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26話 夫婦の馴れ初め(1)

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1950年代後期に生まれた樹と小春は、琵琶湖が見える小さな町で育った。

二人の家は近く、同じ幼稚園に通い、お互いを「樹くん」「小春ちゃん」と呼び合い、幼稚園が終わると神社下に設置されている公園に毎日遊びに行っていた。

樹も当時は無邪気な子供であり、ただ感情のまま小春と遊びに行く事を楽しんでいた。

こうして二人は小学生になる。同じ学区の為、小学校も同じになり喜んで一緒に学校に行っていたが、そんな関係は長くは続かなかった。

入学してしばらく経つと、男女で一緒に居る二人を揶揄う声が出てきた。

早い子は幼稚園で同性だけのグループを作っていたり、小学生になったら異性と遊ぶのを止めてグループに入ったりしていく中で、樹と小春のような異性で遊ぶ子供が居たら揶揄いの対象になりやすい年頃だった。


小春は気にしないが、樹は気にした。明らかに小春を避けるようになり、一緒に遊ばなくなった。

こうして、互いに同性の友達と遊ぶようになり距離ができ二年生になった。

二人が通っていたのは、田舎の小さな小学校。一学年一クラスしかない為、同じクラスだった。


同じクラスだが、あまり話さない。そんな二年生の冬、小さな事件が起こる。

きっかけは樹が昼休みに、教室の後ろに飾られている白粘土で作った作品を見ていた事だった。それらは授業中に作った児童達の作品であり、作品の横に児童の名前が書いてあった。

……小春のは、白粘土で形を作りそれに絵の具を塗り付けて作った動物園をモチーフにした可愛い作品だった。

その名前を見て驚く。『上田小春』と書かれていた。

二年生の為、「春」という漢字は習っていた。そして幼稚園からの友達の樹は知っていた。小春の誕生日は十一月だと。

「小春」なのに十一月生まれ?樹は小春が誕生日を間違えて覚えているのではないか思い込み、心配になった。


だから授業前に戻って来た担任に、小春の誕生日が間違っていると必死に伝えた。

話を聞いた担任は「小春日和」の意味を教えようとするが、一部始終を見ていた同級生が小春を気にしていると揶揄い始めた。

「なんで女の事気にしているんだよ?」「小春の事が好きなんだろう?」「結婚するのか?」

子供の頃にある無邪気な揶揄い。しかし、言われる側も子供。それを笑って流せる年齢ではなく、ただ恥ずかしかった。だから樹は……。

「別に好きじゃない!」「嫌いだ!嫌い!」「結婚する訳ないだろう!」「大体何だよ小春なんて変な名前!」

そう叫んでしまった。授業前で小春も教室に居たのに……。


それを聞いた小春は泣き出してしまう。小学二年生、言葉の全てを間に受けてしまう年頃だった。

その場は教師が入り、揶揄った児童達には樹に謝るように話し、樹には小春に謝るように指導した。人に嫌いと言ってはいけない、人の名前を悪く言ってはいけないと。

そして小春には、樹は本心で言った訳ではない。恥ずかしいと、思ってもいない事を弾みで言ってしまうと話した。

その言葉に小春は泣き止み、本当か聞くも樹は何も言えず、謝れなかった。


その事を引きずり家に帰ると、父親に何かあったのか聞かれた。樹は小春に言ってしまった事を話すと、教師と同じように諭し謝るように話した。

当時は体罰も珍しくない時代であり、特に男児は父親から殴られる事もあったが、樹の父親はそうゆう事はせず言葉で息子を叱る父親だった。


その時に「小春日和」の意味を知り、自身が勘違いしていた事を知った。そして「樹」の名前は父親が命名した名前で、大樹のような立派な人間大きな男になれと思い命名したと聞いた。

樹はその話を聞き、女の子を泣かせてしまった自身に後悔した。そして明日謝ると父と約束し父が帰ってきたら許してもらえたか話す予定だった。

樹の父親は運送業に勤めている長距離トラックの運転手。仕事の為に家を数日空ける事も珍しくなく、だからこそ家に居る時は特別な時間だった。

樹は普段から父に色々な話をしており、幼稚園からいつも遊んでいる小春についてもよく話していた。

そして樹の父は常々言っていた。樹の方が力が強いから力加減を間違えてはいけない。その強い力で女性を守らないといけないと。


次の日、父が仕事から帰って来たら謝れたか、許してもらえたかを話す約束を再度して樹は父親を母と共に送りだした。


……しかしその約束は守られる事はなかった。樹の父親が突然亡くなったからだ。

樹はいつも通り学校に行っており、小春にこっそり夕方四時にいつも遊んでいた公園の上にある神社に来て欲しいと伝えた。

名前を悪く言った事や嫌いと言った事だけじゃない、急に無視したり遊ばなくなった事も謝ると決めていた。だから友達に見られやすい公園ではなく、石橋の階段を登らないといけない神社を選んだ。


