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間話9
ディオンの事情
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大公世子ディオンは、学院長になってから忙しい日々を過ごしていた。
午前中は大公宮で山積みの案件に目を通し大公殿下に通すべきものか否かの決を下し、午後はリンドブロム聖者学院に赴き講師陣の報告を聞く。
実は一週間ごとに講師陣による審査は行われており、二カ月になる現在、『聖なる者』の候補はマリアンセイユ・フォンティーヌとミーア・レグナンドを含む十人にまで絞られていた。
とは言え、聖者学院は魔導士学院の上位機関という位置付けでもあり、聖女騎士団や近衛部隊への入団・入隊試験も兼ねている。それらの審査も並行して行わなければならない。
聖者学院の最終試験の舞台は、リンドブロム大公宮の脇から背後へと広がるロワーネの森。この場所での野外探索だ。
あと一カ月と迫り、その準備も入念に行われていた。
4時間目が終わると、マリアンセイユに付いている近衛武官の報告が三人の副部隊長になされ、三人からディオンへと報告がなされる。
ほぼすべての時間を授業で埋めているマリアンセイユは、そのすべての講義で優秀な成績を収めていた。シャルルと二人で受けている特別魔法科の講師・トーマスも、マリアンセイユの成長ぶりに太鼓判を押している。
『聖なる者』の候補としてもディオンの婚約者としても申し分ない……のだが、ディオンは一つ、不満を抱えていた。
――それは、マリアンセイユが自分を気にする素振りが一切無いこと。
マリアンセイユが長い眠りから目覚め、しかもアルキス山の魔物退治をした、と聞いた時は
「これは厄介なことになった」
と思った。
上流貴族から妃を迎え入れた場合、自分の治世の間はその家の意向というものを尊重しなければならない。当然、正妃の意向も機嫌も無視できないものであり、どんなに相性が悪くとも粗略には扱えず、離縁することもできない。
側妃を迎えることも可能だが条件が厳しく、正妃の許可が必要である。そして仮に側妃を迎えられても、その間に子供を作ることができるのは正妃との間に子供がおらず今後も見込めないときだけ。
未来の大公に、自由恋愛は認められていなかった。
しかし自分の婚約者はずっと眠り続けていて、余計な口出しをされることもない。そして結婚し子供さえ作ってしまえばもう用は無い。彼女の機嫌を窺うこと無く自由にのびのびとできる。
そして何より、ディオンには
「本来なら辺境に閉じ込められたまま一生を過ごすはずだった不幸な令嬢を、大公のお告げにより正妃にしてやるのだ」
という気持ちがどこかにあった。
要するに、フォンティーヌ公爵家に恩を売った気になっていたのだ。
その令嬢が、目覚めた。しかも護り神とやらを従え、その膨大な魔精力を制御して魔法を駆使し、魔物まで倒してしまった。
弟シャルルに比べ、魔精力には恵まれなかったディオン。その対極に位置する彼女は夫として自分を尊敬してくれるのだろうか、と歴代の大公同様、彼女の機嫌を窺う羽目になった。
そしてそんな思いを抱かされたことが、ひどく苦痛だった。
「マリアンセイユ公爵令嬢。聖者学院に入らずとも、あなたはわたしの婚約者。『聖なる者』であろうとなかろうと丁重に扱いますし、その立場が揺らぐことはありません。――なぜ、聖者学院に入ろうと思ったのですか?」
その苛立ちもあり、最初に喧嘩を売ったのはディオンである。「お前は道具だ」と暗に匂わせ、好意など一切ない、必要以上にすり寄って来るな、とあからさまに線を引いた。
マリアンセイユはそれを敏感に察知した。入学したいと思った理由や自分の魔精力について、リンドブロム大公国の背景も踏まえ丁寧に述べていたが、つまるところ、
「あなたに気に入られるために来たのではない」
「『聖なる者』になる可能性は自分にもある」
「ただの道具で終わる気はありません」
と言い放ったのだ。
これが、ディオンには驚きだった。
これまで大公宮で開かれたパーティなどで貴族令嬢の立ち振る舞いを見るたび、その女臭さに煩わしさを感じていた。
……が、ここまで自分に媚びず、色気の全く無い女性も珍しかった。
