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誰だあいつ
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菊池衛は顧問の先生からの要件を済ませて、教室棟から渡り廊下を通り第二体育館へ向かっていた。
『誰だあいつ』
見慣れない生徒が第二体育館の入口で携帯電話で話をしている姿に違和感を感じたのだ。
神北高校では携帯電話の使用自体は、授業中を除いては自由であるしネイビーのジャケットにグレーのスラックス、首にはレジメンタルタイと菊池と同じ制服を着ているので神北高校の生徒には間違いない。
菊池が違和感を感じたのは部室群は校舎敷地の北側奥にあり、普段は顔見知りの文化係の部員と柔道着を着た柔道部員の他にはいかにもトレーニーといったジャージやTシャツを着た人しかこの場所には来ないからだ。
それには加えてこの場所は時おり二階の柔道場から気合の入った柔道部員の掛声が聞こえている。
携帯電話が柔道部員の掛け声を拾い通話しづらそうな場所だ。
『まあいいか新入生にしては老けている気がするけど』
菊池もそれ以上は気にもとめずに歴史部の部室に向かった。
菊池は深呼吸ともため息ともしれない呼吸をしてから部室のドアノブを回した。
部室内に居るのは2年生で部長である豊田楓。
「衛、どうせ神北春秋のことでしょ?虎ちゃん細かいなあ」
豊田はやれやれといった感じで話すが、本来は虎ちゃんこと顧問の伊原虎雄は部長を指名して職員室に呼び出していたのだが……。
要は菊池に丸投げしたのだ。
神北春秋とは隔月で発表して校内や市役所等に掲示する歴史部の部報のことである。
井原もこれさえ発表していれば他の活動は自主性に任せている。
前部長がこの神北春秋を老人福祉施設に配布して寄付を募るという、金脈を開拓した。
案外と老眼の高齢者に配慮した書籍は少なかったようで文字サイズを大きめに印刷した神北春秋は高齢者層に好評だった。
以来、歴史部は部費が潤沢で定期的に取材という名の旅行に出かけているのだ。
豊田は西側の部長席に座っている、部長席と言ってもパイプ椅子だが、春にはポカポカと暖かくお気に入りの場所だ。
豊田は制服のジャケットは脱いでネイビーの学校指定のVネックのニットに同色のスカート、菊池と同じ指定のレジメンタルタイの出で立ちである。
大柄な菊池に対して小柄な豊田はジャケットよりニットの方が良く似合う。
本人は事ある事に、
『ショート丈のジャケットが欲しい』
とぼやいている。
「えっと神北春秋の次のお題は備中高松城の戦いね」
豊田は読んでいた文庫本に栞を挟んで菊池に告げた。
相談ではなく決定事項の様だ。
ちなみに読んでいた本はというと
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
清水宗治 四十六歳の辞世の句である。
天正十年6月4日午前10時
宗治は、備中高松の地で、秀吉から送られた酒と肴で今生の別れの宴を行い、三途の川を渡る船に乗った。傍らには兄月清、介錯人を務める国府市正が控える。
目の前には蛙ケ鼻、高く積まれた土塁、その後方の石井山には羽柴秀吉の旗印が見える。羽柴の本陣であろうか。一方足守川の西岸、岩崎山には吉川元春、日差山には小早川隆景が陣取り宗治の様子を固唾を飲んで見守っていた。
「それでは一舞い」
宗治は誓願寺の舞を悠々と披露する。周囲は静まり返り兵たちの視線が宗治に集まる。
そして主君に向けて一礼した後、前をはだけ、ためらいなく脇差で腹を一突き、一文字に割腹した。介錯の国府が刀を振り下ろし宗治の首が転げ落ちた。
これが清水宗治の最後であり、後世まで武士の鏡と賞賛されたと言う。
といった内容であった。
読んでいる本に非常に影響を受けやすい歴史部部長であった。
「部長、高松城は県外ですよ、いきなりは許可がでませんよ」
「大丈夫、大丈夫。毛利家の歴史とか鞆幕府の終焉とか虎ちゃんに説明するから、ネタが無いでしょ実際」
と、返す。
実際のところ県東部の歴史で隔月で年間6つの部報を発表しようとすると、『足利尊氏と院宣『足利義昭の鞆幕府』『阿部正弘の安政の改革』の三つは鉄板なのだがだが後三つが毎年思い浮かばないのだ。
地方都市の悲しさである。
昨年は苦労して前部長が
『日本住血吸虫と芦田川』
といった、硬い題材を考え出して発表している。
「はぁ、副部長に話しときます」
菊池は自分が説明役を押し付けられないように豊田の話しを流していく。
「そういえばこのところ、体育館に今まで見かけた事のない人がいますね」
話を逸らすついでに先ほどの違和感を口にする。
