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第12幕 収監令嬢は運命に抗いたい
第6話 これで、本当に最後だから
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そう、もう終わりだ。
私が心のままに動ける時間も、もう終わり。本音を自由に口に出せる時間も、もう終わり。
やだな。仕方ない、道はこれしか無かった、ってちゃんと割り切ったつもりだったのにな。
口に出したら、涙が込み上げてくる。
しかし、そんな私の胸中なんか推し量る気も無いのだろう。
セルフィスは容赦なかった。
「随分おとなしいですね。マユらしくもない。ディオン様の正妃になることで、もう満足したのですか?」
「――っ、満足する訳がないでしょう!?」
こんの、人の気も知らないで勝手なことを!
魔導士のことだけじゃない。何でミーアばっかり相思相愛になれるのよ、とか、どうして私には恋愛する時間すらないのよ、とか、不満ならいっぱいあるわよ!
だけど……っ!
「仕方ないじゃない! 私は周りを裏切れないもの! 私が勝手なことをすれば皆の顔を潰すし、お父様もお兄様も責任を取らされて公爵家はおしまいだもの! そんな無責任なことできないわよ!」
「勝手、って何をしたいんです?」
「~~~~!」
言えるわけないでしょ、このバカ執事――!
いざ結婚って時になって、初めてわかったのよ。大公子妃と真の魔導士の両立なんて、そう簡単にはできないことが。
だったら私は、『聖なる者』になって、真の魔導士になりたかった。
身分も立場も全部投げ捨てて、世界を自由に巡って現状を自分の目で確認して。
人間と魔物の間に立って、魔王が人間を蹂躙しなくても済む世界について考え、守りたかった。
そして――その傍に、セルフィスがいてほしい。
なーんてこと、言えるわけないでしょうが! こんな甘っちょろいこと!
ましてやセルフィスに言ったら終わりよ。
「無理です」
とかバッサリ切り捨てられて、目も当てられないことになるわ。
私は未来でセルフィスに会える可能性まで潰したくないんだから!
「と、に、か、く! 今はどこにいて何をしているのか、ちゃんと教えて!」
「言えません」
「何でよ!?」
「どうしてもです」
「ねえ、本気で言ってる!? これで最後なのよ、私たち! セルフィスは、本当にそれでいいの!?」
もう泣くのを我慢することもできなかった。セルフィスにしがみつきたいのを堪えるので精いっぱい。
だって、『影』だから。触れると、壊れて消えちゃうもの。
もう、だから何で肝心な時に『影』なのよー!
両腕をつっぱり、両手の拳をグッと握りしめてボロボロと涙を溢す私を、セルフィスは見ようともしない。私の視線から逃れるように左斜め下を向いている。
その顔は右肩から垂らした長い黒髪に隠れてしまっていて、私からは殆ど見えない。
「……――ですか」
「え?」
聞こえない、もう一度……と言おうとした瞬間、セルフィスのすぐ隣にあった扉がバーンと勢いよく開いた。
「マユ様、何を叫んでいるんです?」
「え、あ……あ――!」
ヘレンが顔を覗かせた瞬間、俯いたままのセルフィスの『影』が跡形もなく消え失せる。
冗談じゃないわ、嘘でしょ!?
「ちょっとセルフィス! こんな最後ってないわよー!」
辺りを見回して叫ぶけど、当然ながら答えはない。
ビックリし過ぎて涙は止まったけど……でも、信じられない! 何これ!?
私の恋って、これで終わり!? こんな結末ってある!? 相手はかき消えて消息不明とか……あり得ないわよ!
「マユ様、セルフィスって何ですか? 何を騒いでるんです?」
ヘレンに続いて現れたアイーダ女史が、ひどく訝しげな顔で私を見ている。
ああもう、この際いいわよね! どうせ最後だしね!
「セルフィスはセルフィスよ! マリアンセイユ付きの執事! とっくにクビになってるけど!」
「……ええ?」
「目覚めた私に、会いに来てくれてたの! 本当に、たまーにだけど!」
「……」
「……」
アイーダ女史とヘレンが深刻そうな表情でお互いの顔を見合わせている。何をおかしなことを言ってるんだ、みたいな感じ。
いや、信じられないかもしれないけどさ。本当なのに。
それに、マリアンセイユが眠りにつく前から二人とも私の傍にいたんでしょ。セルフィスとは仕事仲間じゃない。何でそんなハテナがいっぱい浮かんでるような顔をしてるのよ?
