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17話 乳腺炎

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樹は、熱を出した小春を病院に連れて行く。

今日は一月三日。外来はまだ始まっていない為、救急での対応となった。

「遠藤小春さん」

「はい!」


樹は小春に肩を貸し、一緒に診察室に入り当たり前のように側に居る。しかし今回は産婦人科、風邪とは違うと悟り樹は慌てて出て行く。


デリケートな事だから自分は聞かない方が良い。そう思い、待合室で待っているが樹は医師に呼び出される。


小春の担当をしてくれていた若い女性医師が今回も診てくれていた。そして樹に病状の説明を始めた。


「乳腺炎?」

樹は初めて聞く言葉に唖然とする。

「はい、産後は母乳が分泌されるのですが、上手く排出されないと時に詰まる時があります。それにより熱が出ているのだと思われます」


「……え?いや、しかし、赤ん坊は……」

樹は言葉に詰まる。


「……体は『子供を産んだ』と判断しています。ですから母乳が分泌されるのは至って正常な事です」

「そう……ですか……」

男性の樹は当然ながら知らなかった。


「それが詰まっているという事は、出なければ良いのですよね?止める事は出来ませんか?」


「……体が起こしている機能なので、自分の意思で止める事は出来ません。こちらでも対応が出来ず、自然と止まるのを待たないといけません。出来る対応は母乳を定期的に排出させる事だけです。今、助産師により排出をお手伝いさせてもらっています。詰まると今回みたいに熱が出ますし、痛みが伴います」

「え!」

樹は小春の痛みに歪む表情を思い出す。熱だけじゃなく、痛みもあったのだと気付く。


「どうしたら良いですか?」

医師は乳腺炎の対応が記入した冊子を渡してくれる。


「……これを読んで、ご主人も出来れば気にかけて欲しくて……」

女医は言葉に詰まる。


樹は中身を見て思わず目を逸らす。女性ならではのデリケートな問題だとようやく気付く。それに……。


「……ケーキとかプリンは良くなかったのですね……」

「食べられていました?」


「はい……、食べられるものをと思いましてそればかり……。すみません……」

「いえ、こちらも奥様にしか言っていなかったのですみません……」

樹は冊子を読み込み、不明な点がないかしっかり確認する。ネットもない時代、後に検索なども出来ない為ここで知識を得ようと必死だった。


乳腺炎の対応は「和食中心の食生活」「水分を多めに摂る」「体を冷やさない」「搾乳をする」だった。

樹は覚え、対応すると決める。


「乳腺炎以外は問題は見つからなかったので、熱が落ち着けば次の診察は一ヶ月健診の時にさせてもらいます。何かあったら直ぐ来てくださいね」

「分かりました、ありがとうございます」

樹は頭を下げ、待合室に戻ろうとする。


「あ、あの……!」

女医は樹を呼び止める。


「言っておいて何ですが、デリケートな問題なので出来ればそっとして欲しくて……。いえ、何でもないです!すみません……」

女医は言葉に詰まる。

樹は言われている意味がよく分からなかった。


しばらく待つと小春が出てくる。変わらず熱がありふらついているが、先程よりも歪んだ表情は和らいでいた。


「……ごめんなさい……」

「帰るぞ」

二人は何も発さず自宅に帰って来る。

少し小春を休ませて、樹は夕飯の用意をする。


樹はいつも出していたプリンではなく、ご飯とレトルトの味噌汁を出す。


「……え?」

「そろそろ食事も戻せ。少しで良いから普通の食事を食え」


小春は、樹が突然食事のメニューを変えてきた事から乳腺炎になった事を知っているのだと気付く。……急に恥ずかしくなる。


「……いらない!」

そう言い、小春は和室に戻り布団を被る。


「おい!少しは食べないとだめだろう!」

樹は布団を捲ろうとする。しかし……。


「いらないから!」

小春は布団を掴み離さない。


実は小春は頑固であり、一度言い出すと聞かない性格だった。普段は穏やかで夫を立てているが、こうなると樹が何を言っても一切聞かず、自分の意志を通すのだ。

これには亭主関白を通している樹でさえどうしようもない。仕方がなく一旦引く。


その後時間を空け、食事や風呂の声をかけるが一切返事をせず布団に包まっているだけだった。



次の日になっても小春は布団の中に居た。

樹は何度も呼びかけ水だけは飲ませるが、小春は一切口を聞かなくなった。

この状態では、話しかけても答えてくれないし、余計に意固地になる。過去に同じ事があり、樹は充分分かっていた。

その為、次の日まで待つと決める。



しかし、小春はまだ布団から出てこない。よって、樹は最終手段に出る。

それは至極単純、布団を捲り無理矢理食卓に座らせる事だった。


小春は黙々と食事をする。……正直引っ込みがつかず困っていた。それも「前の時」と同じだった。

しかし、食事が終わると布団に戻ってしまう。


「おい!病院に行ってから時間が経ってるだろう!ちゃんとしないとだめだろう!」

「やだ、放っておいてよ!やだ!やだ!」


樹はまた無理矢理布団を剥ぐ。そして小春のパジャマに手をかける。


「何!」

「また熱が出ると大変だから俺がやる!」


「え、え、嘘でしょう!やめて!」

しかし、樹は手を止めない。


「……い、いやー!!」


パチン!