「3年生の平川達だね、最近隣で何か活動しているよ、部室に使用中の札が出ていたよ」
豊田は簡単に答える。
歴史部の隣室は先述のとおりほぼ物置として使用されており入室は自由だ。
例外として概ね1時間以上の部屋の使用をする場合は職員室で使用者名簿に名前を書き、使用中の札を借りて部室ドアに掛けるルールになっている。
「へぇでも部長の知り合いですか。3年生が今から部活を立ち上げてもすぐ引退になりそうですけど」
更に菊池は疑問を述べたが
「名前を知ってるだけだよ。彼らは優秀な就職組だからね割と自由なんだ」
との、豊田の答えに菊池は納得した。
優秀な就職組とは何かというと、神北高校のある富福市は大手製造業の会社、工場が多数ある重工業地帯なのだ。
よって下手な大学に進学するよりも、高校を卒業して、いわゆるメーカー企業に就職した方が人生設計で有利になる場合が多い。
まして優秀な(学校の推薦で)就職となれば尚更だ。
残り少ない高校生活で青春を謳歌したくなる気持ちは理解できる。
菊池はカレンダーに部報の発表予定日を書き込みながら窓の外を見た。
野球部が守備練習に汗を流している。
「毎日、毎日精が出ますね」
野球部のルーティンはウォーミングアップ、キャッチボール、守備練習を済ませた後、打撃練習、筋トレ、ピッチング練習に分かれてトレーニング、最後に皆でグラウンド整備の流れである。
「また野球がしたい?ごめん」
豊田が言いかけてすぐ謝った。
「気にしなくていいですよ」
実は歴史部と野球部は仲が良いとは言えない。
昨年冬に練習中の打球が歴史部の窓ガラスを割る事故が起きた。
第二体育館の北側、つまり歴史部の部室のあたりは、グラウンドへ自動車で資機材搬入が出来るようにネットの設置がないのである。
その後対策として打撃練習は午後5時以降に行うという取り決めがなされ、歴史部の窓ガラスが強化ガラスになった。
おかげで歴史部としては安全と静かさを手に入れたのだが野球部としては打撃練習の時間が制限されて面白くないのだ。
それに加えて怪我をした菊池を本人が望んだと言え野球部から歴史部に引き抜いた形になっている。
ふと窓の外の空が黒雲に覆われた。
「天気予報は晴れだったよね。最近ゲリラ豪雨とか多いし早く帰った方がいいかも、迎えに来て貰うから一緒に乗ってく?」
豊田の誘いに菊池は一瞬躊躇したが、降り出した雨の勢いが思いの外強くびしょ濡れになるよりはマシだと考えて、
「お願いします」
と素直に誘いに乗り、体育館内を通って二人で帰宅したのだった。
『誰だあいつ』
見慣れない生徒が第二体育館の入口で携帯電話で話をしている姿に違和感を感じたのだ。
神北高校では携帯電話の使用自体は、授業中を除いては自由であるしネイビーのジャケットにグレーのスラックス、首にはレジメンタルタイと菊池と同じ制服を着ているので神北高校の生徒には間違いない。
菊池が違和感を感じたのは部室群は校舎敷地の北側奥にあり、普段は顔見知りの文化係の部員と柔道着を着た柔道部員の他にはいかにもトレーニーといったジャージやTシャツを着た人しかこの場所には来ないからだ。
それには加えてこの場所は時おり二階の柔道場から気合の入った柔道部員の掛声が聞こえている。
携帯電話が柔道部員の掛け声を拾い通話しづらそうな場所だ。
『まあいいか新入生にしては老けている気がするけど』
菊池もそれ以上は気にもとめずに歴史部の部室に向かった。
菊池は深呼吸ともため息ともしれない呼吸をしてから部室のドアノブを回した。
部室内に居るのは2年生で部長である豊田楓。
「衛、どうせ神北春秋のことでしょ?虎ちゃん細かいなあ」
豊田はやれやれといった感じで話すが、本来は虎ちゃんこと顧問の伊原虎雄は部長を指名して職員室に呼び出していたのだが……。
要は菊池に丸投げしたのだ。
神北春秋とは隔月で発表して校内や市役所等に掲示する歴史部の部報のことである。
井原もこれさえ発表していれば他の活動は自主性に任せている。
前部長がこの神北春秋を老人福祉施設に配布して寄付を募るという、金脈を開拓した。
案外と老眼の高齢者に配慮した書籍は少なかったようで文字サイズを大きめに印刷した神北春秋は高齢者層に好評だった。
以来、歴史部は部費が潤沢で定期的に取材という名の旅行に出かけているのだ。
豊田は西側の部長席に座っている、部長席と言ってもパイプ椅子だが、春にはポカポカと暖かくお気に入りの場所だ。
豊田は制服のジャケットは脱いでネイビーの学校指定のVネックのニットに同色のスカート、菊池と同じ指定のレジメンタルタイの出で立ちである。
大柄な菊池に対して小柄な豊田はジャケットよりニットの方が良く似合う。
本人は事ある事に、
『ショート丈のジャケットが欲しい』
