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24話 二度目の……

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我が子を亡くし二年四ヶ月の歳月が流れた。二人は互いに三十七歳となり穏やかに過ごしていた。

あの日の空への誓いを守る為に、我が子の死を悼み続けて生きるのではなく、我が子を忘れずに生きていくと決め二人で手を取り合い生きていた。


季節は巡り、また春が訪れる。そんな様々な命が芽吹く季節に運命が動く……。



「どうだった?」

樹が小春に問いかける。しかし小春は呆然とし何も言えなかった。

「貸せ!」

樹は小春が持っている物を無理矢理取り上げる。それは妊娠検査薬だった。


「線がある。なんで二本あるんだ?」

……見方が分からないようだ。


「あ、あのね。妊娠してたみたい……」

「……え?やっぱりそうか!」

樹は一瞬喜ぶが、表情を戻す。


「……本当か?なんか二本も線あるし間違いとかだったら……」

樹は疑ってかかる。十年の不妊治療の経験がある為、予防線を張る癖はそう簡単には直らない。期待に胸を膨らませていた我が子を亡くしてからは尚更だった。


「うん、検査薬は正確性が高いみたいだし。……見て一本線は陰性、二本線は陽性と書かれてあるの」

小春は検査薬の箱と検査薬を一緒に見せる。用心深い樹を納得させるのに充分な説得力があった。


「……お前よく知ってるな?空の時は病院で調べてもらったんだったよな?」

「え?……あ、まあね……」

小春が使い方や仕様を知っているのは至極当然。十年間不妊治療の間、その行程で祈りながら使用した事なんて幾度となくあった。

しかし一度も陽性にならず、一本しかない線にどれほど泣いてきただろう。だから、小春はまじまじと二本線の検査薬を見つめる。


しかしその顔に笑顔はない。樹を見つめ、また俯いてしまう。


「……体大事にしろよ」

「……うん。でもどうして分かったの?」

「何となくだ」

そう言い、樹は風呂掃除を始める。今後お前はやるなと言いながら……。


小春の妊娠に気付いたのは樹だった。帰って来るなり、これを使えと小春に押し付けてきたのだ。樹が妊娠検査薬を買って来た事に驚きつつ、そんな訳ないと否定するが樹は小春に押し付けてくる。

