幻燈町の恋模様

貴船きよの

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大和編

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 窓の外では日が暮れ始め、鳩羽が帰り支度を始めた頃だった。
 泉澤家に、玄関のインターホンが鳴り響いた。
 鳩羽が応対したはずだが、静漉が休む居間にはなかなか報告に来なかった。
 しばらくして部屋へと入ってきた鳩羽は、深刻な表情を浮かべていた。
 鳩羽は、声を潜めて言った。
「静漉さん。週刊誌の記者だと名乗る方が見えていますが」
「……記者?」
 先日、家の外に見かけた黒い車の正体はそれかと納得し、静漉はソファーから腰を上げる。
 そして、部屋を出る間際、鳩羽に小声で耳打ちした。
「鳩羽さん。念のため、例のものを用意しておいてください。多めにお願いします。時間がかかるかもしれませんから」
「了解しました」
 鳩羽は、足早に台所へと向かった。
 静漉が玄関へと歩いていくと、一人の痩せた中年男性が立っていた。清潔感のある短髪で、ストライプのシャツを腕まくりし、肩から黒い鞄を下げている。ドアは閉められていた。
「アポイントもなしに、どういったご用件でしょう」
 廊下の奥から現れた静漉に気づくと、男は笑顔を見せて鞄を開けた。
「あなたが、泉澤静漉さんですね。私、週間潮流の阪下さかしたと申します」
 阪下は、そう言いながらにこやかに名刺を差し出した。
「泉澤さんのお話をお伺いしたく、失礼ながら突然お邪魔させていただきました」
 静漉は、阪下の目を冷ややかに見つめながら名刺を受け取ったものの、そこに視線を落とすことはなかった。
 
