幻燈町の恋模様

貴船きよの

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斗眞編

3,秘めた想い

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 斗眞と見晴らし台へ行ったあと、彼をアパートまで送り届けてから、多賀幸は帰宅した。
 マンションに帰ってきてからというもの、多賀幸はコートも脱がずにソファーに座り、掌におさまる車の鍵を眺めていた。
 キーリングに付いた、ピンクの石が嵌められたクマのチャームを指先で弄りながら、ため息がひとつ漏れる。
 多賀幸は、これまで過去と共に天秤にかけるものがなにもなかった。だから、重たく心に居座る過去が風化して軽くなるのを待つしかないと思っていたし、それでも構わなかった。
 それが、斗眞の告白により、突如として新しい風が吹き込んだ。
 多賀幸は同性を好きになったこともなければ、同性から告白を受けることも初めてだった。違和感なく告白を受け入れられたことが自分でも不思議だったが、それは相手が斗眞だったからだといえる。
 そして、そう思えたこと自体が、多賀幸に過去への執着が薄れていることを自覚させた。
 多賀幸の迷う指は、キーリングからクマのチャームを取り外した。それをローテーブルへと置くと、静かな部屋に、コトリという金属音が微かに響いた。
 ――元気が出るまで、貸してあげるね。
 それは、小さな天使が、多賀幸に貸してくれたお守りだった。
 同業者だった元恋人とは、よく仕事の話をした。意見が違うこともあったが、お互いを刺激し合えるいい関係だと思っていた。しかし、彼女の仕事への熱意は、多賀幸が思う以上のものだった。
 多賀幸は過去を振り返ると、元恋人の存在を引きずっているのか、はたまた振られた悲しさを引きずっているのか、確固たる答えを見つけあぐねてしまう。
「……まだ、大丈夫だと言える自信はないけど」
 混乱する思考のなかに、告白してくれた斗眞の顔が思い浮かんだ。
 一生懸命に想いを伝えようとしてくれていた斗眞の姿を思い出すと、それは、多賀幸が今向き合うべきものが過去ではないことを教えてくれているような気がした。