学校が終わり、約束の神社に向かおうとしたが少し時間が早かった。

そこで昔みたいに小春と一緒にお菓子を食べようと家に取りに帰った。すると母が真っ青な顔をしており、いきなり樹を車に乗せ、そのまま走らせたのだ。

樹は約束があるから降ろしてと言うが、母は何も言わなかった。そして明らかに運転がいつもと違い、荒く危なかしかった。

樹は車を止めてと叫び、母はようやく我に返ったのか車を止めた。

そこは山道だった。運転していた樹の母も何故こんな場所にいるのか分からず混濁していた。


既に日没しており、辺りは暗くこのままではいけないと思った樹は母の手を引き歩いて山道を降りた。帰ろうと言うが、母は行かなければならないと言う為、樹は黙って付いて行った。

……約束の時間はとっくに過ぎていった。


やっと行き着いた先は警察署だった。自分が女の子を泣かせたからお巡りさんに怒られるのかと思ってしまったが、母の様子が明らかにおかしい。握っている手はずっと震えていた。

警官に案内され、警察署の奥まで行くと母だけ部屋に入って行き樹は警官に付き添われ待っていた。母はすぐ帰って来ると言っていたが、帰って来なかった。


樹の父は仕事でトラックを運転中に、巻き込まれる形で事故に遭い亡くなった。樹が学校から帰ってくる直前に警察から連絡が来て、父が事故に巻き込まれた事、警察署に来て欲しいと連絡があったらしい。


その時母は病院ではなく警察署と言われた時点で覚悟していたのだろう。そしてやっと辿り着いた警察署で父が亡くなった事を告げられ、遺体確認をして欲しい事、損傷が激しい事から樹には見せず待たせていた事、母が帰って来なかったのは泣き崩れてしまい亡くなった父から離れられなかったから……。

全て、樹が大人になった時に気付いた事だった。


父の遺体は損失激しかった事から、樹はその後も対面出来ず亡くなった事実だけ告げられ母と二人火葬場に行った。

母は気丈に振る舞っていた。その後は葬儀があり、父の会社関係の人も参列してくれる為妻としてしっかり送り出さないといけなかった。

そして現場検証の結果、樹の父に過失はないとされた。その為、今後母一人子一人で生きていく為に、事故の相手に損害賠償を支払ってもらう為に弁護士と話をしないといけなかった。


樹は不思議だった。どうして悲しむ隙もなく葬儀や金の話をしないといけないのか?父は何も悪くなかったと聞かされていたのに、相手は父が悪いと責めてくるのか?悪い事をしたのに何故謝って来ないのか?

樹以上に母は怒り、悲しんでいた。


結局、相手は保険未加入であった事から支払い能力はないと判断され、損害賠償は微々たるものだった。会社からは労災が認められ支払われたが、当然ながら父の生涯収入に足りるはずもなく、この親子の生活は不安定になった。


母は働かないといけないと頭では分かっていたが、父の死を受け入れられず、また相手は重傷を負ったものの回復しており執行猶予の判決がついた事に酷く落ち込んだ。

相手が反省していたら、母も許す余地があっただろう。しかし相手は父が悪いと責任転嫁しており、それは裁判の時も同様の主張だった。……警察が相手の方がぶつかってきたと結論をつけていたにも関わらず……。


全てに無気力になった母を支えたのは、まだ小学二年生の樹だった。

男の強い力で女性を守れ。父の言葉を守り従ったのだ。


母はしばらくして立ち直り、働き始めた。その後は父の事を一言も嘆かず、忘形見を育てる為にひたすら働いていた。

しかしこの時代、女性の社会進出は難しく、同様の仕事をしても男性に比べ賃金が低かった。しかし母は泣き言など言わず必死に働き樹を育てていった。

しかしその為仕事の掛け持ちをし、樹とゆっくり話せなくなっていった。樹はそれを分かっており、母との時間を諦め自分の事は自分でし、家事も樹が率先してやるようになった。


