幻燈町の恋模様

貴船きよの

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斗眞編

5,クリスマスの朝に

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 クリスマスイブのつばめ喫茶では、人々の間に流れていた高揚した雰囲気がまだ残っていた。青々としたクリスマスツリーにぶら下がる燕も、心なしか楽しげに飛行しているように見える。
 その日の営業を終えた店には、多賀幸が訪れていた。
 多賀幸は、手に提げていた紙袋を椿に差し出して言った。
「オードブルのセットです。買ってきたものですみません」
「わあ、ありがとう。たくさんね」
 大きな紙袋を両手で受け取り、椿は声を弾ませる。
 客席のテーブルを二卓隣り合わせ、そこへテーブルクロスを敷き終えた伊川は、多賀幸に振り返って言った。
「多賀幸くんは、今日は車?」
「いいえ、歩きです」
「だったら、アルコールも大丈夫だね」
 自身も飲酒を楽しみにしている様子の伊川に、椿は言った。
「この前買ったシャンパンを開けましょうよ」
「ああ。持ってくるよ」
 伊川は、暖簾をくぐって厨房を見に行く。
 椿は、多賀幸から渡された紙袋をカウンターに置いて言った。
「多賀幸くんの仕事は落ち着いた?」
「ええ。おかげさまで。お二人のサンドイッチで元気が出ました」
 そこへ、厨房から伊川の声が響く。
「椿ちゃ……椿さん、どこにあるの?」
「冷蔵庫に入れておいたわよ? ……ちょっと待ってね」
 椿が暖簾をくぐって行ってしまうと、二人きりになった隙に、斗眞は小声で多賀幸に耳打ちした。
「すみません。クリスマスの予定を聞かれて、つい、多賀幸さんと会うことを話してしまって……」
「いいよ。こういうのも面白そうだし」
 斗眞と多賀幸の二人でクリスマスを過ごす予定は、つばめ喫茶でのクリスマスパーティーに変更されていた。
 斗眞が多賀幸の返答にほっとしていると、暖簾をめくって椿が顔を出した。
「クリスマスケーキは、いつ出そうかしら。食事のあとにする?」
「そうですね」
 斗眞が答えると、多賀幸は訊ねた。
「椿さんが作ったんですか?」
「いいえ。ネットですごくおいしいって評判のチョコレートケーキを注文したのよ。クリスマスくらいゆっくりしたいもの」
 椿は、斗眞に厨房へ入る目配せをして言った。
「斗眞くんが作ってきてくれたグラタンのパイも温めましょうか」
「はい、準備します」
 にこやかに答える斗眞だったが、多賀幸は、近くで見た彼の目元に隈ができていることに気づいた。
 しかし、多賀幸はそのことには言及せず、その夜のつばめ喫茶は賑やかな話し声に包まれた。


「バランスゲームなんて、何年ぶりにやったかわからないよ」
「僕もです。椿さん、強かったですね」
 つばめ喫茶でのパーティーの余韻を引きずりながら、斗眞と多賀幸は、斗眞のアパートへと静かな夜道を歩いていた。
「あんなにはしゃぐ伊川さんを見たのも、初めてだったな」
「勝負事には熱いんですよ、マスター」
「そうなの? 元アスリートの血が騒ぐのかな」
 メインストリートへ出ると、店はほとんどが閉まり、店先のクリスマスイルミネーションだけが寂しげにピカピカと光っていた。
 洋菓子店に差し掛かった斗眞は、もう以前のように避けることはなく、平然と通り過ぎる。
 斗眞の顔色を窺っていた多賀幸は、つばめ喫茶にいたときから気になっていたことを訊ねた。
「斗眞くん、あまり食欲がなかったみたいだけど、具合でもわるいの?」
 パーティーの最中、斗眞はサラダをつまんだり飲み物に口をつけるばかりで、自分で作ってきたパイにも手を伸ばさなかった。
 斗眞は、なんでもないふうに答えた。
「いいえ、体調は全然。……ただ、少し胃もたれ気味で。多賀幸さんこそ、チョコレートケーキを食べなくてよかったんですか?」
「今年のクリスマスケーキは、斗眞くんが作ったものを食べる予定でいるから」
 多賀幸の口からその話題が出ると、斗眞は自信のなさを隠せなかった。
「……あまり、期待しないでくださいね」
 多賀幸は言葉では答えず、斗眞を見守るような笑みを浮かべた。
 斗眞にとって、今夜は浮かれてばかりいられない夜だった。
 多賀幸に約束したクリスマスケーキを食べてもらうという、緊張感のある使命が残っているのだ。