「マユ様……令嬢付きの執事など、いる訳がないでしょう?」
「は?」
溜息混じりのアイーダ女史の台詞に、私の方がポカンとしてしまった。
だって、何か全然違うことを言われたから。セルフィスがパルシアンにまで来る訳がないでしょう、とか、そんな感じのことを言われると思ってた。
え、どういうこと?
ヘレンを見ると、アイーダ女史の言葉にうんうんと頷いている。同意見らしい。
「マユ様、執事はその家の主につくものです。使用人とは違います。それに、令嬢につくのはメイドと決まっていますわ。執事はあり得ません、男性ですもの」
「どうして?」
「大事な令嬢に異性を近づける訳がないからです。両親より兄弟より多くの時間を共有することになる付き人に、情が移っては大変でしょう? 間違いでもあったら困りますから」
ヘレンの説明に、アイーダ女史も頷く。
貴族令嬢はそれほど大切な御身なのですよ、と呆れたような口調で付け加えた。今さら説明させるのですか、と言わんばかりに。
「確かに、全く無いとは申しません。主の命令により令嬢に執事が付くことはございますが、それはクロエ・アルバード様のように既に公の立場になられている場合です」
つまり、執事とは召使というより秘書のようなもの、ということ? 使用人とは違うっていう話だしね。
さらに言えば、幼い令嬢に男性の執事を付けることは考えられない、と。
「じゃあ、眠りにつく前のマリアンセイユには……」
「医師としてわたくしが、そしてメイドとしてヘレンが付いていました。他にも何人かは身の回りのお世話をするメイドはいましたが、執事などはいませんよ?」
「……っ……!」
つまり――『セルフィス』という名のマリアンセイユ付きの執事なんか、初めから存在しなかった、ということなの!?
とんでもない事実を突きつけられて、私は言葉を発することができなかった。
目の前がクラクラする。
困り顔のアイーダ女史と心配顔のヘレンが視界から消え、浮かんできたのは、長い黒髪を右肩から垂らした、金色の瞳の執事服の青年が丁寧に会釈をした姿。
――申し遅れました。わたしは、セルフィスと申します。マリアンセイユ様付きの執事です。
確か、セルフィスはそう言って私に挨拶をしたのよ。この黒い家で、初めて会ったとき。
ちょっと、ドアタマから大嘘じゃないの!
え、じゃあ、セルフィスは一体、何者だったの?
まさか、全部が全部、まやかし? 私が見た夢?
いやいや待って、聖女の泉でセルフィスに触れたわよ。ダンスを踊ったじゃない。
あれは『影』なんかじゃないわよ。今思い返しても、本体だったって断言できる。
じゃあ、真実はどこにあるの?
私にしてくれたこと、言ってくれた言葉――どこまでが本当でどこからが嘘なの?
それとも、本当のことなんて、どこにも無いの?
じゃあ、私のこの想いはどうなるの? いったい……――。
「――あっ!」
ヘレンが私の後ろを指差して大声を上げる。
何よ、いま頭が混乱してて、それどころじゃ……。
「え、スコル!?」
ヘレンの指の先、カーテンが開けられた窓。スコルがバンバンと外から叩いていた。肉球がペタリと窓に張り付いている。
「どうしたの、スコル!」
慌てて窓に駆け寄り、思い切りよく開ける。外から冷たい雪混じりの風がビュウウと吹き込んできて、肩にかけていたショールが飛んでいってしまった。
「さ、寒っ!」
『もー、マユ、気づくのおせぇーよ』
スコルがブルルッと体を振るわせる。背中に積もっていた雪がパラパラと辺りに散り、あっという間に水滴に変わった。
『クォーン、クォーン……』
「あら、クォン!?」
スコルの首辺りにへばりついてたクォンが、ピョーンと私に飛び掛かってくる。
遠くの方でヘレンが「ひいいいぃぃぃ」と叫び声を上げ、ズダンッ!という腰を抜かした音が聞こえてきた。
「クォン、どうしたの? そんなに泣いて……」
いいこいいこ、というようにそのつるんとした水色の背中を撫でてあげたけど、クォンは一向に泣き止まない。
『クォンさー、ずっとオレ達にべったりで』
「ハティとスコルに?」
『そう。多分、マユに会いに行くときに一緒に連れてけってことだと思ってさ。面倒みてたんだけど』
スコルがまるで弟の子守に疲れた兄のようなことを言う。
サーペンダーに連れられ一度は魔界に戻ったクォンだけど、アッシメニアの下には戻らず、ハティとスコルが魔界に帰ったときに待ち伏せするように現れたらしい。
それからずっと三人で一緒にいたそうだ。
