ニャル様のいうとおり

時雨オオカミ

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漆の怪【ひとはしらのかみさま】

黒猫とアリシアの覚悟

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 三人で資料館まで戻ると、アリシアからまた連絡が入っていることに気がついた。

『あたしの部屋に来てください』

 それを見て俺達は彼女の部屋へと向かい、チャットで着いたことを伝える。
 すると、恐る恐るとアリシアが扉を内側から開いた。

「入ってください」

 頷いて入ると、窓の近くに澄ました顔で黒猫が座っていた。

「話を聞き入れるつもりはないよ、アリシア」
「いいえ、あたしも本気なんだから!」

 俺達が入った途端に言い争いを始める一人と一匹。
 その様子に困惑しながら歩み寄り、話を訊く。

「アリシアちゃん、いったいどうしたんだ? なんで言い争いをしてるんだ?」
「あたし、ペティさんから……いえ、よもぎさんからナイフを貰いましたよね。協力してくれる怪異を探せって、そう言われました。それでいくら考えても……やっぱり思い浮かぶのはジェシュの顔だったんです」

 紅子さんは断っているし、彼女が知っている怪異は少ない。しかし消去法で選んでいるわけではないだろう。なんせ、あいつは元アリシア達の飼い猫だ。
 これ以上ないというくらいの組み合わせだろう。
 ……この黒猫が邪神となってしまっている。それだけが気がかりだが。

「今ここでチャンスを逃したら、もう二度とジェシュに会えなくなる気がして……ずっと引き止めてたんです」

 その言葉にハッとする。
 今このときを逃したら次はない。それはきっと彼女の勘なのだろうが、俺もときおりそんな気持ちになることがある。紅子さんへ告白するのは今じゃない、今告白したらきっと彼女は俺の前からいなくなってしまう。そんな予感を俺も抱くことがあった。
 だからアリシアの言葉も、きっとそういうことなのだろう。
 彼女達がなにかをするなら、今しかないんだ。

「だから、ボクは嫌だよ」
「どうして? お願い、戻ってきてよジェシュ」
「アリシアったら身勝手だよね。ねえ、分かってるの?」

 黒猫はパタリ、パタリと尻尾を振りながら剣呑な声で尋ねる。

「キミはボクを捨てたんだ」

 俺と透さんは、その言葉に息を飲んだ。
 紅子さんはどうやらこの展開を予想していたようで、黙ったままそっと目を伏せる。しかし、彼女が口出しをすることはない。

「……それは」
「そうでしょ? キミらはボクを捨てた。どの口で一緒にいてほしいって言うのさ?」

 黒猫から残酷な話が飛び出し、アリシアは泣きそうな顔で俯く。
 アリシアとレイシーは黒猫……ジェシュに対して否定を繰り返した。もうお前はジェシュじゃない。可愛い飼い猫を返せ、と。それは無数の顔を持つ邪神へと成ってしまった黒猫の存在意義を奪うには十分な言葉だった、
 彼女達が黒猫は黒猫だと認識し、そうあれと望んでいたからこそ自分自身を見失うことのなかった黒猫は、そうして最後の柱を壊され、本物の邪神へと堕ちてしまった。
 そんな彼をアリシアはもう一度〝手に入れよう〟としている。手繰り寄せようとしている。
 猫はもう既に可愛らしい彼女達の飼い猫ではなく、邪神となってしまっているのに。

「それでもよ! あたしにはあんたしかいないっ、きっと他に誰かが立候補してきても、違和感があるわ! 確かにね、あたしは一度紅子お姉さんにだって頼もうとした! それは認めるわ! でも、きっと、ダメだった。あんたを見つけたとき……そう思ったの」
「そんなこと言われても、ボクは靡いたりしないよ? そんなこと言ってまたキミらはボクを捨てるかもしれない。都合のいいときだけ使ってポイッて捨てるかもしれない。そんなことを思っちゃうんだ。だから嫌だ。ボクだけが辛い思いをするなんて絶対に嫌だ!」

 また捨てられるかもしれない。
 一度捨てられた黒猫は不安になってしまうんだろう。
 求められても、すぐに捨てられる。そんな意識がずっとついて回ることになってしまう。
 一種のトラウマのようなものだ。黒猫は性格自体は前と変わっていないみたいだし、邪神であるというだけで害があるのかどうかは微妙なところ。勿論、神内みたいな変な性癖もない。だが、邪神だ。
 俺達自身もそんな色眼鏡で見てしまう可能性は高い。