 九時を回る頃に、斗眞は多賀幸と共にアパートへ帰宅した。
 部屋のエアコンをつけた斗眞は、
「それじゃ、用意しますので」
 と、部屋に多賀幸を残して、キッチンに立った。
 夜中に焼いて生クリームを塗っておいたスポンジの、仕上げのデコレーションに取りかかるためだ。 
 それは、四号の小さいショートケーキだった。
 エプロンをつけた斗眞は、生クリームを泡立てる準備を始める。
 多賀幸は一人残された部屋の壁に寄りかかり、キッチンでの物音だけが響く時間を心地よく過ごした。
 二十分ほど経った頃、ドアが開いて、斗眞が顔を出した。
「お待たせしました」
 テーブルへとケーキが運ばれてくると、多賀幸はそれを見るなり感嘆した。
「すごいね。お店で売っているクリスマスケーキみたいだ」
 斗眞のクリスマスケーキは、シンプルだった。
 絞った生クリームで縁取りされ、中央に飾られた真紅の苺と小粒のブルーベリーにはうっすらと粉糖が積もり、柊のピックが控えめにクリスマスを演出している。 
 多賀幸が褒めてくれるほど出来のいいものにはならなかったが、斗眞は短期間でできるだけのことをした。
「やっと、どうにかお出しできるものになりました」
 遠慮がちに言う斗眞へ、多賀幸は労わりの気持ちを込めて言った。
「……たくさん作ったんだ?」
「あれから、毎日焼きました」
 今も食べきれないスポンジケーキが冷凍庫に五、六個入っていることは、多賀幸には内緒だ。
「それじゃ、心していただかないといけないね」
 二人は小さく笑い合い、斗眞は「今、カットしますね」と言って、キッチンへと立った。
 ケーキをカットする道具を持って部屋へ戻ってくると、斗眞は慎重にカットを始めた。
 柊のピックをいったん外し、湯煎して温めた包丁で切り分けていくと、スポンジに挟まれた苺が覗く明るい断面が現れた。
 斗眞は、カットしたケーキを再び飾りつけ、緊張した面持ちで多賀幸の前へと皿を置いた。
「どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう。……いただきます」
 多賀幸は、やわらかなスポンジにフォークを入れると、一口分を口に運んだ。
「ああ……、おいしい」
 多賀幸から出た一言に、斗眞はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「さっぱりした甘さで食べやすいね」
 多賀幸は、ケーキをすくって更に味わう。
「椿さんが作るスイーツもちょうどいい甘さなので、ああいう味が好みならと、合わせてみました」
 スイーツの話が穏やかにできるようになっている斗眞に気づいて、多賀幸は微笑していた。
「昔の勘が戻った?」
 斗眞は、伏し目がちに言った。
「このケーキは、多賀幸さんに食べてもらいたいと思ったから作れたんです。勘だなんて、とても言えません」
 俯いてしまった斗眞に、多賀幸はフォークを置いて言った。
「作ったのは、斗眞くんの力だよ。斗眞くんは、自分の足で新しい一歩を踏み出したんだ」
「新しい……」
 過去の延長ではなく、これは新しい始まりなのだと思うと、多賀幸の言葉は斗眞の心をより軽くさせた。
「そんな斗眞くんに、俺から渡したいものがあるんだ。受け取ってもらえるかな」
 多賀幸は、壁際に置いていた鞄を自分の元に引き寄せた。
 鞄のなかからそっと取り出したのは、麻紐とクラフト紙でラッピングされた、正方形のやや厚みのある箱だった。
「はい、クリスマスプレゼント」
「え……?」
 両手で受け取った箱には若干の重みがあり、斗眞は中身がなにであるのか、想像がつかなかった。
「開けてみて」
 多賀幸に促され、斗眞は麻紐を留めていたロゴが入ったシールを丁寧に剝がし、箱のラッピングを解いた。
 箱の蓋を開けると、入っていたのは、二枚のアイボリーの皿だった。
「これ……」
 多賀幸が長崎へと取材に行く前に、携帯電話で見せてくれた、あの皿だった。
「取材させてもらったお店に送ってもらったんだ。これからも、ケーキを作ったらこのお皿で食べようよ」
 多賀幸の言葉には、斗眞がお菓子を作り続けることも、多賀幸との関係が続くことも含まれていた。
「多賀幸さん……、ありがとうございます」
 多賀幸の気持ちがじわりと沁みて、斗眞は涙が込み上げそうだった。
 それを笑顔で誤魔化して、斗眞は言った。
「僕からも、プレゼントがあります」
 斗眞は受け取った皿をテーブルに置いて立ち上がると、ベッドの陰に隠してあった紙袋を持って戻った。
「多賀幸さんの好みに合うといいんですが……」
 多賀幸に差し出されたのは、ゴールドのりぼんが結ばれたネイビーのギフトボックスだった。
「ありがとう。開けるよ?」
「どうぞ」
 多賀幸がりぼんを解いて箱を開けると、不織布に包まれていたのは、黒のカシミヤマフラーだった。
 マフラーを手に取り、多賀幸は言った。
「いいの? こんなに上質なものを」
「長く使ってほしかったので」
 斗眞も、自分との先のことまで考えてくれている。
 多賀幸にはそう感じられて、笑みがこぼれた。
「斗眞くん……」
 多賀幸はラグの上に片手を置き、斗眞へと顔を近づけたかと思うと、そっと触れるだけのキスをした。
 なんの前触れもなく自然に触れた多賀幸の唇に、斗眞は、驚きと喜びで固まった。
 目を瞑るタイミングを逃した斗眞は、ゆっくりと離れようとする多賀幸と目が合い、頬を染める。
「マフラー、大切に使うよ」
「あ……、あの……」
「……初めて、だね」
 多賀幸は、照れた表情を見せた。
 しかし、斗眞は喜びを感じながらも、様子を窺うように多賀幸を見ていた。
「……大丈夫、ですか?」
「なにが?」
「男とのキス、大丈夫なのかなって……」
 斗眞の心配が杞憂であることを証明するかのように、多賀幸は微笑む。
「大丈夫もなにも、俺は、斗眞くんのことが好きなんだよ」
「……本当に?」
 信じられないそぶりの斗眞を見つめ、多賀幸は言った。
「言うのが遅くなってごめんね。……好きだよ、斗眞くん」
 多賀幸は、もう一度ゆっくりと唇を寄せた。
 斗眞は、そのキスを今度は笑顔で受け止める。
 多賀幸と出会って以来、最も幸福な日だと、斗眞は思った。



