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斗眞編
1,彼の事情
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アパートからつばめ喫茶までは、メインストリートに出て洋菓子店を曲がれば、歩いて十五分ほどだった。
しかし、斗眞はあえて遠回りをして通勤していた。
それが、この五年繰り返してきた日常だった。
斗眞にとってまったく馴染みのなかったこの町も、今では自分の住む町だと言える。
ハロウィンが終わったあとのこの時期になると、住宅の出窓に現れるサンタクロースのガーランドやパン屋のドアに飾られるクリスマスリースは、毎年お決まりの光景だった。
斗眞が引越しを決めたとき、知らない町ならどこでもよかった。
ただ一つ誤算だったのは、幻燈町には“どんな記憶にも出会える”という迷信が存在することだった。
――この町に住んでいると、長い間忘れていた昔のことを思い出したり、未来のことが見えてしまう、なんていう人もいるんだよ。
つばめ喫茶のマスター・伊川が自慢げにそう話したとき、斗眞は心の底で、冗談じゃないと思った。忘れたい記憶から離れたくて引っ越してきたのに、その記憶が存在し続けると言われているようで、たまらなかった。
それから斗眞は、その迷信を自分の都合のいいように利用することにした。
過去にとらわれているのは、この町の不思議な迷信のせいなのだと。なにを思い出しても、不思議な町のせいなのだと。
1,彼の事情
「そろそろクリスマスツリーを出そうか」
開店直前、カウンターのなかから伊川が言った。
「そうですね。もう十一月も半ばですしね」
斗眞は、カウンターテーブルを拭きながら言った。視界に入ったレジカウンターは秋の様相のままで、どんぐりを持つリスの置物が置かれている。
「公輝くん、今年はオーナメントを変えようって言っていたのはどうなったの?」
表に立て看板を出して戻ってきた妻の椿は、格子戸を閉めて言った。
「そんなことを言ったっけ?」
「あれ、もう古くなっていたでしょう? 色褪せてきて、見映えがわるいわ」
「ああ、そうだったな。でも、次の定休日は釣りの約束があるから、買いに出る時間はないな……」
「私も美容院の予約を入れてあるの。そのあとで友達に会うし……」
椿がかぶる黒いキャスケットからは明るいブラウンのショートヘアが伸び、耳たぶには椿の花を連想させる真紅の珊瑚のピアスが覗く。
伊川は、楽観的に言った。
「まあ、遅くなってもいいんじゃないか」
「そんなことを言って、すぐに十二月になるわよ。もっと早く気がつけばよかったわね」
「ネットでは買えないの? いつもの店で買うんだろう?」
「それが、ネットショップだけ休業中になっているのよ。あそこのお店のものなら間違いないんだけどな。どうしよう……」
椿は、テーブル席に移動して拭き掃除をしていた斗眞をちらりと見やった。その視線には、懇願の思いが宿っていた。
視線を感じた斗眞が顔を上げると、目が合った椿は、両手を合わせて申し訳なさそうに言った。
「早月くん! 次の定休日に、お遣いを頼まれてもらえないかしら」
二人の会話が耳に入っていた斗眞は、いやな顔ひとつせず笑顔で答えた。
「僕でもよければ、構いませんよ」
「本当? ありがとう! 助かるわ」
椿は、喜んで言った。
「いいのかい? わるいね、休みの日に」
「いいえ。休みは、どうせ暇なので」
それは事実で、日頃から二人には世話になっていることもあり、斗眞としては頼みごとの一つや二つは引き受けたい気分だった。
斗眞は訊ねた。
「いつものお店って、どこにあるんですか?」
「二つ隣の、東加駅の近くよ。品揃え豊富な雑貨屋さんなの」
「どんなものがいいんでしょう」
斗眞に訊ねられ、伊川と椿は改めて考えた。
「そうね、シンプルでオーソドックスなものがいいかしら。子どもっぽくないものがいいわね」
「そうだな。早月くん、それでよろしく頼むよ」
「迷ったら、ボールだけ買ってきてくれればいいから」
「了解しました」
斗眞は、快く承諾した。
そのときだった。静かに格子戸を引く音と共に、ドアベルがリンと鳴った。
「こんにちは。もう開いています?」
