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実光編
1,光りの午後
しおりを挟む斜面に立つ木々の間から、実光は光の湧く池を見下ろしていた。
並々と水を湛えたその池からは、綿毛のような白い光がどんどんと湧いては上昇し、闇に消えた。
まだ少し袖の長い詰襟から覗いた彼の手は、冷たい木肌に触れながら、緊張して指先に力がこもった。
彼は瞬きもせず、つぶらな黄金色の目で、その光のなかに自分の記憶を探していた。それは、皆が持っているはずの、自分にはないものだった。
実光は、きっとその光さえ見つかれば、心にある空白を埋めることができるのではないかと思っていた。
しかし、浮遊する光は次第に数を減らし、実光の期待に応えることなく、ただの黒い水面に戻ってしまった。
落胆した気持ちを抱えたまま、実光は帰路についた。
人気のない住宅地は、そろそろ雪でも降ってくるのではないかと思わせる冷え込みにじっと黙っている。
そこへ、正面から歩いてくる二つの人影があった。
ぽつぽつと灯る街灯の明かりに姿が浮かんでは消え、実光の側までやってきたのは、二人の老紳士だった。
「ここでおまえは道がわからなくなったと言っていたな」
「そうだったかなぁ」
すれ違い際にその会話だけが耳に入り、そして彼らの服装が半袖だったことを奇妙に思って、実光ははっと背後を振り返った。
しかし、二人の姿はすでに、夢のように消えてしまっていた。
1,光りの午後
春休みのことだった。
実光は、自身が通う幻燈第一高等学校前のバス停から、市街地へと向かうボンネットバスに乗った。
外観は昔ながらのデザインではあるが、シートも運賃表示器も現代風である車内では、制服姿の乗客は実光のほかになく静かだった。
枝々に赤い蕾を膨らませ、青空の下で花を咲かせ始めた桜並木をくぐりながら、艶やかな深緑色のバスは丘を下りる。
駅前から五キロメートルに渡り延びるメインストリートに差し掛かると、そこはモノクロームで統一された建物が並んでいた。
黒い柱や幾何学模様を取り込んだ窓枠が目立ち、時折見られる金やステンドグラスの装飾が一層華やかに浮き立って見えた。
創業百年を超える老舗の和菓子屋や、今では数少ない活版印刷を続ける工房がある一方、金物屋はカフェに、洋服店は観光案内所にと入れ替わった店もある。
そんな街をアピールするポスターには、“どんな記憶にも出会える街”というキャッチコピーが強調されていた。
実光が乗るバスはメインストリートの途中で左に折れ、住宅街へと進んでいった。
泉澤錠棚管理舎の銘板が掲げられた鍛鉄の黒い門扉から、すらりとした少年とおしゃれをした老婦人の二人組が出てきた。
老婦人はハンカチで目元を拭いながら、少年は安堵した表情を浮かべながら歩いていた。
彼らが曲がり角を曲がると、鞄を手に提げた実光がこちらへと歩いてくるところだった。
二人が実光とすれ違うというとき、少年のほうが、実光に気づいて釘付けになった。
実光の凜とした顔立ちは、きりっとした黄金色の目が印象的で、漆黒の清潔感のある髪はそよ風に揺れていた。紺色のブレザーと臙脂色のネクタイの制服姿から、少年の目には自分と同世代に映った。
見ず知らずの他人であるはずの実光を見て、少年は妙な懐かしさを感じた。
この憂いを帯びた横顔を、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。
会ったことがあるのか、知り合いにでも似ているだけなのか。
一瞬声をかけたい衝動に駆られたものの、少年は祖母に呼ばれて気持ちを抑えた。
実光はというと、二人を一瞥しただけで、颯爽と歩みを止めなかった。
少年は後ろ髪を引かれて実光を振り返ったが、黄金色の目をした少年は、たった今自分達が歩いてきたほうへと角を曲がって行ってしまった。
泉澤錠棚管理舎の前まで来た実光は、迷いもなく門のなかへと入った。
濃灰色の壁に白い窓枠が映え、木造の骨組みが北ヨーロッパを思わせる三階建ての大きな家は、自宅兼錠棚管理舎となっていた。
来客用の玄関ポーチを通り過ぎ、伸ばした枝に小さい可憐な花を咲かせる雪柳を眺めながら、実光は自宅用の玄関へと向かう。
閉まっているガレージの前には、来客のものと思われる有名なイギリスの高級車が駐まっていた。春の空に映えるライトグリーンのボディが、日を照り返して眩しかった。
「ただいま帰りました」
