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実光編
4,予感
しおりを挟む艶やかな濃紺の公衆電話が、壁の照明の光を受けていた。
第一電話室のドアにはダイヤ型をした緑色のステンドグラスが嵌め込まれ、その向こうにはなかにいる人物のぼんやりとした影だけが映っている。
ドアの外に微かに漏れる話し声は、改まったものだった。
「……はい。今年は夏期講習をとったので、アルバイトはしません。夏期講習は、毎日あります。……寮に残る人もいますよ。……そうですか、鳩羽さんにもよろしくお伝えください。……それじゃ」
受話器を置くと、返却口に十円玉が音を立てて落ちた。それを拾って、実光は電話室を出る。
蝉の声が、すぐ身近に聞こえた。
息が詰まりそうな電話のあとでは、窓が全開になっている廊下に一層の解放感があった。しかしそれは一瞬のことで、すぐに蒸し暑さがじわじわと肌にまとわりついてくる。
「瀬野?」
そこへ、耀太が通りかかった。
「電話?」
「ああ」
今では、電話室を使う生徒はほとんどいなかった。耀太は、前々から疑問に思っていたことを訊ねた。
「瀬野って、なんでスマホを持たないの?」
実光は、たった今電話を終えた相手を思い浮かべ、
「うっとうしいから」
と言った。
「そっか。……しばらく声が聞けなくなると、寂しいな」
すでに寮内の生徒が減り始めていたこともあり、実光は耀太の発言の意味を察する。
「帰省するのか」
「お盆が終わる頃まで、二、三週間くらいね。瀬野は?」
「帰る必要がない」
「ああ、町内だったらいつでも帰れるもんね」
耀太は正解を言い当てたかのように言ってみせたが、実光は黙っていた。
そして、なにかを少し考えたあとに、言った。
「おまえ、泉澤錠棚管理舎に行ったことがあるんだよな?」
数ヶ月前の話が引き出されたことを、耀太は意外に思った。耀太は、以前にも実光が泉澤の名前に反応していたことを憶えていた。
「うん。それが、どうかした?」
「おまえのおじいさんが預けたものって、なんだった?」
実光は、踏み込んで訊ねた。
「あー……、それは……」
耀太にしては、珍しく歯切れがわるい返事だった。
すると、実光は声を潜めて言った。
「記憶、か?」
「……えっ? なんでわかるの?」
実光から出た思いがけない言葉に、耀太は驚きを隠せなかった。
二人は実光の部屋までやって来ると、しっかりとドアを閉め、内側から鍵をかけた。
畳に上がり、実光が重ねられていた座布団を取ろうとすると、耀太が言った。
「なんで、記憶を預けているってわかったの? それって、公には秘密なんじゃないの?」
耀太は、部屋に入るまで訊きたくてうずうずしていたことを切り出した。
実光は日常会話のように答えた。
「公に話しても話さなくても関係ないよ。おかしな噂が立てば、あの人は発信源を突き止めてその記憶を取り除く。自分の正体に関わらない曖昧な情報は放置しているみたいだけどな」
「正体って……」
実光は、淡々と話した。
「管理舎の表向きの顔はものを預かる場所だけど、おまえも知っているんだろう? ……あの人は、人の記憶を取り出すことができる」
耀太は、神妙な面持ちで言った。
「それ、本当だったの?」
にわかには信じられない話だった。
耀太は、管理舎へ行ったときのことを振り返って言った。
「俺も泉澤さんとは話したけど、詳しいことは聞けなかったんだ。おじいさんとの約束だから記憶をお返しすると言われただけだった。だから、泉澤さんがおじいちゃんの記憶を預かっていたという意味がどういうことなのかわからなくて、不思議だったんだ」
実光は、耀太の話を疑問に思うこともなく、平然としていた。
「おじいさんは、あそこを利用した記憶も抜き取られていただろうから、耀太に話すこともできなかったんだろうな」
耀太は実光の話に納得して、管理舎に行くまでの経緯を思い出した。
「おじいちゃんから、泉澤さんの話を聞いたことはなかったよ。去年、おじいちゃんが亡くなってしばらくして、泉澤錠棚管理舎から葉書が届いたんだ。おじいちゃんが名刺を持っていたから、訃報を伝えていたんだ。葉書には、おばあちゃんに管理舎へ来るようにと書いてあって、預けたものがあるなら取りに行かなきゃって思ったんだけど……」