そう言ってさわやかな表情を見せたのは、青みがかったグレーのコートに黒のマフラーを巻いた多賀幸航平だった。
「いらっしゃい、多賀幸くん。ちょうど開店時間ぴったり」
「いらっしゃい」
伊川と椿に続いて、彼の顔を見た途端に華やいだ斗眞の声が続く。
「多賀幸さん! いらっしゃいませ」
揃いのキャスケットに白いシャツ、黒いエプロンをつけたつばめ喫茶の面々に迎えられ、多賀幸はカウンター席に着いた。
「コーヒーと、いつものをください。甘いものが欲しくて」
「チーズケーキね。了解」
椿が厨房へと藍染めの暖簾をくぐると、斗眞も椿のあとに続き、手際よく水とおしぼりをトレーに用意する。
多賀幸はマフラーをほどきながら、伊川に言った。
「寒くなりましたね」
「ねえ。つい先週までは暖かかったのに」
伊川は、コーヒーを淹れる準備に取り掛かる。狭いカウンターがより狭く見えるのは伊川が大学時代にラグビーをやっていたからで、今ではいくらか痩せたものの、当時の体型の面影が残っていた。
「冬のブレンドはいつからですか? 俺、あれが好きなんですよ」
「嬉しいね。来週からの予定だけど、前倒しで始めようかな」
多賀幸はマフラーと脱いだコートを椅子の背もたれに掛けると、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
「お水とおしぼりは、こちらに置きますね」
「ありがとう」
斗眞が、水の入ったグラスとおしぼりをカウンターに載せたときだった。
携帯電話をカウンターに上げようとした多賀幸と、手が触れ合ってしまった。
「あ……、失礼いたしました」
すぐに手を引っ込めた斗眞に、多賀幸も「俺のほうこそ」と微笑を返した。
至近距離だったこともあり、斗眞はだんだんと胸の奥が熱くなるのがわかると、トレーを胸に抱えて足早に暖簾の奥へと入った。
斗眞には、すでに彼を好きになってしまった自覚があった。
多賀幸は、多いときで週に二、三回つばめ喫茶を訪れていた。斗眞も数えきれないほど話す機会はあったが、胸の高鳴りは会うたびに増すばかりだ。
斗眞はトレーを棚に戻し、平常心を意識しながら深呼吸をひとつして、客席に戻った。
伊川は、ケトルを片手に多賀幸の話を聴いていた。ネルのなかでは湯を注がれるたびにコーヒーの泡が膨らんでは萎み、芳しい香りが立ち上る。つばめ喫茶では、ネルドリップで淹れたブレンドコーヒーが人気だった。
「へえ、長崎まで行くの」
「今度、焼き物の作家さんの特集があるんですよ」
「その話、ここで話しても平気?」
「ええ、予告はもう出ています」
斗眞は、さりげなく会話の輪に入った。
「多賀幸さん、焼き物の記事も書かれるんですか?」
「うん。生活情報誌だから、そういう特集もたまにあるんだ。一部はWEB版にも載るよ。……こういうものなんだけどね」
多賀幸は、携帯電話の画面に映し出された皿の写真を、何枚かスクロールして見せた。それを覗き込んでいた斗眞は、アイボリーの皿が目に留まり、ぽつりと言った。
「このお皿……、和にも洋にも使えそうですね」
「こういうの、好き?」
「はい。色も形も可愛いですね」
「この作家さんの作品は、若い人にも人気があるんだよ」
多賀幸がそう言うと、伊川は微笑した。
「多賀幸くんが紹介すると、もっと人気が出るかもしれないな」
「え?」
多賀幸が不思議そうに顔を上げると、伊川は言った。
「ここも、多賀幸くんが今年取材してネットで紹介してくれてから、観光客が増えたんだ。ありがとう」
「いいえ。いつか記事としてつばめ喫茶のことを書きたいと思っていたので、俺も本望でした」
斗眞も伊川に同調し、多賀幸に言った。
「僕、あの記事が好きで、今でも時々バックナンバーを読んでいますよ」
「そうなの? ありがとう」
斗眞は、熱心に伊川や椿の話を聞きながら取材していた多賀幸の姿を思い返した。
ウェイターの斗眞にまで取材は及び、出来上がった記事は、つばめ喫茶の素朴なよさを紹介する穏やかな雰囲気のものだった。
斗眞が常連客の一人だった多賀幸を意識し始めたのは、そのときのことがきっかけだった。
東加駅で電車を降りた斗眞は、電線に遮られることのない広い青空を見上げ、小さいバスターミナルを横目に歩いた。
街路樹には夜になれば明かりが点るのであろう、イルミネーションの電球が取り付けられている。