ハティもスコルも、アッシメニアのところには顔を出さなかった。
フェルワンドに喧嘩を吹っ掛けたとか、大勢の人間の前で大暴れしたとか、およそアッシメニアに怒られそうなことしかしていなかったからだ。
クォンもそれを見越していたのかしら。だとしたら想像以上に賢いわね、クォン。
『今日になって急に泣き始めて、しかもずーっと泣き続けてるからさあ。このままじゃ溶けちゃうだろ。とにかくマユに会わせれば落ち着くかな、と思ったんだけどさ』
ついっと私の胸元にいるクォンを見上げる。クォンはポロポロ涙を溢し続けていて、ぐっしょりと私のワンピースの胸元を濡らしてしまっていた。
『駄目みたいだな。マユ、何で泣いてるか解るか?』
「さすがに解らないわよ。とにかく怖がってるのと、私に何かを報せようとはしてるみたいだけど……」
コクコク、とクォンが泣きながら頷く。
『あー。……しゃあねーな、じぃちゃんのところに行くか』
「じぃちゃん? アッシメニア?」
『おう。多分、じぃちゃんなら分かる。あんまり気は進まねぇけど』
スコルはガックリとうなだれると、はああ、と大きな溜息をついた。
まぁ、そうね。叱られたくなくて珍しく魔界でじっとしてたんでしょうしね。
『ほらクォン、行くぞ』
「そうね。ほら、クォン」
スコルにクォンを返そうとクォンの体を掴んで引き剥がそうとしたけど、クォンは涙を溢したままガンとして手を離さない。びよーんとビチョビチョになったワンピースの胸元が伸びる。
「クォン~、離して。このままじゃ溶けちゃうでしょ?」
『クォーン、クォ、クォーン』
クォンは「もう絶対に離れないんだからぁ!」という感じでワンピースにしがみつき、微動だにしない。
スコルがふう、と溜息をついた。
『あー、こりゃ駄目だ。仕方ない、マユ。ハティを召喚しろ。一緒に行くぞ』
「え、行くって……」
『じぃちゃんのとこ』
「ええっ!?」
あまりにも突拍子もない提案に声がひっくり返る。それと同時に、
「マユ様!?」
「アッシメニアって……ちょっと待ってください、どちらまで行かれるおつもりですか!?」
という大声が後ろから飛んできた。
慌てて振り返ると、腰を抜かしてへたり込むヘレンと、ヘレンの肩を抱くアイーダ女史。
スコルとクォンの登場とそのやりとりにしばらく呆けていたらしい二人も、これは非常にマズい事態だとわかったらしい。
……ごめん、二人とも。
私が勝手をするのは、これが最後。
「クォン、泣き止まないと溶けて死んじゃうの」
「え……」
「それに、私にどうしても何か伝えたいみたいなの。だから、ちょっと行って来る」
「行って来るって……」
「――最後だから。もう自由に動けるの、これで最後だから」
ちゃんと帰ってくるから、儀式をすっぽかしたりしないから行かせてね、と一生懸命に言葉を紡ぐ。
何か言いかけた二人は、一瞬だけ喉を詰まらせた。
それを確認して、私はスコルの方に振り返った。背中で感謝する。
きっと二人は、立場上「行ってもいい」とは到底言えないろう。だけど「行ってはいけない」という言葉も飲み込んでくれている。
ありがとう、隙を作ってくれて。
黒い机に立てかけてあった死神メイスを手に取り、スコルを見下ろす。
「スコル、私は明日にはロワネスクに戻らないといけないの」
『ああ、大丈夫。ちょろっと行って来るだけだし』
「お願いね。……では!」
右手の小指の銀の指輪に祈りを込めると、ハティがポンッと現れた。ふんむー、と全身の毛を逆立てたハティから土埃のような魔精力が溢れ、私達を包む。
『魔界、行くから。マユ、隠す』
「ありがとう、ハティ」
窓を開け、スコルの背に乗る。
アイーダ女史とヘレンには何も告げなかった。あくまで二人が呆けている間に私が勝手に飛び出した、ということにしなければならない。
二人に心の中で「ありがとう」と呟き、王獣アッシメニアに会う覚悟を決めて、私達は黒い家を飛び出した。
私が心のままに動ける時間も、もう終わり。本音を自由に口に出せる時間も、もう終わり。
やだな。仕方ない、道はこれしか無かった、ってちゃんと割り切ったつもりだったのにな。
口に出したら、涙が込み上げてくる。
しかし、そんな私の胸中なんか推し量る気も無いのだろう。
セルフィスは容赦なかった。
「随分おとなしいですね。マユらしくもない。ディオン様の正妃になることで、もう満足したのですか?」
「――っ、満足する訳がないでしょう!?」
こんの、人の気も知らないで勝手なことを!
