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第3幕 収監令嬢は屋敷を調べたい
第7話 狼くん、こんばんは
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「まったくもう、困ります、マユ様……」
本棚が開放された日の夜。ヘレンが淹れてくれた紅茶を飲みながらソファでくつろいでいる横で、そのヘレンが涙目になりながら針をチクチクと動かしている。
「サロペットはあまり替えがないんですから。あちこち布が傷んで、もう……」
「ごめんね。慌てて森の中に入ったから、木の枝とかに引っ掛けちゃったかも」
「……ところで、あれは? どうされるんです?」
ふと、ヘレンが手を止めて黒い机の足元を見る。
そこには使い物にならなくなったラグナの鞍が置かれていた。表からは見えないように隠していたつもりだったんだけど、ソファに座っていたヘレンの視点からは隠せていなかったようだ。
「ああ、あれね。どうせもう使えないから、ニコルさんから貰ってきたの」
「どうするんです、それを?」
「どうもしない。何て言うか……記念?」
ソファから立ち上がり、鞍を手に取る。
異常なくらい濃い魔精力を纏っていた、不思議な灰色の狼。
そんな屈強な狼が、これに乗っかってキョトキョトしてたよなあ、とか。
魔物はコレの延長上にあるのかなあ、とか。
この鞍を見るといろいろ考えさせられるというか……何というか、とにかく気になって手放せなかったのよね。
だけどここに置いておいたら駄目よね。どうしようかな、クローゼットの中にでも……。
「マユ様」
「ん?」
「会ったのは、子猫じゃないですね。もっと大きな動物です」
「えっ!」
意外なヘレンのツッコミに驚いて、手にしていた鞍を落としそうになった。慌ててしっかりと抱え直し、ヘレンの方に振り返る。
「え……何で?」
「この傷」
ヘレンがバッとサロペットの胸当て部分を広げた。
「爪か何かで引っ掛けた跡があります。子猫とは思えないほど大きいです」
「あ……」
抱き上げたときかな。そう言えば掠ったような気も……。
「それと、その鞍。横の部分が抉れていますよ?」
言われて、慌ててヘレンの方に向けられていた側を見る。
確かに一本の線が入り、革の表面がギザギザに裂かれていた。
あらら、あの狼くん、思ったより水の中が怖かったのかな。必死でこの鞍を掴んでいたのかもしれない。
「あー……えっと……」
どう言い訳したものか、と目が泳ぐ。
ちらりとバルコニーの外に視線を投げかけ……ギョッとした。
家から漏れている明かりでは届かない、庭のその奥、森の木々の中。
真っ暗な背景の中、碧色の二つの光が浮かび上がっている。
あの色は、狼くんの瞳の色?
まさか、会いに来たのかしら? 鶴の恩返し的な?
「ヘレン、ごめん。ちょっと見逃して」
「見逃す?」
「ちょっとだけ庭に出させて。お願い!」
「あっ……」
ヘレンの返事を待たずにバルコニーへと駆けだす。
どうせもうバレちゃってるし、ついでだ。共犯者になってもらおう。
私は鞍を手に持ったまま窓を開け、バルコニーに出た。
碧色の二つの光がパッと消える。逃げたのかな、と思い、慌てて庭に降り、碧の光があったはずの方向に駆けていく。
狼くんは、もういないんだろうか。不思議なことに、初対面の時のあの濃い魔精力も感じない。残り香的に漂っていてもおかしくないのに。
あの狼くん、魔精力の制御もできるのか。スーパー狼くんだね。
途中で感じなくなったのは、本人が引っ込めたからか……。通じ合ったと思ったのは、私の勘違いだったのかな。
「……いないの?」
さすがにこんな夜に森の中に入る気にはなれない。小川にかかる橋の手前――家からの明かりがわずかに届く場所で、そっと囁く。
すると、奥でガサリと草の音が鳴った。銀色の三連ピアスの耳が、月の明かりに照らされてキラリと光る。
そして続けて、綺麗な碧色の瞳が現れた。灰色のふかふかの毛皮。のっそりと草の間からその姿を現す。
「良かった、いた」
ホッとして笑いかけると、狼くんは「まぁね」とでも言うようにプイッと顔を横に向けた。ツンデレ少年のような仕草。
「会いに来てくれたの?」
『チガウ』
今度は否定が早い。
『ミニ、キタ』
「……」
それって、会いに来たのとどう違うのよ?