目的の雑貨屋は、店や住宅が混在する通りにあり、駅から歩いて十分ほどだった。
白壁の建物が見え、大きな窓を覗くと、薄明るい橙色の明かりに照らされたクリスマス雑貨が見て取れた。
「……クリスマスは、毎年気にも留めずに過ぎていたのに」
ただの買い物であればと引き受けてしまったものの、斗眞は自分がクリスマスのための買い出しに来ていることが奇妙に思えた。
群青色のドアのガラス部分に『kibako』という店名を確認すると、斗眞はドアを引いて店内へと足を踏み入れた。
いらっしゃいませ、とレジカウンターにいた男性店員の穏やかな声が静かな店内に響いた。店は、表から見るよりも奥行きがあった。
店の入口付近はクリスマスコーナーになっていて、カード、キャンドル、木彫りのスノーマン、テーブルの上に載るほどの小さいツリーなどのクリスマスカラーに出迎えられる。
店内には女性客がちらほらといて、窓際の升目状の棚に目を向けると、そこにオーナメントが小分けに陳列されていた。
種類の多さに、斗眞は目移りした。サンタクロースの人形からカラフルなプレゼントボックスまで、見た目の楽しいオーナメントが揃っている。
斗眞は、落ち着いた色のものを、と思った。ボール一つを取っても、メタリックな光沢があるものや模様が入っているものなど、様々な種類があった。
「うーん」
悩みながら、ふと窓に目をやったときだった。
ある人影が、斗眞を見つめていた。
「あっ!」
目が合った人影の正体に、斗眞は思わず声を上げた。
窓の向こうでひらひらと手を振るのは、多賀幸だった。
多賀幸は店に入ってくると、狭い通路をまっすぐに斗眞の元へと歩み寄った。
「見覚えのある人だと思ったら、やっぱり早月くんだった」
「どうしたんですか、こんなところで」
思いがけない出会いに、斗眞は驚きながらも気分が高揚した。
「取材先に持っていく手土産を買いに来たんだ。このあたりに評判のいい和菓子屋があってね。今は、駐車場に戻るところ」
そう言う多賀幸は、紙袋を手に提げていた。
斗眞は心のなかでひそかに、この店へと買い出しに来させてくれた伊川と椿に感謝した。
「長崎へは、明日からでしたね」
「うん。早月くんは、なにを買いに来たの?」
斗眞はコートが擦れ合う距離に緊張しながらも、平静を装った。
「つばめ喫茶で、クリスマスツリーを飾るんです。そのオーナメントを」
「ああ、毎年飾っているね」
「オーソドックスなものをと言われたんですけど、お店の雰囲気を壊さないものがいいかと思って……」
斗眞は、マットな質感のボールが入った袋を手にする。
「松ぼっくりもいいと思うんですよね……、でも、こっちのも……、ごちゃごちゃしないほうがいいかな……うーん」
迷いながら小さく唸る斗眞の真剣な横顔に、多賀幸は目を細めた。
「あっ、あれは燕じゃない?」
多賀幸は、斗眞が立つよりも奥へと視線を向けて言った。
そこには、燕がかたどられたゴールドのオーナメントがあった。
「燕……、つばめ喫茶にぴったりですね! マスター達も喜んでくれるかも」
斗眞は、燕のオーナメントが入った袋を手に取ると、子どものように目を輝かせた。
「これにします」
それから、何色かのボールと松ぼっくりを選び、斗眞はレジへと向かった。
無事に買い物を済ませて二人で店を出ると、多賀幸は訊ねた。
「早月くんは、このあとも予定があるの?」
「え……」
来たついでに街を歩いてみようと思っていた斗眞だったが、
「よかったら送るよ」
という多賀幸の一言で、あとの予定を頭のなかから取り消した。
「いいんですか?」
「時間はあるから。家はどこ?」
「つばめ喫茶の近くです」
斗眞の返答に、多賀幸は表情を綻ばせた。
「なんだ、幻燈町なんだ。同じだね」
「え、多賀幸さんも幻燈町なんですか?」
「早月くんには言っていなかったっけ。つばめ喫茶にも歩いて行ける距離だよ」
いくつもの偶然と幸運の重なりに、斗眞は夢心地になった。
日が沈むには早い現在の時刻では、車の往来はスムーズだった。
多賀幸の白いSUVは、背の低い商業ビルが並ぶ通りを幻燈町方面へ悠々と進む。
「今は、仕事はどこでもできるから。東京には、時々会社に顔を出しに行くんだけどね」
多賀幸は、ハンドルを微妙に操作しながら言った。
