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伍の怪【シムルグの雛鳥】
無痛少女?
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「さあ、もうこんなところ出ちゃいましょう」
軽く赤い筋が付いてしまった首を撫でていろはが言った。
幾度も幾度も撫でられる首筋の下方…… 肩は僅かに上下しており、その速度は早い。
先程までと現在の僅かな変化がなければ、きっとナヴィドは気が付かなかっただろう。それほどまでに彼女の表情は明るい笑みを浮かべていた。話し方もなにも変わらない。少し暗めのトーンで、相手が子供ならば安心感を、相手が別ならば少し大人っぽく感じるような一定の抑揚とテンポ。
ただその笑顔を見ただけでは首が絞まる前に事を終えたのだと思っていた、とナヴィドは考える。しかし彼女の変化を見る限り、ダメージが無いわけではないのだ。呼吸が早くなっているのだからそうだろう。
苦しい思いをした筈だ。なのに何故、先程のように顔を顰めさせないのか。
「いろはちゃん、一旦保健室に寄ろう」
「え、そんな大袈裟ですよ」
そこでようやく、いろはは顔を顰めて見せた。
その様子を見てどうやら満足したナヴィドは一歩、二歩と彼女と距離を詰め、その頭にぽすりと手を乗せる。
「赤くなってる。それにさっき怪我をしたんだから、せめて絆創膏でも貰いに行った方がいいだろう」
「…… はぁ、そんなに言うなら行きますけど」
間の抜けた声を漏らしながら、目を丸くしていた彼女はそう言った。
「保健室のことはよく分からないんですけど」
「行ったこと、ないのかい?」
「…… ええ、怪我なんて滅多にありませんから」
「そうか」
ナヴィドは先程の無鉄砲さから、彼女なら細かい怪我をよく負っていそうだと判断していたのだが、少し間を置いて答えた彼女に否定され、予想が外れたことに生返事となった。
しかし、なにか含んだような彼女の言い方に嘘を吐いているのかもしれないと思い至る。
「私は血が苦手でね、気になるから治療させて欲しいんだよ」
「分かりました。お願いします」
それは彼女を治療するためにと咄嗟についてでた言葉であった。
先程妙に冷静な状態で首無し死体だとか、生首だとかを見ていた人物とはとても思えない嘘に言ってから気がついたようだが、いろはは怪訝そうな目は向けるものの追求することはなかった。
いろはも目を伏せ、その碧眼をパチリ、パチリと瞬かせて笑みを浮かべる。気遣いともとれるその嘘を追求するのは野暮だと判断したのだろうか。
トートバッグを肩に掛け直して彼女は硝子の扉に手をかけた。
「ちゃんと開きますね」
「開かなかったらもうどうしようもないからね」
コツ、コツ、と靴音を響かせながら二人は移動し、保健室の前までやって来た。
途中、窓を叩く音や手形が次々と貼りつけられることがあったが、二人は今更驚くこともない。
「先生、血が苦手なんじゃなかったの?」
「横目だったから平気だったんだよ、きっと」
「自分のことなのにきっとなんですね」
「きっとだよ、きっと」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて彼の顔を覗き込む彼女だったが、言った本人は目線を逸らすように横を向き、頬を掻く。先程、壁に連続に付けられた手形はドロドロとしたペンキのようだったのだ。
それを見て先程のようにトマトケチャップかなと戯けられる程場は穏やかではなく二人は黙っていたが、互いにチープだなぁだとか、文化祭でお化け屋敷をやることになったらペンキを使おうだとか、心の中はわりと呑気であった。
「先生、入るなら早く入りましょう。覚悟は…… あっ」
保健室前の扉に手をかけ、振り返りながら言ったいろはの体がガクンとよろめく。
目を丸くして間抜けな声を漏らした彼女の腕がなにかに引っ張られ、次の瞬間、10㎝ほどしか開いていなかった扉が一気に開かれた。
「いろはちゃんっ!」
「せ、んせ…… !」
いろははナヴィドに移していた視線を引っ張り込まれる方向へと目を向けた。
扉の奥から飛び出して来た包帯が彼女の腕をグルグルと巻き、山吹色の月光が差す保健室の中に引き込んでいく。
ナヴィドが咄嗟に伸ばした腕に、伸ばしかけた手を握り、俯いたいろはが 「大丈夫」 と一言だけ呟いた。
