幻燈町の恋模様

貴船きよの

文字の大きさ
上 下
18 / 22
斗眞編

4,二人の未練

しおりを挟む

 つばめ喫茶を訪れた客の会話にも、クリスマスの話題がのぼるようになっていた。
 あと十日もすればクリスマス本番で、テレビでもインターネットでも煌びやかな映像が流れ、サンタクロースがあちらこちらに出没している。
 時折そうした話が耳に入り、斗眞は、クリスマスの訪れを楽しみに待つのはいつ以来だろうかと思った。斗眞は、すでに用意した多賀幸へのクリスマスプレゼントを思うと、口元を緩めた。
「多賀幸くん、最近顔を出さないね。風邪でも引いたのかな」
 カウンターのなかでカップとソーサーを棚に戻しながら、伊川は言った。多賀幸は、二週間ほど店に来ていなかった。
「年末進行で、締め切りが立て続けにあるそうです」
「そう言っていた?」
「はい」
「そういえば、去年もこの時期に部屋に缶詰めになっていたな……」
 伊川は思い出したように言うと、眉間に皺を寄せた。
 その日、斗眞が仕事を終えて携帯電話を見ると、多賀幸からメッセージアプリに着信があった。


 晴天に恵まれた火曜日の昼前、斗眞は多賀幸のマンションを訪ねた。
 白いコンクリート壁に青々とした蔦が這う建物の二階に、多賀幸の部屋はあった。
「いらっしゃい、斗眞くん」
「多賀幸さん……、お元気そうでよかった」
 玄関のドアを開けて姿を見せた多賀幸は、笑顔で斗眞を迎えた。
「上がって」
「お邪魔します」
 斗眞は靴を脱いで揃えると、短い廊下を進む多賀幸のあとを追った。
「ちょうど、ゆうべ一つ終わらせてね。少し余裕ができたところなんだ」
 多賀幸はゆるいシルエットのライトベージュのニットを着ていて、外で会うときのイメージと違いラフな格好だった。よく見ると、振り返った多賀幸の目元にはうっすらと隈ができている。
「そうでしたか。……これ、マスターが差し入れを持たせてくれました。サンドイッチです。おしぼりまで付けてくれました」
 ドアがひらかれてキッチンへ到着すると、斗眞は、手に提げていたトートバッグを少し持ち上げて見せた。
「今日って、定休日だよね?」
「自分達のランチのついでだからと言っていました。照れ隠しだと思いますけどね」
「つばめ喫茶に寄ってから来てくれたんだ」
「マスターも椿さんも、多賀幸さんのことを気にかけていましたよ。それと、これは僕から……、野菜ジュースと、甘いものを少し」
 トートバッグのなかを見せながら、斗眞は多賀幸へ渡した。
「ありがとう」
 多賀幸は、トートバッグに込められた想いを、受け取った重さ以上に感じた。
「斗眞くんは、飲み物はなにがいい? 今、カフェオレを飲もうと思ってコーヒーを淹れていたんだ。そのままでもいいし、コーヒー以外にはりんごジュースもあるよ」
「それじゃあ、僕もカフェオレをお願いします」
「OK。できるまで、ソファーへどうぞ」
 斗眞は多賀幸に促されてキッチンを離れたが、不意に鼻をかすめた古びた匂いに立ち止まった。人の匂いともコーヒーの香りとも違う、独特の匂いだった。
 個室へのドアは閉まっていた。それでベランダのあるほうへと視線を向けると、斗眞は驚いて、口をぽかんと開けたまま立ち尽くした。
 リビングの壁一面に、天井に届きそうな高さの本棚が連なっていた。そこには本が隙間なく並び、背表紙に記されたタイトルから、主に美術関連の本であることが見て取れる。テレビは置かれておらず、本だけが壁際を占めていた。
「気になる本でもあった?」
 多賀幸は、コンロにかけた小鍋に牛乳をあけて言った。
「というより、すごい量だな、と……」
「これでも、引っ越してくるときに減らしたんだけどね。仕事に必要なものはどうしても手放せなくて」
「仕事の本なんですか?」
「そう。いつもの雑誌の仕事は長いから、編集長にも融通が利いて色んな記事を書かせてもらっているけど、専門は現代美術なんだ。本も書くし、美術展のパンフレットに解説を載せてもらったりもしているんだよ」
「そうだったんですか……」
 匂いの正体に納得し、本棚の“美術史”や“インスタレーション”といった文字を目で追いながら、多賀幸についてはまだまだ知らないことがあるのだと、斗眞は思った。
 ローテーブルの上にサンドイッチとカフェオレが揃うと、斗眞と多賀幸はソファーに並んで座った。
 ほんのり甘いカフェオレと、たっぷりの卵と野菜のサンドイッチを頬張り、二人は会えない間に起きたたわいない近況を報告し合った。電話を遠慮していた斗眞にとって、待ち焦がれていた多賀幸との時間だった。