 翌朝、斗眞は隣で眠っている多賀幸を起こさないようにベッドを抜け出した。
 ベッド側の小さい窓の向こうは、まだ暗い。
 ベランダに続く窓を開けて静かに雨戸を開けると、ひんやりとした空気のなか、家々の屋根の向こうで明るみ始めた南東の空には、細い月が輝いて見えた。
 斗眞は部屋のエアコンを入れて着替えると、顔を洗って歯を磨き、キッチンに立つ。
 斗眞は、もう一つ、クリスマスケーキのデコレーションを完成させる必要があった。
 そこへ、起きてきた多賀幸が顔を出した。
「おはよう。早いね」
「多賀幸さん。おはようございます」
 斗眞が振り返ると、調理台の上で苺が飾られている最中のケーキを見つけ、多賀幸は言う。
「伊川さん達へ?」
「はい。ケーキ続きになってしまって申し訳ないですけど、食べていただけなくても構わないので。僕の、決意表明みたいなものですから」
「……言っておきたいこともあるしね」 
 多賀幸の意味ありげな台詞に、斗眞は照れながら頷く。
 斗眞と多賀幸は簡単に朝食を済ませると、箱にしまったケーキを手に、つばめ喫茶へと向かった。



 開店前のつばめ喫茶では、伊川と椿がテーブル席に着いていた。
 それぞれの前には切り分けられた斗眞のクリスマスケーキが載った皿があり、二人はフォークを口元に運んだところだった。
 伊川と椿が口をもぐもぐと動かし、なかなか感想が出てこない時間を、斗眞はトレーを持って立ったままドキドキして待った。
 その様子を、隣のテーブル席に着いていた多賀幸だけは、なにも心配せずに眺めていた。
 先に口をひらいたのは、椿だった。
「……おいしいわ。スポンジもしっとりとしていて、さすがよ」
「うん。おいしいね。うちのコーヒーにも合うよ」 
 伊川はコーヒーカップに口をつけて、満足そうに言った。
 椿に続いて伊川からも好意的な意見を貰え、斗眞はようやく強張っていた表情を緩ませた。
「ありがとうございます」
 椿は、食べかけのケーキを見つめ、口元を綻ばせていた。
「嬉しい。早月くんが作るスイーツ、食べてみたかったの。……手伝ってもらえる日も近いかしら?」
 これまでも何度か問いかけられてきたことに、斗眞はようやく、肯定的な気持ちで応えられる。
「今はまだ、全然ですが。……もっと練習しますので、時間をいただけますか」
「ええ。楽しみにしているわね」
 場が一段落したのを見計らうと、今度は、多賀幸が話を切り出した。
「それと、お二人にご報告したいことが」
 斗眞は、多賀幸の目配せを受け、立ち上がった彼の隣に立った。
 改まった様子の二人を不思議そうに見上げる伊川と椿に、多賀幸は告げた。
「じつは、俺達、付き合っているんです」
 突然の思いもよらない告白に、伊川と椿は、目を丸くした。
「え……、そうなの?」
「なんかおかしいと思ったんだよ~!」
 伊川は、最近の二人の親密さに合点がいったようだった。
「はあ……、今年はいいクリスマスね」
 椿は、しみじみと言う。
「なにが変わるというわけでもないのですが、そういうことで、これからもよろしくお願いします」
