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放課後 ~後日談~
伊知郎さんと玲香さん
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12月30日の午前中。私は伊知郎さんと一緒に大掃除をしていた。玲香さんは台所でおせち料理を作っているはずだ。
今日から三日間だけは、受験勉強はお休み。ただでさえ居候させてもらっているのに、何もせずに正月を迎える訳にはいかない。
「おお、綺麗になった。さすが掃除のプロだねー」
「いえ、そんなことはないですよ。山田さんにコツを聞いてきただけです」
ピカピカになった窓ガラスを見上げ、伊知郎さんが満足そうに微笑んでいる。
この調子で仕上げていこう、と私達はせっせせっせと窓拭きを始めた。
伊知郎さんは、今日と明日は休みだが元日からはお仕事とのこと。何しろ大きな病院だから入院患者がいる以上、外来診療が休みでも内部的には休みの日なんて存在しない。
なお、新川家本邸の方は普段からお手伝いさんが入っているし、年末大掃除は外部の清掃サービスに頼むのだそうだ。
新川家のお母さんは薬剤師で、同じく新川病院で働いている。薬局だけでなく、院長夫人として病院の各部署を見回ったり経理の確認をしたりと、かなり忙しいようだ。
人任せにしない、自分の目で見ないと安心できない性質だから、とは伊知郎さんの弁。
「だから、透は母親似なんだよね」
「あ、新川センセーも自分でそう言ってました」
そう言う伊知郎さんは、多分お父さん似だ。笑顔に親しみやすさがあるというか、ホッと安らぐというか、そんな感じ。
私がそう伝えると、伊知郎さんは
「はははっ、じゃあ親父みたいに太らないようにしないと」
と言って頭を掻いた。
ちなみに新川弟……ん、この言い方もいい加減どうにかしないと駄目か。
えーと、健彦サン(一つ年上だからね、一応)は容姿はややお母さん似だが、性格は多分お父さん似と、二人のちょうど中間ぐらいかな?
両親が共働きで忙しかったため、新川三兄弟はもっぱら三人だけで過ごしていたそうだ。ご飯のお世話は、家政婦さんがしてくれたみたいだけどね。
健彦サンは伊知郎さんとは九歳、新川透とも六歳離れているので、健彦サンを育てたのは二人の兄、と言っても過言ではない。
「じゃあ、健彦サンがあんなに新川センセーを恐れているのは……」
「まぁ、擦り込みに近いよね。透は透なりに可愛がってはいたと思うんだけど」
「可愛がる……」
「健彦をイジめた小学生にえげつない仕返しをしたりね。ただ、ちょっと手段を選ばないところがあるからなあ」
うはー、容易に想像できるわ、それー。
はは、はは、と乾いた笑いをすると、伊知郎さんも困ったような笑みを浮かべた。
「まぁ、玲香は透のそういうところも知ってたからね。だから莉子さんが心配になったんだろうね」
「そうなんですか……。あれっ、玲香さんってそんなに昔から新川家と仲良いんですか?」
「僕が中3で玲香が中1のときに知り合ってるから」
「えーっ!」
何じゃ、そのピュアラブ! 伊知郎さんって、そんな頃から玲香さん一筋なの?
