[完結] 偽装不倫

野々 さくら

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41話 川口圭介(12)

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ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。

朝、俺のスマホのアラームが鳴り響く。

俺は慌てて起き上がり、スマホのアラームを切る。佐和子を見ると眠っていて一安心する。

俺は鏡で自身を見る。ひどい顔……、あれから一睡も出来なかった。


しかし今日は月曜日、仕事に行かないといけない。出勤前に佐和子を起こし、必ず帰って来ると話して、仕事に行こう。そう思い身支度を始める。


『圭介!どこに行ったのー!圭介!』

佐和子の声が聞こえて来る。


『佐和子!俺は居るよ!大丈夫だから!』

俺は慌てて駆け寄り、佐和子を安心させる。


『……良かった……、起きたら圭介居なくて……、見放されたって……。』

佐和子はまた泣き始める。


『大丈夫だよ、絶対離れないから……。それより少しご飯食べない?お粥作るから……。』

『やだ!離れないで!お願い!』


佐和子は俺にしがみつく。

『分かったよ、側に居るから……。そのかわりご飯は食べて、約束だよ?』

『……うん。』


『お粥作ってくるから待ってて。』

『いや!』

そう言い、佐和子は俺の側から一時も離れない。三日前からずっとこの調子だ。

その後、お粥が出来て佐和子に出しても口を付けようとしない。それも同様に三日前から……。本当にどうしてしまったのだろうか?

俺は佐和子になんとか食事をさせる。しかし、咀嚼や嚥下が辛いのか一口で首を横に振る。

気分で食べないのではなく、体が受け付けないのだと分かってきた。……思っていたより深刻だ、病院に連れて行かないと。それに側に居ないと何をするか分からない……。


仕事を休む……。

俺の体は震えた。休んだら支店長に何を言われるか分からない……。何をされるか……。

そう考えながら、俺は佐和子の顔を見る。

痩せ細った顔に体、生気のない表情、異常なまでの俺に許しを蒙る態度。この状況の妻を置いて仕事に行く?……いや、おかしいだろう?


『佐和子、大丈夫だよ。俺は絶対離れないから……。少し寝よう。』

『圭介も一緒……。』


『勿論だよ。さあ。』

俺は佐和子を寝かし、俺も一緒に布団に入る。


しばらくすると佐和子はウトウトし、俺はそっと離れる。

職場に欠勤を頼む為だ。時刻を見計らい電話をすると、係長が出た。

『おはようございます川口です。』

『……あ、うん……。ど、どうしたのかな……?』

係長は俺だと分かると歯切れが悪くなる。


『すみません、今日休ませてもらえませんか?妻の体調が悪くて病院に連れて行きたいので……。』

『休み?なんだそうか。……あ、いや、……支店長に変わるから……。』

『……すみません……。』

係長は、俺が退職したいと電話してきたのだと思い身構えたのだと分かる。……俺は分かっている、あの支店長が怖くて何も言えないだけで、本当は今のこの状況を良いとは思ってはいない事を……。

考えている間に支店長が電話に出る。俺は恐怖を抑え欠勤を頼む。


『おはようございます。……すみません、妻が体調を崩しまして病院に連れて行きたいので今日は休ませて下さい。』

『妻が?そんなの寝かせておけば良いだろう!馬鹿みたいな事言ってないで早く出勤して来い!』

『……しかし十日まともに食べていなくて……!お願いします!とにかく一日だけでも……!』

『来なかったら降格させる?それで良いのか?』


── 俺は東京支店で働いて二年……、一度も欠勤していない……。家族が体調悪くて病院に連れて行くと言ってるのに、それでも休ませてくれないのか……?


『とにかく今日一日だけでも休ませて下さい!』

『……は?なんだこの言い草は……!』

俺は一方的に電話を切る。


『はぁー。』

俺は額に手をやり、大きく溜息を吐く。


── 初めて支店長に言い返した……。これからどうなるのだろう?