実光が玄関に入ると、すぐに鳩羽が出迎えた。
「実光さん、お帰りなさい。おっしゃっていた時間通りですね」
家主である泉澤静漉の助手を務める若い彼女は、淡灰色のワンピースを身に纏い、肩より短い髪を揺らして品のある笑みを浮かべた。
「鳩羽さん。変わりはないですか」
「ええ。静漉さんもお元気ですよ」
実光は鳩羽の回答に苦笑し、
「鳩羽さんについて訊いたんですよ」
と言った。
すると、鳩羽ははにかんで言った。
「私も、変わりありません」
「そうですか」
実光が家へ上がると、室内もこれといった変化はなく、絨毯の敷かれた廊下に飾られた絵画や調度品はきれいに手入れされて鎮座していた。錠棚がある部屋も扉は開放されていて、以前のままであることが窺える。
実光は、鳩羽と共に廊下を進みながら言った。
「あの表に駐まっている車って、前にも……」
「ええ。午前中から、静漉さんのお客様がいらしているんです」
「へえ……」
実光は、ただ珍しいとだけ思った。彼が人を遠ざけることはあっても、何度も会うほど心をひらける相手がいるとは想像し難いことだった。
階段の前まで来ると、鳩羽は訊ねた。
「実光さんは、今日は泊まっていかれるのですか?」
「一年の荷物を置きに来ただけです。寮の部屋は狭いので、美術の作品や溜まったプリントを置いておけなくて。すぐに帰ります」
実光は、手に提げていた鞄を上げてみせた。
「お茶をお飲みになっていきませんか。静漉さんも、実光さんのお帰りを楽しみにされていたのですよ」
鳩羽の気遣いは有り難かったが、実光の心は動かなかった。
「……ごめんなさい、鳩羽さん。バスの時間があるので」
実光は愛想笑いを浮かべ、階段を上がっていった。
新年度が始まると、実光のクラスは教室が一階から二階へと移った。クラス替えがなく慣れた面々との新学年は、男子ばかりで刺激はないものの、和やかに始まっていった。
ところが、五月の連休が明けてすぐのことだった。
二年一組に、一人の転入生が加わった。
担任教師と共に教室に入ってきた彼は、見るからに溌剌とした生徒だった。
彼は黒板に大きな文字で名前を書くと、
「日向耀太です。よろしくお願いします!」
と、明るい髪色の雰囲気のまま自己紹介をした。
拍手に迎えられた耀太は、担任教師の指示で、一番後ろに設けられていた席に着席した。
「転入にしては、中途半端な時期だよね」
真後ろの席から和佐宗司に話しかけられ、実光は、
「ああ」
と淡白に答えると、転入生にちらりと視線を向けた。
すると、実光は彼とばっちり目が合った。
そのときだった。耀太は実光の黄金色の目にハッとしたかと思うと、音を立てて席を立ち上がった。クラス中が耀太に注目した。
「日向、どうした?」
教師の声に、耀太はすぐに正気に戻ると、誤魔化すようにへらっと苦笑してみせた。
「すみません。えっと……、ノートも、書くものも、全部持ってくるのを忘れました」
耀太の答えに、クラスメイトはどっと笑った。
周りの生徒が耀太にルーズリーフや筆記具を渡すのを見ながら、実光は耀太のリアクションを不可解に思った。
その日は、午前で授業が終わった。
プラタナスが透けるような葉を広げる中庭で、実光と宗司は竹箒を手に砂埃を掃いていた。
早くも初夏の陽気となった日射しのもと、風がきらめいて、実光は手をかざす。
「瀬野くん!」
実光は、唐突に名前を呼ばれて振り返った。
「……だよね?」
渡り廊下に、耀太が立っていた。
「……そうだけど」
実光の返事に、耀太は空のバケツを手にしたまま駆け寄ってきた。
実光の真正面に立った耀太は、実光よりも少し背が高かった。
それから緊張した面持ちになったかと思うと、大真面目に言った。
「瀬野くん、俺と付き合ってください!」
「……は?」
実光は、間の抜けた返事になった。
少し離れた場所で会話が聞こえた宗司は、何事かと思い箒で掃く手を止めた。
耀太は、引き気味の実光にはおかまいなしに言った。
「俺、きみに会いたかったんだ」
「……初対面だよな?」
実光は、舐めるように耀太の頭から爪先までをまじまじと見た。
耀太は言った。
「三月の終わりの頃、泉澤錠棚管理舎の近くですれ違ったんだ。瀬野くんは、憶えていないと思うけど」
「泉澤……?」
実光は、明確に発せられた管理舎の名前に、一瞬眉間に皺を寄せた。
そして、春休みのことを思い出した。
「たしかに、春休みに一日だけ家に帰ったな。学校に寄ってからだったから、制服は着ていて……それで幻燈第一だとわかったのか」
