ニャル様のいうとおり

時雨オオカミ

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伍の怪【シムルグの雛鳥】

ニガサナイ

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 無事音楽室から出ることができた二人は、すぐそばの第二美術室へと足を踏み入れた。

 いろはからすればつい先刻までいた場所のはずなのだが、道中様々なことがあったせいか美術室というだけでほっと安堵している。

 勿論描きかけのキャンバスには布が掛けられて見えないようにされているし、ペンキの缶が転がってできた赤い文字もそのままになっている…… と思っていろはが文字を覗いたのだが、その顔が曇ったことでそうではないことが分かるだろう。

 ナヴィドは扉の付近で番をしていたが、彼女の変化にいち早く気がつくと、その場から動かず 「どうしたんだい?」 と心配気に言った。

「いえ…… その、出るときはこの文字が〝 かえさない 〟だったはずなんですけど、〝 にがさない 〟に変化しているみたいでおかしいな、って」
「それは確かにおかしいね」

 赤い血文字にも見えるペンキは、確かに平仮名で〝 にがさない 〟と書いてあるようだった。
 どう頑張っても文字が流れたで済まない変化である。

「これは、またなにかあると思った方がいいのでしょうか?」
「さあどうだろう。気をつけることぐらいしかできないから、あんまり深く考えない方がいいんじゃないかな。いざとなったら私が守るし、ね」
「…… はあ、ありがとうございます」

 薄い反応を返し、いろははそのまま自分の受け持った机へと歩み寄って道具を回収していく。
 その際には刃こぼれした自身のカッターナイフを見つけ、どうしようか迷った挙句に長い時間替えの刃を探していた。
 新品のスケッチブックは緊急事態、ということで教材の中から拝借することにしたようだ。

「これで大丈夫です…… 次はどうしましょうか」
「とりあえず校舎内を回ってみないことにはどうにもならないね」

 そう会話していろはが廊下に出ると、途端に周囲の状況が一変した。

「空が…… 赤い?」

 廊下はひんやりと冷たい空気が漂い、照明が覚束なくなり、窓から見た景色は上から覗いたアクアリウムではなく血の池地獄に。

 そして、真っ赤な空にポツリポツリとと現れた黒い点は段々と大きくなり、一メートルはある巨大な姿で飛翔して来るのだ。

「イ…… マ…… イツ…………」

 恐ろしく低い男の声と、甲高い女の声が合わさったような不安定な声色で巨大な〝 鳥のようなモノ 〟が言う。

 それを見て非常に心苦しそうな顔をしたナヴィドが 「なんてことだ……」 と呟いた。

「先生、早く逃げよう」

 痛まし気にそれを見つめる彼を、目を伏せたいろはが袖を引っ張り誘導するように走り出す。

 普段付随するはずの敬語もどこかへとやってしまったようで、珍しく焦った様子の彼女はこれでもかと彼を急かした。

「哀れだな……」

 悲しげなナヴィドはそのまま走り出す。
 いろはがすぐ近くまで寄ってきた鳥の姿を横目で見ると、どうやらその鳥の姿は大量の人間が形作っているようだった。

 まるで出来の悪いコラージュ作品を見たときのような、不気味で混ざり合ったその姿。それを認識してからはとても鳥の姿には見えず、醜悪なものとして彼女の瞳には映った。

 しかし、ナヴィドはそれを知ってか知らずか、終始哀れむような目元を変えることなく走り続ける。

「…… っ、西階段がない!」
「ほら、走り続けないと…… !」

 上がってきた西階段が消失し、動揺して立ち止まりそうになった彼女の手を、今度はナヴィドがしっかりと握って誘導した。

 しかしタイムロスをしたせいか、背後で窓硝子の割られる音が盛大に響き、バサバサと重苦しい音が立てられる。

 その度に末端の人間だったものは、ゴムのように弾力のある状態で廊下のあちこちにぶつかり鈍い音を立てた。

「先生、おかしい。廊下に終わりが見えない」
「…… そう、だね」

 そうこうしているうちに二人の行く先に割れた窓硝子が現れ、それが二度、三度と続けば誰だって気がつくだろう。

「ループしてるね」
「ええ……」

 このままでは不毛である。
 イタチごっこも片や人間、片や人間以外と来ればどちらに勝機がやってくるかなどすぐに分かることだろう。

 この鬼ごっこの終わりは来ない。そう判断したいろはは腕に抱えたスケッチブックをぎゅっと抱きしめ、ナヴィドの手を離す。

「ちょっと、いろはちゃん!」
「……」

 いろはにつられて止まったナヴィドが振り返ると、少々動きが遅いらしい鳥は、見た目だけは優雅に羽ばたきながらも彼らから大分引き離されている。

 だが、引き離しているとは言っても、彼らのところに来るまでは30秒と持たないだろう。

「…… っこんなんじゃ、間に合わない!」

 一心不乱にスケッチブックのページに鉛筆を走らせているいろはは、側から見れば気でも狂ったのかと思う行動をしていた。

 スケッチブックには、巨大な鳥の姿が描かれている。

「それに、顔が分からないと似顔絵の意味がないっ」

 筆に迷いを見せるいろは。
 その間にどんどん近づいて来ている鳥が奇怪な鳴き声を上げる。

「いろはちゃん、抱えられながらでも描けるかい?」
「え…… ?」

 ゴツゴツとぶつかる翼を動かしづらそうにしながら鳥が迫る。
 そんな鳥から引き離すようにいろはの手を掴み、引っ張って行くナヴィドが振り返らずに言った。

 その言葉に怒られるとでも思っていたのか、いろはは意外そうにしながら疑問の声を上げた。

「キミのこと、隠れ猟奇マニアだって言う人もいたらしいね」
「……」
「なんでもスケッチブックいっぱいに死体のような恐ろしい絵ばっかり描いてるとか、たとえば鳩だったら、数え切れないほど一羽ずつ特徴の違う死骸を描いてるとかさ」
「……」

