歩み寄り、その実態を間近にすると、ルウは息を呑んだ。
「きれい……」
池は、瑠璃色をしていた。
そして、水底から茎を伸ばし、水中で揺れていたのは、鮮やかな強い色彩を放つ花々だった。
ルウは、地面に膝をついて池を覗き込んだ。
「ここが、夏至の池……」
無軌道にひらひらと舞っていた蝶が池に差し掛かると、水面に映ったもう一頭の蝶と共に、花畑を飛び交っているようだった。
「地上で咲く花と似ている花もあるんですね。……あの花はアマリリスに似ているし、あっちはノウゼンカツラ、こっちはアザミみたいです」
ガルバナムは、ルウの側で池を見渡して言った。
「地中の主な養分は、この池に流れ込んで、池の花を咲かせる。夏至を迎えると、水中の花は特別な養分を池に放出するようになり、その水は川を下って、動植物に行き渡る。この水を必要とする草木や生物が、たくさんいるんだ」
ルウは、ガルバナムを見上げて言った。
「それで、池の外の植物達は、最小限の養分で生きているんですね」
ガルバナムは、黙って頷く。
ルウは、池にも、地上や水中で育つ数多くの植物にも、愛しさが込み上げていた。
「ルウ。ここに来た目的を忘れてはいないか」
「……はっ! 花の色を採取するんでした」
すっかりこの場所に魅了されていたルウは、目的を思い出すと、鞄を下ろして荷物を出した。
ガルバナムが見守るなか、ルウは袖をまくり、手首までを池に浸した。
水は汗ばんだ肌を冷やし、ルウの気も引き締まる。
手元に黄金の魔法を集中させたルウは、目を瞑り、この場所が持つ軽やかで静謐な空気を全身で感じた。
頬を撫でる風にも、耳元を通過する虫の翅の音にも抗わず、ただ水中で発する自分の魔法からは意識を手放さなかった。
すると、ルウの掌の上には、練習で成功したときと同じ水の球体が形成された。
すっかり馴染んだ魔法は、手こずることなく発揮される。
更に、ルウはそのまま一つの水玉を片手でつまむと、水玉を通して、幾重もの花びらを大きく広げる真っ赤な水中花を捉えた。
ルウの視線がその色を射るのと同時に、水玉には、散った花びらが一枚張り付いたかのように真っ赤な色が転写された。
ルウは、ほっとして息を吐くと、成功に喜んで手を池から上げた。
「師匠! 採れました!」
ルウが赤い模様の入った水玉を見せて言うと、ガルバナムは、
「よかったな」
と言った。
それから、ルウは、何色もの花の色を採取した。
水中花の色が失われることはなく、水玉に映った色だけがそこに留められた。
花を傷つけることなく作業が進み、ルウは、自分の魔法に段々と自信を抱いていった。
透明な採取容器をいっぱいにしたカラフルな水玉は、子どもが集めたガラス玉のようだった。
一通り色の採取を終えたルウは、離れた場所に立つガルバナムに言った。
「師匠、小川のほうにも行ってきていいですか?」
ガルバナムは、池の縁を回り、水中花を観察していた。
すでに立ち上がっていたルウに、ガルバナムは声を張る。
「あまり遠くには行くなよ」
「はーい」
鞄を片手に走り出したルウを見ていると、ルウは好奇心の赴くままに、立ち止まってしゃがみ込んだり、茂みの陰に消えたりしていて、なかなか小川には辿り着かなかった。
「これは、魔法薬を飲んできて正解だな」
ルウの背中が見えなくなると、ガルバナムは半ば感心して呟く。
それから、ルウのあとを追って歩き出した。
店の軒下に休業時間を表す白翡翠を置いたルウは、店のなかで出掛ける準備をしていた。
採取容器やタオルを鞄に詰め込むと、テーブルには、方向音痴を治す魔法薬が入った小瓶が残った。
硝子同士の擦れる音を鳴らして蓋を抜くと、薄荷の香りが微かに鼻腔まで届く。
それをスプーンに垂らしたルウは、舌の上に載せた。魔法薬はさらりと舌に馴染み、味はなく、体に異変をもたらすことなく飲み込まれる。
そこへ、様子を見に来たガルバナムが扉を開けた。
「支度はできたか?」
「はい」
テーブルに置かれた小瓶を見て、ガルバナムは言う。
「魔法薬を飲んだのか。コンパスなら持ったぞ?」
「念のためです。僕だけがはぐれないとも限りませんし」
ルウは手早く魔法薬を片付けると、荷物で膨らんだ鞄を肩から斜めに掛けた。
外に出て扉の鍵を閉め、待っているガルバナムの元へと駆け寄る。
すると、ガルバナムは、すっと片手を差し出した。
「ほら」
「え?」
「……手」
「手?」
ルウがガルバナムの手を見つめたまま意味を理解できないでいると、
「はぐれないように、連れていく」
と、ガルバナムは言った。
「え……っ、あ、はいっ!」
予想外の提案に、ルウは緊張しながらも手を重ねた。
ルウより一回り大きい手が、ぴたりと寄り添ったやわらかい手を包み込む。
「……初めて」
ルウは、思わず独り言を漏らした。
「ん?」
「いいえ。なんでもありません」
ルウは、余計なことを言って手を離されてしまわないように、口をつぐんだ。
しかし、その口元は、喜びをこらえきれずに緩んでいた。
二人は並んで歩きながら、空間移動路をいくつも通って、夏至の池を目指した。
湿気を帯びた木肌の香りをくぐり抜け、休むことなく歩く。