魔導士のことだけじゃない。何でミーアばっかり相思相愛になれるのよ、とか、どうして私には恋愛する時間すらないのよ、とか、不満ならいっぱいあるわよ!
だけど……っ!
「仕方ないじゃない! 私は周りを裏切れないもの! 私が勝手なことをすれば皆の顔を潰すし、お父様もお兄様も責任を取らされて公爵家はおしまいだもの! そんな無責任なことできないわよ!」
「勝手、って何をしたいんです?」
「~~~~!」
言えるわけないでしょ、このバカ執事――!
いざ結婚って時になって、初めてわかったのよ。大公子妃と真の魔導士の両立なんて、そう簡単にはできないことが。
だったら私は、『聖なる者』になって、真の魔導士になりたかった。
身分も立場も全部投げ捨てて、世界を自由に巡って現状を自分の目で確認して。
人間と魔物の間に立って、魔王が人間を蹂躙しなくても済む世界について考え、守りたかった。
そして――その傍に、セルフィスがいてほしい。
なーんてこと、言えるわけないでしょうが! こんな甘っちょろいこと!
ましてやセルフィスに言ったら終わりよ。
「無理です」
とかバッサリ切り捨てられて、目も当てられないことになるわ。
私は未来でセルフィスに会える可能性まで潰したくないんだから!
「と、に、か、く! 今はどこにいて何をしているのか、ちゃんと教えて!」
「言えません」
「何でよ!?」
「どうしてもです」
「ねえ、本気で言ってる!? これで最後なのよ、私たち! セルフィスは、本当にそれでいいの!?」
もう泣くのを我慢することもできなかった。セルフィスにしがみつきたいのを堪えるので精いっぱい。
だって、『影』だから。触れると、壊れて消えちゃうもの。
もう、だから何で肝心な時に『影』なのよー!
両腕をつっぱり、両手の拳をグッと握りしめてボロボロと涙を溢す私を、セルフィスは見ようともしない。私の視線から逃れるように左斜め下を向いている。
その顔は右肩から垂らした長い黒髪に隠れてしまっていて、私からは殆ど見えない。
「……――ですか」
「え?」
聞こえない、もう一度……と言おうとした瞬間、セルフィスのすぐ隣にあった扉がバーンと勢いよく開いた。
「マユ様、何を叫んでいるんです?」
「え、あ……あ――!」
ヘレンが顔を覗かせた瞬間、俯いたままのセルフィスの『影』が跡形もなく消え失せる。
冗談じゃないわ、嘘でしょ!?
「ちょっとセルフィス! こんな最後ってないわよー!」
辺りを見回して叫ぶけど、当然ながら答えはない。
ビックリし過ぎて涙は止まったけど……でも、信じられない! 何これ!?
私の恋って、これで終わり!? こんな結末ってある!? 相手はかき消えて消息不明とか……あり得ないわよ!
「マユ様、セルフィスって何ですか? 何を騒いでるんです?」
ヘレンに続いて現れたアイーダ女史が、ひどく訝しげな顔で私を見ている。
ああもう、この際いいわよね! どうせ最後だしね!
「セルフィスはセルフィスよ! マリアンセイユ付きの執事! とっくにクビになってるけど!」
「……ええ?」
「目覚めた私に、会いに来てくれてたの! 本当に、たまーにだけど!」
「……」
「……」
アイーダ女史とヘレンが深刻そうな表情でお互いの顔を見合わせている。何をおかしなことを言ってるんだ、みたいな感じ。
いや、信じられないかもしれないけどさ。本当なのに。
それに、マリアンセイユが眠りにつく前から二人とも私の傍にいたんでしょ。セルフィスとは仕事仲間じゃない。何でそんなハテナがいっぱい浮かんでるような顔をしてるのよ?