そこまで話して、耀太はふと冷静になった。
「って、瀬野がなんでそこまで泉澤さんのことを知っているの!?」
耀太は、実光が知っていて当然のように話す口ぶりに、強く関心を持った。
耀太の熱量とは対照的に、実光はあっさりと答えた。
「泉澤静漉は、僕の育ての親だから」
突然告げられた事実に、耀太は固まった。
「……時々、仕事を盗み聞きしていたんだよ」
悪戯っ子のように口の端を上げて、実光は言った。
耀太は、おそるおそる訊ねた。
「そんな話、俺にしていいの……?」
さらりと放たれた答えのなかには、複雑な家庭事情が垣間見えていた。
けれど、実光は曖昧に微笑するだけだった。
「あの人に会ったことがある同級生なんて、耀太くらいだろう」
耀太は実光の話を受け止めながらも、あの人、という呼び方に距離を感じた。
開けられていた窓から風が入り、日除けに引かれていたカーテンが穏やかに揺れた。
「……座るか」
実光は座布団を配り、二人は向かい合って座った。
「食べるか? 柏木が実家から送られてきたものを分けてくれたんだ」
実光は、自分の勉強机に載っていた、テトラ型の紙の包みのてっぺんをつまんだ。
耀太は実光が封を開けた菓子を貰う気分ではなく、首を横に振った。
耀太は、心配そうに言った。
「泉澤さんに会いたくなくて、帰らないの? 意地悪をされたりするの?」
実光は、菓子の包みを広げながら言った。
「そうじゃない。……他人に構われ過ぎると、居心地が悪いこともあるんだ」
実光は黄色い金平糖を一粒つまむと、それを頬張った。硬い角を噛むカリッという音が、やけに物静かな部屋に響く。
口のなかの金平糖を食べきって、実光は言った。
「僕は、あの家に行くまでの記憶がないんだ。おまえは、僕のことを知りたいと言ってくれたけど、……僕は、これが僕だと堂々と言える自分を知らない。この名前が本名なのか、どこの生まれなのか、それすらわからない。わからないなりに、どうにか今の自分を作り上げた」
実光は、風でふわりとふくらむカーテンを眺めていた。
そして、続けた。
「僕の記憶も抜き取られてしまったのだと考えるのは、妄想が過ぎるかな」
虚ろな目でカーテンを見ている実光に、耀太は言った。
「……なんのために?」
「なんのためだろう」
答えの出ない会話は、そこで途切れた。
耀太は言った。
「俺のおじいちゃんが泉澤さんに生前預けていたのはね、おばあちゃんとの思い出だったんだ。おばあちゃんがそれをどうやって受け取ったのかは、別の部屋で待っていた俺にはわからない。おばあちゃんも、椅子に座って手に触れられただけで、なにをされたのかはわからなかったって。……でも、おじいちゃんが見ていた景色が見えるようになったって言うんだよ」
「耀太は、おばあさんの話を信じたのか?」
「うん。ほかの家族に話しても、思い出話を聞かされたんだろうって言われちゃうんだけど、俺は、感激するおばあちゃんの姿を見ていたからね」
耀太は、嬉しそうに言った。
「ここは、どんな記憶にも出会える町だと言われているだろう? おばあちゃんは、それが叶ったんだ。あれから、おじいちゃんが見ていた思い出を嬉しそうに何度も話してくれた」
「……あの人の能力を、そんなふうに使う人もいるんだな」
静漉を頼りに様々な客が訪れていることを知っている実光には、耀太の祖父の行動は新鮮に感じられた。
「おばあちゃんを幸せにしてくれた能力を、誰かを不幸にするために使っているとは、あまり考えたくないな。……って、これはただの俺の願望だけど」
耀太は、実光を見て言った。
「俺、自分のことしか考えていなくて、しつこかったよね。ごめん」
自分の告白が想像もしない部分で実光を苦しめていたかもしれないと思うと、耀太は胸が痛んだ。
「べつに。謝らなくても」
ぶっきらぼうでも、実光の返事に不快な感情はなかった。それは、耀太には救いだった。
耀太は気を取り直して言った。
「俺にも、金平糖ちょうだい」
実光が裂いた包みのなかには、黄色、ピンク色、水色といったカラフルな金平糖がひしめいていて、耀太は、水色のものを一粒つまんだ。