そういえば11歳で眠りについたのだった、きっと精神年齢はそこで止まっているのだろう、と納得していたのだが。
そうは言っても容姿は立派に、立派過ぎるぐらいに大人の女性であるし、魔精力のことも考えると十分な護衛と監視が必要である、と考えた。
そして近衛武官を交替で付けることにしたのだが。
三人の副部隊長から上がってくる報告と講師陣の評価、彼女の立ち振る舞いから考えると、彼女は内面的にも16歳の女性に相応しく、いやむしろそれ以上に大人びていた。
しかも報告を聞いている限り、本人が言っていた通り
「真の魔導士を目指す」
ということにしか興味がないようだった。
ディオンは信じられなかった。
親しく馴れ合う気はない、と突き放したのは自分だが、まさか婚約者であるマリアンセイユ本人が
「あら、そうですか」
とあっさり引き下がるとは思わなかったからだ。
そして――一切、自分に興味を持たないとは。
ディオンの知っている女というものは、総じてもっと強欲でもっと利己的だった。
何しろ公爵令嬢という立派な婚約者がいるにもかかわらず、ディオンに色目を使う令嬢は後を絶たなかったのだから。
マリアンセイユは、かつて眠っていた彼女に対して自分が抱いていた気持ちと同じ――つまり、自分の婚約者という立場の人間、という認識しかディオンに対して持たず、それ以上知ろうとはしていない、知る必要も感じていないのだ、ということにディオンは気づいた。
そして、自分の思い上がりとマリアンセイユに対する自分の態度を後悔するとともに、漠然とショックを受けていたのだった。
* * *
ひとしきり令嬢との会話が終わり、ディオンは大広間を見回し、マリアンセイユの姿を探した。
今日も彼女は、『婚約者』としての立場を越えることなく、弁えすぎるくらい弁えていた。初めて触れ合い、目と目を合わせて言葉を交わしたにも関わらず、その美しいエメラルドグリーンの瞳には何の熱も感じられなかった。
ディオンを引き立てる最高の装いで現れた彼女は、それすらも『婚約者としての仕事』をきっちりとこなしたに過ぎず、ディオン本人に気に入られようとして美しく装った訳ではなかった。
ディオンは軽く失望を覚えたが、しかし今は確かに『学院長と生徒』という立場。聖者学院が開校している間はそれが一番堅実かもしれない、と思い直し、少し頭を冷やそう、とバルコニーへと向かった。
臣下から「木々や泉など自然が溢れている場所がお好みなようです」と聞かされていたディオンは、ひょっとしたらマリアンセイユは外にいるかもしれない、と思いついたのだ。そしてもし本当にいたら、もう少し話をしてみたい、とも考えていた。
しかしバルコニーには、誰もいなかった。右側の手すりの一部が壊れ、落下防止の立て札が置かれたままになっているのを見て、ディオンが眉を顰める。
そうだった。東側のバルコニーは危険だから出入り禁止にする手筈だったのだが、伝達するのを忘れていたようだ。
「早く修理依頼をせねば……」
その声に反応するように、庭の奥でガサリと葉が鳴る音がした。ディオンは弾かれたように顔を上げ、目を凝らす。
東側のバルコニーは月も見えず、辺りは真っ暗。庭はぬかるみ、水たまりもできているような状態で、到底誰かがいるとは思えなかった。
が、そのまま聞かなかったことにして立ち去る訳にもいかない、とディオンは腹の奥に力を入れた。
「――誰か、いるだろう」
「……」
その誰か、が微かに動いた気配がする。
ディオンは右手を懐に入れ、グッと力を込めた。護身用に持ち歩いている、防御シールドが発動する魔道具だ。
これは近衛武官を呼ぶべきか、とディオンは暗闇を睨みつけたまま、スッとその場を離れようとする。
しかし不意に、奥の東屋のランプにぼうっと火が灯った。
「……君、は……」
手から、力が抜けた。
東屋の入口に、一人の少女が立っていた。少女が両手を上げると、ポッポッポッと続けて残り二つのランプにも火が灯り、少女の姿を藍色の闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。
結い上げた薄い茶色の髪はとこどころ乱れ、肩から胸へと垂れて波打っている。身につけているドレスも皺が寄り、泥だらけ。