「せっかくの休みなのに、来てくれてありがとう。斗眞くんの顔を見たら、なんだかほっとした」
「僕も、会いたかったんです」
 ストレートに示される斗眞の好意に、多賀幸は笑みがこぼれる。
「来ないとわかっているのに、もしかしたら、ふらっと多賀幸さんが来るかもしれないって、お店にいるときに考えていました」
「俺も、何度もつばめ喫茶に行きたい誘惑に駆られた。念が通じたのかな」
 さらっと投入された冗談に、斗眞は笑って言った。
「僕だけじゃなく、マスターも寂しがっていると思いますよ」
「マスターが?」
「だって、マスターは多賀幸さんのことを後輩みたいに可愛がっているのが、見ていてわかります」
「ふふっ、後輩か。たしかに」
 マスターの顔を思い出すと、多賀幸はなにかに気づいたように言った。
「そうだ。ねえ斗眞くん、マスターは幻燈町の出身なんだっけ?」
「そうだと思いますけど……、それがなにか?」
「俺が幻燈町にいると知った人から、仕事の話が来ているんだよね。あの噂について書いてくれないかって」
 あの噂という言い方でも、斗眞は町に伝わる迷信のことだとすぐに気づいた。それは、多賀幸には元恋人との未来を期待させた迷信だった。
 気にしないようにと努めていたが、多賀幸からその話をされると、斗眞は心が乱れた。
「俺の守備範囲じゃないから、仕事を受けるかどうかは迷っているんだ。噂の発端は、昔の観光事業だろうと言われているらしいんだけど、根拠ははっきりしないし、調べてみたい気もするんだよね。マスターはなにか知っているのかな」
「それは、マスターに訊いてみないと……」
 斗眞の声のトーンが落ちたことに、多賀幸は気づいた。
 斗眞はそのまま静かに、けれど思い切って訊ねた。
「多賀幸さんは、その迷信を信じて、……幻燈町に来て、なにか変わりましたか?」
 思いつめたように視線を逸らさずにいる斗眞を見て、多賀幸は質問の意味を察した。斗眞は、多賀幸の心に、まだ昔の恋人がいると思っているのだった。
「……斗眞くんには、俺の過去を話していたんだったね」
 多賀幸の次の言葉を待たずに、斗眞は言った。
「多賀幸さん」
「うん?」
「僕は、多賀幸さんが変わらなくても、構いませんから。それでも、僕の気持ちは変わりません。……それだけは、言っておきたくて」
 優柔不断な状態に長く浸かっていた多賀幸には、斗眞から与えられる明瞭な気持ちは眩しく感じられた。そして、今改めて、彼は目を覚ますための光をくれたのかもしれないと思う。
 多賀幸は、朗らかな様子で言った。
「それがね、つい最近、変わったんだ」
 斗眞は、疑問を浮かべて多賀幸を見つめた。   
 多賀幸は言った。
「昔のことについては、今どう感じているのか、自分でもよくわからなかったんだ。……いつも、同じような場面ばかりを繰り返し思い出していた。でも、それ以外のことは、思い出すこともないくらい、とっくに遠い過去になっていたんだ。俺は前に進むのが怖くて、自分で自分に進めない言い訳を言うために、わずかな思い出に縋っていただけだった」
 そう話す多賀幸には、すがすがしさすら感じられる。
「もう、過去に執着しなくても平気だとわかったんだ。わかったのは、斗眞くんのおかげだよ」
 斗眞は、知らない間に起きていた多賀幸の変化に戸惑いながらも、はっきりと言葉に表された気持ちには安堵した。
 多賀幸は、レースカーテンの向こうに広がる明るさに目を向けて言った。
「幻燈町はどんな記憶にも出会える町というけど、過去のことにとらわれたり、未来に怯えたりすると、進めなくなってしまうよね。ここに来てからのほうが、自分と向き合わざるを得なくなったよ」
 迷信の核心に触れる話になると、斗眞は一転して険しい顔つきになった。
「僕は、その迷信は嫌いです」
 珍しく語気を強めて、斗眞は言った。
「できれば、その話はやめてもらえませんか。……僕は、忘れたいことがあってここまで来たんです」
 耳にしたくない話が続くかと思うと黙ってやりすごせず、斗眞は嫌悪感を露わにした。
 すると、多賀幸は訊ねた。
「忘れたいことって、前の仕事のこと?」
「――え?」
 なにも知らないはずの多賀幸に言い当てられ、斗眞は狐につままれたような面持ちになった。
「ごめん。マスターに聞いてしまったんだ。斗眞くんが、椿さんの手伝いを頼まれていたときに」
 斗眞は、隠しても無駄であることを悟ると、反発することを諦めた。
 そして、力なく告げた。
「そうでしたか。じゃあ、ご存知だったんですね。……僕が、パティシエだったこと」



