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放課後 ~後日談~
SDカード ~新川透の事情・その1~(後編)
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その九月の夜を最後に、定食屋には行っていない。
親しく話をしていた訳ではないとはいえ、馴染みの店員である莉子のお母さんが亡くなったことはショックだった。
そしてそれ以上に、どうすればいいだろう、莉子はどうしているだろうかと心配になった。
間もなく、別の手段で情報を入手し、莉子が高校を辞めたこと、光野予備校で働き始めたことを知った。
もう待ってなどいられない、と考えを巡らせ、内定が取れていた製薬会社を蹴り、光野予備校に就職希望を出すことになる。
そうして慌ただしく過ごしているうちに……この時のことはすっかり忘れてしまっていた。
ホテルでも彼は俺からは見えない位置に待機していたようで、全く気付かなかった。俺は莉子と松岡氏を追い、二人の話が聞けてかつ莉子には気づかれない席にすぐに身を潜めてしまったので、周りを見る余裕がなかったのだ。
だが、あのホテルで小坂氏と対峙したとき、
「ああ、あの時の人か」
とすぐに思い出した。顔には出さなかったけれども。
小坂氏はああやって時折、莉子のお母さんの元を訪れていたのかもしれない。
ひょっとしたら、会長の命令などではなく自らの意思で。
そして――こうして莉子のお母さんが小坂氏の電話番号を残していたところをみると、莉子のお母さんがあの定食屋で働くようになってからずっと続いていたのだろう。
莉子のお母さんが最初から彼を快く迎えるとは思えない。後に松岡氏に子供がいないことを知り「莉子を奪われるのではないか」と警戒する気持ちだってあっただろうし。
でも、俺が見た二人は言葉少なながらもどこか親しみがあるというか、とても穏やかだった。あくまで店員と時折ふらりと現れる客、という感じだった。
小坂氏は、必要以上に近づくことはなく「もし何かあれば力になりたい」「何もなければこのままで」という体でずっと見守っていたのではないか。
そうした付かず離れずの長い年月が二人の間にはあって……だから、やがて莉子のお母さんも小坂氏を信用するようになったのではないか、と思う。
そして「どうしても頼らざるを得ない事態になったら」と考えて、この電話番号を残しておいたのではないか。会社名などはすべて伏せ、彼個人の連絡先のみを。
名刺など残してあったら、勘のいい莉子が何を嗅ぎつけるか分からないから。
俺のことも調べていたと言っていた、小坂氏。
それはそうだろう、そんな長い年月をかけて注意深く母娘を見守っていたのであれば、俺の存在にだって気づくだろうなあと妙に納得したのだった。
* * *
「これは、松岡さんに教えても仕方がないよね……。逆にショックを受けるだけのような気がする」
「そうだね。ところで莉子、受験が終わったらパーッと遊ぶのとのんびり過ごすのとどっちがいい?」
莉子にこれ以上余計なことは考えさせまい、とさっさと目の前のファイルを閉じ、質問を投げかけてみる。
恐らく小坂氏は、松岡氏にも莉子にもそんなことをしていたとは知られたくないだろうから。
「えー、どっちだろう。……のんびりかなあ」
「ずっと時間に追われてたしね。じゃあ、海と山のどっちがいい?」
「え? どっちでも……って、ちょっと待って。何の話?」
帰り支度をしながら、ギョッとしたような顔をして俺を見上げる。
イイ、イイねぇ。さすが勘がいいよ、莉子は。
「旅行の話。予約しておこうと思って」
「旅行………………ああっ!」
急に小さく叫び、唇がわなわなと震える。一瞬で顔が赤くなりパッと俯くと、右手を口元にあてて何かを熟考し始めた。
今度は何をぐるぐる考えているんだろうか。だが、以前の反応とは少し様子が違う。顔は赤いままだが、どうも妄想している訳ではないようだ。
やがてパッと俺の顔を見ると、眉がハの字に下がった。申し訳なさそうな表情になる。
どうも、想定していたリアクションと違うな。
「ごめん、それナシにしよう!」
「何でそうなる!?」
思わず大人げなく叫んでしまったが、無理もない。
あのね、俺が慎重に慎重を期してどれだけ待ったと思ってるの?
やっと気持ちが通じるところまで漕ぎつけたのに、『莉子の時間を全部もらう』このチャンスを、俺が逃がすと思う?