右耳から下げた桃水晶のイヤリングだけは輝きを失っていなかったが、その水色の瞳は暗く、怯えたように潤んでいた。
「ミーア・レグナンドです。こんな場所で、このような有様で、申し訳ありません」
ミーアが深々と頭を下げる。ディオンは訳が分からず、とりあえず事情を聞こうと左手の階段から駆け下りた。
「いけません、ディオン様! 足元が汚れます」
「しかし只事ではない様子、見過ごすわけにはいきません」
「見過ごして……ください」
そんなことを言われて「それじゃ」と立ち去る人間はいないだろう、とディオンは思った。
ミーア・レグナンド。そう言えば、初めて会った時も泥だらけだった。魔導士学院の生徒に嫌がらせをされたんだったか。
ふと思い当たって、ディオンは表情を和らげた。
「告げ口をしろ、と言っているのではありません。言いたくないなら、犯人については言わなくても構いません」
ミーアがハッとしたように顔を上げた。
その様子を見て、ディオンは自分の予想通りだったのだな、と確信した。
どうしてかくも女というものは鬱陶しいものなのか。表面だけは取り繕い、擦り寄り、陰ではこんな陰湿な嫌がらせをする。
目障りな人間を引きずり下ろしたところで自分が上がれるわけではない。それは単なる自己満足に過ぎないというのに。
ミーアがすっと姿勢を正す。そして泥にまみれたドレスの裾を整えると、ゆっくりと腰から頭を下げた。
いくぶんぎこちない、だが恐らく何回も何回も練習したであろう最敬礼。ミーア・レグナンドは作法についてはかなり大変だったと報告は受けていた。
本当に基本の形をなぞっただけだったが、他の貴族令嬢の変に媚びた身のこなしよりはよっぽど心が籠っている、とディオンは感じた。
「ディオン様。二十歳の誕生日、おめでとうございます」
「あ……ああ」
ミーアの表情がさきほどまでとすっかり変わっている。胸を突かれる思いがして、ディオンは思わず足を止めた。
「このようなことになってしまったのは、私の油断と、魔導士としての未熟さが招いたこと。きっかけは悪意でも、私さえ気を引き締めていれば未然に防げたこと」
「そこまで背負う必要はないと思いますが」
恐らく、騙されてこの東側のバルコニーに連れ込まれ、このぬかるんだ泥だらけの庭に落とされたのだろう、とディオンは推測した。
ミーアを騙したのは貴族令嬢の誰かだろう。特に上流貴族の令嬢ともなると非常に狡猾で、聖者学院に入学しただけあって魔法の使い方も巧みである。以前の魔導士学院の生徒とは違い、決定的な証拠は何も残していないに違いない。
そう思い、半ば同情するようにミーアを諭したが、ミーアはぷるぷると首を横に振り、弱々しく微笑んだ。
「……いいえ。それでは、駄目なんです。私の取柄は、魔法しかありませんから」
「そんなことは……無いでしょう」
ミーア・レグナンドに対する講師の評価も、ディオンの耳には届いていた。魔精力の潜在能力については言うことなし。本物の癒しの力を持った『聖女の再来』。
しかし精神面には不安がある。急に貴族の世界に入ってしまったことで、委縮してしまっているのだろう、と。
目の前のミーアは非常に華奢で頼りなげで、強い態度に出ようものなら妖精のようにすぐにでも消えてしまいそうだった。
ディオンは珍しく彼女を気遣い、表情を和らげた。
「とても熱心に授業に取り組んでいると聞いています。努力し続けられることは、一つの偉大なる才能です」
「……ありがとうございます。まさか、そんな言葉を頂けるなんて……」
ミーアの身体から力が抜けたようだった。ややいかっていた肩が、なだらかな線を描く。
「ディオン様は身分に関係なく、一人一人をちゃんと見てくださるのですね。それに……とても、お優しいです」
ミーアはそう言って、ふんわりと微笑んだ。
その瞳には媚びるような色も欲するような熱も含んではおらず、ただ尊敬の念だけが浮かんでいるように見えた。
そして、どこか安堵しているような様子も。
それは、想像以上にディオンを喜ばせた。
自分と対峙する女性というと、前面に女を出してくるかどこか気を張って緊張した面持ちの女性ばかりだった。
しかし目の前のミーアは気取ることなくむしろ心を開いてくれている様子で、ディオンの方こそ彼女の前では息をつける気持ちがした。
いつも無表情と言っていいディオン。
