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31話 川口圭介(2)
しおりを挟む『おい、あの子またいるぞ?』
友人の裕太が呟く。
『……あ、本当だ。』
携帯のストラップを届けて以来、佐和子が毎日五組に来るようになった……。でも特に用事を言ってくる訳でもなく、廊下からこっちをじっと見てくるだけだった。
『渡辺さんは三組だよね?なんで一番奥の五組に来ているのだろう?』
『……お前に会いに来ているんじゃないのか?』
『……え?……あ、教科書忘れたから貸して欲しいのかな……?』
『……お前……。ま、まあ要件聞いて来てやれよ……。』
『うん。そうだね。』
俺は佐和子の所に行き話しかけた。
『渡辺さん、どうしたの?何か忘れ物でもしたの?』
『あ、あ、あ、きゃあー!!』
佐和子は俺の顔を見た途端、お化けにでも会ったかの表情をして逃げて行った。その姿に俺は……。
『……ねえ、俺って怖い顔してる?』
『は?』
俺の事が怖いのかと悩んだのだ。……でも次の日になったらまた五組に来る。今度は目が合うだけで居なくなってしまい、意味が分からなかった……。
それから、佐和子と出会い十日ぐらいが経った頃、今度は教室に入って来て俺の目の前に来た。あの時の友人と一緒に……。
『ほら佐和子!しっかりしなさい!』
『……あ、あ、綾乃が言って!』
『何言ってるのよ!あんたが言わないと意味ないでしょう!』
背中を押された佐和子は俺の元に倒れてくる。
咄嗟に肩を持つと佐和子は「きゃあきゃあ」叫び、慌てて俺から離れた。
そして俺を見て、話し始めた。
『あ、あの、あの時は……、だ、だから、だから、私……、私が……私を食べて下さい!』
佐和子が支離滅裂な発言をする。そして、それを見ていた友達やクラスメイトが一気にざわつく。
佐和子の友人の綾乃さんは「意味がちがーう!」と言い、佐和子に言い直しを促すが、「チェコを拾ってくれてありがとう」「ストラップを食べて」など意味が分からない発言ばかりする為か、綾乃さんが間に入ってきた。
『ごめんね、川口くん。あの時はありがとうと佐和子は言いたいの。それでお礼に佐和子が作ったお菓子を食べて欲しいの!』
『え?良いの?』
俺が佐和子を見ると何度も頷きながら、ピンクのラッピングの袋に入っている物を渡してくれた。
『何?』
『ち、ち、チェコ!』
『え?国?』
『チョコだから!』
綾乃さんがすかさず入って来る。
『え!チョコ!俺好きなんだ!ありが……。』
『さよならー!』
そう言い佐和子は足早に立ち去った。
『あ、佐和子!もうメルアド……。とりあえずごめんね、ありがとう!』
綾乃さんも追いかけて行く。佐和子と話したのは一分ぐらいだった。
『……お前も罪作りな奴だな。』
一部始終を見ていた裕太は達観した目をしていた。しかし俺には意味が分からない。何故、あんなに声が裏返っているのか?
『何が?』
『いや……。まあ、頑張れ!』
『何を……?』
意味が分からないまま学校が終わり、バイトに行き、帰りに佐和子が作ってくれたチョコを食べた。
それはチョコなのに、今までに食べた事のないチョコだった。
『美味しい!すごく甘い!ふわふわ口の中で溶ける!どうなってるんだ?』
あまりの美味しさに無我夢中に食べてしまう。
── こんなに美味しい食べ物があるんだ!