「マユ様……令嬢付きの執事など、いる訳がないでしょう?」
「は?」
溜息混じりのアイーダ女史の台詞に、私の方がポカンとしてしまった。
だって、何か全然違うことを言われたから。セルフィスがパルシアンにまで来る訳がないでしょう、とか、そんな感じのことを言われると思ってた。
え、どういうこと?
ヘレンを見ると、アイーダ女史の言葉にうんうんと頷いている。同意見らしい。
「マユ様、執事はその家の主につくものです。使用人とは違います。それに、令嬢につくのはメイドと決まっていますわ。執事はあり得ません、男性ですもの」
「どうして?」
「大事な令嬢に異性を近づける訳がないからです。両親より兄弟より多くの時間を共有することになる付き人に、情が移っては大変でしょう? 間違いでもあったら困りますから」
ヘレンの説明に、アイーダ女史も頷く。
貴族令嬢はそれほど大切な御身なのですよ、と呆れたような口調で付け加えた。今さら説明させるのですか、と言わんばかりに。
「確かに、全く無いとは申しません。主の命令により令嬢に執事が付くことはございますが、それはクロエ・アルバード様のように既に公の立場になられている場合です」
つまり、執事とは召使というより秘書のようなもの、ということ? 使用人とは違うっていう話だしね。
さらに言えば、幼い令嬢に男性の執事を付けることは考えられない、と。
「じゃあ、眠りにつく前のマリアンセイユには……」
「医師としてわたくしが、そしてメイドとしてヘレンが付いていました。他にも何人かは身の回りのお世話をするメイドはいましたが、執事などはいませんよ?」
「……っ……!」
つまり――『セルフィス』という名のマリアンセイユ付きの執事なんか、初めから存在しなかった、ということなの!?
とんでもない事実を突きつけられて、私は言葉を発することができなかった。
目の前がクラクラする。
困り顔のアイーダ女史と心配顔のヘレンが視界から消え、浮かんできたのは、長い黒髪を右肩から垂らした、金色の瞳の執事服の青年が丁寧に会釈をした姿。
――申し遅れました。わたしは、セルフィスと申します。マリアンセイユ様付きの執事です。
確か、セルフィスはそう言って私に挨拶をしたのよ。この黒い家で、初めて会ったとき。
ちょっと、ドアタマから大嘘じゃないの!
え、じゃあ、セルフィスは一体、何者だったの?
まさか、全部が全部、まやかし? 私が見た夢?
いやいや待って、聖女の泉でセルフィスに触れたわよ。ダンスを踊ったじゃない。
あれは『影』なんかじゃないわよ。今思い返しても、本体だったって断言できる。
じゃあ、真実はどこにあるの?
私にしてくれたこと、言ってくれた言葉――どこまでが本当でどこからが嘘なの?
それとも、本当のことなんて、どこにも無いの?
じゃあ、私のこの想いはどうなるの? いったい……――。
「――あっ!」
ヘレンが私の後ろを指差して大声を上げる。
何よ、いま頭が混乱してて、それどころじゃ……。
「え、スコル!?」
ヘレンの指の先、カーテンが開けられた窓。スコルがバンバンと外から叩いていた。肉球がペタリと窓に張り付いている。
「どうしたの、スコル!」
慌てて窓に駆け寄り、思い切りよく開ける。外から冷たい雪混じりの風がビュウウと吹き込んできて、肩にかけていたショールが飛んでいってしまった。
「さ、寒っ!」
『もー、マユ、気づくのおせぇーよ』
スコルがブルルッと体を振るわせる。背中に積もっていた雪がパラパラと辺りに散り、あっという間に水滴に変わった。
『クォーン、クォーン……』
「あら、クォン!?」
スコルの首辺りにへばりついてたクォンが、ピョーンと私に飛び掛かってくる。
遠くの方でヘレンが「ひいいいぃぃぃ」と叫び声を上げ、ズダンッ!という腰を抜かした音が聞こえてきた。
「クォン、どうしたの? そんなに泣いて……」
いいこいいこ、というようにそのつるんとした水色の背中を撫でてあげたけど、クォンは一向に泣き止まない。
『クォンさー、ずっとオレ達にべったりで』
「ハティとスコルに?」
『そう。多分、マユに会いに行くときに一緒に連れてけってことだと思ってさ。面倒みてたんだけど』
スコルがまるで弟の子守に疲れた兄のようなことを言う。