「どうして、幻燈町に?」
多賀幸の端正な横顔に、斗眞は助手席から訊ねる。
すると、その質問には、多賀幸は曖昧に苦笑した。
「んー……、それは、ね……」
答えに窮する様子の多賀幸に、斗眞は慌てて言った。
「すみません。プライベートなことまで、訊きすぎました……」
「いや、特別な事情があったわけじゃ、ないんだ。……早月くんになら、言ってもいいかな」
それまで前方を注視していた多賀幸が、ちらりと斗眞へ視線をよこして言った。
「ちょっと、失恋をしてね」
斗眞はどきりとして、心臓に冷や汗が滲んだ。
「失恋……」
多賀幸がブレーキペダルをゆっくりと踏み込み、車は前の車に続いて赤信号で停止した。
「幻燈町は、過去の思い出も、未来の可能性も、あらゆる記憶が溢れていると言われているのは、知っている?」
多賀幸の口から出るとは想像もしていなかったその話に、斗眞は一瞬怯んだ。けれど、そのことを悟られないよう、できるだけ普通に話すことを心がけた。
「……引っ越してきたときに、マスターに聞いて知りました。幻燈町の人達は、そのことを信じているみたいですよね」
「早月くんも、外から来た人なんだ?」
「はい」
斗眞に話が通じるとわかると、多賀幸は、一層心をひらいたようにリラックスして話を続けた。
「俺も、そのことは仕事仲間に聞いていたくらいだったんだけど。……昔付き合っていた彼女に、未練があってね。彼女との未来があるなら、幻燈町に行けばその可能性を信じられるんじゃないかって、そう思いたくて来たんだ。結婚まで考えていたんだけど、彼女のほうはそうではなくて、振られてしまった」
斗眞は、黙ってただ聞いていた。
「だけど、あの町に住んでも、俺にはそんな未来はまったく見えなかった。逆に、こんなところにまで来て、未練に縛られているのは俺一人なんだと痛感させられた。……ちょうど引越しを考えていた時期だったとはいえ、あの頃はだいぶ弱っていたんだな」
多賀幸は、自嘲するように言った。
「いい大人がそんな迷信めいたものに縋って、かっこわるいよね」
「……そんなことないです。つらいですよ、失恋は」
理由はどうであれ、救いを求めて行き着いたのが幻燈町だったという共通点は、斗眞を不思議な気分にさせた。斗眞は過去から逃れるために、多賀幸は望む未来を得るためにという違いはあったにせよ。
多賀幸は、微笑して言った。
「きっかけはそういうことだったんだけど、気づいたら三年もあの町にいるよ。静かだし、仕事に集中するにはいい環境なんだよね」
多賀幸の横顔からは、今の生活が充実していることが窺い知れた。
「この話、マスターには言っていないんだ。内緒にしてくれるかな」
「はい」
前方の視野がひらけ、車列が進み出したことがわかると、多賀幸の車は再び走り出した。
「早月くんは? 恋愛はしているの?」
「僕ですか? ……僕は、二年前に別れたっきりです。休みが合わなくて、すれ違いになってしまいました」
「じゃあ、お互いフリーなんだね。たまには、一緒にドライブでもしようか」
「いいんですか?」
「もちろん」
話しかけられれば適切な返事を選べたが、それから斗眞の言葉数は減り、多賀幸となにを話していたのかまではおぼえていなかった。
斗眞には、多賀幸は女性が好きなのだという事実が、重くのしかかった。それは予想していたことではあったが、いざ現実に本人の口から聞くと、ショックを隠せなかった。
――三年。
結婚まで考えた女性に、今も未練はあるのか。すでに吹っ切れたのか。斗眞には、そこまで訊ねる勇気は出なかった。
「アパートまで送っていただいて、ありがとうございました。また、お店でお待ちしていますね」
車から降りた斗眞は、開けられた助手席の窓から多賀幸に言った。
しかし、多賀幸はなにか考えごとをして、
「それだと、お客さんに言っているみたいだね」
と言った。
「これからは、普通でいいよ」
「普通……」
「うん。じゃあ、またね」
斗眞がきょとんとしていると、多賀幸は満足そうに笑顔を見せた。
ウインカーを出した車は、ゆるやかに発進していった。
斗眞は、単なる喫茶店の店員以上には思ってもらえているのかもしれないと思うのと同時に、このままでは自分から告白しない限り進展はない、とも感じていた。