ガルバナムが持つコンパスは、最後に出た空間移動路から歩けども歩けども、更に鬱蒼とした森のなかを前進することを促していた。
ガルバナムは、休憩を求めないルウに訊ねる。
「疲れていないか?」
「大丈夫です。……あ、紫陽花の花が咲いていますね」
突然、前方に現れた紫陽花の小道は、景色に華を加えた。
花盛りと見え、ルウは言う。
「遅咲きでしょうか」
「そうだな」
「あっ! カタツムリだ」
ルウは、瑞々しい葉の上に一匹のカタツムリを見つけた。指先で片方の触覚をつつくと、触覚は引っ込んでしまう。
紫陽花の木はルウの背丈ほどあり、木から溢れんばかりの恋しい空色の房が、二人を囲んでいた。
小道を抜けると、密集する木々の間に、ぼんやりと光に満ちた空間が浮かんで見えた。
薄暗い森の出口だった。
太陽が燦々と降り注ぐそこは、森と崖に挟まれながらも植物が輝いて見え、オアシスを彷彿とさせた。
「やっと着いたな」
「ここですか?」
草地に足を踏み入れたルウは、一瞬、体がふわりと浮く心地を覚えた。
「わあ……」
「わかるか?」
「はい。空気が、一段軽くなったような……」
「あまり人が立ち入らない場所だからな」
ルウは、ふと地面を覆う緑に視線を落とした。
そして、ここが明るく見えたのは、太陽のせいだけではなかったと知った。
「ここの植物は、皆、淡い色づきですね。花も、茎も、葉も。だからといって、弱っているわけでもない」
ルウは、しゃがんで足元に茂る草花に触れる。
「あそこを見れば、理由がわかる」
ガルバナムが指を差した先には、崖を背に水を湛えた大きな池があった。
湧水から成る池は深く、それでも水底まで見える透明度だった。
池に歩み寄り、その実態を間近にすると、ルウは息を呑んだ。
「きれい……」
池は、瑠璃色をしていた。
そして、水底から茎を伸ばし、水中で揺れていたのは、鮮やかな強い色彩を放つ花々だった。
ルウは、地面に膝をついて池を覗き込んだ。
「ここが、夏至の池……」
無軌道にひらひらと舞っていた蝶が池に差し掛かると、水面に映ったもう一頭の蝶と共に、花畑を飛び交っているようだった。
「地上で咲く花と似ている花もあるんですね。……あの花はアマリリスに似ているし、あっちはノウゼンカツラ、こっちはアザミみたいです」
ガルバナムは、ルウの側で池を見渡して言った。
「地中の主な養分は、この池に流れ込んで、池の花を咲かせる。夏至を迎えると、水中の花は特別な養分を池に放出するようになり、その水は川を下って、動植物に行き渡る。この水を必要とする草木や生物が、たくさんいるんだ」
ルウは、ガルバナムを見上げて言った。
「それで、池の外の植物達は、最小限の養分で生きているんですね」
ガルバナムは、黙って頷く。
ルウは、池にも、地上や水中で育つ数多くの植物にも、愛しさが込み上げていた。
「ルウ。ここに来た目的を忘れてはいないか」
「……はっ! 花の色を採取するんでした」
すっかりこの場所に魅了されていたルウは、目的を思い出すと、鞄を下ろして荷物を出した。
ガルバナムが見守るなか、ルウは袖をまくり、手首までを池に浸した。
水は汗ばんだ肌を冷やし、ルウの気も引き締まる。
手元に黄金の魔法を集中させたルウは、目を瞑り、この場所が持つ軽やかで静謐な空気を全身で感じた。
頬を撫でる風にも、耳元を通過する虫の翅の音にも抗わず、ただ水中で発する自分の魔法からは意識を手放さなかった。
すると、ルウの掌の上には、練習で成功したときと同じ水の球体が形成された。
すっかり馴染んだ魔法は、手こずることなく発揮される。
更に、ルウはそのまま一つの水玉を片手でつまむと、水玉を通して、幾重もの花びらを大きく広げる真っ赤な水中花を捉えた。
ルウの視線がその色を射るのと同時に、水玉には、散った花びらが一枚張り付いたかのように真っ赤な色が転写された。
ルウは、ほっとして息を吐くと、成功に喜んで手を池から上げた。
「師匠! 採れました!」
ルウが赤い模様の入った水玉を見せて言うと、ガルバナムは、
「よかったな」
と言った。
それから、ルウは、何色もの花の色を採取した。
水中花の色が失われることはなく、水玉に映った色だけがそこに留められた。
花を傷つけることなく作業が進み、ルウは、自分の魔法に段々と自信を抱いていった。
透明な採取容器をいっぱいにしたカラフルな水玉は、子どもが集めたガラス玉のようだった。
一通り色の採取を終えたルウは、離れた場所に立つガルバナムに言った。
「師匠、小川のほうにも行ってきていいですか?」
ガルバナムは、池の縁を回り、水中花を観察していた。
すでに立ち上がっていたルウに、ガルバナムは声を張る。
「あまり遠くには行くなよ」
「はーい」
鞄を片手に走り出したルウを見ていると、ルウは好奇心の赴くままに、立ち止まってしゃがみ込んだり、茂みの陰に消えたりしていて、なかなか小川には辿り着かなかった。
「これは、魔法薬を飲んできて正解だな」
ルウの背中が見えなくなると、ガルバナムは半ば感心して呟く。
それから、ルウのあとを追って歩き出した。
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