サーペンダーに連れられ一度は魔界に戻ったクォンだけど、アッシメニアの下には戻らず、ハティとスコルが魔界に帰ったときに待ち伏せするように現れたらしい。
それからずっと三人で一緒にいたそうだ。
ハティもスコルも、アッシメニアのところには顔を出さなかった。
フェルワンドに喧嘩を吹っ掛けたとか、大勢の人間の前で大暴れしたとか、およそアッシメニアに怒られそうなことしかしていなかったからだ。
クォンもそれを見越していたのかしら。だとしたら想像以上に賢いわね、クォン。
『今日になって急に泣き始めて、しかもずーっと泣き続けてるからさあ。このままじゃ溶けちゃうだろ。とにかくマユに会わせれば落ち着くかな、と思ったんだけどさ』
ついっと私の胸元にいるクォンを見上げる。クォンはポロポロ涙を溢し続けていて、ぐっしょりと私のワンピースの胸元を濡らしてしまっていた。
『駄目みたいだな。マユ、何で泣いてるか解るか?』
「さすがに解らないわよ。とにかく怖がってるのと、私に何かを報せようとはしてるみたいだけど……」
コクコク、とクォンが泣きながら頷く。
『あー。……しゃあねーな、じぃちゃんのところに行くか』
「じぃちゃん? アッシメニア?」
『おう。多分、じぃちゃんなら分かる。あんまり気は進まねぇけど』
スコルはガックリとうなだれると、はああ、と大きな溜息をついた。
まぁ、そうね。叱られたくなくて珍しく魔界でじっとしてたんでしょうしね。
『ほらクォン、行くぞ』
「そうね。ほら、クォン」
スコルにクォンを返そうとクォンの体を掴んで引き剥がそうとしたけど、クォンは涙を溢したままガンとして手を離さない。びよーんとビチョビチョになったワンピースの胸元が伸びる。
「クォン~、離して。このままじゃ溶けちゃうでしょ?」
『クォーン、クォ、クォーン』
クォンは「もう絶対に離れないんだからぁ!」という感じでワンピースにしがみつき、微動だにしない。
スコルがふう、と溜息をついた。
『あー、こりゃ駄目だ。仕方ない、マユ。ハティを召喚しろ。一緒に行くぞ』
「え、行くって……」
『じぃちゃんのとこ』
「ええっ!?」
あまりにも突拍子もない提案に声がひっくり返る。それと同時に、
「マユ様!?」
「アッシメニアって……ちょっと待ってください、どちらまで行かれるおつもりですか!?」
という大声が後ろから飛んできた。
慌てて振り返ると、腰を抜かしてへたり込むヘレンと、ヘレンの肩を抱くアイーダ女史。
スコルとクォンの登場とそのやりとりにしばらく呆けていたらしい二人も、これは非常にマズい事態だとわかったらしい。
……ごめん、二人とも。
私が勝手をするのは、これが最後。
「クォン、泣き止まないと溶けて死んじゃうの」
「え……」
「それに、私にどうしても何か伝えたいみたいなの。だから、ちょっと行って来る」
「行って来るって……」
「――最後だから。もう自由に動けるの、これで最後だから」
ちゃんと帰ってくるから、儀式をすっぽかしたりしないから行かせてね、と一生懸命に言葉を紡ぐ。
何か言いかけた二人は、一瞬だけ喉を詰まらせた。
それを確認して、私はスコルの方に振り返った。背中で感謝する。
きっと二人は、立場上「行ってもいい」とは到底言えないろう。だけど「行ってはいけない」という言葉も飲み込んでくれている。
ありがとう、隙を作ってくれて。
黒い机に立てかけてあった死神メイスを手に取り、スコルを見下ろす。
「スコル、私は明日にはロワネスクに戻らないといけないの」
『ああ、大丈夫。ちょろっと行って来るだけだし』
「お願いね。……では!」
右手の小指の銀の指輪に祈りを込めると、ハティがポンッと現れた。ふんむー、と全身の毛を逆立てたハティから土埃のような魔精力が溢れ、私達を包む。
『魔界、行くから。マユ、隠す』
「ありがとう、ハティ」
窓を開け、スコルの背に乗る。
アイーダ女史とヘレンには何も告げなかった。あくまで二人が呆けている間に私が勝手に飛び出した、ということにしなければならない。
二人に心の中で「ありがとう」と呟き、王獣アッシメニアに会う覚悟を決めて、私達は黒い家を飛び出した。
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