 ある平日、閉店時間間際のつばめ喫茶に多賀幸の姿があった。
「多賀幸くん、今日はコーヒーだけでいいのかい?」
 カウンターのなかで、伊川が訊ねた。
 カウンター席の多賀幸は、まだコーヒーで満たされているカップを置いて言った。
「はい。帰りに、斗眞くんの家にお邪魔するので」
「夕食をご馳走する約束なんです」
 斗眞は、すかさずフォローを入れる。
「早月くんの家で? ふうん」
 伊川は、二人がいつの間にか親しくなっていることに内心驚いて言った。
 厨房から暖簾をくぐって出てきた椿は、店の掛け時計を見て言った。
「それで、この時間なのね」
 時計は、六時の十分前を示していた。
 伊川は言った。
「ちょっと早いけど、店じまいを始めようか」
 夏であれば明るい夕方に観光客の姿もあるが、とっぷりと日が暮れ寒さが襲う冬のこの時間には、多賀幸以外の客はすでにいなかった。
 椿が外へ出ようとすると、斗眞が制して声をかけた。
「椿さん。看板は、僕がしまいますよ」
「そう? ありがとう、早月くん」
「椿さんは、これから明日の仕込みもあるじゃないですか」
 斗眞がそう言うと、椿は含みのある笑顔で言った。
「そうよね。だから……早月くんも手伝ってくれると、助かるんだけどな?」
「え……」
「お給料も、上乗せするよ」
 話が耳に入った伊川も、斗眞に期待の眼差しを向けている。
 多賀幸はただ一人、話に入っていけずに事の成り行きを見守っていた。
 三人の視線を一度に注がれた斗眞は、
「僕には全然務まりませんよ。ついでに、駐車場の見回りもしてきますね」
 と困ったように笑顔を浮かべ、慌てて外に出て行ってしまった。
 椿は伊川と顔を見合わせて苦笑し、厨房へ戻る。
「椿さんは、斗眞くんになんの手伝いをお願いしていたんですか?」
 多賀幸は伊川に訊ねた。
 伊川は、布巾をたたみながら答えた。
「店のスイーツを作る手伝いだよ。俺は軽食やまかないは作れても、スイーツはからっきしなんだよね。早月くんには何度かお願いしているんだけど、なかなかOKを貰えないんだ」
「へえ……」
「多賀幸くんは、ゆっくり飲んでいてね」
「はい」
 それから、多賀幸は斗眞が上がるまで待ち、二人揃ったところでつばめ喫茶を出た。
 冷たい風が頬を撫で、二人は肩をすぼめる。
 店の目の前の道へ出てすぐ、斗眞が自分とは真逆の方向へ歩き出したので、多賀幸は斗眞を呼び止めた。
「斗眞くん、どこへ行くの?」
「え?」
「アパートなら、メインストリートから回っていくほうが近いよね」
 斗眞は日頃の癖で、遠回りをするルートで帰ろうとしていた。多賀幸の言っていることはただしく、斗眞は自分の不自然さを誤魔化すため、咄嗟に言い訳を考えた。
「き、気分転換で、色んな道から帰っているんですよ。今日は、そっちにしますか?」
「そのほうがいいんじゃない?」
「そう、ですね……」
 二人が歩いて行くと、五分もしないうちに車のライトが行き交うメインストリートへとぶつかった。
 白い壁と黒い屋根の建物が続く一帯は、夜になると、どういった店があるのかはわかりにくかった。そんな商店街でも、夜は店内の明かりがなかの様子をくっきりと映し出し、昼とは違う華やかな表情を見せる。
「クリスマスケーキか」
 斗眞は、隣を歩く多賀幸が突然呟いたことで、びくりとした。
 ちょうど洋菓子店の前を通りかかり、多賀幸の視線の先には、クリスマスケーキのポスターが貼られていた。
 店の窓からは、ショーケースに並ぶ様々なケーキも色鮮やかに覗く。
「そういえば、斗眞くんのクリスマスの予定は?」
「普通どおり、仕事です」
「俺も昼間は仕事だから、夜なら会えるかな。クリスマスケーキを買っていこうか」
 斗眞は、少し考え込んで、言葉を選びながら答えた。
「ケーキは……、二人だと、食べきれないんじゃないですか」
「ああ、小さいサイズじゃないとだめかな。ああいうのって、予約しないといけないんだっけ。じゃあ、定番のチキンとかかな」
 今度は、斗眞も乗り気になって賛同した。
「いいですね。僕も、なにか用意します」
 今年はクリスマスを一緒に過ごす人がいるのだ、と斗眞は思った。
 体の芯まで冷えるような空気で、吐く息は白いが、隣にいるのが多賀幸だと思うと寒さも和らぐ気がした。
 しかし、多賀幸と付き合うことになったといっても、斗眞はまだ手を繋いだこともなかった。並んで歩いていて、繋ごうと思えば繋ぐことはできる。あたりは車の通りはあるものの、正面から来る人の気配はない。
 自分から手を伸ばしていいものか……。大人になってからこんなことで悩むなんて十代に戻ったようだと、斗眞は多賀幸の手を眺めながらため息が出そうになった。
「斗眞くん」
「は、はいっ」
 考え事から現実に引き戻された斗眞に、多賀幸は言った。
「手を、繋いでもいいかな」
 心を読まれたのではないかと思えるタイミングに、斗眞は息を呑んだ。
「アパートまで、少しの間だけど」
「はい……」
 多賀幸の冷たい手は、躊躇うことなく斗眞の手をすくい取る。
 鼓動の高鳴りで胸を熱くしながら、斗眞は多賀幸の掌のやわらかい感触を感じた。
「ここを曲がるんだよね?」
「そうです」
 多賀幸の表情はこれといって変わりなく、斗眞は、自分だけが男性に慣れていない彼を意識しているように思われた。
 しばらく歩くと、道の反対側から、歩いてくる革靴の足音が近づいてきた。
「多賀幸さん、人が来ますよ……」
 斗眞は、多賀幸を気遣って言った。男同士で手を繋いでいるところを、気づかれないほうがいいだろうと思ってのことだった。暗いとはいえ、街灯の下であれば、自分達の関係は目を凝らさずとも見えてしまう。
 ところが、多賀幸は斗眞の手を離さないように指を絡め、ぎゅっと握って言った。
「やましいことをしているわけじゃないんだし」
 斗眞が驚きをもって多賀幸を見ると、
「ね」
 とだけ言って、彼は微笑した。