 斗眞が多賀幸から受け取ったカップには、注がれたばかりのコーヒーが湯気をのぼらせていた。
「お菓子を作ることが好きだったんです。すごく」
 多賀幸がソファーに座ると、斗眞は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「子どもの頃、買ってもらったバースデーケーキに魅了されて、ケーキの絵を描いて、研究ノートを作っていました。自分で作れるようになってからも、色んなお店のお菓子を食べて、自分なりに作ってみて、喜んでもらえて、楽しかった。……でも、仕事になったお菓子作りは、違いました。僕には、技術も体力も足りなくて。これは仕事にしてはいけなかった、僕が好きだったお菓子作りは、ただの趣味だったんだと、思いました」
 多賀幸は、斗眞の横顔を見つめながら、黙って聞いていた。
「それを思い知らされたのが、クリスマスです。ただでさえ早朝から深夜まで働きづめの毎日で、そこへクリスマスケーキの注文が加わると、お店のキャパシティはパンク寸前でした。そんなときに、僕は過労で倒れてしまったんです。でも、休むわけにはいきませんでした。一人が休めば、ほかの人への負担がさらに大きくなります。そのことがあって……これが来年も続くとしたら、自分にはやっていけないんじゃないかと思うようになりました」
 話しながら、斗眞は胸がしくりと痛んだ。灰色に見えた厨房の景色が、昨日のことのように感じられていた。
「それで、パティシエになって二年目のクリスマスが来る前に、辞めたんです。パティシエといっても、新人で、二年にも満たなかったんですよ。それももう、五年前の話です」
 過去の話であることを強調したものの、話し終えた斗眞の表情は曇ったままだった。
「それで、お菓子を作ることもやめてしまったの?」
 斗眞を責めるわけではなく、単純な疑問として多賀幸は訊ねた。
「作ろうとしても、作れなかったんです。好きなはずなのに、作る意欲が湧いてこなくなって……。そのうち、考えるのも苦痛になって、製菓用の道具はすべて捨てて、今後は一切、お菓子作りとは関わらずに生きていこうと決めました」
 当時の落胆を滲ませた斗眞は、ふと笑って言った。
「今でもパティスリーを見ると苦しくなるので、メインストリート沿いのパティスリーの前を通ることは避けていたんです。あそこにパティスリーがあることには、気づかなかったんです。どのお店も同じような外観ですから。気づいていたら、ほかのアパートを探したんですけどね」
 綻んだ唇を再び結んで、斗眞はカップに視線を落とした。
「これ以上、好きになったものを嫌いになるのは、いやなんです」
 斗眞が口をつけたコーヒーは、甘みよりも苦みが際立って感じられた。
 包み隠さず話してしまうと、すべては終わったことで、自分にはすでに関係のない出来事のようにも思えた。
 しかし、多賀幸はそのようには思っていなかった。
「これは、俺の勘違いかもしれないけど」
 多賀幸は、前置きをして言った。
「斗眞くんは、お菓子を作ることを嫌いになったことはなかったんじゃない?」
 多賀幸の言葉に、斗眞は目を見開いた。
「むしろ、ずっと好きだった。未練があるっていうのは、そういうことだよね」
「未練……? 未練なんて、ありませんよ。僕はもう二度と……」
 斗眞は、思い当たる節のない話を、慌てて否定した。
「じゃあ、どうして、五年も前のことを引きずっているの?」
 核心へとまっすぐ突き刺さった問いに、斗眞の目は泳いだ。けれど、斗眞自身、その理由は理解していた。
「……わかっています。僕は、不甲斐なかった自分自身を許せないんです」
 もっと僕がしっかりしていれば――何度そう思ったかわからない。
 せっかく夢を手にしても、それを最後まで自分のものにすることができなかった。
 落ち込む斗眞のことを、多賀幸は他人事とは思えなかった。
 多賀幸は、コーヒーに口をつけてから言った。
「斗眞くん。これは、俺も過去に決着をつけたから思えるようになったことだけどね。過去の自分は、何歳でも、今より幼いし未熟だ。だから、どこかで許していいと思うんだ。無知だった子どもを許すみたいに。……前に進むためには、その勇気が必要なこともあるんじゃないかな」
「許す……? 許すなんて、今更、どうすればいいのかわかりません」
 斗眞は、夢にも思わなかった提案に困惑した。
「昔の斗眞くんが許されるのだとしたら、斗眞くんは、今どうしたい? なにをすると思う?」
 もしも、あの頃の自分が許されるのだとしたら――。
 そう思った斗眞は、頑なに封じ込めていたはずの情熱が、くすぶる感覚をおぼえた。
「そんなこと、考えたこともありませんでした。だって、僕には、もうなにも……」
 動揺する斗眞を見て、多賀幸は確信を持って言った。
「俺は、斗眞くんのは捨ててはいけない未練だと思うよ。斗眞くんがまだお菓子を作りたいのだとしたら、それは自分自身に向かう欲求だ。そういうものを、捨ててはいけないよ」
 穏やかに諭す多賀幸を、斗眞は見ていられなかった。
「でも、僕、五年も作っていないんですよ。作り方なんて、忘れてしまいました」
 これまでぶれずにいたはずの決意が揺れ始めたことに抗うように、斗眞からは言い訳が口を衝いて出る。
「また、一から覚えるのでは、だめなの?」
「一から……」
 その瞬間、できるのだろうかという不安と、できるかもしれないという希望が、斗眞の心の奥底で同時に湧いた。
 それからの、斗眞の沈黙は長かった。ここで自分を許してしまえば、製菓から離れていた五年もの月日を無駄にした現実を突きつけられる。けれど、淡いながらも胸にひろがった創造的な衝動は、ゆるやかに体の隅々へと行き渡り、カップを包む指先にまで伝わっていった。
 多賀幸は、その時間を共に過ごしながら、ゆっくりとコーヒーを味わっていた。
 コーヒーの湯気がすっかり消えた頃、斗眞は口をひらいた。
「多賀幸さん」
「なに?」
 斗眞は、多賀幸の目を見て言った。
「もしも、僕がクリスマスケーキを作れたら、多賀幸さん……、食べてくれますか?」
 多賀幸は、迷いを脱したであろう斗眞の覚悟に、頬を緩ませた。
「もちろんだよ」
 斗眞は、急激に視界がひらける思いがした。そして、ひらけた先には、見失っていた目的が立ち現れた。
 二人でコーヒーを飲み終えると、斗眞は予定よりも早く帰宅することにした。
「多賀幸さん、ごちそうさまでした。お邪魔しました」
「斗眞くん」
 斗眞が玄関を出ると、多賀幸は右手をすっと差し出した。
「え?」
 多賀幸に促され、斗眞も右手を差し出すと、多賀幸は斗眞の手を捕まえ、きつく握った。そして、
「頑張れ」
 と言った。
 やさしくも力強いたった一言の声援が、斗眞の胸に響いた。
 斗眞は、はっきりとは答えられないまま曖昧に笑みを浮かべて、小さく頷いた。