あれっ、でも付き合い始めたのは玲香さんが高校生になってから、という話だったような。
妹のように可愛がっていた女の子が、ある日異性になった、とかなんだろうか。
うわー、気になるなー。
すごく仲良いんだよね、伊知郎さんと玲香さん。
玲香さんがいっぱいお喋りして、伊知郎さんがふんふんと微笑みながら聞いている感じ。
「あの、馴れ初めとか……」
思い切って口を開いてみたけど、そのとき遠くから
「もうすぐお昼ご飯だからねー」
という玲香さんの声が聞こえてきた。
伊知郎さんは「わかったよー」と返事をしたあと、くるりと私の方に振り返った。その表情は照れくさそうな、それでいて気まずそうな、微妙な感じだ。
「……それはちょっと恥ずかしいから、玲香から聞いて」
「はい……」
「あ、でも」
雑巾とバケツを手に持つと、伊知郎さんが思い出したように声を上げる。
「母親が病院にずっと詰めてるのもね。父親が淋しがるからなんだよね、実は」
「へえ……」
「目の届くところに置いておきたいらしくてね。透はこの辺、似てるかもなあ」
その情報はあまり聞きたくなかったなあ。
「そういう訳で、新川家の男ってみんなかなり一途だから、莉子さんも安心していいと思うよ」
「えっ……」
「透は不幸にもあんな顔で生まれちゃったけどね。あ、でも、だから莉子さんを見つけられたのかな」
……と、よくわからないことを言いながら、伊知郎さんはスタスタと洗い場の方に行ってしまった。
あんな顔……って、あのどんな女性も振り返る、ギリシャ彫刻みたいな綺麗な顔のことを言ってるんだろうか。
不幸にもって……どういうことだ?
うーん、新川家の人は、みんな独自の感性を持ってるんだな。
* * *
えーっ、伊知郎さんとの馴れ初め? 照れるなあ。
あ、うん、そうよ。伊知郎さんとは中1のときに会ったの。私の母とお義母さんが友人同士でね。華厳学園の寮に入る時に、何かあったらよろしくね、と私を新川家に紹介してくれたの。ああ、そうなの。この県の出身じゃないのよ、私。
透くんは……うーん、当時から綺麗な顔してたわよねえ。妖精さんみたいだったわ。外ではニコニコ、ご近所のアイドルって感じだったけど、家では本当に好き勝手してたわね。とは言っても一人で好きなことをしている感じで、弟をイジメたりはしてなかったわよ。まだ健彦くんは幼稚園児だったし、可愛かったしね。だからまぁ、透くんなりに可愛がっていた……と思うわ。
あ、イジメられた仕返しの話? うーん、詳しくは知らないけど、何か弱みを握ったうえでイジメっ子のお母さんから手を回して本人が締め上げられるようにしたとか、何とか……。
そうねぇ、えげつないと言えばえげつないけど、自分も健彦くんも被害が及ばないような作戦を考えるあたりは、さすがよね。あ、感心してる場合じゃないか。
えーと、そうでした、透くんの話じゃなくて伊知郎さんの話だったわね。
伊知郎さんはね、そんな弟達の面倒をよくみてたわ。あのね、休日は寮の食堂もお休みになっちゃうのよ。だから実家に帰らないときは、新川家でご飯を食べさせてもらったりしていたの。家政婦さんが用意したものだけどね。
だからたまに新川家には来てたんだけど、「伊知郎さんっていいお兄ちゃんだなあ」と感じて。とても居心地が良かった覚えがあるわ。
私の方の認識は、それぐらいかな? まぁ、この頃の二歳差って大きいから、仕方がないわよね。
でもね。私が中3のときにね。塾で、伊知郎さんが女の子に告白されている現場をたまたま目撃してね。そりゃ伊知郎さんだって恋愛経験はあっただろうけど……ずっと、その手の話題は避けてて。
でも自分の目で見ちゃったらね、そういう訳にもいかなくて。そのときにね、すごく嫌だ!と思ったの。うんって言わないで、その人と付き合わないで、と祈っている自分に気がついてね。
それで、「そうか、私は伊知郎さんが好きだったのか」と気づいて。
その年のバレンタインデーにね、チョコレートをあげて。毎年あげてはいたんだけど、その年だけは、もう誰が見ても本命チョコってわかるでしょ!っていうレベルの物をあげたの。だけど、伊知郎さんの反応がイマイチでね。ホワイトデーはお返しをくれたんだけど……何の返事もなくて。
四月になって、高校生になって、ずっと待ってたけど何のリアクションもないから、思い切って言ったの。
「私、伊知郎さんの彼女になりたいんですけど!」
……ってね。
伊知郎さんはやっぱりあんまりわかってなかったみたいで、一瞬ぽかんとした顔をしてそのあとブワーッと真っ赤になったの。
ふふふ、今思い出しても、あのときの伊知郎さんの表情は可愛いかったな、と思うわ。
あっ、莉子ちゃん、男の人に「可愛い」は禁句らしいわよ。思っても口に出しちゃ駄目よ。
でも、結構あるわよねー、男の人って可愛いな、と思うとき。透くんにもある?