斗眞は、白い車が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
しかし、斗眞はあえて遠回りをして通勤していた。
それが、この五年繰り返してきた日常だった。
斗眞にとってまったく馴染みのなかったこの町も、今では自分の住む町だと言える。
ハロウィンが終わったあとのこの時期になると、住宅の出窓に現れるサンタクロースのガーランドやパン屋のドアに飾られるクリスマスリースは、毎年お決まりの光景だった。
斗眞が引越しを決めたとき、知らない町ならどこでもよかった。
ただ一つ誤算だったのは、幻燈町には“どんな記憶にも出会える”という迷信が存在することだった。
――この町に住んでいると、長い間忘れていた昔のことを思い出したり、未来のことが見えてしまう、なんていう人もいるんだよ。
つばめ喫茶のマスター・伊川が自慢げにそう話したとき、斗眞は心の底で、冗談じゃないと思った。忘れたい記憶から離れたくて引っ越してきたのに、その記憶が存在し続けると言われているようで、たまらなかった。
それから斗眞は、その迷信を自分の都合のいいように利用することにした。
過去にとらわれているのは、この町の不思議な迷信のせいなのだと。なにを思い出しても、不思議な町のせいなのだと。
1,彼の事情
「そろそろクリスマスツリーを出そうか」
開店直前、カウンターのなかから伊川が言った。
「そうですね。もう十一月も半ばですしね」
斗眞は、カウンターテーブルを拭きながら言った。視界に入ったレジカウンターは秋の様相のままで、どんぐりを持つリスの置物が置かれている。
「公輝くん、今年はオーナメントを変えようって言っていたのはどうなったの?」
表に立て看板を出して戻ってきた妻の椿は、格子戸を閉めて言った。
「そんなことを言ったっけ?」
「あれ、もう古くなっていたでしょう? 色褪せてきて、見映えがわるいわ」
「ああ、そうだったな。でも、次の定休日は釣りの約束があるから、買いに出る時間はないな……」
「私も美容院の予約を入れてあるの。そのあとで友達に会うし……」
椿がかぶる黒いキャスケットからは明るいブラウンのショートヘアが伸び、耳たぶには椿の花を連想させる真紅の珊瑚のピアスが覗く。
伊川は、楽観的に言った。
「まあ、遅くなってもいいんじゃないか」
「そんなことを言って、すぐに十二月になるわよ。もっと早く気がつけばよかったわね」
「ネットでは買えないの? いつもの店で買うんだろう?」
「それが、ネットショップだけ休業中になっているのよ。あそこのお店のものなら間違いないんだけどな。どうしよう……」
椿は、テーブル席に移動して拭き掃除をしていた斗眞をちらりと見やった。その視線には、懇願の思いが宿っていた。
視線を感じた斗眞が顔を上げると、目が合った椿は、両手を合わせて申し訳なさそうに言った。
「早月くん! 次の定休日に、お遣いを頼まれてもらえないかしら」
二人の会話が耳に入っていた斗眞は、いやな顔ひとつせず笑顔で答えた。
「僕でもよければ、構いませんよ」
「本当? ありがとう! 助かるわ」
椿は、喜んで言った。
「いいのかい? わるいね、休みの日に」
「いいえ。休みは、どうせ暇なので」
それは事実で、日頃から二人には世話になっていることもあり、斗眞としては頼みごとの一つや二つは引き受けたい気分だった。
斗眞は訊ねた。
「いつものお店って、どこにあるんですか?」
「二つ隣の、東加駅の近くよ。品揃え豊富な雑貨屋さんなの」
「どんなものがいいんでしょう」
斗眞に訊ねられ、伊川と椿は改めて考えた。
「そうね、シンプルでオーソドックスなものがいいかしら。子どもっぽくないものがいいわね」
「そうだな。早月くん、それでよろしく頼むよ」
「迷ったら、ボールだけ買ってきてくれればいいから」
「了解しました」
斗眞は、快く承諾した。
そのときだった。静かに格子戸を引く音と共に、ドアベルがリンと鳴った。
「こんにちは。もう開いています?」
そう言ってさわやかな表情を見せたのは、青みがかったグレーのコートに黒のマフラーを巻いた多賀幸航平だった。
「いらっしゃい、多賀幸くん。ちょうど開店時間ぴったり」
「いらっしゃい」
伊川と椿に続いて、彼の顔を見た途端に華やいだ斗眞の声が続く。