独り言のような実光の言葉に、耀太は頷く。
「やっぱり、瀬野くんだったんだね」
実光は肯定するのを避けて、代わりに訊ねた。
「なんでそんなところにいたんだ。おまえ、幻燈町の人間じゃないんだろう?」
「俺のおじいちゃんが泉澤さんのところに預けたものがあって、それを取りに行ったんだ」
「預けたもの、ね……」
実光はそれ以上は詮索せずに、質問を変えた。
「それで? 付き合えとか、会いたかったっていうのは、なんなんだ?」
すると、耀太は臆することなく、まっすぐに告げた。
「瀬野くんを、好きになったんだ。一目惚れ、しました」
実光を見つめる耀太の目は、本気だった。
実光はぽかんと口を開け、唖然とした。目の前の男がなにを言い出したのか、理解できなかった。
さらには、信じられない仮説が思い浮かび、心臓がひやりとする。
「おまえ、もしかして、転校してきたのって……」
「うん。瀬野くんに会えたらいいなとは思っていた。まさか、同じクラスになるとは思わなかった」
耀太は実光の仮説を否定するどころか、堂々と言ってのけた。
そこへ、宗司が竹箒を置いてやって来た。
「それで、教室で瀬野を見つけてびっくりしていたのか」
耀太は頷き、
「和佐くん、だよね」
と言った。
「名前、覚えてくれたんだ。ありがとう」
宗司は穏やかに応える。
しかし、実光は呆れていた。
「一目惚れって。中身もわからないのに、マネキンを好きだと言っているようなものじゃないか」
「わからないから、知りたかったんだよ。知りたかったから、転校してきた」
「それだけのために?」
実光の言葉には、怒りにも似た感情が混じった。
「俺にとっては重要なことだよ。気になって、居ても立ってもいられなかったんだ」
「おまえ……、ばかなのか?」
熱がこもる耀太とは対照的に、実光は怪訝な表情を隠せなかった。
実光の隣で、宗司は苦笑しながら言う。
「その理由で、よく親が許してくれたね」
耀太は、真剣に答えた。
「何日も話し合ったよ。だけど、俺が一度決めたら変えないって知っているから。さすがに学校に話すときには、ここで勉強を頑張りたいと言ったけどね」
それを聞いて、宗司は感心して笑った。
「やっていることはめちゃくちゃなのに、なぜだか、日向くんをすごいと思ってしまった」
「和佐?」
宗司の感想に、実光は驚いた。
宗司は言った。
「日向くん。せっかく同じクラスになったんだし、仲良くしよう。くん付けはしなくていいよ、僕もやめるから。なんて呼べばいい?」
「大体は下の名前で呼ばれていたよ。耀太って」
耀太は、喜んで答えた。
「わかった、耀太って呼ぶね。瀬野も、聞こえたよね?」
宗司は、あくまでこのおかしな男を容認する姿勢だった。
「和佐は、僕とこいつのどっちの味方なんだ」
宗司の態度に、実光は困惑していた。
「僕は公平な立場だよ。いいじゃない。変わっているけど、わるい人ではなさそうだ」
宗司は気軽に、実光と耀太の肩をぽんぽんと叩いた。
そこへ、渡り廊下を通りかかった生徒が声を上げた。
「あっ、こんなところにいた! 日向、さっさとバケツに水を汲んでこい!」
耀太は、自分がバケツを持っていた理由を思い出して慌てた。
「ごめん、今行く! ……この話は、また今度!」
実光と宗司は、バタバタと駆けていく耀太の後ろ姿を見送った。
耀太が去っても、まるで台風が通りすぎたかのような余韻が、実光と宗司の間には残っていた。
静かな時間が戻ってきたところで、宗司は言った。
「告白してきた人に説教する人なんて、初めて見たよ」
実光に向けられた言葉は、面白がっているようにも呆れているようにも聞こえる。
「……あいつ、本気で言っているのか?」
実光は、まだ表情を強張らせていた。
「信じていないの?」
「信じられるか、こんな話。本当だったら、ただのストーカーだぞ」
実光は、馬鹿馬鹿しいと思った。
それなのに、実光の脳裏には、耀太が口にした台詞が繰り返されていた。
――わからないから、知りたかったんだよ。
実光は告白を受けることは初めてではなかったし、自分でも動揺しているとは思わなかった。
しかし、奇妙な出会いだったと知ったせいだろうか。
耀太の想いが突然の嵐のように実光の心に爪痕を残していったことに、このときの実光はまだ気づいていなかった。
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