「これ、何味?」
「ラムネ味、かな」
実光は、パッケージの記載を確かめる。
「ラムネ? ……あっ、ラムネだ」
耀太は、金平糖を舌の上で転がして味わう。
「ほかの味は?」
「みかんといちごって書いてある」
実光がさらに勧めると、耀太はピンク色の金平糖をつまんだ。
しかし、今度は金平糖を上に軽く放って、口で受け止めてみせた。
「うん、おいしい」
「そういうの、行儀がわるいぞ」
呆れる実光に、耀太はからかって言った。
「瀬野は、できないの?」
実光は、ムッとして言い返した。
「そんなの、やってみないとわからない」
実光は黄色い粒を適当に上へと投げてみたが、落ちてきた金平糖は口ではなく頬に当たり、弾んで畳へと転がった。
「……コツは?」
その結果に不満だった実光は、畳に落ちた金平糖を拾って言った。
「コツは、高く上げなくてもいいんだよ。こうやって……」
耀太は、話しながら手本を見せるつもりだった。
ところが、耀太の手から離れた水色の金平糖は、耀太が思ったよりも高く上がってしまった。
「あっ、」
反射的に金平糖を追った耀太は、実光のほうへと動き、
「おいっ!」
「うわっ」
耀太が実光にぶつかると気づいたときには、すでに実光を押し倒すかたちで二人共に倒れ込んでいた。
……畳に打ちつけた頭と背中が痛い、と実光は思った。
そして冷静さが段々と戻ってくると、横を向いていた自分の顔のすぐそばに、耀太の顔があることに気づいた。
しかも、二人の唇はわずかに触れ合っていた。
「――え?」
実光が声を発すると、耀太も気がついたのか、慌てて実光から退いた。
「ご、ごめんっ!」
耳まで赤くして動揺する耀太を見て、やはり触れたのだと、実光は確信する。
実光がのそりと起き上がって向き合ったものの、二人の間に流れる空気は気まずかった。
「……頭、打ってない?」
耀太がそっと訊ねるも、実光は目を合わせることができなかった。
「打ったけど、平気」
「そ、そっか……」
重い沈黙が生まれてしまうと、耀太は腰を上げた。
「あー……、俺、帰る荷物をまとめなきゃ。えっと、また、夕飯のときに」
「……ああ」
耀太は、ドアを静かに閉めて部屋を出て行った。
耀太が去り、がらんとした部屋で一人、実光は大きなため息をつく。
「こんな初めてなんて。あいつ……」
憎まれ口を叩きながらも、実光は胸が苦しかった。まだ認めたくない感情が、胸の内で渦巻いている。
実光の周りには、包みからこぼれた色とりどりの金平糖が散らばったままだった。
夏休み中も、寮のスケジュールは通常どおりだった。
起床後に掃除をし、食堂で朝食をとり、夏期講習や部活動など各々の目的で学校へと向かう。
それでもお盆が近づくにつれて寮内の生徒の数は減っていき、夏休み前半の夏期講習が終わった頃には人気がなくなっていた。
夕方になり、実光が第二談話室を通りかかると、二人の生徒が壁にかけられたテレビを見ていた。高校野球の熱戦を伝える実況が廊下にまで響いている。
階段を下りて食堂に着くと、厨房は夕食の準備中だった。
実光に気づいた調理中の女性が、カウンター越しに声をかけた。
「お盆休み中のお弁当の申し込みなら、そこのプリントに記入してね」
「はい」
入口付近のテーブルに、文鎮でプリントの束が押さえられていた。
通常はお盆ともなれば寮ごと閉まるものだが、一年中寮にいる管理人が幻燈町出身で帰省もしないため、寮に残る希望者がいる年にはお盆と年末年始も開けられていた。そして、数えるほどでも希望者は毎年いるのだった。
去年の夏も寮で過ごした実光には、勝手はわかっていた。
窓からは蝉の声が止むことなく入り込み、うだる暑さのなか、活気のないくたびれた寮は気だるい空気に包まれる。
食堂も大浴場も貸し切りのように悠々と使えて、いつもとは違う、少し時間の進みが遅くなった錯覚をおぼえる日々が過ぎていく。
実光は、今年もそうなるのだと思っていた。
ある日の午後、エアコンを効かせた部屋に寝転んだ実光は、ラジオを聞いていた。
勉強机に置いた、手のひらサイズのつるりとしたキューブ型ラジオからは、古い洋楽が流れてくる。
「……バイトにすればよかったな」