「多賀幸さん! いらっしゃいませ」
揃いのキャスケットに白いシャツ、黒いエプロンをつけたつばめ喫茶の面々に迎えられ、多賀幸はカウンター席に着いた。
「コーヒーと、いつものをください。甘いものが欲しくて」
「チーズケーキね。了解」
椿が厨房へと藍染めの暖簾をくぐると、斗眞も椿のあとに続き、手際よく水とおしぼりをトレーに用意する。
多賀幸はマフラーをほどきながら、伊川に言った。
「寒くなりましたね」
「ねえ。つい先週までは暖かかったのに」
伊川は、コーヒーを淹れる準備に取り掛かる。狭いカウンターがより狭く見えるのは伊川が大学時代にラグビーをやっていたからで、今ではいくらか痩せたものの、当時の体型の面影が残っていた。
「冬のブレンドはいつからですか? 俺、あれが好きなんですよ」
「嬉しいね。来週からの予定だけど、前倒しで始めようかな」
多賀幸はマフラーと脱いだコートを椅子の背もたれに掛けると、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
「お水とおしぼりは、こちらに置きますね」
「ありがとう」
斗眞が、水の入ったグラスとおしぼりをカウンターに載せたときだった。
携帯電話をカウンターに上げようとした多賀幸と、手が触れ合ってしまった。
「あ……、失礼いたしました」
すぐに手を引っ込めた斗眞に、多賀幸も「俺のほうこそ」と微笑を返した。
至近距離だったこともあり、斗眞はだんだんと胸の奥が熱くなるのがわかると、トレーを胸に抱えて足早に暖簾の奥へと入った。
斗眞には、すでに彼を好きになってしまった自覚があった。
多賀幸は、多いときで週に二、三回つばめ喫茶を訪れていた。斗眞も数えきれないほど話す機会はあったが、胸の高鳴りは会うたびに増すばかりだ。
斗眞はトレーを棚に戻し、平常心を意識しながら深呼吸をひとつして、客席に戻った。
伊川は、ケトルを片手に多賀幸の話を聴いていた。ネルのなかでは湯を注がれるたびにコーヒーの泡が膨らんでは萎み、芳しい香りが立ち上る。つばめ喫茶では、ネルドリップで淹れたブレンドコーヒーが人気だった。
「へえ、長崎まで行くの」
「今度、焼き物の作家さんの特集があるんですよ」
「その話、ここで話しても平気?」
「ええ、予告はもう出ています」
斗眞は、さりげなく会話の輪に入った。
「多賀幸さん、焼き物の記事も書かれるんですか?」
「うん。生活情報誌だから、そういう特集もたまにあるんだ。一部はWEB版にも載るよ。……こういうものなんだけどね」
多賀幸は、携帯電話の画面に映し出された皿の写真を、何枚かスクロールして見せた。それを覗き込んでいた斗眞は、アイボリーの皿が目に留まり、ぽつりと言った。
「このお皿……、和にも洋にも使えそうですね」
「こういうの、好き?」
「はい。色も形も可愛いですね」
「この作家さんの作品は、若い人にも人気があるんだよ」
多賀幸がそう言うと、伊川は微笑した。
「多賀幸くんが紹介すると、もっと人気が出るかもしれないな」
「え?」
多賀幸が不思議そうに顔を上げると、伊川は言った。
「ここも、多賀幸くんが今年取材してネットで紹介してくれてから、観光客が増えたんだ。ありがとう」
「いいえ。いつか記事としてつばめ喫茶のことを書きたいと思っていたので、俺も本望でした」
斗眞も伊川に同調し、多賀幸に言った。
「僕、あの記事が好きで、今でも時々バックナンバーを読んでいますよ」
「そうなの? ありがとう」
斗眞は、熱心に伊川や椿の話を聞きながら取材していた多賀幸の姿を思い返した。
ウェイターの斗眞にまで取材は及び、出来上がった記事は、つばめ喫茶の素朴なよさを紹介する穏やかな雰囲気のものだった。
斗眞が常連客の一人だった多賀幸を意識し始めたのは、そのときのことがきっかけだった。
東加駅で電車を降りた斗眞は、電線に遮られることのない広い青空を見上げ、小さいバスターミナルを横目に歩いた。
街路樹には夜になれば明かりが点るのであろう、イルミネーションの電球が取り付けられている。
目的の雑貨屋は、店や住宅が混在する通りにあり、駅から歩いて十分ほどだった。
白壁の建物が見え、大きな窓を覗くと、薄明るい橙色の明かりに照らされたクリスマス雑貨が見て取れた。
