漆黒の昔方(むかしべ) ~俺のすべては此処に在る~

加瀬優妃

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1.再会(1)

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 ジリジリジリ……。

「……んが」

 金属が震える音が、俺の睡眠を妨げる。ぼんやりと眼を開けたつもりだったが、視界には何も映らない。まだ目が開いていないらしい。
 絶賛夏休み中だってのに……。俺、目覚ましかけたっけな?
 手探りで枕元の目覚まし時計を叩く。

 ジリジリジリ……。

 しかし、音は鳴りやまない。
 頭をボリボリ掻きながら起き上がると、チカッ、チカッという赤い光が目に入った。家の電話だ。ダイヤルが点滅している。

「……間違えた」

 独り言を呟くと、俺は欠伸をしながら受話器を取った。

「……もしもし」
 “颯太そうたか”
「何だよ、親父かよ……」

 溜息をつきながらテーブルの上のリモコンに手を伸ばすと、テレビをつけた。
 情報番組の司会のアナウンサーが軽快なトークを繰り広げている。時計を見ると、朝の九時半だった。

「俺、一昨日までインカレだったし、疲れてんだよ。こんな早朝に何だよ……」
“九時半は早朝じゃないぞ。それに、お前が疲れてるのはインカレじゃなくてそのあとの打ち上げだろうが”
「……それも込み込みで、だよ」

 二日酔いのせいかちょっと頭が重いな……と思いながら、カレンダーを見た。
 今日は、8月13日。9日から11日にかけて矢印が引いてあり、『インカレ・絶対勝つ!』と赤マジックで書いてある。

“それはそうと、弓道のインカレ二連覇、おめでとう。よく頑張ったな”
「……どうも。それを言うためにわざわざ電話してきたのかよ」
“違う。わたしの剣道の先生と昨日、お前の話になってな”

 親父は警察官だ。今55歳……定年まであと5年だが、まだまだ元気だ。
 剣道の有段者で、今でもかなり頻繁に道場に通っている。
 多分、その先生のことだろう。

“そしたら、T県の山奥に住んでいる弓道の偉い先生が知り合いにいて……その先生が、お前に会ってみたいということなんだ。……お前も会ってみたいか?”
「えっ! マジで!」

 若干寝ぼけていた頭のもやが急に晴れた。何度もまばたきする。

「それ、本当か?」
 “ああ。人嫌いの先生らしいから珍しいってことでな。それで、この機会にどうですか、と言われたんだが。お前、弓道だけは真面目だから……”
「会いたい! いつそっちに戻ればいい?」
“わたしは今日と明日なら非番だが。だがT県となると今日の夕方には出た方がいいかもしれんな”
「じゃ、今から戻るよ。じゃな!」

 俺は電話を切ると、慌てて立ち上がった。二日酔いで若干ふらりとする。冷蔵庫からスポーツ飲料の缶を一本取り出して蓋を開けたところで、再び電話が鳴った。

「はい?」
“中平くん? 私……エミ”
「……ああ」
“今日の待ち合わせだけど……”
「あっ」

 思い出した。確か、デートする約束してたっけな。

「ワリぃ。俺さ、今から実家に帰ることになったから、今日はナシな」
“はあ!? 前から約束してたじゃん!”
「悪い、悪い。弓道のことでちょっとさ」
“何かあったらそればっかり!”
「んじゃ」

 面倒臭いので、女の言葉を待たずに電話を切った。
 何か言いかけていたような気もしたけど……ま、いいか。別に、彼女でも何でもないし。
 シャワーを浴びて身支度を整えると、俺は急いでアパートを出た。



 弓道は、俺の中で特別だ。親父の影響でガキの頃は剣道をやっていたけど、中学校では弓道部に入った。
 俺の住んでいた町では近くに弓道場があったから、友達と遊んだ帰りや道場に行くときに幾度となくその様子を見ていて、憧れていたからだ。

 何だろう……何て言うか、一歩踏み入れた途端、別世界のような、この世界で自分独りだけのような……自分ときちんと向き合えるようなあの空間が、好きだった。
 聞けば、俺が小4のときに死んだ母親が弓道をやっていたらしく、俺が剣道をやめて弓道一本で頑張りたいと言った時も、親父は反対しなかった。

 でも、それ以外のこと……例えば勉強とか、恋愛とか、弓道以外ではあまり夢中になれるものはない。何となく流されて、だらだらとここまで来ている。大学も弓道で推薦をもらえたところに決めただけだし、特に将来の目標も何もないまま過ごしていた。

 何て言うかな。多分、きっと、俺が本当にやりたいこと、やるべきことに、まだ出会えていないんだろうな。うん。



 実家に帰った後、親父と共に夜行列車に乗り込み、T県に向かった。
 次の日の明け方にT県に到着し、すぐに電車を乗り換えてさらに山奥へと向かう。
 景色が普通のビル街から住宅街、田園風景と変わっていく。
 その人はT県の山奥にある神社の神主をしていたが、今は引退したらしい。

 ひなびた駅に到着すると、「分かりにくい場所にあるから」と現在の神主である息子さんが車で迎えに来てくれた。
 息子さんといっても、親父と同じ年代ぐらいだと思う。……ということは、その先生はかなりの高齢なのだろう。

 親父は剣道一筋で弓道をしたことはないけれど、武道の達人と呼ばれる人に会える機会は滅多にないから、と楽しみにしているようだった。
 親父の仕事柄、親父と二人で旅行なんてしたことない。
 それに達人って、どんな先生なんだろう。