実光は、ぽつりと言った。
それから、なにかを思いついたように起き上がると、キューブの蓋に触れてスイッチを切った。
夏になってからというもの、つばめ喫茶の客層は平日でも若い顔ぶれが多くなっていた。
実光は、ちょうど空いたソファー席に着く。
「アイスコーヒーをください」
「アイスコーヒーをお一つですね」
サツキくんが注文をとって去ると、実光は持参した本をひらいた。
いつもより賑やかな店内が、今の実光には心地いい。耳に入る会話から、カウンター席の男女が写真好きの観光客であることまで知れてしまう。
しばらくして、ドアベルがリン、と鳴った。
入店した客が、サツキくんの案内を待たずにソファー席へと向かってくるのが、実光には足音でわかった。
そして、この足音が近づく感じは、以前にもあったことを思い出した。
その客は、実光に話しかけた。
「ここ、いい?」
実光が怪訝そうに顔を上げると、目の前には、清潔なシャツを纏った三十代と思われる男性が立っていた。
「……どうぞ」
実光は、初めて見る顔に、若干戸惑いながら言った。
手ぶらの彼は、実光の正面を避けて座ると、本棚から手に取った本をぱらぱらと眺める。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーでございます」
サツキくんの声で、実光はようやく男性から視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
サツキくんはグラスと伝票を置くと、今度は慣れた様子で向かいの男性に話しかけた。
「多賀幸さんは、アイスコーヒーでよろしいですか?」
「ああ。あと、いつものチーズケーキを貰えるかな」
「はい、チーズケーキをお一つですね」
サツキくんが暖簾の奥に消えると、ソファー席には、タカコウと呼ばれた男性が本をめくる音だけが聞こえるようになった。
実光は、アイスコーヒーにガムシロップを垂らし、氷を鳴らして混ぜながら自問していた。
今、誰が来ることを期待したのか。
淡い期待が膨らんだあとのしぼんだ余韻は、実光の心に貼りついてなかなか剥がれなかった。
「瀬野」
階段を三階まで上がってきた実光を、下りようとしていた宗司が呼び止めた。
荷物を持ち、出かける様子の宗司に、実光は言う。
「和佐。今日、帰るんだっけ」
「帰るって言っても、二、三日ね。そういえば、耀太は日曜に戻るってメッセージが来ていたよ」
「……そうか」
耀太が帰省してから、すでに二週間以上が経っていた。
実光は物足りなさに慣れてはきていたものの、急に日曜の訪れが楽しみに感じられるようになったことは否めない。
「耀太に、はっきり返事をしたらどう?」
実光が階段を上りきるのを待って、宗司は言った。
「返事? 告白の? ……しただろう」
「していないだろう」
実光が当然のように答えるので、宗司は苦笑した。
それから、宗司は耀太を思い浮かべて言った。
「耀太のこと、僕は好きだな。行動力はあるのに、なんか不器用で」
実光は、呆れたように言った。
「ああいうのを、不器用っていうのか?」
「そうじゃない? ……瀬野にだって、いきなり告白しないで、時間をかけてもよかったはずなのにね」
周りに人の気配はなかったが、宗司はデリケートな話を小声で言った。
宗司の言うことは、尤もだった。
「耀太が来てから、瀬野は楽しそうだよ」
実光は、今度は不服そうに言い返した。
「いつ僕が楽しそうにしていた? 平穏だった日常をめちゃくちゃにされているんだぞ」
実光の熱がこもる反論を聞いて、宗司は吹き出して笑った。
「それが楽しそうだって言っているんだよ。あんまり待たせていると、耀太だって気持ちが変わるかもしれないよ」
「それなら都合がいい。……それに、仮に僕がはっきり振っても、あいつにとってはすぐに笑い話になるよ」
実光が勢いに任せて言うと、宗司は悲しそうに答えた。
「……そんな人、いないと思うよ」
実光は、言い過ぎたことに気づいて口をつぐむ。
宗司は、まだ粘って言った。
「っていうか、振ることが前提なの?」
「和佐は、僕にあいつと付き合えっていうのか?」
「その選択肢もありだろう?」