俺の心拍は上昇し、冷や汗が滲み出る。


『……圭介……。』

『佐和子、寝てないとだめじゃないか!』

俺は寝室から起きて来た佐和子を寝室に連れて行く。


『だって、起きたら圭介いなくて……。私……、私……。』

『大丈夫、側に居るから。ご飯は食べた?』


『……いらない。』

『ほら、少しでも食べて。病院に行こう。』


『いや!行かない!やだ!やだ!』


『……分かったから。少しでも食べて。』

『うん。』

俺は佐和子にお粥を食べさせる。一口でも食べれるようにと布団付近にお粥を置いておくが佐和子は全然口にしない。だから少しでも食べさせるしかなかった。

佐和子が嫌がるからとりあえず病院は見送るが、そんな悠長な事言っていられないだろう……。


『……何があったの?そろそろ話してくれない?』

佐和子が苦しみを吐き出せたら少しは食べられるかもしれない……。そう思い話しかけるが……。


佐和子は布団を被り震えてしまった。……余程知られたくない事なんだと分かる。

『……分かった、もう聞かないから。』

俺は今度こそ何も聞かないと決め、佐和子の側に黙って居る事とした。


しばらくして佐和子は眠り、息苦しくないように被った布団を下げる。俺は痩せ細った佐和子の寝顔を見て思う。


……佐和子は摂食障害ではないか?それなら食べる事を無理強いしてはいけないし、適切な関わり方がある。病院で専門的な治療も必要だ……。

素人考えだけど、原因はストレスじゃないかと思っている。やっぱり何かあったんだ……。

俺はどんどん不安になっていった。


── 家族が具合悪い時に休めない仕事……。本当に人生かけてやるべき事なのか?

俺は分からなくなってきた。






ピロロロロ、ピロロロロ……。

昼12時、俺の電話が鳴る。普通電話ではない、メッセージアプリの無料電話の方だ。

俺は佐和子を起こさないように慌てて離れる。


『もしもし。』

『……あ、すみません、藍沢です……。』


『藍沢さん……。ごめんね、急に休んで……。支店長怒ってるよね?』

『あ、いえ、大丈夫ですよ。係長が対応してくれています。』

『……係長が……。そっか……、申し訳ないな……。』


『……あ、そうゆう事が言いたいのではなくて、大丈夫ですか?その……。』

『あ、うん。ごめんね、急に……。本当に妻が具合悪いんだ。だから……。』


『そうですか、奥様を大事にして下さい。こっちは大丈夫ですから。』

『……ありがとう、大丈夫だから。』


俺は安堵の表情を浮かべ笑って話す。藍沢さんの優しさに心が暖かくなったからだ。

『じゃあ、また。』

俺は電話を切り佐和子の元に向かう。


『ヒック……、ヒック……。』

佐和子はまた泣いていた。



俺は佐和子の背中を摩りながらある事を決め話し始める。

『……佐和子、結婚のご挨拶に行った時の事覚えてる?お義兄さんとお義姉さんに、「もし何かあったら佐和子は家に連れ戻す」と言われたよね?……今がその時じゃないかな?』


『……え?それって……。』


『……俺、謝って頼むよ。実家で療養させてくださいって……。』

── そんな事言えば佐和子のご両親は悲しみ、お義兄さん夫婦は怒るだろう……。もう佐和子を任せてもらえないかもしれない……。でも、今は保身に走っている場合じゃない。だから……。




『いやー!!』

佐和子は叫び始める。

『いや、いや、いや!……お願い……、見捨てないで……。』

『見捨てるとかじゃないよ!』


『ごめんなさい!違うの!ちょっと浮ついていただけ!違うのー!』

佐和子は俺にしがみつき、許しをこうむってくる。

『分かった、分かったから……。』


俺は何も聞かず佐和子を寝かせる。


── 浮ついていただけ?じゃあ本気じゃなかったという事なのか?