 一階の応接室へと通された阪下は、薦められた二人掛けのソファーに座った。そして、絨毯の敷かれた床から壁に飾られた湖畔の油絵、自分を照らす白い花を咲かせたようなシャンデリアまでをぐるりと見渡した。
「外観も立派ですが、なかもクラシックで素敵ですね」
「時間がありませんので、手短にお願いできますか」
 阪下の振りまく愛想には見向きもせず、静漉は、向かいの一人掛けソファーで足を組んで言った。
「これは失礼。いえね、こちらに、妙な噂があるのを聞きつけましてね」
「妙な噂とは」
 関心がなさそうに、静漉は訊ねた。
「なんでも、ここに来た人間は、記憶喪失になって帰って来るとか」
「ほう」
「私の取材では、冬瑛とうえいクリニックの患者が何人も訪れているようですね。……メンタルクリニックと繋がりがおありですか」
 静漉は、阪下には明確に聞き出したい答えがあることを察し、口をつぐんだ。
 静漉から聞き出すことができないとわかると、阪下は諦めて自ら訊ねる。
「泉澤さんは、今は精神科医としては働いてらっしゃいませんよね」
「私の経歴をご存知で?」
「ええ。医師免許の有無を調べるのは簡単ですが、その先が苦労しました。冬瑛クリニックでは取材拒否にあいましたのでね」
 応接室のドアがノックされ、話は中断した。
 鳩羽が、トレーに飲み物を載せて運んで来たのだった。
「お話中、失礼いたします。アイスティーなのですが、よろしかったら」
「ああ、これはすみません。いただきます」
「もしも甘みが足りないようでしたら、ガムシロップをお使いください」
 目の前にグラスが置かれると、阪下はガムシロップは使わずにグラスにストローを差した。喉が渇いていたのか、半分ほどを一気に飲んだ。
 鳩羽は静漉の前にも同じグラスを置き、静漉に目配せをして、退室していった。
 静漉はアイスティーのグラスには触れずに、組んだ足の上で両手を絡めていた。
 阪下は冷たい飲み物ですっきりした顔を見せ、話を続けた。
「町田レンズクリニックに辿り着くまで時間がかかりました。でも、参りましたよ。院長も、長年そこに勤めているという看護師長も公認心理師も、あなたの名前は憶えているんです。しかし、顔はわからない、写真もない、どんな先生だったかも記憶にないと言うんです」
「昔のことだからでしょう」
 阪下は、にやりと口の端を上げて見せた。
「ところがね、一人、あなたに診てもらったという患者を見つけることができたんですよ」
 静漉は、わずかに眉をひそませた。
「ご自身の病気はすっかりよくなって、今度は不眠症の母親が薬を貰うために付き添っていると言っていました。その方によると、あなたはとてもいい先生だったそうですね。あなたと話すだけで、不思議と不快な思いが消えてしまったそうですよ。なにに悩んでいたのかさえ、忘れてしまうほどに」
 淀みなく話す阪下は、一度も携帯電話やメモを見ることがなかった。情報はすべて頭に入っているらしい。
 阪下は続けた。
「それはほかの患者も同じだったそうです。あなたに診てもらうと病気が快方に向かう。薬の処方や生活指導も的確だった。それで院長があなたを妬んで毛嫌いしていることも有名だったとか。そんな有名人だった“泉澤先生”を、なぜ病院の方々は憶えていないのでしょう?」
 その出来事と、泉澤錠棚管理舎から出てくる記憶喪失の人間を結び付けたいという意図は、明白だった。
 しかし、静漉は表情を変えずに言った。
「ですから、昔のことだからでしょう。それに、私は院長先生にはよくしていただきましたよ」
 欲しい回答がなかなか返ってこないことに、阪下は苦笑した。
 それでも、そんなことは慣れている様子で、すぐにほかの質問へと切り替える。
「なぜ、町田レンズクリニックをお辞めになったんですか?」
「父が残したこの家があったので、起業したのです。私は現在、ここで荷物を預かる管理人です」
 阪下は、ようやく話の急所を突けると踏んだ。この家で行われている秘密を暴くチャンスだった。
「それにしては、紙袋の一つも持たない客が出入りしているようですが」
 目をきらりと光らせる阪下に、静漉は怯むことなく、パフォーマンスとして微笑を浮かべて見せた。
「ええ。紙袋には入りきらないような、凄まじい量の、重たくて、見るのもおぞましいものです」
 静漉の整った微笑にはそぐわない言葉の数々を聴きながら、阪下は突然、目の前がぐらりと揺れるような感覚に見舞われた。
「な、に……?」
 頭を前後に揺らした阪下は、ソファーの背もたれに力なく寄りかかった。休む間もなく静漉を追い詰めようとしていた口は半開きになって、閉じそうになる瞼を懸命に開けていようとしている。
 静漉は、冷徹な眼差しで彼を傍観していた。
 阪下を襲ったのは、アイスティーに混入されていた薬だった。日本では未承認の強力な睡眠薬の一種で、少量でも即効性があり、身動きを封じるには十分だった。
 ソファーから立ち上がった静漉は、阪下に歩み寄りながら語りかけた。
「忘れたいことを意識的に選んで消去し、憶えておきたいことを意識的に選んで残しておけたら、どんなにいいでしょうね。けれど、私達の脳は、そのようにはできていない。いいもわるいもなく、経験したことを自動的に仕舞い込んでくれてしまう。私は、四六時中記憶に悩まされている方々に、休息を与えて差し上げたいだけなのです」
 阪下の傍で絨毯に膝をつき、しゃがんだ静漉は、ソファーの上にだらりと置かれた彼の右腕に手を伸ばした。阪下は、すでに眠ってしまっていた。
「なに、簡単なことなのですよ……」
 シャツの裾をまくり露わになっていた阪下の腕に触れた静漉は、そっと瞼を閉じた。
 その瞬間、静漉の脳裏には、怒涛の如く、阪下の記憶が流れ込んだ。そうかと思いきや、今度は静漉のほうが彼の記憶に侵入していく。
 今日一日の記憶量だけでも膨大だったが、それは一秒もかからず過ぎ去っていった。
 静漉は脳裏を高速で通過していく記憶のなかから、驚異的な集中力と経験による技術で、泉澤錠棚管理舎や各病院の記憶を拾い上げていく。
 手帳に記された文字、パソコンや携帯電話に入力された記録、同僚との情報交換で交わされた会話まで……それらの記憶を構成していた要素はすべて剥ぎ取られ、静漉の内へと吸い込まれた。
 静漉の能力は、人の脳に仕舞い込まれた記憶のみならず、その記憶が写された物質からも取り上げることができた。
 三十分ほど触れていた。
 静漉は瞼を上げ、深くひと呼吸した。どっと疲労が押し寄せていた。これほど長時間、他人の記憶のなかにいることは稀だった。
「静漉さん……」
 応接室に入ってきていた鳩羽が、心配そうに言い寄った。
 静漉は、ソファーに手を置いて立ち上がった。
「さすがは記者ですね。随分詳しく調べていたようです。大丈夫ですよ。彼を通して、彼と関係のある人々の記憶にもアクセスしました。泉澤錠棚管理舎と冬瑛クリニックの噂については、彼らの記憶から取り除きました」
 “彼と関係のある人々”と呼ぶ者のなかには、精神科医時代の静漉について証言をした元患者も含まれていた。
 病院勤めだった頃、一人の患者から施術の記憶を取りそびれたことがあった。どうした因果か、こうして再び巡り会えるとは幸運だったと、静漉は思う。
 当時、医師としての経験は浅くとも、記憶を見る能力は発揮できた。症状の原因が過去にあった場合、それを見つけられれば治療方針を立てやすく、処置の仕様もあった。あまりにも酷い幻覚や幻聴のある患者からは、その原因となる記憶を無断で抜き取ったこともある。
 しかし、それは病院が提供する医療として当然のものであるはずがなく、人々に記憶されてはならなかった。
「世間の秘密を暴くことがお仕事の方には申し訳ありませんが……」
 静漉は、姿勢を保てずソファーに顔を突っ伏していた阪下を見下ろして言った。
「守られなければならない領域というものが、私達の世界にはあるのです」
 眠っている阪下は、管理舎の敷地外に駐めていた車に運ばれた。
 阪下が目を覚ましたときには、なぜこんなところで居眠りをしたのか、わからずに帰ることになるだろう。
 その後、鳩羽は事態に動じることもなく、グラスを片づけて帰宅した。
 一人になった静漉は、自室へ行くとドアの鍵を閉めた。
 絨毯をめくり、床下へと通じる扉を開ける。そこには、地下へと続く階段が伸びていた。実光も鳩羽も近づけたことのない場所だった。
 階段を下りた先には短い廊下があり、行き止まりには古い一枚板のドアがあった。静漉は、その鍵穴へと鍵を差し込む。
 ドアを開け、照明のスイッチを入れると、冷たいコンクリートに覆われた室内は橙色に染まった。
 天井の低い部屋にあったのは、部屋の奥にまで何列にも及ぶ年季の入った木製の錠棚だった。
 一基の錠棚につき十段二十列の個室があり、それぞれ横長の扉がついていた。すべてに番号が振られ、小さい南京錠で施錠されている。
 静漉は錠棚と錠棚の間を通り、ある一つの錠棚の前で立ち止まった。
 「4108」と番号を口にし、ワイシャツの胸ポケットから一つの鍵を取り出すと、扉についていた真鍮の南京錠を外す。
 扉を開けた小さい部屋は、空だった。
 静漉はそのなかへと手を入れると、冷たい底面に少しばかり触れ、扉を閉めて再び南京錠で封じた。
 静漉はその儀式を終えると、同じ扉を開けるまで、抜き取った記憶をすっかり忘れることができるのだった。