 丁寧に頭まで下げる斗眞と多賀幸に、伊川は、ふっと笑って言った。
「そこまで畏まると、まるで結婚の挨拶に来たみたいだよ?」
「えっ」
 斗眞と多賀幸は、二人して頬を赤く染めると、顔を見合わせて笑った。


 斗眞は、マンションへ帰る多賀幸と一緒に、一旦店を出た。
 多賀幸は店先で斗眞へと振り返り、安心したように笑顔を見せた。
「よかったね、斗眞くん。ここでも、お菓子が作れそうで」
「はい」
 頷く斗眞の顔は、晴れやかだった。
「つばめ喫茶で働くことにしたのは、たまたま求人があったタイミングもあるんですけど、ここに一度食べに来てみたら、スイーツがおいしかったからという理由が大きかったんです。自分で作ることはやめても、スイーツからは離れたくなかったのかもしれません」
 幻燈町へ来たばかりの頃の自分が今の自分を見たとしても、信じられないだろうと斗眞は思う。
 それだけ大きな変化のきっかけを、多賀幸は斗眞に与えてくれた。
 そして、多賀幸にとっての斗眞もまた、同じだった。
 多賀幸は、ズボンのポケットに手を入れて言った。
「斗眞くん、車の鍵についていたキーホルダーのことを気にしていたよね」
 そう言われた斗眞は、映画館の駐車場で見た、ピンクの石が付いたクマのチャームを思い出した。
「あ……」
「あれは、返したから」
「……返した?」
 多賀幸はポケットのなかから手を抜くと、握りこぶしをひらいた。そこには、車の鍵があった。鍵にはキーリング以外、なにも付いていない。
 状況が理解できず、斗眞は疑問の表情を浮かべて多賀幸を見上げた。
「ここへ越してくる前に、同僚の小さい娘さんがね、お守りとして貸してくれたものだったんだ。落ち込んでいる俺を見かねて、元気になるまで貸してあげるって」
 多賀幸は、懐かしそうに話す。
「でも、もう落ち込んでいないから。俺は幸せだよって言って、返してきた」
 降り注ぐ明るい日射しが、よりいっそう多賀幸の言葉を際立たせていた。
「……そう、だったんですか」
 斗眞は、やっと、長い間居座っていた胸のつかえが取れた気がした。
「誰のおかげで俺が幸せなのか、わかっているの?」
 ほっとしてぼんやりと多賀幸を見つめていた斗眞に、多賀幸は笑顔で詰め寄る。
「え? ……え? た、多賀幸さん!」
 顔を赤くした斗眞は、答えに困って目を泳がせた。
 そんな斗眞を見つめる多賀幸の眼差しは、やさしい。
「俺、今日は夕方には仕事を終えられると思うんだけど、今日も斗眞くんの部屋に行っていい?」
 自然と出る多賀幸からの申し出が、斗眞にはまだ少しくすぐったい。
 けれど、斗眞が口にしたい返事は、たった一つだ。
「……はい」
 はにかむ斗眞の顔を目に焼きつけ、多賀幸は帰路へつく。
 多賀幸の背中を見送る斗眞の視線は、ただまっすぐと愛しさだけを乗せていた。
 多賀幸の姿が小さくなると、斗眞は軽くなった胸に乾いた冷たい空気を吸い込み、店へと入っていった。
 クリスマスの朝、空は澄みきっていた。



〈終〉




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