「……それでもよ! もう捨てたりしない、もう見失わない、もう離さない! だからもう一度だけあたしにチャンスがほしいの! お姉ちゃんを守るために、一緒に強くなりたいの! お願い、ジェシュ!」
「やだ、嫌だよ! そんなの一人でやればいいだろ!」
「あなたじゃないとダメなの!」

 言い争いはなおも続く。
 けれど、俺達が口出しをするわけにもいかない。これはアリシアと黒猫の問題だからだ。俺達ができるのはただ、行く末を見守ることだけ。

「でもね、アリシア。ボクはもうキミのことが信じられない。信じられないんだよ」
「……っ、もう一度信じさせてみせる! だからジェシュ、お願い! あたしに力を貸して!」

 黒猫が俯く。
 アリシアの必死な様子に、少なくとも俺は心を動かされている。
 アリシアはそれだけ後悔しているし、ジェシュを求めていた。
 けれど、現実はそう簡単にはいかない。

「……なら、示して見せてよ。このボクに、キミの覚悟」
「覚悟……? 言って、なにをすればいいの?」

 即答するアリシアに黒猫は俯いたままニヤリと口元を歪ませる。

「対価だよ。古今東西、神や怪異と約束事を取り決めるなら、対価を渡すものだからね。まさかタダでボクに協力してもらえると思ってないよね?」
「あたしに払えるものならいいわ。でも、お姉ちゃんを守るために強くなりたいんだから、命だけはあげられない。それだけ先に言っておくわよ」

 こちらも即答。
 いよいよ不穏になってきた会話に俺は苦言を漏らしそうになるが、隣で様子を見守っている紅子さんによって太ももがつねりあげられる。
 あげそうになった悲鳴を飲み込んで、黙っていろと示された通りにしていると、黒猫は哄笑した。

「いいよいいよ。別にボクだって命がほしいわけじゃないんだ。ボクがほしいのは、保険。ボクを間違っても捨てられないように、キミに枷をつける」
「……内容を言ってちょうだい」

 アリシアは真剣な顔で黒猫と向き合ったまま、言う。

「ボクに、キミの肺をひとつ食らわせてほしいんだよね」

 ひゅっ、と息を飲む。
 背筋を冷たいなにかが這い回るような感覚。
 後ろで待機している俺がここまで恐ろしく感じるんだ。アリシアはもっともっと黒猫からの重圧がかかっているだろう。
 それに、肺をひとつ食らうだと? そんなことしたら死んじゃうじゃないか! 

「おい、さすがにそれは見逃せないぞ。そんなことしたらアリシアちゃんは死ぬだろうが! 命は取らないってさっき言ってただろ!」
「もちろん、命は取らない。肺を食べたあとはボクが体の一部を残して、アリシアの失った肺の代わりをしよう。大丈夫、知識なんてなくてもなんとかなるよ。ボクは邪神だ。知識を〝みんな〟からもらってくる。どうとでもなるよ」

 信用できるのか? 正直、胡散臭さしかないのだが。

「でもね、ひとつだけ注意があるんだ」
「聞くわ」
「食べさせてくれるなら、ボクほキミの体の中を通り抜ける。それは数秒の出来事だよ。でも、ボクがキミの肺を食べているほんの数秒の間、キミは自分の臓器が喰らわれる痛みを感じることになる。もしかしたらあまりの痛みにショック死しちゃうかもしれない。そんな痛みだよ」

 数秒間。されど、数秒だ。
 臓器を喰われる痛みなんて想像もつかないが、きっと数秒でも何時間もの責め苦を受けるような、地獄の苦しみに苛まれるだろう。

「もちろん、食べ終わったらすぐに痛みはなくなるし、ボクが肺の代わりを置いていってあげるから、通常通りに戻るよ。でも、ショック死の可能性はある。そんな苦しみを受けてまで、キミはボクがほしいの?」
「受けるわ」

 即答……だった。
 アリシアは悩むことすらなく、黒猫を真っ直ぐに見据えて答えたのである。

「正気?」
「正気も正気よ。それだけあたしは本気なの。耐えてみせるわ。絶対にあたしは死んだりしない。だから、ジェシュ。やれるもんならやってみなさいよ!」
「はは、アリシアって馬鹿だなあ。そこまで言われちゃったらやらないわけにはいかないね」