*


 
 どこからか金木犀が香った日曜の午後、大和は尊と宗司と共にバスに乗っていた。尊の家へと向かう途中だった。
 住宅街の狭い片側一車線ずつの道を、バスは安全運転で走っていく。
「道が混んでいるな。この時間なら、いつもは混まないのに」
 だんだんとバスのスピードが落ちて、尊は言った。三人は、一番後ろの席に並んで座っていた。
 窓際の大和が窓に顔を近づけて前方を見てみると、短い渋滞が発生しているようだった。
「道路工事みたいだよ。看板が出ている」
「工事か」
 そのとき、大和はたまたま窓の外に見えた、住宅街の奥まで伸びる道に目をやった。
 すると、そこに見慣れた同級生の後ろ姿をとらえた。
「あっ! 瀬野くんと日向くんだ」
「え?」
 大和の声に窓の外を見てみた尊と宗司だったが、どこにも人影は見当たらなかった。
 バスはゆっくりと前進し、道は見えなくなった。
 宗司は、小声で大和に訊ねた。
「……見えたの?」
「……うん」
 大和は、未来に存在するかもしれない実光と耀太の姿を見たのだった。
 しかし、大和は二人の姿よりも、彼らの側に見えたものを思い出して、はっとした。
「あ……! ごめん、僕、次で降りる!」
「えっ? ここでか?」
 尊の家まではまだ距離があったものの、大和に付き合って、尊と宗司も次のバス停で降りることになった。
 三人は、大和が未来の実光と耀太の姿を見た道を歩いた。車が余裕を持ってすれ違えるアスファルトの道だ。
「ここに、瀬野と耀太が見えたの?」
 宗司が訊ねると、大和は緊張感を持って言った。
「うん。でも、それだけじゃなくて。ここって、もしかすると……」
 ある一軒家の敷地に差しかかると、そこは背の高い黒い鉄柵で囲まれていた。
 三人は、目隠しになっている木々越しに、三階建ての豪邸を見上げた。
「でかい家だな……」
 尊は思わず呟いた。
 大和は携帯電話を取り出し、幻燈町回顧展のカタログから撮影しておいた井之上病院の写真と見比べて、間違いないと確信した。
 この家の鉄柵は、井之上病院と同じ鉄柵だった。柵の土台となるコンクリートまで同じであるようだった。
「そっか……、尊の家に行くときにバスの窓から見えていたから、見覚えがあったんだ」
 何気なく流れていく景色のなかでも、目立つ鉄柵だったのだ。
「大和は、ここを知っているのか?」
 尊が訊ねると、大和は首を横に振った。
「ここは、普通の家なのかな」
 三人が門扉まで歩いてくると、そこには丁寧に銘板が掲げられていた。
 銘板には、泉澤錠棚管理舎と書かれていた。




〈終〉


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