小春は思い切り樹の頬を叩く。

……小春が勝手に怒って、最終的には叩く。前の時もやはり同じだった。


「……あ!」

小春はあの時と同様に混濁の表情を見せる。


「……ごめんなさい……」

「久しぶりだな。何年前だっけ?」

樹はただ笑う。


「……二十六歳の時だったから十年前……」

「もうそんなになるのか……」

樹は話しながら、器を持って来る。


「……ありがとう……」

樹は和室から出て行こうとする。


「待って!」

「ん?」


「側にいてよ……」

「いいのか?」


「うん……」


樹は小春に背を向け座る。その姿に小春は搾乳を始める。


「……プリンとかケーキは脂肪分が多いから控えるように言われていたんだよな?何故俺に言わなかった?こんなもの食えるか!と突っぱねろよ」

樹はポツリと呟く。


「……あなたが買って来てくれていたから……」

「……俺になんか気を使うな」


「うん……」

その場が静まり返り搾乳する音だけがする。


「退院時にするように言われていたんだろう?どうしてしなかったんだよ?痛いはずなのに……」

小春は黙り込む。


「チビの為にとか考えるなよ……?」

「違うよ……」

「じゃあなんだよ!」


「……忘れたらいけないから……」

「え……?」

樹は考え、小春の考えがなんとなく分かる。


「……忘れたらいけないのは分かるが、お前が苦しむのは違うだろう?そんな事でチビは喜ぶか?」

小春はまた黙り込む。


樹は黙って和室を出て行き、二階に上がって行く。

その間に小春は何も言わず搾乳を終わらせ、服を直す。そして、母乳を台所に持って行き捨てようとした時……。


「待て!」

その言葉に小春は手を止める。

樹は持ってきた哺乳瓶に母乳を入れ、仏壇に供える。


「供えてやろう。それが一番の供養だ」

「……うん」

二人は手を合わせる。


「……仕事大丈夫?今回急だったし……」

次は小春はポツリと呟く。


「……あ、まあな。……実は連絡するの二日程忘れていて謝っておいた……。理由を話せばな……」

その後は聞かなくても分かる。会社は事情を知り、察してくれたのだと。

「部長が、年末だったしそのまま年始まで休んで良いと言ってくれてな……。その後も要相談にしてくれた」

「……そっか……、ごめんなさい……」


「謝らなくて良い」

「仕事明日からだよね?行って」


「いや、しかし……」

「ちゃんとするから……。お線香の火も途切れさせないように気をつけるから……」

小春は仏壇を見つめる。


「……頼む」

「うん」


こうして二人は生活を戻すと決めた。我が子を亡くし、二週間が経とうとした頃だった。


樹は仕事に行き、小春は家事を始める。

樹が仕事から帰って来ると、部屋は片付き食事の用意がしてあった。


二人は日常に戻り、気を張った生活となる。食事を殆どしていなかった小春も、食事をしっかりするようになり生活を戻していく。


樹は風呂に入り、安堵の溜息を吐く。

以前の生活に戻せた。一つの回復の兆しだった。


今日、帰って来たら夕食が作ってあり、散らかっていた部屋や台所や水回りが綺麗になっていた。今までやってくれていたから綺麗だったのだと再確認したのだ。



しかし次の日、樹は衝撃の事実を知り帰ってくるなり怒鳴り散らす。

「おい!まだ動いたらだめな時期らしいな!寝てろー!」

押入れから布団を出してくる。


「……もう産後二週間よ。大丈夫だから」

「『床上げ』って言葉があるらしいな!産後三週間以内は水仕事や洗濯を控え、家事は最低限だと聞いた!車の運転も体に負担がかかるらしいな!何故言わないんだ!」


「普通は……お世話とかあるし。だから大丈夫だから……」

小春は無理に笑顔を見せる。


「だめだ、だめだ、だめだ!お前昨日買い物も行っただろう!鍵は没収だ!」

樹は、小春の車の鍵を取り上げる。


「えー!返してよー!」

「一週間後だ!」


「もう、過保護なんだから!……そんなに私の事心配?」

小春は樹を見つめる。


「……飯だ、飯!……あ、いや……」

樹は自分で炊飯器のご飯をよそう。


「それぐらい大丈夫よ!」

「知らん!」


そう言いながら食事をし、食器を洗い始める。

「明日から風呂は洗わんで良い!どうせ俺しか入らんのだからな!」

樹はやはり口は悪いが優しさは態度で表す性格。小春はその優しさを分かっている。


夜十一時、寝る時間になり二人で布団に入る。樹は変わらず小春の布団に入り一緒に眠る。なぜなら……。


「……チビちゃん、チビちゃん……」

小春はそう呟き泣くからだ。

我が子を亡くし二週間が経った。しかし、夜になるとまだ小春は亡くした我が子を思い出し泣いてしまう。


樹はただ小春を抱きしめ、眠るのを待っている。こればかりは時間が経たないと解決しない事だった。



それから一週間が過ぎ、やっと床上げとなる産後三週間となった。

以前と同様の生活に戻り、生き生きと動いていた小春は夜に泣く事も徐々に減っていった。……母乳が止まったのも一つの節目となったのだろう。


苦しみは少しずつ和らいでいく。そう、少しずつ……。



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