……あ、あるんだー。その顔は、そうよね。いやいや駄目よ、莉子ちゃん。そんな真っ赤な顔して口ごもってしまったら、何も誤魔化せないわよ。
そうよね、透くんが相手だとちょっと困るわよね。莉子ちゃんはよく頑張ってる方だと思うわよ。
* * *
午後はぐつぐつと煮えている黒豆の番をしながら、玲香さんとお喋り。
勿論、玲香さんはその間も野菜を切ったり下ごしらえしたりと忙しなく動いています。私にできるのが黒豆を見張ることぐらいだった、っていうね。あはは……。
そうか、幼馴染みたいなもんだったのね。道理で、新川家のお父さんやお母さんにもあまり遠慮がなかった気がするもんな、玲香さん。すっかり家族の一員、というか。
「それからは……まぁトントンと結婚まで来た感じね」
「えっ、だいぶん飛びますね。そういえば、どうして仕事を辞めたんですか?」
「え?」
「玲香さん、やりたい仕事に就いてたんでしょう? だから……」
結婚して子供ができたから、とかなら分かる。新聞記者って、時間も不規則で大変そうだし。
なのに、あっさりと寿退職……ちょっと不思議。
「……ふふっ……」
私の質問に、玲香さんは急にポッと頬を染めてモジモジしだした。
はら、どうしました?
「あのね……それは……ねぇ」
「はい」
「伊知郎さんね、私が東京の大学に行くときも、新聞社に就職するときも、なーんにも言わなかったの。やりたいことをちゃんとやった方がいいよってね」
「へぇ……大人ですね」
「ねっ、そう思うでしょ!?」
ぐりんと私の方に向き直り、勢い込む。
ほ、包丁をかざすのはやめてください。ちょっと怖い。
私がビビッていると「あら、ごめんなさい」と言って玲香さんは向き直り、再び野菜を切り始めた。
「でもね。二年前、こう言われたの。『結婚したら、毎日玲香に行ってらっしゃい、と見送られたい。帰ってきたら、お帰りなさい、と出迎えてほしい。だから、それでもいいと思えたら、僕と結婚してください』……って」
「え……」
伊知郎さんの仕事はとても不規則だ。夜勤もあるし、いつも決まった時間に家を出る訳でも帰る訳でもない。それでは確かに、新聞記者の仕事は続けられない。
伊知郎さんのその台詞は、自分のために仕事を辞めてくれ、と言っているのと同じだ。それだけ聞くと、子供じみたひどい束縛のように思える。
でも、玲香さんにとってはそうじゃないんだろう。
「それってね、伊知郎さんが初めてした『お願い』なのよね」
人参をトントントン……とリズムよく切りながら、玲香さんはふっと微笑んだ。
「ずっと、家に両親がいない生活を送って来てたでしょう。で、弟達の世話もして。きっと、憧れてたんだろうなって」
「……」
「だから、ストンと覚悟が決まって。私はこの人に『行ってらっしゃい』と『お帰りなさい』を毎日伝えるために結婚しよう、と思ったの」
大人な伊知郎さんの、初めての子供な『お願い』。
旦那のために仕事を辞めるなんて、と批判する人もいるかもしれない。自立してない、とか、旦那に仕えるなんて、とか。
だけど私は、迷うことなく伊知郎さんの『お願い』を選んだ玲香さんはカッコいいな、と思った。
「……素敵ですね」
「そう?」
玲香さんはふわっと幸せそうに微笑んだあと、急にブフゥッと吹き出した。
いや、何か色々台無しです、玲香さん……。
「そういえば、あの時もびっくりしてたな。『わかった。明日、辞表を出すね』って答えたから」
「えっ!」
「急にワタワタして『いや、すぐって意味じゃないよ。働きたいだけ働いたらって意味で!』とか言って、真っ赤になって弁解してた。可愛かったなー」
いや、それは慌てるでしょう。玲香さんたら、天然小悪魔?