「……クリスマスは、毎年気にも留めずに過ぎていたのに」
ただの買い物であればと引き受けてしまったものの、斗眞は自分がクリスマスのための買い出しに来ていることが奇妙に思えた。
群青色のドアのガラス部分に『kibako』という店名を確認すると、斗眞はドアを引いて店内へと足を踏み入れた。
いらっしゃいませ、とレジカウンターにいた男性店員の穏やかな声が静かな店内に響いた。店は、表から見るよりも奥行きがあった。
店の入口付近はクリスマスコーナーになっていて、カード、キャンドル、木彫りのスノーマン、テーブルの上に載るほどの小さいツリーなどのクリスマスカラーに出迎えられる。
店内には女性客がちらほらといて、窓際の升目状の棚に目を向けると、そこにオーナメントが小分けに陳列されていた。
種類の多さに、斗眞は目移りした。サンタクロースの人形からカラフルなプレゼントボックスまで、見た目の楽しいオーナメントが揃っている。
斗眞は、落ち着いた色のものを、と思った。ボール一つを取っても、メタリックな光沢があるものや模様が入っているものなど、様々な種類があった。
「うーん」
悩みながら、ふと窓に目をやったときだった。
ある人影が、斗眞を見つめていた。
「あっ!」
目が合った人影の正体に、斗眞は思わず声を上げた。
窓の向こうでひらひらと手を振るのは、多賀幸だった。
多賀幸は店に入ってくると、狭い通路をまっすぐに斗眞の元へと歩み寄った。
「見覚えのある人だと思ったら、やっぱり早月くんだった」
「どうしたんですか、こんなところで」
思いがけない出会いに、斗眞は驚きながらも気分が高揚した。
「取材先に持っていく手土産を買いに来たんだ。このあたりに評判のいい和菓子屋があってね。今は、駐車場に戻るところ」
そう言う多賀幸は、紙袋を手に提げていた。
斗眞は心のなかでひそかに、この店へと買い出しに来させてくれた伊川と椿に感謝した。
「長崎へは、明日からでしたね」
「うん。早月くんは、なにを買いに来たの?」
斗眞はコートが擦れ合う距離に緊張しながらも、平静を装った。
「つばめ喫茶で、クリスマスツリーを飾るんです。そのオーナメントを」
「ああ、毎年飾っているね」
「オーソドックスなものをと言われたんですけど、お店の雰囲気を壊さないものがいいかと思って……」
斗眞は、マットな質感のボールが入った袋を手にする。
「松ぼっくりもいいと思うんですよね……、でも、こっちのも……、ごちゃごちゃしないほうがいいかな……うーん」
迷いながら小さく唸る斗眞の真剣な横顔に、多賀幸は目を細めた。
「あっ、あれは燕じゃない?」
多賀幸は、斗眞が立つよりも奥へと視線を向けて言った。
そこには、燕がかたどられたゴールドのオーナメントがあった。
「燕……、つばめ喫茶にぴったりですね! マスター達も喜んでくれるかも」
斗眞は、燕のオーナメントが入った袋を手に取ると、子どものように目を輝かせた。
「これにします」
それから、何色かのボールと松ぼっくりを選び、斗眞はレジへと向かった。
無事に買い物を済ませて二人で店を出ると、多賀幸は訊ねた。
「早月くんは、このあとも予定があるの?」
「え……」
来たついでに街を歩いてみようと思っていた斗眞だったが、
「よかったら送るよ」
という多賀幸の一言で、あとの予定を頭のなかから取り消した。
「いいんですか?」
「時間はあるから。家はどこ?」
「つばめ喫茶の近くです」
斗眞の返答に、多賀幸は表情を綻ばせた。
「なんだ、幻燈町なんだ。同じだね」
「え、多賀幸さんも幻燈町なんですか?」
「早月くんには言っていなかったっけ。つばめ喫茶にも歩いて行ける距離だよ」
いくつもの偶然と幸運の重なりに、斗眞は夢心地になった。
日が沈むには早い現在の時刻では、車の往来はスムーズだった。
多賀幸の白いSUVは、背の低い商業ビルが並ぶ通りを幻燈町方面へ悠々と進む。
「今は、仕事はどこでもできるから。東京には、時々会社に顔を出しに行くんだけどね」
多賀幸は、ハンドルを微妙に操作しながら言った。
「どうして、幻燈町に?」
多賀幸の端正な横顔に、斗眞は助手席から訊ねる。
すると、その質問には、多賀幸は曖昧に苦笑した。
「んー……、それは、ね……」
答えに窮する様子の多賀幸に、斗眞は慌てて言った。