実光は返事に困って、再び沈黙を選ばざるを得なくなる。
すると、宗司は実光の肩をぽんと叩いた。
「瀬野も素直になったら?」
「……どういう意味」
「さあね」
そう言って、宗司は階段を下りていった。
一人残された実光は、壁に寄りかかって床を見つめた。
付き合うという返事など、実光の考えには微塵もなかった。自分と耀太では違いすぎていたし、大体、自分が耀太を好きだという確証もない……と思ったところで、脳裏に、耀太の唇が触れたときのことが思い出された。
思考とは裏腹に、実光の胸は、あの日と同じように耀太を感じて苦しくなった。
あの日の出来事を気まずく感じたまま、耀太は帰省してしまっていた。
――耀太が来てから、瀬野は楽しそうだよ。
宗司が言ったことは、事実なのかもしれなかった。
「僕は、楽しんでいたのか。だから……」
耀太の不在を浮き彫りにする寮内の静けさに、実光は虚無感を重ねた。
実光が部屋に戻ると、ドアノブに“事務室へ”と筆で書かれた黒ずんだ木札が下がっていた。
実光は、木札を持って事務室へと向かった。
「失礼します。303の瀬野です」
ノックをして戸を引くと、女性の職員が一人、デスクワークをしていた。
「ああ、瀬野くんね。宅配便が来ていたの」
実光が木札と引き換えに受け取った荷物には、差出人の欄に泉澤静漉の名前があった。
部屋へ戻って包みを解くと、なかから出てきたのは、封筒と厚みのある青色の丸い缶だった。
封筒をはさみで開封して中身を取り出すと、一筆箋と一万円札が重なっていた。一筆箋には、万年筆で整った文字が記されていた。
『お客様に戴いたお菓子が実光の好きなものだったので送ります。それと、たまには外にでも食べに行ってください。身体には気をつけて。』
青い缶の中身は、開けなくてもクッキーだとわかっていた。
子どもの頃にたまたま好きだと言ったことで、養父はいつまでもこのクッキーが好きだと思っているらしく、実光は小さくため息をついた。
土曜日の夕方、祭囃子と共に二台の山車が幻燈町を練り歩いていた。
賑やかな祭囃子は丘の上にある寮にまで聞こえ、実光は見えはしないことは承知の上で、部屋の窓から顔を出してみる。蝉はまだまだ元気で、空も明るい。
そのとき、ドアがノックされた。
親しい友人は皆帰省しているはずなのに、管理人だろうかと思って、実光はドアを開ける。
「はい……」
「ただいま! 瀬野!」
ドアを開けた先に立っていたのは、荷物を手に提げた耀太だった。帰省前よりも日に焼けた額に汗をかいて、耀太はにこにこと実光を見つめている。
「あ……、えっ?」
実光は、事態が把握できずに、言葉に詰まった。
「びっくりした?」
耀太は、悪戯っぽく笑う。
「……日曜に戻るんじゃなかったのか」
「今日の電車に乗れそうだったから、早めに戻ってきたんだ」
「混んでいただろう」
「うん。でも、明日のほうがもっと混むよ」
久しぶりに話す耀太は、いつもの耀太だった。
実光は、耀太との再会に緊張が走らなかったことに、胸を撫で下ろした。
しかし、それと同時に、耀太はもうあのキスをなんとも思っていないのだろうと思うと、寂しくも感じた。
「ねえ。混むといえば、メインストリートもこの時間のわりに人通りが多かったんだけど、なにかあるのかな?」
「今日は淵守神社の夏祭りなんだよ」
「ああ、それでお囃子が聞こえていたんだ!」
今はもう聞こえなくなってしまった祭囃子の存在に、耀太は合点がいったようだった。
「……行ってみるか? お祭り」
実光がそっと切り出した提案に、耀太はきょとんとしたものの、すぐに満面の笑みに変わった。
「行く! 行きたい! 荷物を部屋に置いてくるから、待っていて」
耀太は、瞬時にエンジンがかかったようにその場から駆け出した。
「急いでいるわけじゃないんだから、慌てるなよ」
「わかった!」
実光の呼び止めにも顔だけ振り返って、耀太は結局、廊下を走っていった。
「……わかっていないだろう」
実光は苦笑してドアを閉めると、出かける支度を始めた。
実光の心は、自分でもわかるほどに喜びが湧き出していた。
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