でも、よーくわかった。伊知郎さんは、玲香さんのことが大好きで、すごく大事にしてるんだな、ということは。
そして玲香さんも、そんな伊知郎さんを大切に想っている。
何だよもう、ラブラブじゃん! はー、ご馳走様!
勿論、実際にはちゃんと引継ぎまで終えてから辞めたわよ、と言って、玲香さんは肩をすくめた。
「でも、莉子ちゃんに『素敵』って言ってもらえたのは嬉しいな。同僚にはイマドキそんな、みたいなことを言われたりしたしね。……とは言っても伊知郎さんがお仕事している間はやっぱり暇だから、医療事務や経理の資格の勉強をしたりしてるんだけど」
「へぇ……」
「ただ莉子ちゃん、これは伊知郎さんだから、って話よ!」
急に語気が強くなる。ギョッとして見上げると、玲香さんがそれはそれは真剣な顔をして私をじっと見下ろしていた。
「透くんには駄目ね。何を逆手に取るか分からないわよ。いい、莉子ちゃん。最初が肝心だからね!」
「だいぶん手遅れのような気がしますけど」
「ううん、大丈夫よ。今のところ莉子ちゃんが勝ってるわ」
何の勝負だ?と私が首を捻っていると、玲香さんはとてもおかしそうに口元を緩ませた。
「ふふっ、多分そういうところが莉子ちゃんの強みね」
「へ……」
そのとき、廊下の奥から
「玲香ー、洗剤の買い置きってどこー?」
という伊知郎さんの声が聞こえてきた。
玲香さんは「しょうがないわねぇ」と言いながら、包丁をまな板の上に置くと、嬉しそうに台所を出て行った。
いろんな夫婦がいるものだ、と思いながら鍋の中を覗き見る。
この皺ひとつないピカピカの綺麗な黒豆が玲香さんの想いを表しているようで、私はじんわりと幸せのおすそ分けを噛みしめていた。
今日から三日間だけは、受験勉強はお休み。ただでさえ居候させてもらっているのに、何もせずに正月を迎える訳にはいかない。
「おお、綺麗になった。さすが掃除のプロだねー」
「いえ、そんなことはないですよ。山田さんにコツを聞いてきただけです」
ピカピカになった窓ガラスを見上げ、伊知郎さんが満足そうに微笑んでいる。
この調子で仕上げていこう、と私達はせっせせっせと窓拭きを始めた。
伊知郎さんは、今日と明日は休みだが元日からはお仕事とのこと。何しろ大きな病院だから入院患者がいる以上、外来診療が休みでも内部的には休みの日なんて存在しない。
なお、新川家本邸の方は普段からお手伝いさんが入っているし、年末大掃除は外部の清掃サービスに頼むのだそうだ。
新川家のお母さんは薬剤師で、同じく新川病院で働いている。薬局だけでなく、院長夫人として病院の各部署を見回ったり経理の確認をしたりと、かなり忙しいようだ。
人任せにしない、自分の目で見ないと安心できない性質だから、とは伊知郎さんの弁。
「だから、透は母親似なんだよね」
「あ、新川センセーも自分でそう言ってました」
そう言う伊知郎さんは、多分お父さん似だ。笑顔に親しみやすさがあるというか、ホッと安らぐというか、そんな感じ。
私がそう伝えると、伊知郎さんは
「はははっ、じゃあ親父みたいに太らないようにしないと」
と言って頭を掻いた。
ちなみに新川弟……ん、この言い方もいい加減どうにかしないと駄目か。
えーと、健彦サン(一つ年上だからね、一応)は容姿はややお母さん似だが、性格は多分お父さん似と、二人のちょうど中間ぐらいかな?