 黒猫は愉快そうに笑うと、もう一度確認するように「本当にいいんだね?」と繰り返す。
 アリシアは深く深く頷いて「来て」と言った。

「あなたがいないと不自由な体にする。そうやって、捨てられないようにしたいんでしょう? それでジェシュが安心するなら、あたしは耐えてみせるだけよ」
「……分かってたんだ。そう、それなら、アリシアの覚悟。見せてよ」

 黒猫が動く。
 足音もなく、ひたすらまっすぐにアリシアへと向かい、跳躍。
 アリシアの胸に目がけて飛び込んでいった猫は、ぶつかることなくそのまま彼女の体をすり抜けた。
 その瞬間、アリシアがくわっと目を見開き血を吐き出した。
 そして体を折り曲げ、床に倒れ臥す。

「アリシアちゃん!」
「アリシアちゃん、大丈夫!?」
「……アリシアちゃん、大丈夫。生きているよ」

 紅子さんの言葉でハッとする。
 倒れながらもアリシアの手は、痛みの余韻に手を震わせていた。

「生き残って……やった、わよ」
「驚いた。アリシア、すごいよ。これで、文句なしにボクはキミの物に戻ったことになる。仕方がないから、協力してあげるよ」
「そ、う……」

 アリシアは黒猫の言葉を聞くと、嬉しそうに頷いた。
 そして、胸の部分をギュッと手で押さえつけながら身体を起こす。歯を食いしばり、まだ荒い息を吐きながら彼女は笑顔を浮かべた。

「よかった」
「うん、仕方ない。ここまで愛されちゃったら、ボクも応えないといけないよね。ねえ、アリシア」
「なあに?」
「もう一度、ボクに名前をちょうだい」

 首を傾げるように黒猫が呼びかける。

「名前……」

 そこで、紅子さんが咎めるように口を開いた。

「一応言っておくよ。アリシアちゃん、怪異に固有の名前をつけるということは……その怪異の親や恋人のような存在になることを意味する。キミだけの信仰で成り立つ存在。キミだけの畏れで成り立つ存在。だけれど、だからこそキミが信じれば信じるほど彼の力は強くなる。そういう怪異になるんだ。彼は邪神だからなおのこと。でも、キミがいることで邪神を一人抑えられることも意味するんだ。よく、考えてね」

 それは、以前雨音の怪異の際に言っていたことだ。
 怪異に名前をつけるということは、責任を伴う。へたしたら一生を共に過ごすことになるかもしれない。そんな重い関係になることを意味する。
 けれどアリシアは、紅子さんの警告に対して目を瞬かせると「この子となら平気です」と断言していた。

「あたしとこの子は、共通の目的を持った〝同盟者〟ですよ。そう、みなさんと同じ同盟です。お姉ちゃんを守るためにこの子と一緒に、あたしは強くなりたい。だからね」

 そこで区切ってアリシアは黒猫ともう一度真っ正面から向き合う。
 それから、黒猫をそっと抱き上げて額と額をくっつけて目を瞑った。

「あなたの名前は、〝ジェシュ〟……もう一度同じ名前で、やり直そう? あたしは、あなたと一緒に強くなっていきたい。お姉ちゃんを、誰かを守れるようになりたい。だから、協力して」
「……承ったよ、アリシア。ボクのあるじはキミだ」

 淡く優しい、水色の光が二人を包み込む。
 そうして、気がつくとアリシアと額を合わせていた黒猫は人型に変化していて、二人は額を合わせたまま笑い始めた。

「もう一度、よろしく」
「こんなに愛されちゃったら仕方ないね。アリシア、よろしくね」

 二人の間に、黒猫の瞳のような明るい黄色の石が現れる。
 それは宝石のようで、そして彼女達の信頼の証のように俺には見えた。

 ちょうどアリシアの十字架ナイフに合いそうなその石を、二人の手でゆっくりと窪みに嵌めた。

「これでボクはもう、キミのもの」
「そして、あたしはもう、あなたがいないと生きられないほどに不自由な体になった。もう、離れられないわ」

 ある意味での呪い。
 呪いのような、関係。
 けれど、俺にはどうにも眩しく思えてならなかった。
 究極の信頼で結ばれた関係。彼女達の言う〝同盟者〟。切っても切れない関係。

 チラリと紅子さんを盗み見れば、彼女はどこか優しい瞳で二人を見つめていた。
 そして透さんがパチパチと拍手を始めると、釣られて俺と紅子さんも二人を祝福する。

 笑い合う一人と一匹に、ほんの少しだけ羨ましいと――そう、俺は眩しいものを見るように彼女達を見つめていた。
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