「すみません。プライベートなことまで、訊きすぎました……」
「いや、特別な事情があったわけじゃ、ないんだ。……早月くんになら、言ってもいいかな」
それまで前方を注視していた多賀幸が、ちらりと斗眞へ視線をよこして言った。
「ちょっと、失恋をしてね」
斗眞はどきりとして、心臓に冷や汗が滲んだ。
「失恋……」
多賀幸がブレーキペダルをゆっくりと踏み込み、車は前の車に続いて赤信号で停止した。
「幻燈町は、過去の思い出も、未来の可能性も、あらゆる記憶が溢れていると言われているのは、知っている?」
多賀幸の口から出るとは想像もしていなかったその話に、斗眞は一瞬怯んだ。けれど、そのことを悟られないよう、できるだけ普通に話すことを心がけた。
「……引っ越してきたときに、マスターに聞いて知りました。幻燈町の人達は、そのことを信じているみたいですよね」
「早月くんも、外から来た人なんだ?」
「はい」
斗眞に話が通じるとわかると、多賀幸は、一層心をひらいたようにリラックスして話を続けた。
「俺も、そのことは仕事仲間に聞いていたくらいだったんだけど。……昔付き合っていた彼女に、未練があってね。彼女との未来があるなら、幻燈町に行けばその可能性を信じられるんじゃないかって、そう思いたくて来たんだ。結婚まで考えていたんだけど、彼女のほうはそうではなくて、振られてしまった」
斗眞は、黙ってただ聞いていた。
「だけど、あの町に住んでも、俺にはそんな未来はまったく見えなかった。逆に、こんなところにまで来て、未練に縛られているのは俺一人なんだと痛感させられた。……ちょうど引越しを考えていた時期だったとはいえ、あの頃はだいぶ弱っていたんだな」
多賀幸は、自嘲するように言った。
「いい大人がそんな迷信めいたものに縋って、かっこわるいよね」
「……そんなことないです。つらいですよ、失恋は」
理由はどうであれ、救いを求めて行き着いたのが幻燈町だったという共通点は、斗眞を不思議な気分にさせた。斗眞は過去から逃れるために、多賀幸は望む未来を得るためにという違いはあったにせよ。
多賀幸は、微笑して言った。
「きっかけはそういうことだったんだけど、気づいたら三年もあの町にいるよ。静かだし、仕事に集中するにはいい環境なんだよね」
多賀幸の横顔からは、今の生活が充実していることが窺い知れた。
「この話、マスターには言っていないんだ。内緒にしてくれるかな」
「はい」
前方の視野がひらけ、車列が進み出したことがわかると、多賀幸の車は再び走り出した。
「早月くんは? 恋愛はしているの?」
「僕ですか? ……僕は、二年前に別れたっきりです。休みが合わなくて、すれ違いになってしまいました」
「じゃあ、お互いフリーなんだね。たまには、一緒にドライブでもしようか」
「いいんですか?」
「もちろん」
話しかけられれば適切な返事を選べたが、それから斗眞の言葉数は減り、多賀幸となにを話していたのかまではおぼえていなかった。
斗眞には、多賀幸は女性が好きなのだという事実が、重くのしかかった。それは予想していたことではあったが、いざ現実に本人の口から聞くと、ショックを隠せなかった。
――三年。
結婚まで考えた女性に、今も未練はあるのか。すでに吹っ切れたのか。斗眞には、そこまで訊ねる勇気は出なかった。
「アパートまで送っていただいて、ありがとうございました。また、お店でお待ちしていますね」
車から降りた斗眞は、開けられた助手席の窓から多賀幸に言った。
しかし、多賀幸はなにか考えごとをして、
「それだと、お客さんに言っているみたいだね」
と言った。
「これからは、普通でいいよ」
「普通……」
「うん。じゃあ、またね」
斗眞がきょとんとしていると、多賀幸は満足そうに笑顔を見せた。
ウインカーを出した車は、ゆるやかに発進していった。
斗眞は、単なる喫茶店の店員以上には思ってもらえているのかもしれないと思うのと同時に、このままでは自分から告白しない限り進展はない、とも感じていた。
斗眞は、白い車が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
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