「だって、状況が変わったんだもん!」
「何が? 両想いになったんだから、なおさら問題ないでしょ」
「そっちじゃない! 私、新川家にお世話になってるし! 恥ずかしいし、申し訳ないよ!」
「んん?」
まぁ、『両想い』をきちんと肯定したのはいいとして。
莉子はちょっと攻めると「無理」だの「恥ずかしい」だの言い出してパニくるのだが(そこが楽しいのだが)、今回のだけは何が恥ずかしくて何が申し訳ないのかがさっぱり解らない。
「だから! 新川家のお父さんもお母さんも知ってるし、顔も合わせてるし、これから3月までずっとお世話になるのに……」
「いや、お世話になるのは玲香さんの家だよね」
「そうだけど! 新川家のお父さんとお母さんもちゃんと認めてくれたからできることだもん!」
「まぁ、それは……」
「そうやって、認めてもらったのに……あの、その、じゃあ、今から二人で旅行に行ってきまーす、というのは、何というか……………」
莉子はモジモジしながら目を伏せ、不意に押し黙った。
今度は何やら妄想した系の顔をしているな。ちょっとエロいというか……これを言うと、怒られるのだが。
それはアレかな、貞操観念的な話をしてるのかな。
「別にウチ、カトリックじゃないけどね」
「へ?」
「婚前交渉にうるさく言わないと思うけど」
「こっ……ば、バッカじゃないの!?」
もう殆ど莉子の口癖になっている「バッカじゃないの」。
んー、イイ感じだ。楽しくなってきた。
別に無理矢理どうにかしようと思っている訳ではないが、このセンで攻めるのが一番反応が面白い。
「違うの?」
「違う! ……いや、違わなくもないけど、そうじゃなくってね!」
「何?」
「だから……って、何でにじり寄ってくるの、そんな顔で!」
「莉子が聞き分けないから」
「聞き分けないのはそっちでしょうが!」
「そんな顔ってどんな顔?」
「言いたくない!」
壁際に追いつめると、鞄を胸に抱えたままギュッと目を閉じてそっぽを向いている。耳まで真っ赤だ。
どうやら莉子は俺のアップに弱いらしい。莉子の言う『そんな顔』に生まれて良かった、と今では心の底から思う。
「ねぇ」
「何を言っても駄目!」
「キスしていい?」
「んがっ……どのタイミングでそれを言うの!」
莉子は目を見開くと、バッと俺の方を見て盛大に叫んだ。
こちらに振り返ったはいいものの、口元はしっかり鞄でガードしている。
うーむ、本当にこういうところは反応が素早いなあ。どうしたものか……。
そのとき、莉子の鞄の中から軽快な音楽が流れてきた。今日は玲香さんが車で迎えに来てくれるという話だったから、その連絡だろう。
莉子がワタワタと両手で鞄をバタつかせている間に、真っ赤になっている右耳に
「仕方ないから今日はここまでね」
と囁き、チュッとキスをした。
「ひゃん!」
ビクッと肩を震わせた莉子が、バサッと手にしていた鞄を落とす。ガラケーのメロディは、いつの間にか止んでいた。
そして俺の時も、一瞬止まった。
これ以上ないぐらい真っ赤な顔をした莉子は、
「ひ、卑怯者~~!」
と涙目で叫び、落ちた鞄を拾うとバタバタと走って玄関へと消えていった。ガタガタと音をさせ、慌てて靴を履く様子が伝わってくる。
「もう帰るから! またね! おやすみなさい!」
最後にそう叫び、派手な音をさせながらドアを開けて外に出ていった。
挨拶はきちんと、という妙に律義なところがまたグウッとくる。
莉子、「ひゃん!」はない……。ないよ……。しかもあの涙目。
うっ、腰にくる……。
壁に右腕を伸ばして寄りかかり、いわゆるお猿の『反省』のポーズをしながら、
「卑怯なのはどっちだ……」
と思わずボヤいたのだった。
しかし、「旅行はナシ」ねぇ……。さすがにその『お願い』は聞けないな、莉子。悪いけど。
この俺をナメてもらっては困る。莉子は「旅行に行きたくない」とは一言も言わなかった訳だし。
さて、どうやって莉子を連れ出すか。旅行中ずっと不機嫌なのも困るし、ちゃんと楽しんでもらうためにもどうにか莉子を納得させる手立てを考えなくては。
相変わらず、莉子と対峙するのはスリルがあるしハードルが高いな、とは思いつつ……存分にこのミッションを楽しもうとしている自分に、思わずニヤリとしてしまった。