ちょっと可笑しくなりながら、狼くんと視線を合わせるためにその場にしゃがみ込む。
『ソレ、ホシイ』
「へ?」
ソレって……コレ? この鞍?
「ひょっとして、コレの匂いを辿ってここまで来たの?」
『ウン』
なーんだ、私に用事じゃなかったのか。ちょっとガッカリ。
「いいけど……何するの?」
『……』
狼くんは答えない。気に入ったから欲しいけど、それを言うのは恥ずかしい、とかなんだろうか。
まぁイヌって、お気に入りの物をずっと噛み噛みしてたりするしね。
「いいよ。狼くんのことが気になって何となく手元に残しておいたんだけど、もう私には使えないから」
はいあげる、と言って差し出すと、狼はバクリと鞍を咥えた。
“ハト、カエル”
「ハトって狼くんの名前?」
そう言えば今朝もそう言ってたっけ、と思いながら聞いてみると、狼くんは一瞬ビクッとしたあとプイと顔を横に向けた。
『……イワナイ』
あら、可愛いことを言う。
でもきっと、名前の頭文字か何かよね。やっぱり誰かに飼われてるのかな。
あるいは昔飼われていたけど野生化しちゃって、だけどその飼い主さんがつけてくれた名前だから思い入れがあるとか。
「わかった。ハティって呼ぶわ。気が向いたら遊ぼうね、ハティ」
ぽんとふかふかの頭に手を乗せてそう呟いた途端、狼くん――ハティの耳が、ピーンと大きく立った。ボトリと咥えていた鞍を地面に落とし、碧の双眸がギラギラと光る。
怒った……訳ではないようだ。ひどく驚いた、という感じ。
ハティはハッと我に返って鞍を咥え直すと、ブルリと顔を横に振って私の手を振り払った。耳についていた三連の銀の輪っかが、月明りで鈍い光を放つ。
そしてそのまま、ダダダーッと走って行ってしまった。
「あ……」
だから言葉が通じるなら『バイバイ』とか『またね』ぐらい言おうよ、と思いながらその後ろ姿を見送る。
闇に溶けて、ハティの姿はもうどこにも見えなくなってしまった。走って遠ざかっていく音が森の奥から聞こえたような気はしたけど。
うーん、左足は完治したみたいね。本気で走ったら、こんなに速いとは。
首を捻りながらバルコニーの方に振り返ると、ヘレンがひどく驚愕した様子で窓にへばりついていた。
カエルみたいになってるわよ、ヘレン。顔が相当おかしく歪んでるわ。
ぷぷぷ、と内心笑いながらも表面上はつとめて真顔で、バルコニーへと戻る。
窓を開けて出迎えてくれたヘレンが
「あ、あれ……狼じゃないですか!」
と下顎をガチガチ言わせながら小さく叫んだ。
「うん、そう」
「こ、怖くないんですか!?」
「不思議と。それに言葉が通じるの」
「ええっ!?」
もう一度庭の向こう、森の奥へと視線を向ける。
遊ぼうね、と言ったとき、ハティは嫌だという素振りは見せなかった。
きっと、また会えるよね。
「ちょ、ちょっとマユ様! まだ何かいるんですか!?」
ヘレンが両手を組み、ぶるぶる震えながら私に問いかける。
ただでさえ狼出現でビビっているヘレンにこれ以上言ってもなあ、と思い直し、
「ごめん、何でもない。とにかくアイーダ女史には内緒ね」
と軽くウインクした。
ヘレンが震えながら私の顔を見つめる。もう大丈夫よ、いないからと答えると、ほぉぉぉーっと深い溜息をついた。
「とにかく……もうこれっきりにしてくださいよ」
それが『アイーダ女史には秘密』を指すのか『狼と会うこと』を指すのかは分からなかったけど、どっちも守れない。……多分。
だからそれには答えずに肩をすくめると、ヘレンは何かを諦めたように
「ふう」
と一息つき、途中になっていた縫い物を再開するためにソファへと戻っていった。
ハティの頭を撫ぜた右手の手の平が、何となく熱い。
迂闊だったかな、身体に悪影響が出たらどうしよう……と思いつつ、触れたことがちょっと嬉しくて、私は何度も、左手で自分の右手の手の平を撫ぜた。