父が亡くなり母が働く生活に慣れてきた頃、樹は思い出した。あの日、小春と約束していた事を……。

小春はあの日神社で待っていたが樹は来なかった。次の日から樹が学校に来なくなり、父親が亡くなったと聞いたから事情は知っていたが、待ち合わせをしていた時は当然事情を知らなかった。だから神社の門を閉じる六時まで寒空の下真っ暗な神社で待っていた。

……そして嘘を吐かれたと勘違いし、一人泣いてしまっていた……。


樹がその事を思い出した時、半年以上の時間が過ぎ三年生になっていた。……今更謝る事なんて出来なかった……。


樹はその後も変わらず小春を避け生活していた。そんなある日、夕方のスーパーで小春と小春の母を見かけた。小春は母親と一緒だが、自分は一人……。どうしようもない苛立ちを覚え、帰ろうとすると小春の母親に呼び止められた。


そして樹は小春の母に家に招待され、食事をご馳走になる事になった。

小さな町故に、樹の父が事故で亡くなり母親が夜遅くまで働いている事は近所では知られており、小春の母も当然幼稚園から仲良くしていた樹の事はよく知っていた。だからこそ家に招待したのだ。


今では理解し難い感覚だが、当時はこうゆう近所の関わりや地域が子供を育てるという考えの元、よその子を家に上げるのも珍しくなかった。


小春の父母は嬉しそうにする反面、樹と小春は互いに目を合わさなかった。個人差はあるが、三年生の異性同士が無邪気に遊び話をするのはそろそろ難しくなっていた。

幼稚園の時は仲良く遊んでいた、と小春の父母は話すが当然二人はあの頃のようになれるはずなく、目を逸らし食事をしていた。


「美味しいです……」

樹は呟く。お世辞ではなく本心だった。久しぶりに手の込んだ料理を食べた。

母は自分を育てる為に働いてくれている。分かっているが、やはり淋しかった……。


その様子を見た小春の父と母が、これからも食べに来たらどうかと聞いた。小春も、何も言わないけど小さく頷いていた。

樹はさすがに遠慮した。三年生でも遠慮の気持ちはあった。

しかし小春の父母が樹の母に了承を取り、週三回食事を共にする事となった。樹の母はただ感謝し、食費を渡し樹を託していた。


小春は樹が来る事になり内心喜んでいたが、何を話して良いのか分からずただ俯いて食事をしていた。それは樹も同様で、小春を一切見ず二人は黙々と食事していた。

見かねた父母が二人に話をするが、互いに話す事はなかった。


見かねた小春の母が買い忘れがあったと言い二人に買い出しを頼んだ。二人は嫌がったが、一緒に行く事となった。

二人は距離を取って歩き、近所のスーパーに行く。小春は頼まれた商品が見つからず困ったが樹はすぐ見つける。その事から、普段から買い物に慣れていると分かった。

無事買い物が終わり小春が荷物を持とうとすると、樹が袋を両方持ち黙って歩いて行く。優しい性格は変わっていないと思った小春は樹の横に並び歩いて行く。

二人が歩いて行くと、幼稚園児の時一緒に遊んだ神社下の公園前を通りかかった。

樹は突然立ち止まり、小春を見つめた。そしてあの日、約束を守れなかった事を謝った。

小春は大変な時だったと分かっているからと話し、樹を許した。あの日は冬で寒い中待たされ、しかも日没時間が過ぎた暗い中一人で帰らないといけなくなり、怖さに震えて帰り、家に着いたと安堵したら次は両親に叱られ、小春にとって迷惑な話だった。しかし小春は嫌な事言わず樹を許したのだった。


樹は本当は嫌いと言った事も、変な名前と言った事も謝りたかったが、口を噤んでしまう。


しかし、この時話せた事がきっかけになり二人は少しずつ話をするようになった。小春は昔みたいに気軽に話しかけるが、樹は小春にだけは上手く話せず必要最低限しか話をしなかった。



そんな関係がその後も続き中学高校と同じ学校に通い、樹も小春も十八歳になった。二人は別々の会社に就職し別々の進路に進む事になり、樹が家に来る事はなくなった。

しかし二人はその後も当たり前のように外で会い、仕事の事や家族について話していた。

仕事は大変だが、樹には夢があった。ずっと働き詰めだった母を楽にさせる事。その為に必死に働いていた。

しかし就職して九ヶ月が経とうとした冬。また悲しい出来事が起こる。

樹の母が亡くなった……。







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