親しく話をしていた訳ではないとはいえ、馴染みの店員である莉子のお母さんが亡くなったことはショックだった。
そしてそれ以上に、どうすればいいだろう、莉子はどうしているだろうかと心配になった。
間もなく、別の手段で情報を入手し、莉子が高校を辞めたこと、光野予備校で働き始めたことを知った。
もう待ってなどいられない、と考えを巡らせ、内定が取れていた製薬会社を蹴り、光野予備校に就職希望を出すことになる。
そうして慌ただしく過ごしているうちに……この時のことはすっかり忘れてしまっていた。
ホテルでも彼は俺からは見えない位置に待機していたようで、全く気付かなかった。俺は莉子と松岡氏を追い、二人の話が聞けてかつ莉子には気づかれない席にすぐに身を潜めてしまったので、周りを見る余裕がなかったのだ。
だが、あのホテルで小坂氏と対峙したとき、
「ああ、あの時の人か」
とすぐに思い出した。顔には出さなかったけれども。
小坂氏はああやって時折、莉子のお母さんの元を訪れていたのかもしれない。
ひょっとしたら、会長の命令などではなく自らの意思で。
そして――こうして莉子のお母さんが小坂氏の電話番号を残していたところをみると、莉子のお母さんがあの定食屋で働くようになってからずっと続いていたのだろう。
莉子のお母さんが最初から彼を快く迎えるとは思えない。後に松岡氏に子供がいないことを知り「莉子を奪われるのではないか」と警戒する気持ちだってあっただろうし。
でも、俺が見た二人は言葉少なながらもどこか親しみがあるというか、とても穏やかだった。あくまで店員と時折ふらりと現れる客、という感じだった。
小坂氏は、必要以上に近づくことはなく「もし何かあれば力になりたい」「何もなければこのままで」という体でずっと見守っていたのではないか。
そうした付かず離れずの長い年月が二人の間にはあって……だから、やがて莉子のお母さんも小坂氏を信用するようになったのではないか、と思う。
そして「どうしても頼らざるを得ない事態になったら」と考えて、この電話番号を残しておいたのではないか。会社名などはすべて伏せ、彼個人の連絡先のみを。
名刺など残してあったら、勘のいい莉子が何を嗅ぎつけるか分からないから。
俺のことも調べていたと言っていた、小坂氏。
それはそうだろう、そんな長い年月をかけて注意深く母娘を見守っていたのであれば、俺の存在にだって気づくだろうなあと妙に納得したのだった。
* * *
「これは、松岡さんに教えても仕方がないよね……。逆にショックを受けるだけのような気がする」
「そうだね。ところで莉子、受験が終わったらパーッと遊ぶのとのんびり過ごすのとどっちがいい?」
莉子にこれ以上余計なことは考えさせまい、とさっさと目の前のファイルを閉じ、質問を投げかけてみる。
恐らく小坂氏は、松岡氏にも莉子にもそんなことをしていたとは知られたくないだろうから。
「えー、どっちだろう。……のんびりかなあ」
「ずっと時間に追われてたしね。じゃあ、海と山のどっちがいい?」
「え? どっちでも……って、ちょっと待って。何の話?」
帰り支度をしながら、ギョッとしたような顔をして俺を見上げる。
イイ、イイねぇ。さすが勘がいいよ、莉子は。
「旅行の話。予約しておこうと思って」
「旅行………………ああっ!」
急に小さく叫び、唇がわなわなと震える。一瞬で顔が赤くなりパッと俯くと、右手を口元にあてて何かを熟考し始めた。
今度は何をぐるぐる考えているんだろうか。だが、以前の反応とは少し様子が違う。顔は赤いままだが、どうも妄想している訳ではないようだ。
やがてパッと俺の顔を見ると、眉がハの字に下がった。申し訳なさそうな表情になる。
どうも、想定していたリアクションと違うな。
「ごめん、それナシにしよう!」
「何でそうなる!?」
思わず大人げなく叫んでしまったが、無理もない。
あのね、俺が慎重に慎重を期してどれだけ待ったと思ってるの?
やっと気持ちが通じるところまで漕ぎつけたのに、『莉子の時間を全部もらう』このチャンスを、俺が逃がすと思う?