本棚が開放された日の夜。ヘレンが淹れてくれた紅茶を飲みながらソファでくつろいでいる横で、そのヘレンが涙目になりながら針をチクチクと動かしている。
「サロペットはあまり替えがないんですから。あちこち布が傷んで、もう……」
「ごめんね。慌てて森の中に入ったから、木の枝とかに引っ掛けちゃったかも」
「……ところで、あれは? どうされるんです?」
ふと、ヘレンが手を止めて黒い机の足元を見る。
そこには使い物にならなくなったラグナの鞍が置かれていた。表からは見えないように隠していたつもりだったんだけど、ソファに座っていたヘレンの視点からは隠せていなかったようだ。
「ああ、あれね。どうせもう使えないから、ニコルさんから貰ってきたの」
「どうするんです、それを?」
「どうもしない。何て言うか……記念?」
ソファから立ち上がり、鞍を手に取る。
異常なくらい濃い魔精力を纏っていた、不思議な灰色の狼。
そんな屈強な狼が、これに乗っかってキョトキョトしてたよなあ、とか。
魔物はコレの延長上にあるのかなあ、とか。
この鞍を見るといろいろ考えさせられるというか……何というか、とにかく気になって手放せなかったのよね。
だけどここに置いておいたら駄目よね。どうしようかな、クローゼットの中にでも……。
「マユ様」
「ん?」
「会ったのは、子猫じゃないですね。もっと大きな動物です」
「えっ!」
意外なヘレンのツッコミに驚いて、手にしていた鞍を落としそうになった。慌ててしっかりと抱え直し、ヘレンの方に振り返る。
「え……何で?」
「この傷」
ヘレンがバッとサロペットの胸当て部分を広げた。
「爪か何かで引っ掛けた跡があります。子猫とは思えないほど大きいです」
「あ……」
抱き上げたときかな。そう言えば掠ったような気も……。
「それと、その鞍。横の部分が抉れていますよ?」
言われて、慌ててヘレンの方に向けられていた側を見る。
確かに一本の線が入り、革の表面がギザギザに裂かれていた。
あらら、あの狼くん、思ったより水の中が怖かったのかな。必死でこの鞍を掴んでいたのかもしれない。
「あー……えっと……」
どう言い訳したものか、と目が泳ぐ。
ちらりとバルコニーの外に視線を投げかけ……ギョッとした。
家から漏れている明かりでは届かない、庭のその奥、森の木々の中。
真っ暗な背景の中、碧色の二つの光が浮かび上がっている。
あの色は、狼くんの瞳の色?
まさか、会いに来たのかしら? 鶴の恩返し的な?
「ヘレン、ごめん。ちょっと見逃して」
「見逃す?」
「ちょっとだけ庭に出させて。お願い!」
「あっ……」
ヘレンの返事を待たずにバルコニーへと駆けだす。
どうせもうバレちゃってるし、ついでだ。共犯者になってもらおう。
私は鞍を手に持ったまま窓を開け、バルコニーに出た。
碧色の二つの光がパッと消える。逃げたのかな、と思い、慌てて庭に降り、碧の光があったはずの方向に駆けていく。
狼くんは、もういないんだろうか。不思議なことに、初対面の時のあの濃い魔精力も感じない。残り香的に漂っていてもおかしくないのに。
あの狼くん、魔精力の制御もできるのか。スーパー狼くんだね。
途中で感じなくなったのは、本人が引っ込めたからか……。通じ合ったと思ったのは、私の勘違いだったのかな。
「……いないの?」
さすがにこんな夜に森の中に入る気にはなれない。小川にかかる橋の手前――家からの明かりがわずかに届く場所で、そっと囁く。
すると、奥でガサリと草の音が鳴った。銀色の三連ピアスの耳が、月の明かりに照らされてキラリと光る。
そして続けて、綺麗な碧色の瞳が現れた。灰色のふかふかの毛皮。のっそりと草の間からその姿を現す。
「良かった、いた」
ホッとして笑いかけると、狼くんは「まぁね」とでも言うようにプイッと顔を横に向けた。ツンデレ少年のような仕草。
「会いに来てくれたの?」
『チガウ』
今度は否定が早い。
『ミニ、キタ』
「……」
それって、会いに来たのとどう違うのよ?
