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8話 天使になった日(1)

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出産予定日当日。


樹は玄関で仕事用の革靴に足を通し、靴べらを使用して靴を履く。


「じゃあ今日は夕飯作らず待ってるね」

「ああ、出来るだけ早めに帰ってくる」


樹は小春の腹部をチラッと見るが、すぐに目を逸らす。

小春はその姿にクスクスと笑い、赤ちゃんに「行ってきますと言ってあげて」と話す。


「今からか?」

「もう生まれるから、練習よ」


「……行ってくる……」

「もっと優しく、それに撫でてあげて」


「俺が?」

「もういつ生まれてもおかしくないのよ」


樹は小春に指定された場所を優しく撫でる。その表情は柔らかく、もう父親だった……。


小春はそんな樹の様子をじっと見ている。


「……行ってくる!」

ドアをわざと大きく開け出て行く。


「もう、照れ屋さんだから仕方がないですね~」


小春はお腹の子に優しく話しかけ、お腹を優しく撫でるが反応がない。


「……また寝てるの?」


しかし小春はその異変にまだ気付いていない。



小春は大きいお腹を抱えながら、洗濯、食器洗い、片付け、掃除機かけを行う。


その部屋はベビーベッド、ベビー布団、ベビー服、哺乳瓶、ガーゼハンカチなどが用意されており、いつ赤ちゃんを迎えても良いように準備されていた。


小春は掃除機を片付け時計を見る。


すると、いつもの鞄の中を探り、母子手帳や財布などが入っている事を確認し妊婦健診に向かう。



病院に徒歩で向かっていた小春は空を見上げる。

今日の空は低く見え、どんよりとした暗さとナミナミとした雲がある。

今日は寒くなり雪が降るかもしれないとテレビの予報で言っていた。気温も低く、コンクリートがやや凍っている事から、滑らないように気を付けようと足元により神経を集中させ病院に向かって歩いて行く。



十五分程で病院に着く。この病院は二階に小児科と産婦人科があり、小春は歩いて行く。

今日の曜日は丁度、一ヶ月検診をしており産後一ヶ月の母親と生後一ヶ月の乳児が何組か居た。


── 私達も一ヶ月後はこんな風に一緒に居るのかな……?


小春は優しくお腹を撫でる。


……しかし、やはり反応がない。

やっとその違和感を感じるが、出産が近付くと胎児は骨盤に頭を下げていく。すると、胎動は以前より弱まると聞いた事がある為、きっとそうなのだと小春は思う。



しばらくし、名前を呼ばれた小春は診察室に入る。



「こんにちは」

「こんにちは。どうですか?」

いつも通り、女医は優しく話しかけてくれる。


「変わりないです」

「良かった、じゃあ診るので横になって下さいね」

「はい」

小春は診察用ベッドに横になる。


いつものように医師は腹部に医療用のジェルを塗り、超音波を当てる。


いつもなら「赤ちゃん元気ですね」、「今、頭を掻いてますよ」、「可愛い顔ですね」と声をかけてくれる。しかし今日は何も言ってこない。


「……先生?」

小春は医師を見る。


その表情はいつもの穏やかな笑顔とは程遠く、焦り、混濁、そして虚無感に溢れていた。


医師は小春の声に返事をせず、医療用PHSを震える手で取り出し誰かに電話をし始める。


「……はい、診てもらえませんか?お願いします……」

医師はPHSを胸ポケットに仕舞い、口元を抑えている。何があったのか聞く小春の声も届いていないのか返事をしない。


「……大丈夫ですからね……」

看護師はそう言うが、その言葉に反して表情は暗い。……看護師は現在の状況が分かっているのだろう。



しばらくし、年配の男性医師が来る。


「こんにちわ、初めまして。産婦人科部長の近藤です。少し見せてもらってよろしいですか?」

部長と名乗る医師は優しく話しかけてくれるが、無理に笑いかけていると誰の目から見ても明らかだった。


「え?……はい」


小春は言いようのない不安感に恐れるが、頷くしかなかった。



医師二人は小春の腹部に超音波を当て映像を凝視する。その姿を看護師も祈るような表情で見ている。……しかし……。


部長と名乗っていた医師は首を横に振る。元々張り詰めてあった空気は、より一層重くなる。


「……私がお話します……」

しばらくし、女性医師は一言呟く。


「大丈夫か?」

「……はい」


女性医師はそう言うと、やっと小春の顔を見る。


「……あの、赤ちゃんに何か?」

小春は緊張のピークを超え、いつもの穏やかな表情を失っていた。


「……落ち着いて聞いて下さい……。赤ちゃんの心拍が止まっています……」


女性医師は目を潤ませながら、しかしはっきりと現状を告げる。


「え?」

小春の表情が固まる。……何を言われているのか、理解出来なかった。


「……つまり死産です。残念ですが……」

言葉に詰まり、これ以上話せなくなる。


「……いや、そんな訳。赤ちゃんが亡くなる訳……」

小春も言葉に詰まる。そんな訳ない、否定する事でしか自分を保てなかった。


「最近赤ちゃん動いてました?」


「……え?あ……」

小春は黙り込む。そして……、状況を理解した。


「チビちゃん!チビちゃん!」

お腹を触わり呼びかけるが、当然ながらもう返事はない。そして最近の様子を思い出す。


── 動いていなかった……。あんなに活発だった子が急に……。



「あ……」


次の瞬間、目の前の景色全てが歪んで見え、そして次は前が見えなくなった。止めどなく涙が溢れていたからだ。


「私が……、私がすぐ気付いていれば……。病院に来ていれば……。チビちゃん動かなかった!私が!私が!」

小春は泣き崩れる。


「違う!おそらくその時にはもう……。違うから!誰も悪くないから!」


看護師はただ、小春を優しく抱きしめる。


……一つの小さな命は、その美しい花を咲かせる前に儚くも散っていった……。








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