とぼやいている。
「えっと神北春秋の次のお題は備中高松城の戦いね」
豊田は読んでいた文庫本に栞を挟んで菊池に告げた。
相談ではなく決定事項の様だ。
ちなみに読んでいた本はというと
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
清水宗治 四十六歳の辞世の句である。
天正十年6月4日午前10時
宗治は、備中高松の地で、秀吉から送られた酒と肴で今生の別れの宴を行い、三途の川を渡る船に乗った。傍らには兄月清、介錯人を務める国府市正が控える。
目の前には蛙ケ鼻、高く積まれた土塁、その後方の石井山には羽柴秀吉の旗印が見える。羽柴の本陣であろうか。一方足守川の西岸、岩崎山には吉川元春、日差山には小早川隆景が陣取り宗治の様子を固唾を飲んで見守っていた。
「それでは一舞い」
宗治は誓願寺の舞を悠々と披露する。周囲は静まり返り兵たちの視線が宗治に集まる。
そして主君に向けて一礼した後、前をはだけ、ためらいなく脇差で腹を一突き、一文字に割腹した。介錯の国府が刀を振り下ろし宗治の首が転げ落ちた。
これが清水宗治の最後であり、後世まで武士の鏡と賞賛されたと言う。
といった内容であった。
読んでいる本に非常に影響を受けやすい歴史部部長であった。
「部長、高松城は県外ですよ、いきなりは許可がでませんよ」
「大丈夫、大丈夫。毛利家の歴史とか鞆幕府の終焉とか虎ちゃんに説明するから、ネタが無いでしょ実際」
と、返す。
実際のところ県東部の歴史で隔月で年間6つの部報を発表しようとすると、『足利尊氏と院宣『足利義昭の鞆幕府』『阿部正弘の安政の改革』の三つは鉄板なのだがだが後三つが毎年思い浮かばないのだ。
地方都市の悲しさである。
昨年は苦労して前部長が
『日本住血吸虫と芦田川』
といった、硬い題材を考え出して発表している。
「はぁ、副部長に話しときます」
菊池は自分が説明役を押し付けられないように豊田の話しを流していく。
「そういえばこのところ、体育館に今まで見かけた事のない人がいますね」
話を逸らすついでに先ほどの違和感を口にする。
「3年生の平川達だね、最近隣で何か活動しているよ、部室に使用中の札が出ていたよ」
豊田は簡単に答える。
歴史部の隣室は先述のとおりほぼ物置として使用されており入室は自由だ。
例外として概ね1時間以上の部屋の使用をする場合は職員室で使用者名簿に名前を書き、使用中の札を借りて部室ドアに掛けるルールになっている。
「へぇでも部長の知り合いですか。3年生が今から部活を立ち上げてもすぐ引退になりそうですけど」
更に菊池は疑問を述べたが
「名前を知ってるだけだよ。彼らは優秀な就職組だからね割と自由なんだ」
との、豊田の答えに菊池は納得した。
優秀な就職組とは何かというと、神北高校のある富福市は大手製造業の会社、工場が多数ある重工業地帯なのだ。
よって下手な大学に進学するよりも、高校を卒業して、いわゆるメーカー企業に就職した方が人生設計で有利になる場合が多い。
まして優秀な(学校の推薦で)就職となれば尚更だ。
残り少ない高校生活で青春を謳歌したくなる気持ちは理解できる。
菊池はカレンダーに部報の発表予定日を書き込みながら窓の外を見た。
野球部が守備練習に汗を流している。
「毎日、毎日精が出ますね」
野球部のルーティンはウォーミングアップ、キャッチボール、守備練習を済ませた後、打撃練習、筋トレ、ピッチング練習に分かれてトレーニング、最後に皆でグラウンド整備の流れである。
「また野球がしたい?ごめん」
豊田が言いかけてすぐ謝った。
「気にしなくていいですよ」
実は歴史部と野球部は仲が良いとは言えない。
昨年冬に練習中の打球が歴史部の窓ガラスを割る事故が起きた。
第二体育館の北側、つまり歴史部の部室のあたりは、グラウンドへ自動車で資機材搬入が出来るようにネットの設置がないのである。
その後対策として打撃練習は午後5時以降に行うという取り決めがなされ、歴史部の窓ガラスが強化ガラスになった。
おかげで歴史部としては安全と静かさを手に入れたのだが野球部としては打撃練習の時間が制限されて面白くないのだ。
それに加えて怪我をした菊池を本人が望んだと言え野球部から歴史部に引き抜いた形になっている。
ふと窓の外の空が黒雲に覆われた。
「天気予報は晴れだったよね。最近ゲリラ豪雨とか多いし早く帰った方がいいかも、迎えに来て貰うから一緒に乗ってく?」
豊田の誘いに菊池は一瞬躊躇したが、降り出した雨の勢いが思いの外強くびしょ濡れになるよりはマシだと考えて、
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