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1話 夫婦の元に宿った天使

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── 子供が欲しい。


そんな願いは簡単に叶うと思っていた。

……しかし、それは簡単な願いではなかったと夫婦は思い知る……。


何故なら十年間、不妊治療に励んできたからだ。

もしかして?と喜んでは期待した通りにならず泣き、次こそはと意気込んで泣き、意識しないように努めても結局意識をしてしまって泣き、休んだら逆に授かるかも?と結局意識をまたしてしまい泣き、そんな日々を十年過ごしていた。


……でも、そんな日々はこれで終わりとなる。

それは、今日で不妊治療はおしまいと夫婦が決めているからだ ──。





「今日か病院は?」

夫は仕事に行く為に革靴を履こうと靴べらを使用しながら、妻にさりげなく聞く。

── 本当は今日だと知っているのだが……。


「うん、行ってくるね」

妻は無理に笑う。


── その笑顔を何度となく見てきた……。



「……電車で行けよ」

「分かってるよ」

妻は夫を仕事に送り出す。


今日は、前回受けた体外受精の結果が分かる判定日。……つまり、懐妊に至っているか否かが分かる運命の日なのだ── 。

普通なら力が入るが、夫婦は期待などしていない。期待して絶望した日々を送って来た夫婦は、予防線をしっかり張っていた。



不妊治療の病院は遠い為、電車で行くようにしていた。……本当は車も免許もあるが、気持ちが沈むと危ないからと、不妊治療の病院には電車で行くと決めていたのだ。


妻は自身が庭で育てているチューリップ、ナデシコ、マリゴールドなどの園芸や、にんじん、ほうれん草、トマト、かぼちゃなどの菜園に水やりをする。

色とりどりのチューリップ、紅いナデシコ、鮮やかな黄色や橙色のマリーゴールド、これから育っていく野菜に一言呟く。

「……私にはあなた達がいるものね……」


そう言い残し、駅に向かい歩いて行く。




季節は春。暖かくなった為、多数の桜の花が咲いており、たんぽぽ、菜の花、シロツメクサなどの野草もよく見られた。


── 野花を穏やかに慈しんで鑑賞出来るのはいつ振りかしら?


それぐらい、気持ちは平穏を取り戻しているのだと妻は自身に安堵する。


こうしている間に駅に着き、電車に乗る。普段は外の景色など見ないが、今日は景色をしっかり眺めている。


── 今日で電車に乗るのも最後だろうな……。


この夫婦は普段は車に乗るから、よほどの理由がない限り電車には乗らない。

この夫婦が住んでいる地域は田舎であり、一人一台車を持っている事が多く、足は車と言う人が多かった。


景色を見ていると、どうしても保育園や幼稚園、公園で遊んでいる幼児が目に入る。

思わず、反対側の座席に座るが次は散り始めている桜を多数見てしまい、思わず俯く。


……その景色が玉砕するであろう自身の運命と重なってしまった……。


妻は、自身はまだまだだと溜息を吐くのだった。



妻の名前は「遠藤小春えんどうこはる」三十五歳。顔は細面で痩せ型、髪は腰まであるストレート。病院に行く為の暗めの黒のカーデガンと紺のスカートを選んでおり、流行など気にしてしないどこにでも居そうな女性だった。

専業主婦の彼女は仕事を辞めて五年。ずっと家で一喜一憂する日々に疲れを感じていた。


── また仕事でも始めようかな……?三十五の自分には、さすがにもう言ってこないだろうし……。

小春は適齢期を過ぎた事に少し気が楽になっていた。


電車に乗り十五分、徒歩で十分。通い慣れた不妊治療専門クリニックに到着する。

いつものように受付をして、血液検査を受け長い待ち時間を過ごす。いつもの事だった。しかし、今日でやっと終わる。


── 今日はお酒とケーキを買って帰ろう……。十年間お疲れ様と互いを労おう。そしてこの先を二人でどう暮らしていくかを……。


「遠藤小春さん」

「あ、はい!」

小春は現実に戻り、診察室に向かう。

この待ち時間で子供の事を考えなかったのは初めてだ。小春はそこまで期待も何もしていなかった。……考えはただ一つ、どうやって子供がいない未来を夫婦で生きていくかだった……。



「こんにちは、お願いします」

「こんにちは、お座り下さい」


医師の表情はいつも通り。いつもこのまま懐妊には至っていないと話を聞き、次はどうするかの話になる。

しかし今回で終わりと話しており、次の話はない。お礼を言って帰るつもりでいた。


しかし ──。


医師は表情を変え、優しく笑い小春に話しかける。

「おめでとうございます。妊娠されてますよ!」


「……え?」

しかし小春の思考は追いつかない。ただ呆然としている。



「妊娠です。待望の赤ちゃんですよ!」


── 信じられない……。十年待っても来てくれなかったのに?


小春は何も言えないが、涙だけは流れて来た……。



「血液検査の結果です。陽性の判定が出ました。本当に良かったですね」

医師は丁寧に説明してくれる。


「……ただ喜び過ぎないで下さいね……。まだ分からない時期だからね……」

「あ、はい……」

小春は涙を拭きながら頷く。


「赤ちゃんを信じましょう。それでこの先の事ですが ──。」



話を聞き、病院を後にする。

このお腹に我が子が存在する。初めて味わう感覚にどうして良いのか分からない……。


小春はマタニティ雑誌はぬか喜びを避ける為に買わなかった……。よって知識に乏しい状態なのだ。


駅に向かい、電車に乗って帰って来た小春は家ではなく思い出の場所に赴く。


そこは、盛大な琵琶湖びわこが一望出来る砂浜。桜の木や野花が多数あり丁度見頃だった。


雲一つない透き通った青空。太陽の反射により美しく輝いている一面に広がる大きな湖。そして、それらを華やかに彩る桜の花びらと多数の野花。


あまりの美しさに小春は一人涙を流す。

散りゆく花びらはまるで小春の懐妊を祝福しているようだった……。


この桜が舞い散る景色は玉砕ではなく祝福だったと小春は気付き、より涙が溢れてくる。


── この美しい景色を一生忘れる事はないだろう。この子が生まれたら、それほど嬉しかったのだと話そう。


そう決意した小春は思う。


── あの人はどんな反応するかしら?







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