その彼の頬に優しい皺が刻まれ、心からの笑みがゆっくりと浮かび上がるのを、ミーアはその水色の瞳を潤ませて嬉しそうに見つめていた。
午前中は大公宮で山積みの案件に目を通し大公殿下に通すべきものか否かの決を下し、午後はリンドブロム聖者学院に赴き講師陣の報告を聞く。
実は一週間ごとに講師陣による審査は行われており、二カ月になる現在、『聖なる者』の候補はマリアンセイユ・フォンティーヌとミーア・レグナンドを含む十人にまで絞られていた。
とは言え、聖者学院は魔導士学院の上位機関という位置付けでもあり、聖女騎士団や近衛部隊への入団・入隊試験も兼ねている。それらの審査も並行して行わなければならない。
聖者学院の最終試験の舞台は、リンドブロム大公宮の脇から背後へと広がるロワーネの森。この場所での野外探索だ。
あと一カ月と迫り、その準備も入念に行われていた。
4時間目が終わると、マリアンセイユに付いている近衛武官の報告が三人の副部隊長になされ、三人からディオンへと報告がなされる。
ほぼすべての時間を授業で埋めているマリアンセイユは、そのすべての講義で優秀な成績を収めていた。シャルルと二人で受けている特別魔法科の講師・トーマスも、マリアンセイユの成長ぶりに太鼓判を押している。
『聖なる者』の候補としてもディオンの婚約者としても申し分ない……のだが、ディオンは一つ、不満を抱えていた。
――それは、マリアンセイユが自分を気にする素振りが一切無いこと。
マリアンセイユが長い眠りから目覚め、しかもアルキス山の魔物退治をした、と聞いた時は
「これは厄介なことになった」
と思った。
上流貴族から妃を迎え入れた場合、自分の治世の間はその家の意向というものを尊重しなければならない。当然、正妃の意向も機嫌も無視できないものであり、どんなに相性が悪くとも粗略には扱えず、離縁することもできない。
側妃を迎えることも可能だが条件が厳しく、正妃の許可が必要である。そして仮に側妃を迎えられても、その間に子供を作ることができるのは正妃との間に子供がおらず今後も見込めないときだけ。
未来の大公に、自由恋愛は認められていなかった。
しかし自分の婚約者はずっと眠り続けていて、余計な口出しをされることもない。そして結婚し子供さえ作ってしまえばもう用は無い。彼女の機嫌を窺うこと無く自由にのびのびとできる。
そして何より、ディオンには
「本来なら辺境に閉じ込められたまま一生を過ごすはずだった不幸な令嬢を、大公のお告げにより正妃にしてやるのだ」
という気持ちがどこかにあった。
要するに、フォンティーヌ公爵家に恩を売った気になっていたのだ。
その令嬢が、目覚めた。しかも護り神とやらを従え、その膨大な魔精力を制御して魔法を駆使し、魔物まで倒してしまった。
弟シャルルに比べ、魔精力には恵まれなかったディオン。その対極に位置する彼女は夫として自分を尊敬してくれるのだろうか、と歴代の大公同様、彼女の機嫌を窺う羽目になった。
そしてそんな思いを抱かされたことが、ひどく苦痛だった。
「マリアンセイユ公爵令嬢。聖者学院に入らずとも、あなたはわたしの婚約者。『聖なる者』であろうとなかろうと丁重に扱いますし、その立場が揺らぐことはありません。――なぜ、聖者学院に入ろうと思ったのですか?」
その苛立ちもあり、最初に喧嘩を売ったのはディオンである。「お前は道具だ」と暗に匂わせ、好意など一切ない、必要以上にすり寄って来るな、とあからさまに線を引いた。
マリアンセイユはそれを敏感に察知した。入学したいと思った理由や自分の魔精力について、リンドブロム大公国の背景も踏まえ丁寧に述べていたが、つまるところ、
「あなたに気に入られるために来たのではない」
「『聖なる者』になる可能性は自分にもある」
「ただの道具で終わる気はありません」
と言い放ったのだ。
これが、ディオンには驚きだった。
これまで大公宮で開かれたパーティなどで貴族令嬢の立ち振る舞いを見るたび、その女臭さに煩わしさを感じていた。
……が、ここまで自分に媚びず、色気の全く無い女性も珍しかった。
そういえば11歳で眠りについたのだった、きっと精神年齢はそこで止まっているのだろう、と納得していたのだが。
そうは言っても容姿は立派に、立派過ぎるぐらいに大人の女性であるし、魔精力のことも考えると十分な護衛と監視が必要である、と考えた。