そして、呆然とするナヴィドを置いて一つだけ笑みを残した彼女の表情は、無情にも目の前で閉まった扉により一瞬で捉えられなくなってしまったのだった。
軽く赤い筋が付いてしまった首を撫でていろはが言った。
幾度も幾度も撫でられる首筋の下方…… 肩は僅かに上下しており、その速度は早い。
先程までと現在の僅かな変化がなければ、きっとナヴィドは気が付かなかっただろう。それほどまでに彼女の表情は明るい笑みを浮かべていた。話し方もなにも変わらない。少し暗めのトーンで、相手が子供ならば安心感を、相手が別ならば少し大人っぽく感じるような一定の抑揚とテンポ。
ただその笑顔を見ただけでは首が絞まる前に事を終えたのだと思っていた、とナヴィドは考える。しかし彼女の変化を見る限り、ダメージが無いわけではないのだ。呼吸が早くなっているのだからそうだろう。
苦しい思いをした筈だ。なのに何故、先程のように顔を顰めさせないのか。
「いろはちゃん、一旦保健室に寄ろう」
「え、そんな大袈裟ですよ」
そこでようやく、いろはは顔を顰めて見せた。
その様子を見てどうやら満足したナヴィドは一歩、二歩と彼女と距離を詰め、その頭にぽすりと手を乗せる。
「赤くなってる。それにさっき怪我をしたんだから、せめて絆創膏でも貰いに行った方がいいだろう」
「…… はぁ、そんなに言うなら行きますけど」
間の抜けた声を漏らしながら、目を丸くしていた彼女はそう言った。
「保健室のことはよく分からないんですけど」
「行ったこと、ないのかい?」
「…… ええ、怪我なんて滅多にありませんから」
「そうか」
ナヴィドは先程の無鉄砲さから、彼女なら細かい怪我をよく負っていそうだと判断していたのだが、少し間を置いて答えた彼女に否定され、予想が外れたことに生返事となった。
しかし、なにか含んだような彼女の言い方に嘘を吐いているのかもしれないと思い至る。
「私は血が苦手でね、気になるから治療させて欲しいんだよ」
「分かりました。お願いします」
それは彼女を治療するためにと咄嗟についてでた言葉であった。
先程妙に冷静な状態で首無し死体だとか、生首だとかを見ていた人物とはとても思えない嘘に言ってから気がついたようだが、いろはは怪訝そうな目は向けるものの追求することはなかった。
いろはも目を伏せ、その碧眼をパチリ、パチリと瞬かせて笑みを浮かべる。気遣いともとれるその嘘を追求するのは野暮だと判断したのだろうか。
トートバッグを肩に掛け直して彼女は硝子の扉に手をかけた。
「ちゃんと開きますね」
「開かなかったらもうどうしようもないからね」
コツ、コツ、と靴音を響かせながら二人は移動し、保健室の前までやって来た。
途中、窓を叩く音や手形が次々と貼りつけられることがあったが、二人は今更驚くこともない。
「先生、血が苦手なんじゃなかったの?」
「横目だったから平気だったんだよ、きっと」
「自分のことなのにきっとなんですね」
「きっとだよ、きっと」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて彼の顔を覗き込む彼女だったが、言った本人は目線を逸らすように横を向き、頬を掻く。先程、壁に連続に付けられた手形はドロドロとしたペンキのようだったのだ。
それを見て先程のようにトマトケチャップかなと戯けられる程場は穏やかではなく二人は黙っていたが、互いにチープだなぁだとか、文化祭でお化け屋敷をやることになったらペンキを使おうだとか、心の中はわりと呑気であった。
「先生、入るなら早く入りましょう。覚悟は…… あっ」
保健室前の扉に手をかけ、振り返りながら言ったいろはの体がガクンとよろめく。
目を丸くして間抜けな声を漏らした彼女の腕がなにかに引っ張られ、次の瞬間、10㎝ほどしか開いていなかった扉が一気に開かれた。
「いろはちゃんっ!」
「せ、んせ…… !」
いろははナヴィドに移していた視線を引っ張り込まれる方向へと目を向けた。
扉の奥から飛び出して来た包帯が彼女の腕をグルグルと巻き、山吹色の月光が差す保健室の中に引き込んでいく。
ナヴィドが咄嗟に伸ばした腕に、伸ばしかけた手を握り、俯いたいろはが 「大丈夫」 と一言だけ呟いた。
そして、呆然とするナヴィドを置いて一つだけ笑みを残した彼女の表情は、無情にも目の前で閉まった扉により一瞬で捉えられなくなってしまったのだった。
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