 ……だからかな。目的の神社に近付くにつれ、何だか変な気分になった。
 そわそわするような、ぞわぞわするような……。

「……どうした? 黙り込んで」
「――いや……」

 俺はハッとして慌てて笑顔を作った。

「……何か、緊張してるのかな」
「他のこともそれぐらい真面目に考えてくれればいいんだがな……」

 親父は俺の顔をちらりと見ながら苦笑した。
 俺は親父の呟きは聞かなかったことにして、再び窓の外を眺めた。

 それからさらに十分ほど走ると、車は神社に着いた。
 長い石段が続いている。社はかなり上の方にあるようだが、木々に囲まれていて、全く見えない。

 息子さんが
「この上ですよ。私はちょっと用事があるのでご案内できませんが……。父が出ているはずですから」
と申し訳なさそうに頭を下げた。

「あ、大丈夫です。本当にありがとうございました」
「お世話になりました」

 俺たち親子が頭を下げると、息子さんは会釈をして車に乗り込み、どこかに走り去って行った。
 俺は荷物を背負って石段を登り始めた。
 車の中で感じていたぞわぞわが、どんどん強くなっていく。

 この先に――確かに、何かがある。

「……颯太? どうした?」

 親父が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。

「え……何が?」
「何って……凄い汗だぞ」

 親父に言われて初めて気づく。
 真夏だから当然暑いけれど……ここは木々も多く石段は日陰になっていて、そんなに気温が高い訳じゃない。
 なのに俺は、顔と身体全身から尋常じゃないくらいの汗をかいていた。
 腕で額の汗を拭ったが、後から後から流れてきてどうしようもない。

「……何だろうな。でも、具合が悪い訳じゃないから……」
「ならいいが……」

 石段を登りきると、奥に社が見えた。
 左手には、不思議な雰囲気をまとった大木がある。俺はフラフラと導かれるように大木に近寄った。

「颯太? そっちじゃないぞ」
「でも……」

 そのとき、奥の方にある社から老人が出てくるのが見えた。
 大木が気になったけど、諦めて社に向かおうとしたとき――背後から、奇妙な気配が迫ってくるのを感じた。

「……!」

 振り返ると、大木の根元にあるうろから、黒い触手が這い出てきた。
 タコの足のようなその何本もの触手があっという間に俺の両腕と両足を捕らえる。

「な……」
「颯太!」

 親父が俺の腕を捕らえたのが分かったが、俺にはどうすることもできなかった。
 そのまま黒い触手に引っ張られ、どこかに引きずり込まれてしまった。

「げえっ!?」

 視界が真っ暗になり、上も下も分からなくなる。
 親父が俺の腕を掴んでいることだけは分かる。温度がある、ちゃんと生きてる。
 とりあえず今のところ、俺達親子は無事らしい。

「颯太! 大丈夫か! 返事をしろ!」

 真っ暗闇の中で親父の声が響く。

「ああ! 親父は!?」
「怪我はない、が、これは……」

 苦しそうな声。俺の腕を掴む手の力がやや緩む。
 こんなところではぐれる訳にはいかない、と親父の腕を取ろうとした瞬間、急に視界が開け、俺はドスンと尻餅をついた。

「いってぇ!」
「ぐっ!」

 俺の腕に掴まっていた親父もゴロゴロと転がる。

「親父!」

 俺は持っていた荷物を放り出すと、倒れた親父に駆け寄った。
 どうやら、大きな怪我はないようだ。

「――ΣηξΠ」

 ふいに、女の声が聞こえた。何と言ったのかはわからない。
 振り返ると、一人の少女が立っていた。
 13、4歳ぐらいだろうか。長い銀色の髪が床にまで流れている。
 碧の瞳が、俺たち親子をじっと捉えていた。着物のような洋服のような、白い不思議な衣装を身にまとっている。

「……何だ? 誰だ?」
「……ΘσℵЮ」

 少女は何事かを喋ると、俺に向かって手を翳した。途端に、鳩尾辺りが熱くなる。

「うわっ……」

 たまらず俺は胸を押さえて跪いた。鳩尾が熱いのと視界がぐるぐる回って立っていられない。

「颯太!」

 親父が俺の身体を支えたのは分かったが……自分ではどうすることもできない。
 ふいに、脳裏にさまざまな映像が流れた。

 一人の男の顔と……三人の……この世のものとは思えない雰囲気を醸し出す女性の姿。黒い闇。
 ――そして、何かの欠片。

 気がつくと……鳩尾の熱さは消え、這いつくばっていた床の模様が俺の目に飛び込んできた。

「――思い出したか?」

 少女の声が聞こえた。
 日本語ではない……けれど、俺にはその言葉が分かる。
 俺はおそるおそる顔を上げた。
 先ほどの銀髪で碧の瞳の少女がじっと俺を見下ろしている。

「言葉は……わかる。喋れる」

 俺もその少女と同じ言語で返した。
 理屈は分からない。
 ただ、確かに――遠い昔、俺はこの国にいたことがある。そして、この言葉を喋っていた。

『颯太? いったい……』

 訳のわからない言葉を喋り始めた俺を、親父がひどく狼狽えて揺さぶった。

『親父……ちょっと待っててくれ』

 俺は日本語で親父を制止すると、立ち上がって少女の方に向き直った。

「俺は……お前に呼ばれたのか?」
「――そうだ、と言いたいところだが……正確には違う」

 少女は背後の神殿のようなものを指差した。
 そこには、ゾッとするほど異様な形に広がりながら蠢く、真っ黒な闇があった。

「お前は……あの闇の下にある勾玉に呼ばれたのだ」

 少女の碧の瞳がその声と共に強く煌めき、俺を射抜いた。
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