初めて食べる味に俺はただ感動した。その味は今でも忘れていない……。
次の日、佐和子がまたクラスの前にいた。
声をかけようとしたら、昨日一緒だった友人の綾乃さんに連れられて中に入って来た。
『昨日はありがとう!すごく美味しかったよ!』
『た、た、食べて、く、くれたの……。』
佐和子の声は震えていた。
『……大丈夫?』
俺の問いに、佐和子は必死に頷いている。
『あれ何?ふわふわして美味しかった!』
『なまなまなちゃんこ!』
『……生のちゃんこ?』
『なまぐりとチェコを混ぜ混ぜして固めたの!』
『生栗と国を混ぜて固めた?』
混濁の表情を浮かべる佐和子と俺の姿に見かねたのか、綾乃さんがまた間に入ってきた。
『ごめんね、通訳します!あれは生チョコというお菓子、生クリームとチョコレートを混ぜて冷やしたものなの!こんなんだけどお菓子作り上手いし、佐和子が作った物で間違いないから!』
『へー、すごい!……ところで生クリームって何?』
『え!』
綾乃さんも裕太も驚いた表情で俺を見てくる。
……後に、ケーキの上に乗っているのが生クリームで今話しているのがその原料だと知った……。ケーキは給食で初めて食べて泣いてしまった事を覚えている……。あれをチョコと混ぜるとこんなに美味しくなるとあの時知った。
『川口くん、佐和子がメルアド教えて欲しいんだって!』
『ちが、ちがう!ち、ち、ちが!』
佐和子は首を必死に横に振る。
『あんたこれでいいの?』
『……やだ……。』
『じゃあ聞きなさい!』
目の前でよく分からないやり取りがされていた。
『かわ、かわぐ、かわぐちくんメルアド教えて下さい!』
佐和子は俯いて、手をもじもじさせていた。……その姿が可愛らしくて……。
『良いよ、渡辺さんって面白いね!』
思わず笑ってしまった。
『ま、まいどおおきに!』
『え?』
『……酒屋の娘だから……。』
綾乃さんが教えてくれた。
『はは!なるほど!』
── こんなに明るくて面白い子、初めてだった……。
それからも、佐和子と綾乃さんは毎日クラスに遊びに来てくれた。いつの間にか、俺の友人の裕太と一緒に四人で話すのが当たり前になっていた。
『川口くんは何が好きなの……?』
佐和子は不意に聞いて来た。
『……チョコかな?』
『好きなテレビは?』
『え……?』
── テレビ……?分からない……。
『し、趣味は?』
『え?趣味?バイトかな……。』
『それは趣味じゃないだろ?そういえばお前の趣味ってなんだ?』
裕太も聞いてくれるが……分からない……。
『何が好き?』
佐和子はまた聞いて来る。
『……チョコかな?』
『他には?何が好き?教えて!』
『え……。』
俺は何も言えなくなる。……分からなかった……。
『ちょっと佐和子!ごめんね帰る!』
綾乃さんは、佐和子の手を引いて帰っていった。
……俺はその姿に、バイトが終わりいつも通り好きなチョコを食べながら家路に向かう道中、考え込んでしまった……。
── 俺って何なんだろう?好きな物はチョコしかない……。好きなテレビなんてないし、趣味なんて時間ないから出来ない……。なんてつまらない人間なんだろう……。渡辺さん呆れただろうな 明日から来てくれないだろうな……。
俺は寒空の下、美しく輝く星を見ながらそう思う。……どうしてこんな所で一人チョコを食べているのだろう?
── 考えても仕方がない……。
そう思いながら家路に向かう。帰ってからは学校の宿題もしないといけないのだから……。
しかし、佐和子は次の日も来てくれた。
『川口くん!勉強教えて!』
『え?』
唐突な発言に思わず変な声が出る。
『だめ?』
『いや、いいけど俺で良いの?』
『川口くんが良いの!お願い!』
『勿論、じゃあ昼休みで良い?』
佐和子は何度も頷いていた。
『教科は?』
『全部!』
佐和子は意気込んで叫ぶ。
『え?……1つずつやろうか?』
『うん!』
こうして昼休みに俺は佐和子に勉強を教える事になった。すると今まで何も話せなかった嘘のようにすらすら話が出来るようになった。
── 不思議だ。勉強なら言葉次々と出る。……逆に言えば勉強だけだけど……。やっぱり俺はつまらない人間だな……。
佐和子が勉強を習いに来て一週間が過ぎた……。
『今日はここまでにしようか?』
『ありがとう!』
『明日は数学にしようか?』
『うん!……あのね、それでね……。』
急に佐和子がもじもじし始めたと思ったら、鞄からまたピンクの袋のラッピングした物を出しきた。
『……クッキー焼いたの……。良かったら……。』