両親が共働きで忙しかったため、新川三兄弟はもっぱら三人だけで過ごしていたそうだ。ご飯のお世話は、家政婦さんがしてくれたみたいだけどね。
健彦サンは伊知郎さんとは九歳、新川透とも六歳離れているので、健彦サンを育てたのは二人の兄、と言っても過言ではない。
「じゃあ、健彦サンがあんなに新川センセーを恐れているのは……」
「まぁ、擦り込みに近いよね。透は透なりに可愛がってはいたと思うんだけど」
「可愛がる……」
「健彦をイジめた小学生にえげつない仕返しをしたりね。ただ、ちょっと手段を選ばないところがあるからなあ」
うはー、容易に想像できるわ、それー。
はは、はは、と乾いた笑いをすると、伊知郎さんも困ったような笑みを浮かべた。
「まぁ、玲香は透のそういうところも知ってたからね。だから莉子さんが心配になったんだろうね」
「そうなんですか……。あれっ、玲香さんってそんなに昔から新川家と仲良いんですか?」
「僕が中3で玲香が中1のときに知り合ってるから」
「えーっ!」
何じゃ、そのピュアラブ! 伊知郎さんって、そんな頃から玲香さん一筋なの?
あれっ、でも付き合い始めたのは玲香さんが高校生になってから、という話だったような。
妹のように可愛がっていた女の子が、ある日異性になった、とかなんだろうか。
うわー、気になるなー。
すごく仲良いんだよね、伊知郎さんと玲香さん。
玲香さんがいっぱいお喋りして、伊知郎さんがふんふんと微笑みながら聞いている感じ。
「あの、馴れ初めとか……」
思い切って口を開いてみたけど、そのとき遠くから
「もうすぐお昼ご飯だからねー」
という玲香さんの声が聞こえてきた。
伊知郎さんは「わかったよー」と返事をしたあと、くるりと私の方に振り返った。その表情は照れくさそうな、それでいて気まずそうな、微妙な感じだ。
「……それはちょっと恥ずかしいから、玲香から聞いて」
「はい……」
「あ、でも」
雑巾とバケツを手に持つと、伊知郎さんが思い出したように声を上げる。
「母親が病院にずっと詰めてるのもね。父親が淋しがるからなんだよね、実は」
「へえ……」
「目の届くところに置いておきたいらしくてね。透はこの辺、似てるかもなあ」
その情報はあまり聞きたくなかったなあ。
「そういう訳で、新川家の男ってみんなかなり一途だから、莉子さんも安心していいと思うよ」
「えっ……」
「透は不幸にもあんな顔で生まれちゃったけどね。あ、でも、だから莉子さんを見つけられたのかな」
……と、よくわからないことを言いながら、伊知郎さんはスタスタと洗い場の方に行ってしまった。
あんな顔……って、あのどんな女性も振り返る、ギリシャ彫刻みたいな綺麗な顔のことを言ってるんだろうか。
不幸にもって……どういうことだ?
うーん、新川家の人は、みんな独自の感性を持ってるんだな。
* * *
えーっ、伊知郎さんとの馴れ初め? 照れるなあ。
あ、うん、そうよ。伊知郎さんとは中1のときに会ったの。私の母とお義母さんが友人同士でね。華厳学園の寮に入る時に、何かあったらよろしくね、と私を新川家に紹介してくれたの。ああ、そうなの。この県の出身じゃないのよ、私。
透くんは……うーん、当時から綺麗な顔してたわよねえ。妖精さんみたいだったわ。外ではニコニコ、ご近所のアイドルって感じだったけど、家では本当に好き勝手してたわね。とは言っても一人で好きなことをしている感じで、弟をイジメたりはしてなかったわよ。まだ健彦くんは幼稚園児だったし、可愛かったしね。だからまぁ、透くんなりに可愛がっていた……と思うわ。