「だって、状況が変わったんだもん!」
「何が? 両想いになったんだから、なおさら問題ないでしょ」
「そっちじゃない! 私、新川家にお世話になってるし! 恥ずかしいし、申し訳ないよ!」
「んん?」
まぁ、『両想い』をきちんと肯定したのはいいとして。
莉子はちょっと攻めると「無理」だの「恥ずかしい」だの言い出してパニくるのだが(そこが楽しいのだが)、今回のだけは何が恥ずかしくて何が申し訳ないのかがさっぱり解らない。
「だから! 新川家のお父さんもお母さんも知ってるし、顔も合わせてるし、これから3月までずっとお世話になるのに……」
「いや、お世話になるのは玲香さんの家だよね」
「そうだけど! 新川家のお父さんとお母さんもちゃんと認めてくれたからできることだもん!」
「まぁ、それは……」
「そうやって、認めてもらったのに……あの、その、じゃあ、今から二人で旅行に行ってきまーす、というのは、何というか……………」
莉子はモジモジしながら目を伏せ、不意に押し黙った。
今度は何やら妄想した系の顔をしているな。ちょっとエロいというか……これを言うと、怒られるのだが。
それはアレかな、貞操観念的な話をしてるのかな。
「別にウチ、カトリックじゃないけどね」
「へ?」
「婚前交渉にうるさく言わないと思うけど」
「こっ……ば、バッカじゃないの!?」
もう殆ど莉子の口癖になっている「バッカじゃないの」。
んー、イイ感じだ。楽しくなってきた。
別に無理矢理どうにかしようと思っている訳ではないが、このセンで攻めるのが一番反応が面白い。
「違うの?」
「違う! ……いや、違わなくもないけど、そうじゃなくってね!」
「何?」
「だから……って、何でにじり寄ってくるの、そんな顔で!」
「莉子が聞き分けないから」
「聞き分けないのはそっちでしょうが!」
「そんな顔ってどんな顔?」
「言いたくない!」
壁際に追いつめると、鞄を胸に抱えたままギュッと目を閉じてそっぽを向いている。耳まで真っ赤だ。
どうやら莉子は俺のアップに弱いらしい。莉子の言う『そんな顔』に生まれて良かった、と今では心の底から思う。
「ねぇ」
「何を言っても駄目!」
「キスしていい?」
「んがっ……どのタイミングでそれを言うの!」
莉子は目を見開くと、バッと俺の方を見て盛大に叫んだ。
こちらに振り返ったはいいものの、口元はしっかり鞄でガードしている。
うーむ、本当にこういうところは反応が素早いなあ。どうしたものか……。
そのとき、莉子の鞄の中から軽快な音楽が流れてきた。今日は玲香さんが車で迎えに来てくれるという話だったから、その連絡だろう。
莉子がワタワタと両手で鞄をバタつかせている間に、真っ赤になっている右耳に
「仕方ないから今日はここまでね」
と囁き、チュッとキスをした。
「ひゃん!」
ビクッと肩を震わせた莉子が、バサッと手にしていた鞄を落とす。ガラケーのメロディは、いつの間にか止んでいた。
そして俺の時も、一瞬止まった。
これ以上ないぐらい真っ赤な顔をした莉子は、
「ひ、卑怯者~~!」
と涙目で叫び、落ちた鞄を拾うとバタバタと走って玄関へと消えていった。ガタガタと音をさせ、慌てて靴を履く様子が伝わってくる。
「もう帰るから! またね! おやすみなさい!」
最後にそう叫び、派手な音をさせながらドアを開けて外に出ていった。
挨拶はきちんと、という妙に律義なところがまたグウッとくる。
莉子、「ひゃん!」はない……。ないよ……。しかもあの涙目。
うっ、腰にくる……。
壁に右腕を伸ばして寄りかかり、いわゆるお猿の『反省』のポーズをしながら、
「卑怯なのはどっちだ……」
と思わずボヤいたのだった。
しかし、「旅行はナシ」ねぇ……。さすがにその『お願い』は聞けないな、莉子。悪いけど。
この俺をナメてもらっては困る。莉子は「旅行に行きたくない」とは一言も言わなかった訳だし。
さて、どうやって莉子を連れ出すか。旅行中ずっと不機嫌なのも困るし、ちゃんと楽しんでもらうためにもどうにか莉子を納得させる手立てを考えなくては。
相変わらず、莉子と対峙するのはスリルがあるしハードルが高いな、とは思いつつ……存分にこのミッションを楽しもうとしている自分に、思わずニヤリとしてしまった。
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