そして近衛武官を交替で付けることにしたのだが。
三人の副部隊長から上がってくる報告と講師陣の評価、彼女の立ち振る舞いから考えると、彼女は内面的にも16歳の女性に相応しく、いやむしろそれ以上に大人びていた。
しかも報告を聞いている限り、本人が言っていた通り
「真の魔導士を目指す」
ということにしか興味がないようだった。
ディオンは信じられなかった。
親しく馴れ合う気はない、と突き放したのは自分だが、まさか婚約者であるマリアンセイユ本人が
「あら、そうですか」
とあっさり引き下がるとは思わなかったからだ。
そして――一切、自分に興味を持たないとは。
ディオンの知っている女というものは、総じてもっと強欲でもっと利己的だった。
何しろ公爵令嬢という立派な婚約者がいるにもかかわらず、ディオンに色目を使う令嬢は後を絶たなかったのだから。
マリアンセイユは、かつて眠っていた彼女に対して自分が抱いていた気持ちと同じ――つまり、自分の婚約者という立場の人間、という認識しかディオンに対して持たず、それ以上知ろうとはしていない、知る必要も感じていないのだ、ということにディオンは気づいた。
そして、自分の思い上がりとマリアンセイユに対する自分の態度を後悔するとともに、漠然とショックを受けていたのだった。
* * *
ひとしきり令嬢との会話が終わり、ディオンは大広間を見回し、マリアンセイユの姿を探した。
今日も彼女は、『婚約者』としての立場を越えることなく、弁えすぎるくらい弁えていた。初めて触れ合い、目と目を合わせて言葉を交わしたにも関わらず、その美しいエメラルドグリーンの瞳には何の熱も感じられなかった。
ディオンを引き立てる最高の装いで現れた彼女は、それすらも『婚約者としての仕事』をきっちりとこなしたに過ぎず、ディオン本人に気に入られようとして美しく装った訳ではなかった。
ディオンは軽く失望を覚えたが、しかし今は確かに『学院長と生徒』という立場。聖者学院が開校している間はそれが一番堅実かもしれない、と思い直し、少し頭を冷やそう、とバルコニーへと向かった。
臣下から「木々や泉など自然が溢れている場所がお好みなようです」と聞かされていたディオンは、ひょっとしたらマリアンセイユは外にいるかもしれない、と思いついたのだ。そしてもし本当にいたら、もう少し話をしてみたい、とも考えていた。
しかしバルコニーには、誰もいなかった。右側の手すりの一部が壊れ、落下防止の立て札が置かれたままになっているのを見て、ディオンが眉を顰める。
そうだった。東側のバルコニーは危険だから出入り禁止にする手筈だったのだが、伝達するのを忘れていたようだ。
「早く修理依頼をせねば……」
その声に反応するように、庭の奥でガサリと葉が鳴る音がした。ディオンは弾かれたように顔を上げ、目を凝らす。
東側のバルコニーは月も見えず、辺りは真っ暗。庭はぬかるみ、水たまりもできているような状態で、到底誰かがいるとは思えなかった。
が、そのまま聞かなかったことにして立ち去る訳にもいかない、とディオンは腹の奥に力を入れた。
「――誰か、いるだろう」
「……」
その誰か、が微かに動いた気配がする。
ディオンは右手を懐に入れ、グッと力を込めた。護身用に持ち歩いている、防御シールドが発動する魔道具だ。
これは近衛武官を呼ぶべきか、とディオンは暗闇を睨みつけたまま、スッとその場を離れようとする。
しかし不意に、奥の東屋のランプにぼうっと火が灯った。
「……君、は……」
手から、力が抜けた。
東屋の入口に、一人の少女が立っていた。少女が両手を上げると、ポッポッポッと続けて残り二つのランプにも火が灯り、少女の姿を藍色の闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。
結い上げた薄い茶色の髪はとこどころ乱れ、肩から胸へと垂れて波打っている。身につけているドレスも皺が寄り、泥だらけ。
右耳から下げた桃水晶のイヤリングだけは輝きを失っていなかったが、その水色の瞳は暗く、怯えたように潤んでいた。
「ミーア・レグナンドです。こんな場所で、このような有様で、申し訳ありません」
ミーアが深々と頭を下げる。ディオンは訳が分からず、とりあえず事情を聞こうと左手の階段から駆け下りた。