一方小春も、よくよく考えると最近月のものが来ていないと気付く。まさかと思い検査をすると陽性だった。


小春は樹が買って来た検査薬の袋の中に色々入っていると気付く。栄養ドリンク、風邪薬、鎮痛剤、スポーツドリンクなど関係ない物が複数入っていた。

……さぞ人目を気にして買ってきたのだろうと小春は笑いを堪える。


「……ねえ、この袋に入ってるのは何?」

「……あ!ついでだ!ついで!これからいるだろう!」

「妊婦は薬飲んじゃだめなのに?」

「……あ」

樹はお風呂のスポンジを落とす。


「俺が飲み切るから大丈夫だ!」

「何が大丈夫なの?具合悪くならない方が良いのに……」

「……あ……」

樹はまた固まる。


「丁度無くなりかけていたから良かったわ」

小春はクスクス笑いながら片付ける。


この二人は我が子を亡くした後も変わらず仲良く暮らしていた。

そして、この妊娠は不妊治療ではなく自然妊娠だった。次の子供を意識せずに夫婦睦まじく過ごしていたら自然と子供を授かっていたのだ。

不妊治療に苦しみ、子宝に恵まれたいと願っていた二人にとって何より幸福な事だが、それと同時に突然授かっていると判明した命に戸惑いもあった。

素直に喜べない事も、こうなった時に戸惑うぐらいなら子供が出来ないようにすれば良かったと後悔の思いもあった。

しかし前回は、十年の月日をかけ、高度技術で授かった子供。まさか、三十七歳で自然妊娠なんて思いもしなかった。


その後、小春は最後の月経の日を思い出そうとカレンダーを見るが思い出せない。本当に意識していなかったのだ。

前回悪阻が始まったのが、六週目ぐらいだった。だから悪阻が始まったら病院に行こう。そう決めるが一向に始まらない。

それを見ていた樹は痺れを切らし、仕事を休んで小春を病院に連れて行こうとしていた。


仕事を休んで欲しくない小春は、病院に行くから仕事に行って欲しいと樹を説得。

こうして四月半ば産婦人科に赴くのだった。


まさか、また妊娠で産婦人科に来る事になるとは……。

小春は待合室の椅子に座りながら思う。


── やっと落ち着いてきた頃だったのに……。

小春は不意に思ってしまい、お腹の中の我が子に詫びる。


「遠藤小春さん」

「はい」

小春は期待以上に不安を抱え診察室に向かう。


診察を受けて驚く。推定八週目との事だった。

経膣超音波で胎児の心拍が確認される。息子の時と同じ力強い心拍だった。


「おめでとうございます。妊娠されていますよ」

「……ありがとうございます……、帰って来てくれたの?」

小春はお腹を撫でる。


推定予定日は十二月二十五日。あの子が生まれて来てくれた日だった。「帰って来てくれた」そう思ってしまうほどだった。


「本当におめでとうございます。ただ前回の事がありますからね。慎重に診ていきましょう」

「はい……」

小春は表情を曇らせる。


「あ、すみません。赤ちゃんを信じましょう」

医師は小春を安心させる為に穏やかに話す。目の前に居る医師は前回の時に世話になった女医。


── またこの先生に診てもらいたい。

小春はそう思ったのだ。


以前と比べ喜ばない小春。その姿に医師は……。

「何かあるなら言って下さい。何を話されても大丈夫ですよ」

女医は優しく小春に話しかける。


「……あ、あの……」

小春は相談するか考えるが、結局相談出来ない。怖いのだ、言葉に出すと本当にそうなりそうで……。


「……何かあったらすぐ言って下さいね。では次の診察までに母子手帳をもらって来て下さい」

「はい、ありがとうございました」


小春は診察を終え出て行く。


小春はこの妊娠に疑問があった。来るべきものが来ない。ありがたい反面、それは不安材料でもあった。

母子手帳をもらい、家に帰って来ると電話が鳴っていた。いつもなら慌てて出るが、今日は出ない。誰かなんて分かり切っている。一時間毎に電話は鳴り響くが、やはり小春は出れない。

そのまま和室で眠ってしまった。




夜、樹は慌てて帰って来る。家の中は真っ暗であり電気を付けると、小春が和室で眠っていた。一つの小さなアルバムを抱きしめて……。

その中には、亡くなった我が子の写真や手形足形を収めてある。小春がそれを見ていたという事は……。


樹は座り込み、愕然とする。

またか……。また小さな命が消えた……。

そう思い込んでしまった。


台所に行き、乱暴に自身のポケットを漁る。しかし、もうそれらはない。

樹は一人家を飛び出し、近所のスーパーに行く。衝動的にそれを買おうとし、手を引っ込める。


結局、買ったのはプリン一つ。ケーキ屋に行くには車の運転が必要な距離だが、今日の精神状況で運転するのは危険。そう判断し、家までの道中で感情を抑える。


樹は玄関のドアを平常心を保ち開ける。

「おかえりなさい」

小春は起きており、慌てて料理をしている。


「ごめんなさい、うっかり昼寝しちゃって……。今作ってるから!」

「……飯なんていい!これ食え!」

樹はプリンを差し出す。


「……ありがとう、後で頂くわね。あなたはお酒ね」

「……お前はコーヒーだな……」


「だめよ、赤ちゃんに良くないから……」

「え?」

樹は驚く。もう諦めていたから……。


あの時と同じく、小春を抱きしめる。

「……まだ喜んだらいけない時期だから……」

「分かってる!……分かってるから……」

気付けば、小春が見ていたアルバムは片付けてあり、母子手帳が置いてあった。亡くなった子の方ではない、新しい母子手帳だった。小春の前を見て突き進む意志を樹は感じ取った。