あ、イジメられた仕返しの話? うーん、詳しくは知らないけど、何か弱みを握ったうえでイジメっ子のお母さんから手を回して本人が締め上げられるようにしたとか、何とか……。
そうねぇ、えげつないと言えばえげつないけど、自分も健彦くんも被害が及ばないような作戦を考えるあたりは、さすがよね。あ、感心してる場合じゃないか。
えーと、そうでした、透くんの話じゃなくて伊知郎さんの話だったわね。
伊知郎さんはね、そんな弟達の面倒をよくみてたわ。あのね、休日は寮の食堂もお休みになっちゃうのよ。だから実家に帰らないときは、新川家でご飯を食べさせてもらったりしていたの。家政婦さんが用意したものだけどね。
だからたまに新川家には来てたんだけど、「伊知郎さんっていいお兄ちゃんだなあ」と感じて。とても居心地が良かった覚えがあるわ。
私の方の認識は、それぐらいかな? まぁ、この頃の二歳差って大きいから、仕方がないわよね。
でもね。私が中3のときにね。塾で、伊知郎さんが女の子に告白されている現場をたまたま目撃してね。そりゃ伊知郎さんだって恋愛経験はあっただろうけど……ずっと、その手の話題は避けてて。
でも自分の目で見ちゃったらね、そういう訳にもいかなくて。そのときにね、すごく嫌だ!と思ったの。うんって言わないで、その人と付き合わないで、と祈っている自分に気がついてね。
それで、「そうか、私は伊知郎さんが好きだったのか」と気づいて。
その年のバレンタインデーにね、チョコレートをあげて。毎年あげてはいたんだけど、その年だけは、もう誰が見ても本命チョコってわかるでしょ!っていうレベルの物をあげたの。だけど、伊知郎さんの反応がイマイチでね。ホワイトデーはお返しをくれたんだけど……何の返事もなくて。
四月になって、高校生になって、ずっと待ってたけど何のリアクションもないから、思い切って言ったの。
「私、伊知郎さんの彼女になりたいんですけど!」
……ってね。
伊知郎さんはやっぱりあんまりわかってなかったみたいで、一瞬ぽかんとした顔をしてそのあとブワーッと真っ赤になったの。
ふふふ、今思い出しても、あのときの伊知郎さんの表情は可愛いかったな、と思うわ。
あっ、莉子ちゃん、男の人に「可愛い」は禁句らしいわよ。思っても口に出しちゃ駄目よ。
でも、結構あるわよねー、男の人って可愛いな、と思うとき。透くんにもある?
……あ、あるんだー。その顔は、そうよね。いやいや駄目よ、莉子ちゃん。そんな真っ赤な顔して口ごもってしまったら、何も誤魔化せないわよ。
そうよね、透くんが相手だとちょっと困るわよね。莉子ちゃんはよく頑張ってる方だと思うわよ。
* * *
午後はぐつぐつと煮えている黒豆の番をしながら、玲香さんとお喋り。
勿論、玲香さんはその間も野菜を切ったり下ごしらえしたりと忙しなく動いています。私にできるのが黒豆を見張ることぐらいだった、っていうね。あはは……。
そうか、幼馴染みたいなもんだったのね。道理で、新川家のお父さんやお母さんにもあまり遠慮がなかった気がするもんな、玲香さん。すっかり家族の一員、というか。
「それからは……まぁトントンと結婚まで来た感じね」
「えっ、だいぶん飛びますね。そういえば、どうして仕事を辞めたんですか?」
「え?」
「玲香さん、やりたい仕事に就いてたんでしょう? だから……」
結婚して子供ができたから、とかなら分かる。新聞記者って、時間も不規則で大変そうだし。
なのに、あっさりと寿退職……ちょっと不思議。
「……ふふっ……」
私の質問に、玲香さんは急にポッと頬を染めてモジモジしだした。
はら、どうしました?