俺の中でまた色々な感情が駆け巡る。しかし考えても答えは分からないし聞けない。だから考えるのを止めようとするけど、余計に頭から離れない。

佐和子が安心する実家に帰省を考えたけど、見捨てられると勘違いしている現状無理強いしたらだめだ。……じゃあどうしたらいいんだ?

俺の頭は痛くなり、頭を休めようと佐和子の横で少し寝ようと寝転ぶ。

しばらくし、ウトウトし出した頃に……。


ピコン。

佐和子のスマホが鳴る。


俺は体を起こし、佐和子のスマホを見る。佐和子は様子がおかしくなった日から肌身離さず持っており、寝ている今でさえ握りしめている。以前はそんな事なかったのに……。

佐和子のスマホは手帳型で見ようと意図的に開けないと見られなくなっている。普段の俺なら絶対見ない。触らない。しかし……。

俺は佐和子が眠っているのを確認し、そっとスマホを取り、スマホケースを開ける。

待ち受け画面はあの日佐和子が作ったバルーンアートの写真、そしてあるアプリの一つから通知が来ていた。


『daisuke.kからメッセージが届いています。』

そう書かれていた。


あの人だとすぐ分かった。

何故以前のようにメッセージアプリを使用しないのか分からなかったけど、今メッセージが来たアプリを調べてみると有名なSNSアプリらしく、その中で個人同士が連絡出来る機能があると知った。


── 内容が知りたい……。

スマホを開こうとするが、当然パスコードがある。……俺が以前、自衛の為につけるように言ったパスコードに今度は俺が悩まされるとは思わなかった……。

俺は思いつくまま打ち込んだ。佐和子、お義父さんお義母さん、お義兄さんお義姉さん、甥っ子の幸助くん、みんなの誕生日を。しかしパスコードは6桁、どの組み合わせか分からなかった。


『……けい……すけ……。』

佐和子が目を覚ました。


ガタン。

俺は驚いて佐和子のスマホを落としてしまった。布団でなく、畳に。その為に落下音がし、遠くに飛んでいってしまった。

佐和子は俺を見た後、枕元にスマホがない事に気付き慌てて探し出す。少し遠くに落ちてあるスマホに違和感を持たず、安堵の溜息を吐いて拾っている。

……どうやら俺がスマホを見ていた事に気付いていないようだ。しかし……。

トイレにスマホを持って行った佐和子がスマホが開かないと慌てていた。俺が何度も番号を打ち込んだ為、一定時間開かなくなってしまっていた。


怯える佐和子に、落としたからじゃないかと嘘を吐いた。その言葉を信じ、数分したら開けるようになり佐和子は安堵していたが俺は最低な嘘でごまかしてしまった。

そして、佐和子はあのメッセージを読んでいた。すると表情は見る見るうちに明るくなり、先程までの衰弱が幻だったように活気が戻った。


俺は安堵した反面、一つのメッセージで佐和子をここまで元気付けたのだと落胆した。結局内容は分からず、何とも言えない感情を抱えていた。






その日の夜中、俺は目を覚ます。気付くと、佐和子が居なかった……。

俺は佐和子が一人でどこかに行ってしまったと思い探しに行こうとして足を止めた。恐る恐る押入れの中を見ると紙袋に入れておいた男性物のコートとマフラーが無くなっていた。


── あの人に会いに行ったんだ……。


俺は思わずアパートを飛び出し、気付けばあのバーの前に一人立っていた。……雪で出来た佐和子の小さな足跡もこのバーに迷う事なく向かっていた。間違いないだろう……。

バーの前に来たは良いが俺はただ立ち尽くしているだけだった。


── 普通こうゆう時どうするのだろう?乗り込んで止めるのか?戻って来てくれと頼むのか?俺が悪かったと謝るのか?

……俺は……、何も出来なかった……。


ただその場に立ち尽くし何もしない。美しく降りゆく雪をただ見つめるだけ……。俺はどうしたいのだろう?