佐和子は黙り込む。
『良いの?ありがとう!……クッキーって何だっけ?』
『え?小麦粉と卵、砂糖、ベーキングパウダーを混ぜて型取りしてオーブンで焼くの……。』
『ああ!そっかあれがクッキー!……こんなの漫画とか家庭科の教科書だけの話だけだと思っていた!』
『……え?お母さん作ってくれないの?』
『……あ、うん……。』
『川口君くん、家族は?』
『……母さんかな?渡辺さんは?確か酒屋さんなんだよね?』
『……あ、うちはお父さんにお母さん、お兄ちゃんかな……。』
『どんな家族なの……?』
佐和子は嬉しそうに家族の話をしてくれた。仲の良い両親、お兄さんとも仲が良く佐和子の事をすごく可愛がっていて、バイトの後すぐ帰らないと両親とお兄さんに怒られるらしい。子供扱いしないで欲しいと怒っていたけど、俺からしたら羨ましかった。
── 愛され、大事に育てられているんだ……と。
『そっか……。』
『川口くん?』
佐和子は不安そうな表情を見せる。何か言ってはいけない事を言ってしまったのでないかと戸惑いのある表情に……。
『なんでもないよ。』
笑って答えた。佐和子が悪い事を言ったのではない。……家がおかしい、分かっているから……。
こうして年が明けて、二月半ばになる。もう少しで期末テストが始まる時期。
昼休みの勉強が終わった後、佐和子がいつも通りお礼のお菓子をくれる。
……しかし、いつものお菓子を入れてある袋ではなく、今日は箱に綺麗にラッピングされた物だった。
『……こ、これ、ば、ば、バレンタインだから!』
佐和子はまた声を裏返して俯き話す。
『ありがとう!バレンタインかぁー!ねえ、バレンタインってどんなチョコ?生チョコみたいにふわふわしているの?』
『……え?』
佐和子は驚いた表情で俺を見てくる。
……また変な事を言ってしまったと気付いた時には遅かった……。
……俺は本当にバレンタインを知らなかった。バイト先で名前だけは聞いていたけど、チョコの種類の名前と勘違いしていた。
実はこうゆう風に、聞いた事があっても意味を知らない事が多い。恥ずかしくて知ったふりをするからだ……。そして知らずにどんどん大人になって来ている。このままではまずい、分かっているが忙しさにかまけて一般知識を入れようとしなかった。
しかし佐和子は俺が変な事を言っても気にしない。笑って話を続けてくれた。
『……温めて食べてね……。中にチョコ入れてあるから……。』
これはフォンダンショコラという、丸いカップケーキみたいな物の中にチョコが入っているらしく、温めると溶けて甘い口溶けを味わうお菓子らしい。
そんなお菓子食べた事がない。聞いた瞬間にわくわくした。どんな味、どんな食感なのだろう?今日の夜が楽しみだった。
『ありがとう!……でもいつもだけど大丈夫?』
『うん、成績上がったからお父さんもお母さんも川口君に感謝していたの!お菓子では足りないぐらいだって!お父さんが秘蔵のお酒をお礼に用意してて、お母さんに未成年でしょう!って怒られてたぐらい!』
『ぷっ!何それー!詳しく聞かせて!』
……佐和子の話はとにかく面白かった。佐和子のおっちょこちょいな話に、家族の話、バイトの話、お菓子作りの話、テレビ、雑誌、漫画。想像するだけで笑ってしまう。
佐和子と話す事によって、家での嫌な事を忘れられた。それぐらいの明るさと笑顔がある子だった……。
……だからなのか……?俺はあの日、いつもの用心深さを忘れていた。
『ただいま。』
バイトが終わり家に帰ってくるが、母さんは居ない。台所には、母さんが作ってくれた夕食が置いてあった。
……変わらず肉も魚も入っていない……。でも、もう慣れた。高校生になって給食が無くなり、完全に食べれなくなったから……。今食べたら逆に吐いてしまうだろう……。作ってくれているんだ……、感謝しないと……。
食器を洗い俺は考える。
── 母さん、まだ帰って来ないんじゃないか?今なら間に合う!
佐和子からもらったフォンダンショコラを取り出しレンジで温める。……すると甘い匂いが台所中を漂わせた。
俺は夢中で食べた。中にはチョコが入っており、温めた事により柔らかく溶けていた。それを掬って口に入れる。とろける食感に口いっぱいに広がる甘味。甘く柔らかく温かさに、俺の凍り付いていた心まで溶かしてくれたような気がした。
あまりの美味しさと温かさに、佐和子に美味しいとメールを打っていた時に……。
『何しているの!』
母さんが帰ってきてしまった。
『……あ、いや……、これは!』
バシン!