 アパートへ戻る前に、斗眞はスーパーマーケットへ寄った。
 躊躇いはあった。
 一度は捨てたホイッパーやケーキ型に手を伸ばすだけで、やけに緊張していた。携帯電話で確認しながらケーキの材料を買い物籠に投入していると、本当に作れるのだろうかという不安が何度も頭をもたげた。
 アパートへ帰った斗眞は、真っ先にクローゼットを開けた。収納ボックスや旅行鞄を外に出し、一番奥に押しやられていた紙袋を取り出す。
 紙袋のなかから出てきたのは、専門学校時代から使用していた分厚い二冊のノートだった。ノートをひらけば、斗眞の字で菓子に関するメモや絵が記されている。
「よかった……、捨てていなかったんだ」
 斗眞はページをめくりながら、懐かしい友人と再会したかのような安心感に満たされていくのを感じた。
 エプロンをつけた斗眞は、狭い調理台に、ショートケーキの材料と洗った道具を並べた。
 いざケーキを作ると思うと、それらに触れるのもこわかった。
 斗眞は、勤めていた店で倒れた日の、意識が遠退き、全身から力が抜けた瞬間を鮮明に憶えていた。
 早朝から卵割りやフルーツの皮むきといった下拵えを済ませ、開店時間が迫ると、考える余裕もないほどに次から次へと割り当てられた作業をこなした。
 それを捌いていった同期や先輩達と、追いつけなかった自分。おまえにはできないのだと烙印を押されたような気分が、後味の悪さと共に甦る。
 しかし、挫けそうな記憶を打ち消すように、斗眞の脳裏には多賀幸の顔が浮かんだ。
 ――頑張れ。
 多賀幸と握手を交わした右手には、今も温もりが残っているように感じられた。
 右手を握りこぶしにし、斗眞は、今ならできるかもしれないと思った。
「今なら、今日なら……」
 強張っていた体を深呼吸で緩ませ、斗眞は腹を決めた。
 斗眞はケーキ型の準備を済ませると、薄力粉や砂糖など、ひとつひとつの材料を計量した。卵を溶きほぐし、砂糖を混ぜ、湯煎にかけ……手順どおりに手を動かしていくものの、動作はどこかぎこちない。それでも、斗眞はノートを見返しながら、培ったはずの経験を呼び起こそうと懸命だった。
 ホイッパーからハンドミキサーに持ち替え、白みを帯びたきめ細やかな卵液が出来上がると、斗眞には、何度も注意深くチェックしていた工程だったことが思い出される。
 今度は、そこへふるった薄力粉を合わせた。ゴムベラで返すたねの重さ、スナップを利かせる手首の感覚、卵と薄力粉の合わさった香り――。
 すると、斗眞は、作業にだんだんと馴染み深さを感じるようになった。
 初めてケーキを作るような緊張感に包まれていたことが嘘のように、この作業を知っているという感覚が、全身で弾けるように目覚めた。
 知らないはずはなかった。
 母親の手を借りながら自分の手でバースデーケーキを作った幼い日から、数えきれないほどの菓子を作ってきたのだ。
 斗眞は、手を止めた。
 斗眞の目からは、溜まった涙が一粒、調理台へとこぼれ落ちた。
「忘れていなかった……」
 葬り去ったと思っていた過去が自身のなかで生き続けていたことに、斗眞はようやく気づいた。
 子どもの頃から見てきたかけがえのない景色と向き合いながら、斗眞は手の甲で涙を拭う。
 五年という月日を無駄にしたことなど、もはや問題ではなかった。
 斗眞は、目の前の作業を進めることを、ただ楽しんでいた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