「あのね……それは……ねぇ」
「はい」
「伊知郎さんね、私が東京の大学に行くときも、新聞社に就職するときも、なーんにも言わなかったの。やりたいことをちゃんとやった方がいいよってね」
「へぇ……大人ですね」
「ねっ、そう思うでしょ!?」
ぐりんと私の方に向き直り、勢い込む。
ほ、包丁をかざすのはやめてください。ちょっと怖い。
私がビビッていると「あら、ごめんなさい」と言って玲香さんは向き直り、再び野菜を切り始めた。
「でもね。二年前、こう言われたの。『結婚したら、毎日玲香に行ってらっしゃい、と見送られたい。帰ってきたら、お帰りなさい、と出迎えてほしい。だから、それでもいいと思えたら、僕と結婚してください』……って」
「え……」
伊知郎さんの仕事はとても不規則だ。夜勤もあるし、いつも決まった時間に家を出る訳でも帰る訳でもない。それでは確かに、新聞記者の仕事は続けられない。
伊知郎さんのその台詞は、自分のために仕事を辞めてくれ、と言っているのと同じだ。それだけ聞くと、子供じみたひどい束縛のように思える。
でも、玲香さんにとってはそうじゃないんだろう。
「それってね、伊知郎さんが初めてした『お願い』なのよね」
人参をトントントン……とリズムよく切りながら、玲香さんはふっと微笑んだ。
「ずっと、家に両親がいない生活を送って来てたでしょう。で、弟達の世話もして。きっと、憧れてたんだろうなって」
「……」
「だから、ストンと覚悟が決まって。私はこの人に『行ってらっしゃい』と『お帰りなさい』を毎日伝えるために結婚しよう、と思ったの」
大人な伊知郎さんの、初めての子供な『お願い』。
旦那のために仕事を辞めるなんて、と批判する人もいるかもしれない。自立してない、とか、旦那に仕えるなんて、とか。
だけど私は、迷うことなく伊知郎さんの『お願い』を選んだ玲香さんはカッコいいな、と思った。
「……素敵ですね」
「そう?」
玲香さんはふわっと幸せそうに微笑んだあと、急にブフゥッと吹き出した。
いや、何か色々台無しです、玲香さん……。
「そういえば、あの時もびっくりしてたな。『わかった。明日、辞表を出すね』って答えたから」
「えっ!」
「急にワタワタして『いや、すぐって意味じゃないよ。働きたいだけ働いたらって意味で!』とか言って、真っ赤になって弁解してた。可愛かったなー」
いや、それは慌てるでしょう。玲香さんたら、天然小悪魔?
でも、よーくわかった。伊知郎さんは、玲香さんのことが大好きで、すごく大事にしてるんだな、ということは。
そして玲香さんも、そんな伊知郎さんを大切に想っている。
何だよもう、ラブラブじゃん! はー、ご馳走様!
勿論、実際にはちゃんと引継ぎまで終えてから辞めたわよ、と言って、玲香さんは肩をすくめた。
「でも、莉子ちゃんに『素敵』って言ってもらえたのは嬉しいな。同僚にはイマドキそんな、みたいなことを言われたりしたしね。……とは言っても伊知郎さんがお仕事している間はやっぱり暇だから、医療事務や経理の資格の勉強をしたりしてるんだけど」
「へぇ……」
「ただ莉子ちゃん、これは伊知郎さんだから、って話よ!」
急に語気が強くなる。ギョッとして見上げると、玲香さんがそれはそれは真剣な顔をして私をじっと見下ろしていた。
「透くんには駄目ね。何を逆手に取るか分からないわよ。いい、莉子ちゃん。最初が肝心だからね!」
「だいぶん手遅れのような気がしますけど」
「ううん、大丈夫よ。今のところ莉子ちゃんが勝ってるわ」
何の勝負だ?と私が首を捻っていると、玲香さんはとてもおかしそうに口元を緩ませた。
「ふふっ、多分そういうところが莉子ちゃんの強みね」
「へ……」
そのとき、廊下の奥から
「玲香ー、洗剤の買い置きってどこー?」
という伊知郎さんの声が聞こえてきた。
玲香さんは「しょうがないわねぇ」と言いながら、包丁をまな板の上に置くと、嬉しそうに台所を出て行った。
いろんな夫婦がいるものだ、と思いながら鍋の中を覗き見る。
この皺ひとつないピカピカの綺麗な黒豆が玲香さんの想いを表しているようで、私はじんわりと幸せのおすそ分けを噛みしめていた。
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