── 我慢出来て良かった……。

樹は一人、安堵の溜息を吐く。




二週間後、妊婦健診に赴く日となる。順調なら十週目となるが、まだ分からない時期。突然心臓が止まってしまう事も珍しくない。

この二週間、やはり小春の体調に変化がなかった。……だから、もう諦めていた。小さな命の可能性を……。



「……今日は電話出ろよ!」

「うん……。」

いつも通り小春は樹を送り出す。

そして小春も出かける準備をする。もう使わないであろう母子手帳を携えて。


しかし、小春の絶望とはよそにお腹の子は強かった。今日も懸命に心臓を動かし体も大きくなり、順調との事だった。


「……大丈夫ですか?不安でしょうが、赤ちゃんの生命力を信じましょう」

「……はい」

女医は小春に諭すが、やはり小春の表情は浮かない。


「何か心配な事があるなら話して下さい。話してしまった方が楽ですよ」

「……あ」


小春はその優しさに甘えると決める。

「……あの、悪阻が全然なくて……。だから本当に大丈夫か不安で……」

前回、六週目から悪阻を経験した小春は悪阻が全くない事に不安を覚えていた。


医師は不安な理由が分かったようで優しく微笑む。

「大丈夫ですよ、悪阻がない方も一定数いらっしゃいます。一回目が酷くても、二回目はない方もいらっしゃいます。なくて運が良い、それぐらいの認識でいましょう」

「しかし……、赤ちゃん育ってくれているか分からなくて……」

前回の時も、十二週に入るまで流産の可能性を常に考え不安な毎日だった。しかし悪阻に苦しみながらも、悪阻が赤ちゃんの成長の証だと信じてきた。だからこそ耐えられた。その経験がある為に、悪阻がないと成長が止まってしまっているのではないかと不安になるのだ。


「……確かに、悪阻が急になくなって胎児が亡くなっていた。それに関しては、実際経験されている方もいらっしゃるので否定出来ません。でも逆に悪阻が継続していても胎児の心拍が止まっていた……、そうゆう事もあります」

「え!悪阻があるのに?」


「はい、悪阻が継続しているから絶対大丈夫な訳でも、悪阻がないから心配な訳でもありません。確かに悪阻は赤ちゃんが元気な証拠とも言われていますが、ないから問題という訳ではありませんよ」


小春はその説明に安堵する。今存在する命の強さを信じると決めた。

空は今日も青く、太陽の光が眩しかった。暖かい春の風が吹き、生い茂った若葉や野花が揺れる。

こんな美しい風景をお腹の子に見て欲しい。小春はただそう願った。


その後、プリンのお礼にと、お酒だけ買って帰る。家に入ると……。


プルルルル……、プルルルル……。

電話が鳴っていた。小春は思わず笑い、受話器を上げ応対をしようとすると相手は横柄な態度で小春に迫ってきた。


「おい!遅い!何していたんだ!!」

声質など聞かなくても、この口調で一発で分かる。そんな非常識な人物は一人しか居ない……。


「買い物して来たのよ。あなたの好きな銘柄買ってきたから帰ってきたら飲んでね」

「買い物ー!酒ー!何呑気な事言ってるんだー!!……そんな事よりどうだったんだー!」

「順調よ。それより今仕事中でしょう?頑張って下さいね。帰ったらゆっくり話すから、もうかけてこないでね」

「どう順調なんだ!しっかりとした説明を……!」

ガチャ。小春は電話を切る。仕事の邪魔になるからだ。


小春はお腹を撫で、今度はきっと大丈夫と呟く。


……しかし、一度我が子を亡くした夫婦の苦悩は計り知れず、その後不安に苛まれていく事となる。






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