今、佐和子とあの人は何をしているのだろう?考えるだけで頭が痛く吐き気がする。……なのに俺は乗り込まない。


……何故?怖いからだ、佐和子が不倫している……。この後に及んでも認めたくないからだ。

俺は佐和子が嘘を吐く時は目を見開く。……知っていたくせに知らないフリをしていた。俺に出来る事は、何も知らないフリをして佐和子を受け入れる事だったから……。


もうあの人と二度と会わないなら良い、全てを忘れよう……。そう決めていたのに何故また会うんだよ?



俺はただ呆然と降り積もる雪を見ていた。すると……。

佐和子が勢いよくバーから飛び出してきた。

俺は慌てて細い道に隠れた。そしたら次は……男性が出て来た……。


俺は佐和子を追いかける事も、男性に問い詰める事もせずただ逃げ出した。一心不乱に……。

遅い足でひたすら走っていると繁華街に戻って来た。そして次は二人で住むアパートに走って行った。


すると佐和子が地べたに座り込んでいた。具合が悪いのかと思い佐和子に手を差し伸べようと近付き、足を止めた。


── ここに居た理由をどう話す気なんだ?さすがに二回この場に居るのは怪しまれる。佐和子は俺がバーの前に居たと気付くのではないか?……いや、佐和子が居ないから探しに来たで済むか……。

俺はそう思い近付いて行く。しかし……。


── 足跡!バー付近に雪で出来た不自然な足跡があったはずだ!佐和子は気付いただろう、俺が居るかもしれないと!ここで現れたら、後ろから付いて来たと言っているようなものじゃないか!


俺は、迂回してアパートに走って行った。具合が悪いかもしれない妻を置いて……。普通なら手を差し出すだろうが俺はしなかった……。

最低だ、うずくまっている妻より結局保身を選んだ……。


「薄情」「冷たい人間」「最低なクズ」、子供の頃母さんに言われた通りだった……。


アパートに戻って来た俺は我に返り、佐和子の元に戻ろうとした。このまま動けなかったら、ようやく気付いた。

アパートから出た時、佐和子が歩いて帰ってくる姿を見た。

俺は慌ててコートを脱いで布団に潜り込み、寝たふりをした。……明日からも夫婦でいる為だった……。

佐和子は帰って来て、「ごめんなさい」と一言呟いていた。どうゆう意味か聞きたかったけど、俺は聞かなかった……。





ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。

俺は朝のスマホのアラーム音で目が覚める。いつの間にか眠っていたようだ。横を見ると佐和子の布団が片付けてあった。


『佐和子!』

俺は慌てて台所に行く。倒れているのではないかと心配だったからだ。しかし台所からは久しぶりにご飯や味噌汁などの美味しそうな匂いがする。


『おはよう、圭介。』

佐和子は朝食とお弁当の準備をしてくれていた。いつもの光景、しかし最近は体調を崩し家事どころではなかった。


『大丈夫……、なのか?』

『うん!ごめんね、迷惑かけて。もう大丈夫だから仕事に行って!』

俺は食事が出来なくなった佐和子の看病の為、前日仕事を休んでいた。当分の間、看病が必要だと思っていたが、佐和子の変わりようにただ驚いた。

『……うん。』


俺達はいつも通り、朝食を共にする。


佐和子が盛った食事の量はいつもの半分以下であり、まだ完全な回復ではないみたいだが食べている。……少し無理に口に入れているようにも見えるが、しっかり食べていた。

『……本当に大丈夫か?』

『うん。昨日はごめんね。仕事休んだから大変だったよね?』


『……大丈夫だよ……。』


── 昨日休みたいと電話をした時に強い口調で休むと支店長に言ってしまった……。どうなるのだろう……。


……思わず俺の表情が曇る。

『……やっぱり大変だったよね……?』

『違うから!じゃあ、そろそろ……。』


俺は食事を終え、身だしなみを整える。歯磨きをしながら佐和子の濡れたコートや靴が視界に入る。


『……コートどうしたの……?』

俺は我慢出来ず聞いてしまう。


『……え?』

佐和子の表情が明らかに変わる。


『……ほら、濡れているから……。』


『昨日ね、お腹空いちゃってコンビニにプリン買いに行ったの!』

佐和子は明らかに瞬きをせずに俺を見つめる。……俺は分かっている、佐和子が瞬きせずに相手を見つめる時は……。


『……分かったよ。行ってきます。』

俺は佐和子から目を逸らし出て行く。……こんなカマをかけるような聞き出し方をして、俺はどこまで最低な人間なんだろう?