 茶化すような軽い口調だが、ナヴィドは至って真剣に語りかけている。それは彼女にも伝わっているようで、あえて沈黙を貫き通していた。なぜなら、それは知られてはいけないことだったからだ。知ってもらいたくないことだったからだ。

( そうだ…… 一度だけ先生にも見られたことがあった。怖かったけど、でも…… だからこそ、わたしは…… )

 いろはは走りながらぎゅっと目を瞑り、繋いでいない側の手で自身の頬を叩いた。

( 言いたいことは、たくさんある。けど、今はそれよりこれをどうにかしないと )

 首を振って彼女は、とても珍しく意志の篭った声色で真っ直ぐと言い放った。

「先生、わたしを後ろ向きに俵担ぎをして走れますか? 無茶を言っているのは分かっています。お願いします……」

 その応えを聴いたナヴィドはにっこりと笑い、 「もちろん、やってみせるさ」 と自信を持って宣言した。

「さあいくよ!」
「はい!」

 走る彼女の手を引き寄せ、ナヴィドが振り返る。

 そして素早く抱き上げる。俵担ぎでは腹が苦しくなってしまいがちだ。表情を歪めたいろはは 「ふっ」 と息を吐くと、そのまま緩やかになったスピードを上げるナヴィドに身を任せた。

「苦しくないかい?」
「これくらいなんとかなります…… だから、アレはわたしがなんとかしてみせます」

 自信を持って宣言する彼女に、ナヴィドは息一つ乱さずくすりと笑った。

「頼もしい限りだよ。なら、キミのことは私が守り切ってみせようじゃないか!」
「はい…… !」

 ガガガ、と天井を削りながら肉厚な翼を振るう鳥は遠からず近からずの場所まで引き離されている。
 ナヴィドの肩の上でスケッチブックを開き、いろはは鉛筆を走らせる。

( 描きづらい…… けど、これしか方法はない…… ! )

 揺れる中、素早く走らされる鉛筆がしっかりと鳥の顔にくっついた人間を描いて行く。

( 顔を描かないと意味がない…… 全体を一気に見送ることはできない…… 一人一人、どうにかするしかない…… ! )

 いろはが最後に顔を入れ、そのページを破く。

「まず、一人目!」

 胸ポケットに入れていたカッターナイフを描いた絵に振りかざす。
 ビリビリ、と縦に裂けた紙に合わせるように、鳥に付いていた霊の一人が菊の花となって散り、その花弁はまるで喜ぶように窓ガラスをすり抜け、空に向かって行った。

( 夜空に戻ったけれど…… 一瞬だけか )

 花弁が空に吸い込まれるようにして消えて行く。

 その一瞬だけは、地獄のような赤い空が群青色の夜空へと変化していた。それに気がついたナヴィドは、肩に乗せたいろはの集中を乱さぬように声を出さずに走る。

「次!」

 ザア、と今度は紫苑の花が散った。

「次!」

 そしてどんどん描くスピードが上がり、鳥を構成している霊達は花となって空に還っていく。

 その花の種類は様々で、エーデルワイス、カランコエ、白百合、レンギョウ、白い朝顔、スイートピー、パンジー、そして勿忘草……とその魂を花弁に変えて去って行くのだ。

「先生、ごめんなさい。ちょっと順番間違えたかも」
「スピードが上がってる…… 軽くなったからか」

 重たいせいでゆっくりだった羽ばたきが、幾人か余計な部分が削がれて素早くなっている。それ故に鳥のスピードも上がり、ナヴィドを追う速さが上がる。

「大丈夫さ」

 それでも息を乱さないナヴィドは笑ってみせる。
 抱えられているいろはには見えないが、雰囲気で察したのだろう。 彼女は「頼りにしています」 と返事をした。

「機動力が高いのなら……」

 彼女が描くのは翼を形作っている霊達。
 数が少なくなったために全体像をしっかり捉え、顔を同時に描ける形をしているため一気に始末しに行った。

「落ちろ!」

 ドサリ、片翼を失い落下した物体がズリズリと体を引きずる。
 もはや形が崩れて鳥のシルエットにすらならないそれらをいろはが描き切る。

 全ての霊が花と散ったとき、途端に黒い霧となって窓の外へと立ち上り…… そして最初に見えていたもう一つの点に重なった。

「嫌な予感がします…… 先生、まだ走れますか?」
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ」

 先程までの鳥はまだ人のような声をしていたが、今度の鳥は金属音のような、耳障りな鳴き声を上げて窓に突っ込んで来る。

 巨大なそれは校舎に窓から入ることができないようで、クチバシを模した部分だけを窓から校舎に突っ込んで奇襲してきているようだった。

「おっと、揺れるね」

 いろははスケッチブックを使い切るような勢いで描いては裂いてを繰り返しているが、また新たに黒い点が浮かび上がって来る。

「キリがない…… !」
「ん?」

 上手く鳥の攻撃を回避しながら進んでいたナヴィドだったが、突然なにかに気がつくと立ち止まった。
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