「すぐに作るので、待っていてくださいね。テレビのリモコンは、これです」
 斗眞はそう言って、テレビの前にあったリモコンをテーブルの上に移した。
「ありがとう」
 斗眞がキッチンへ行くと、部屋に一人残された多賀幸は、ラグの上に座ったまま七畳ほどの部屋を見回した。
 ベランダ側の窓際にベッドと観葉植物が置かれ、テーブルの前には、ローボードに載った大きくはないテレビと、その横に小さいチェストがある。それら以外は、部屋を飾るものや収集されたようなものもなく、こざっぱりとしていた。
 多賀幸は、しばらく自分の携帯電話のチェックをしていた。しかし、それも長い時間はかからず、手持ち無沙汰になった多賀幸はキッチンを覗いた。そして、斗眞の姿を見て、思わず話しかけた。
「家でもエプロンをつけるんだね」
「多賀幸さん。……昔からの習慣で」
 ベージュのシンプルなエプロンをつけていた斗眞は、調理の手を止めずに多賀幸を一度だけ振り返った。
「エプロンをつけている姿っていいね」
「お店でもつけていますよ」
「接客用じゃなくて、俺のためにご飯を作ってくれるっていう感じがいいの」
 突然耳元で聞こえた多賀幸の声に、斗眞はどきりとした。
 多賀幸は、いつの間にか斗眞の背後に立っていた。
「……作ろうとしているのに、なんで、ぴったりくっつくんですか」
 斗眞は固まり、包丁を握っていた手も止まる。
「二人っきりだし」
 斗眞より上背のある多賀幸は、斗眞の肩越しに調理台を覗いた。
「ど、どうしたんですか、多賀幸さん? あ……、テレビは?」
 隣の部屋は無音で、テレビがついていないことは明らかだった。
 斗眞は、多賀幸の顔が近くにあるだけで耳まで赤くなっていた。
「……ふふっ。可愛いんだね、斗眞くんって」
「な、なにがですかっ! もう、ご飯が出来るまでそっちの部屋で待っていてくださいっ」
 斗眞は包丁を置いてタオルで手を拭うと、
「なにか手伝うことはない?」
 と訊ねる多賀幸に、強気で言った。
「今日は、色々とお礼を兼ねているので、多賀幸さんはゆっくりしていてください!」
「そうですか。わかりました」
 部屋へと押し戻された多賀幸は、笑ってそう答えた。
 テレビのチャンネルを変える音が聞こえてくると、斗眞は胸に手を当てて落ち着こうとした。
「びっくりした……」
 今日の多賀幸は、急にどうしたのかと戸惑うほどに、距離が近い。
 それは嬉しいことであるはずなのに、斗眞にはどこか喜びきれない自分がいるのも事実だった。
 斗眞には、ある不安がいつまでも付きまとっていた。
 もしも女性と同一視されていたら、同じものを求められでもしたら、その違いに引かれてしまうのではないか――。その不安の根底にあるのは、多賀幸には未だに元恋人への気持ちが残っているのではないかという思いだった。
 多賀幸はというと、テレビはつけたものの、そこに視線は注がれていなかった。
 キッチンから聞こえる、包丁がまな板を叩く音や油の撥ねる音を聞きながら、ぼんやりと天井を眺めていた。その表情は、なにか憑き物が落ちたようにすっきりとしていて、ひとつ深呼吸をしたのちには、穏やかな笑みに変わった。

「リクエストをいただいた、豚肉の生姜焼きです」
 多賀幸の前には、ご飯と味噌汁と共に、千切りキャベツとミニトマトが添えられた豚肉の生姜焼きが並べられた。
「おかわりもあるので、たくさん召し上がってくださいね」
 そう言って斗眞も座ったが、多賀幸は、テーブルに一人分だけ置かれた料理を見て言った。
「食べていいの? 斗眞くんの分は?」
「へ? あっ! 自分の分……」
 斗眞は、言われてやっと自分の分の食事を用意していないことに気づいた。
「多賀幸さんにということだけで、頭がいっぱいで……」
「お店ではミスしているところなんて見ないのに」
 多賀幸は柔和な笑顔を見せると、
「一生懸命になってくれたんだね」
 と言った。
「あ……、先に食べていてください」
 斗眞は恥ずかしさのあまり目線を逸らし、キッチンへと立った。
 斗眞が自分の分をよそってキッチンから戻ると、多賀幸は食事に箸をつけずに待っていた。
 テレビが消されている静かな部屋で、二人は手を合わせた。
「いただきます」
 多賀幸は味噌汁を音を立てずにすすり、豚肉に箸を伸ばして頬張った。
「うん、おいしい」
「ありがとうございます」
「誰かに食事を作ってもらうなんて、いつ以来だろうな。俺、実家にもあまり帰っていないから」
 多賀幸は、テーブルに並んだ食事を見てしみじみと言った。
「そうなんですか。僕も、家で誰かとご飯を食べるのは久しぶりです」
「これからも、時々一緒に食べようか。俺も作るよ」
 斗眞は、多賀幸から提案されたことが嬉しかった。
「はい」
 これでも十分なのだと、斗眞は感じた。多賀幸に自分と同じ熱量の気持ちを求めるのは欲張りすぎるし、悩んでいる時間が勿体ないほどに好きだった。
 今、自分の目の前にいるのは誰なのか。二人の目には、お互いの姿が色濃く映っていた。


 帰宅した多賀幸は、出かける前と変わらない部屋を眺め、リモコンでエアコンの電源を入れた。
 コートも脱がずにソファーに腰掛けると、ローテーブルの端に、車のキーリングから外してそのままになっていたクマのチャームが視界に入った。
 エアコンの静かな稼動音が響くなか、多賀幸はそれを見つめていた。
 ほんの数分間のことではあったが、多賀幸にとって長く感じられた逡巡の時間を経て、彼はコートのポケットから携帯電話を取り出した。
 電話をかけ、呼び出し音が途切れると、男性の声が応対した。
「夜分にすみません。多賀幸です。……じつは、今度東京へ行ったときに、お返ししたいものがあるんです」
 そう話す多賀幸の横顔は、芯が定まったように、凛としていた。




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