自己嫌悪に吐きそうになりながら職場まで歩いて行く。




『……おはようございます。』

俺は出勤する。すると支店長が向かって来た。

心拍の上昇を感じる。怖い……、逃げ出したい……、全てから……。


しかしそうはいかず、昨日の無礼に対する叱責を受けた。そして仕事を多く割り振られた……。






仕事は多く帰宅が遅くなった。山口くんや藍沢さんが手伝うと言ってくれたけど二人は巻き込めない。だから一人でやった。


『……ただいま……。』

『おかえりなさい。』

佐和子は元に戻ってくれ、夕飯も用意してくれている。今日は赤魚の煮付け……、俺の好きなものだ。


このままで良い……、このままで……。佐和子が側に居てくれたら……。


そう思っていたのに……。



『買い物に行ってくるねー。』

土曜日の10時過ぎ、布団で横になっている俺に佐和子はそう言った。

胸騒ぎがした。確かに土曜日でも買い物に行く事はある……。しかし……、この違和感はなんだろう?


いつもは「いってらっしゃい」と見送るけど、思わず体を起こし佐和子に話した。


『……俺も行く……。』


『え?ただの買い物だよ?近所だよ?」

明らかに佐和子の表情は焦っていた。


『すぐ用意するから、荷物持つから。』

……無理矢理口実を作って妻を見張る……。我ながらみっともないと分かっているが止められなかった。



『いや!いいの!大丈夫だから!持てるから!』

佐和子は俺から明らかに目を逸らす。


『……分かった。』

『帰って来たらご飯作るから。すぐ帰ってくるからね。』

そう言い、佐和子は俺を見ずに慌てて出て行く。


『……行ってらっしゃい……。』

俺は佐和子を送り出す。……思わず涙が出てきた……。


佐和子は帰ってくる。昼ご飯を作ると言ってくれている。だから大丈夫だと自身に言い聞かせた。しかし……。


ピコン。

俺のスマホが鳴る。

『佐和子……。』

スマホを見るとそこには……。


『友達とたまたま会ったの。遊んで来て良い?』

と書いてあった。


俺は

『分かった』

とだけ打ち込んだ。

それ以外を打ち込もうとすると、今までの不安全てをぶつけてしまいそうだったから……。


俺は布団を被り目を閉じた。感情を全て無にする為……。



しかし、気付けば俺はバーに向かって走っていた。体が勝手に動いていたのだ。


バーの前に着いた俺は今までの勢いを無くし、立ち尽くす。この後に及んでまだ踏み込むかを悩んでいた。

── 踏み込む勇気もないくせに何走ってきたんだ……?


俺はまた立ち尽くし、踏み込むかに悩み二時間以上もただじっとしていた。


俺が出した答えは、引き返すだった……。不甲斐ない自身を呪いながら、それでも平穏を望んでしまう自身の願望に忠実な行動を取っていた。


── 俺さえ知らなければ良い……。俺さえ我慢したら……。


俺は自身に言い聞かせ、バーを後にする。


── 泣くな……、泣くな……。俺がこんなんだから佐和子は俺から離れていくんだ……。

そう自身に言い聞かせ、歩を進める。



ピコン。


メッセージアプリの通知音がする。


『佐和子!』

俺は慌ててポケットからスマホを取り出し内容を確認する。


メッセージアプリには

『お前の妻は俺と不倫している』

と書かれていた。



俺はそのメッセージをただ呆けて見ていた。

差出人は『川越大輔』と書いており、やはりあの時佐和子にメッセージを送ってきた人だと分かった。


── どうして相手はわざわざこんなメッセージを送って来たのだろう?普通隠したいだろう?どうして?