催眠アプリ(???)

あずき
BL
俺の性癖を詰め込んだバカみたいな小説です() 暖かい目で見てね☆(((殴殴殴

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

【完結】相談する相手を、間違えました

ryon*
BL
長い間片想いしていた幼なじみの結婚を知らされ、30歳の誕生日前日に失恋した大晴。 自棄になり訪れた結婚相談所で、高校時代の同級生にして学内のカースト最上位に君臨していた男、早乙女 遼河と再会して・・・ *** 執着系美形攻めに、あっさりカラダから堕とされる自称平凡地味陰キャ受けを書きたかった。 ただ、それだけです。 *** 他サイトにも、掲載しています。 てんぱる1様の、フリー素材を表紙にお借りしています。 *** エブリスタで2022/5/6~5/11、BLトレンドランキング1位を獲得しました。 ありがとうございました。 *** 閲覧への感謝の気持ちをこめて、5/8 遼河視点のSSを追加しました。 ちょっと闇深い感じですが、楽しんで頂けたら幸いです(*´ω`*) *** 2022/5/14 エブリスタで保存したデータが飛ぶという不具合が出ているみたいで、ちょっとこわいのであちらに置いていたSSを念のためこちらにも転載しておきます。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

大学生はバックヤードで

リリーブルー
BL
大学生がクラブのバックヤードにつれこまれ初体験にあえぐ。

処理中です...