「いけません、ディオン様! 足元が汚れます」
「しかし只事ではない様子、見過ごすわけにはいきません」
「見過ごして……ください」
そんなことを言われて「それじゃ」と立ち去る人間はいないだろう、とディオンは思った。
ミーア・レグナンド。そう言えば、初めて会った時も泥だらけだった。魔導士学院の生徒に嫌がらせをされたんだったか。
ふと思い当たって、ディオンは表情を和らげた。
「告げ口をしろ、と言っているのではありません。言いたくないなら、犯人については言わなくても構いません」
ミーアがハッとしたように顔を上げた。
その様子を見て、ディオンは自分の予想通りだったのだな、と確信した。
どうしてかくも女というものは鬱陶しいものなのか。表面だけは取り繕い、擦り寄り、陰ではこんな陰湿な嫌がらせをする。
目障りな人間を引きずり下ろしたところで自分が上がれるわけではない。それは単なる自己満足に過ぎないというのに。
ミーアがすっと姿勢を正す。そして泥にまみれたドレスの裾を整えると、ゆっくりと腰から頭を下げた。
いくぶんぎこちない、だが恐らく何回も何回も練習したであろう最敬礼。ミーア・レグナンドは作法についてはかなり大変だったと報告は受けていた。
本当に基本の形をなぞっただけだったが、他の貴族令嬢の変に媚びた身のこなしよりはよっぽど心が籠っている、とディオンは感じた。
「ディオン様。二十歳の誕生日、おめでとうございます」
「あ……ああ」
ミーアの表情がさきほどまでとすっかり変わっている。胸を突かれる思いがして、ディオンは思わず足を止めた。
「このようなことになってしまったのは、私の油断と、魔導士としての未熟さが招いたこと。きっかけは悪意でも、私さえ気を引き締めていれば未然に防げたこと」
「そこまで背負う必要はないと思いますが」
恐らく、騙されてこの東側のバルコニーに連れ込まれ、このぬかるんだ泥だらけの庭に落とされたのだろう、とディオンは推測した。
ミーアを騙したのは貴族令嬢の誰かだろう。特に上流貴族の令嬢ともなると非常に狡猾で、聖者学院に入学しただけあって魔法の使い方も巧みである。以前の魔導士学院の生徒とは違い、決定的な証拠は何も残していないに違いない。
そう思い、半ば同情するようにミーアを諭したが、ミーアはぷるぷると首を横に振り、弱々しく微笑んだ。
「……いいえ。それでは、駄目なんです。私の取柄は、魔法しかありませんから」
「そんなことは……無いでしょう」
ミーア・レグナンドに対する講師の評価も、ディオンの耳には届いていた。魔精力の潜在能力については言うことなし。本物の癒しの力を持った『聖女の再来』。
しかし精神面には不安がある。急に貴族の世界に入ってしまったことで、委縮してしまっているのだろう、と。
目の前のミーアは非常に華奢で頼りなげで、強い態度に出ようものなら妖精のようにすぐにでも消えてしまいそうだった。
ディオンは珍しく彼女を気遣い、表情を和らげた。
「とても熱心に授業に取り組んでいると聞いています。努力し続けられることは、一つの偉大なる才能です」
「……ありがとうございます。まさか、そんな言葉を頂けるなんて……」
ミーアの身体から力が抜けたようだった。ややいかっていた肩が、なだらかな線を描く。
「ディオン様は身分に関係なく、一人一人をちゃんと見てくださるのですね。それに……とても、お優しいです」
ミーアはそう言って、ふんわりと微笑んだ。
その瞳には媚びるような色も欲するような熱も含んではおらず、ただ尊敬の念だけが浮かんでいるように見えた。
そして、どこか安堵しているような様子も。
それは、想像以上にディオンを喜ばせた。
自分と対峙する女性というと、前面に女を出してくるかどこか気を張って緊張した面持ちの女性ばかりだった。
しかし目の前のミーアは気取ることなくむしろ心を開いてくれている様子で、ディオンの方こそ彼女の前では息をつける気持ちがした。
いつも無表情と言っていいディオン。
その彼の頬に優しい皺が刻まれ、心からの笑みがゆっくりと浮かび上がるのを、ミーアはその水色の瞳を潤ませて嬉しそうに見つめていた。
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