── 相手は俺から佐和子を奪う気なのか?だからこんな事を……。


俺の背筋が凍りつく。佐和子はこのメッセージを不倫相手が送っている事知っているのか?俺と別れる気だったのか?……もう、戻って来る気はないのか……。


俺は慌てて電話する、勿論佐和子の方に。

しかし佐和子は電話に出ない……。


「駆け落ち……。」

俺は体の力が一気に抜ける。


── すぐ帰って来る……、あれは嘘だったのか……。

気付けば俺の目からまた涙が溢れていた。……母親に置いてかれた子供のように……。もう佐和子は戻って来ない……、そう思ったからだ。

俺はようやく気付く。佐和子はどれほど俺の支えてくれていたのか、どれほどの存在だったか、俺にとってかけがえのない存在だと……。


── 俺がこんなんだから佐和子は見切りをつけた……。不倫相手と駆け落ちした……。

全て自分が悪いのだと思い知った。


俺はただ一人泣いていた。すると……。


ピコン。

メッセージアプリの通知音がした。

「佐和子!」

俺の願いは叶わず、その男性からだった。


『何か言う事はないのか?』

その一文だけだった。


言う事?この状態で何を言うんだ?どう考えても不倫だろう?


俺はまだこの後に及んでもどうしたら良いのか分からない……。だって佐和子はこの人を選び俺から離れて行ったのだから……。



── 俺はあの家で育ち、自己主張なんて出来なかった。18歳で家を出てもそれは変わらなかった……。常に相手の顔色を伺い、自分の意思はなくただ身を任せるだけだった。

── 佐和子はそんな俺を嫌がっていた、意見を求められても答えず全て佐和子に託してきた。そんな男より、あの男性が良いに決まっている。


── あのコートのサイズは俺より断然大きかった。コートとマフラーのブランドを調べたら、俺には絶対買えない程の高級品だった……。骨格が良く、男らしく、かっこよく、色気があり、あんなブランド品を綺麗に着こなし、優しい男性……。何一つ勝ち目がない。……あの人なら俺なんかより佐和子を優しく包んでくれるだろう……。


だから俺は身を……。



[君も変わらないといけない。嫌な事は嫌と拒否していい。良い子を演じなくていい。]


ふっとその言葉が脳裏を過ぎった。……子供の時、母さんに叩かれていた俺に病院の先生が言ってくれた言葉。

俺はあの頃から変われたのだろうか?嫌な事は嫌と言えていただろうか?無理に良い人を演じていたのではないだろうか?


[俺は本当はどうしたい?]


そう、自身に問いかけた。



── 俺は佐和子が居なくなるのは嫌だ!このまま身を引くなんて嫌だ!


やっと自身の本音を出せた……。


俺は電話をする。するとしばらくし、あの男性は出た。


『言う事は決まったか?』


「……佐和子を返して下さい……。」

声を聞き分かる。やはり催しで佐和子にバルーンアートを教えてくれ、バーで丁寧に対応してくれた男性だった。


『嫌だね。なんでわざわざお前にメッセージ送りつけたか分からないのか?』

「……駆け落ちするつもりですか?」


『さあ?どうだろうな?』

「佐和子に代わって下さい!一度しっかり話し合いを……!」


『話し合い?お前、寂しがっている妻を散々放っておいて何今更言ってるんだ?自分から離れて行ったからって、よりを戻したい?勝手な言い分だな?』


……俺は何も言い返せない。事実だからだ……。


『お前の妻は俺に惚れ込んでいる。その姿を見るか?』

そう言うと、男性はある場所に居ると指定してきた。電車で一時間ほどで着く、海の街と呼ばれる場所だった。


── 怖い……、しかし……。


「今から行く。そして必ず取り返す!」

『やれるものならやってみろ!』


プツン、ツー、ツー、ツー。

電話が切れた。


俺はもう迷わない。駅に向かい走って行く。






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