ちょっと可笑しくなりながら、狼くんと視線を合わせるためにその場にしゃがみ込む。
『ソレ、ホシイ』
「へ?」
ソレって……コレ? この鞍?
「ひょっとして、コレの匂いを辿ってここまで来たの?」
『ウン』
なーんだ、私に用事じゃなかったのか。ちょっとガッカリ。
「いいけど……何するの?」
『……』
狼くんは答えない。気に入ったから欲しいけど、それを言うのは恥ずかしい、とかなんだろうか。
まぁイヌって、お気に入りの物をずっと噛み噛みしてたりするしね。
「いいよ。狼くんのことが気になって何となく手元に残しておいたんだけど、もう私には使えないから」
はいあげる、と言って差し出すと、狼はバクリと鞍を咥えた。
“ハト、カエル”
「ハトって狼くんの名前?」
そう言えば今朝もそう言ってたっけ、と思いながら聞いてみると、狼くんは一瞬ビクッとしたあとプイと顔を横に向けた。
『……イワナイ』
あら、可愛いことを言う。
でもきっと、名前の頭文字か何かよね。やっぱり誰かに飼われてるのかな。
あるいは昔飼われていたけど野生化しちゃって、だけどその飼い主さんがつけてくれた名前だから思い入れがあるとか。
「わかった。ハティって呼ぶわ。気が向いたら遊ぼうね、ハティ」
ぽんとふかふかの頭に手を乗せてそう呟いた途端、狼くん――ハティの耳が、ピーンと大きく立った。ボトリと咥えていた鞍を地面に落とし、碧の双眸がギラギラと光る。
怒った……訳ではないようだ。ひどく驚いた、という感じ。
ハティはハッと我に返って鞍を咥え直すと、ブルリと顔を横に振って私の手を振り払った。耳についていた三連の銀の輪っかが、月明りで鈍い光を放つ。
そしてそのまま、ダダダーッと走って行ってしまった。
「あ……」
だから言葉が通じるなら『バイバイ』とか『またね』ぐらい言おうよ、と思いながらその後ろ姿を見送る。
闇に溶けて、ハティの姿はもうどこにも見えなくなってしまった。走って遠ざかっていく音が森の奥から聞こえたような気はしたけど。
うーん、左足は完治したみたいね。本気で走ったら、こんなに速いとは。
首を捻りながらバルコニーの方に振り返ると、ヘレンがひどく驚愕した様子で窓にへばりついていた。
カエルみたいになってるわよ、ヘレン。顔が相当おかしく歪んでるわ。
ぷぷぷ、と内心笑いながらも表面上はつとめて真顔で、バルコニーへと戻る。
窓を開けて出迎えてくれたヘレンが
「あ、あれ……狼じゃないですか!」
と下顎をガチガチ言わせながら小さく叫んだ。
「うん、そう」
「こ、怖くないんですか!?」
「不思議と。それに言葉が通じるの」
「ええっ!?」
もう一度庭の向こう、森の奥へと視線を向ける。
遊ぼうね、と言ったとき、ハティは嫌だという素振りは見せなかった。
きっと、また会えるよね。
「ちょ、ちょっとマユ様! まだ何かいるんですか!?」
ヘレンが両手を組み、ぶるぶる震えながら私に問いかける。
ただでさえ狼出現でビビっているヘレンにこれ以上言ってもなあ、と思い直し、
「ごめん、何でもない。とにかくアイーダ女史には内緒ね」
と軽くウインクした。
ヘレンが震えながら私の顔を見つめる。もう大丈夫よ、いないからと答えると、ほぉぉぉーっと深い溜息をついた。
「とにかく……もうこれっきりにしてくださいよ」
それが『アイーダ女史には秘密』を指すのか『狼と会うこと』を指すのかは分からなかったけど、どっちも守れない。……多分。
だからそれには答えずに肩をすくめると、ヘレンは何かを諦めたように
「ふう」
と一息つき、途中になっていた縫い物を再開するためにソファへと戻っていった。
ハティの頭を撫ぜた右手の手の平が、何となく熱い。
迂闊だったかな、身体に悪影響が出たらどうしよう……と思いつつ、触れたことがちょっと嬉しくて、私は何度も、左手で自分の右手の手の平を撫ぜた。
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