母さんが俺の頭を叩く。
『誰がチョコなんて食べて良いって言った!こんな物……、砂糖なんか食べたら馬鹿になるんだから!』
そう言うと、母さんが佐和子からもらったフォンダンショコラを捨てる。
『これ、手作りだよ!酷いよ!』
俺は幼稚園児以降、初めて母さんに反発した。
『うるさい!口答えするな!お前はお母さんの言う事だけ聞いていれば良い!どこの女からこんな物もらった!』
母さんは、父さんが亡くなってから口調が荒くなっていた……。
『勉強教えてるからそのお礼だよ!酷い!せっかくくれたのに!』
そう言うと母さんはまた暴力を振るってくる。今度は掃除機で……。いつの間にか、手から掃除機を使っての暴力に変わっていた。
そう、母さんは結局暴力を振るうのを止めれなかった。俺が打ち込もうとしたメールを見て、より怒りの感情をぶつけてくる。
『いつからそんな事にうつつを抜かすようになった!』
『そんなんじゃないよ!彼女は……!』
『うるさい!うるさい!言い訳するな!』
母さんは怒りの感情をぶつけ切ると部屋に戻っていった。
『……いた……、今日は激しかったな……。』
── こうなったのは俺が悪い……、俺が浮かれていたから……、注意を怠ったから……。
ゴミ箱から漁ってフォンダンショコラを食べる。
『美味しいよ……。本当に……。』
俺は佐和子に泣きながらメールを送る。
美味しかった、佐和子の家族はなんて言っていたかを聞いた。すると……。
『本当?良かった!……お兄ちゃんが私が川口くんにあげた事知ってしょげてる。彼女さんからもらってるくせにね(笑)』
と返ってくる。いつもの明るい彼女。……全てから救われる気持ちになっていた……。
── 毎日のメール、俺の救いになっていた。バイトから帰って来てから宿題するまでのひとときの安らぎだった。
だけど……。
学年トップでなくなったら携帯は解約すると母さんに言われている。だから絶対順位を落とすわけにはいかない。
……正直、携帯代は自分のバイト代から払っているのに母さんが取り上げる意味がよく分からない……。でも、口答えをすると今日みたいに激しく叩かれる。だから俺は頑張るしかなかった……。
次の日、いつも通り学校に行く。母さんが叩くのは頭や服で見えない場所ばかり。だから普通に登校は出来ていた。
『いやー、参ったよ、母ちゃんに綾乃ちゃんからもらったチョコ見られたよ~。』
裕太は軽く笑って話す。
『……え?大丈夫だった……?』
俺は青ざめる。裕太もお母さんに怒られただろう……。叩かれたかもしれないと……。
『大丈夫じゃないな、もう質問責め。どんな子だ?絶対に捕まえておけ!お返しを一緒に買いに行くって張り切ってたな……。』
『……え?怒らないの?』
『怒る?初チョコだと浮かれていたよ。付き合っている訳でもなんでもないのに、親はなんであんなに喜ぶのだろうな?』
俺はただ驚いた。裕太の親みたいに喜んでくれる親もいるのに、家の親は一方的に反対して……。
『どうした?』
『ううん。』
俺は考えるのを止めた。母さんに期待はしてはいけない……。そう決め、家では無の感情で過ごすと決めた。
こうして、俺は高校三年生になり進路を決める時期となった……。かねてより就きたい仕事があったけど、相当な学力がいると分かっていたから諦めていた。でも、最近の成績を見ると叶うかもしれない。そう思い、進路希望に書いてみた。……当然、母さんには何も言わず……。
『東京の医大?』
先生は進路表を見て驚いていた。
『はい、東京の県立大を受験したいです。この学校は奨学金が手厚くてあまりお金がない家でも通えます。』
『なるほど……、でもお前ならわざわざ東京じゃなくても地元の県立医大で特待生になれると思うけどな……。』
『東京がいいです!』
『……そうか?お母さんは何と言っている?』
『……あ。』
『……お母さんと色々あるだろうが、一回話し合いなさい。』
『……はい。』
その後、母さんに進路について話したらとんでもない事実が分かった……。
『県立大!』
『うん、特待生になって奨学金を受けながら医者になる勉強がしたいから。』
『国立にしなさいと言っていたでしょう?』
『……国立の特待生なんて俺には無理だよ……。もし、普通入学出来ても授業料払えないし……。だから県立大の特待生を考えているんだ。』
『何言ってるの!そんなんだからお父さんみたいになれないのよ!』
『……母さん……。俺は亡くなった父さんじゃないよ……。母さん気付いているよね?俺は父さんみたいに優秀じゃない。だから父さんは俺を息子だと認めな……!』
『うるさい!』
母さんはまた俺を叩く。……まただ……、俺が思い通りにならないからだ……。
『……とにかく東京に行くから……!』
その言葉に母さんは掃除機で俺を何度も叩くが、俺は抵抗もしなければ反撃もしない。……ただ、発言の取り消しもしなかった。
── 俺は十八歳になった……。もう、親の監視下の元にいる必要はない。大学に行きながらバイトして一人暮らしも出来る年齢になったんだ。……もう、母親に怯える小さな子供ではない……。
その日から俺は、東京の県立医大を受験したい主張だけは変えなかった。十八歳になったら自分の人生を決められる、そう思っていた。
……しかし、未成年だった俺は親が承諾していない進路に進む事は出来なかった。十八歳……、自由のようでまだ自由ではなかった……。一人暮らしをしている人も、大学や短大、専門学校、そして就職……。あれは親権者が決めている事だったんだ……。
母さんの主張は、父さんと同じ東京の国立大学の経済学部に入学して、父さんと同じ大学在学中に公認会計士の資格を取得する事だった。
それに対し先生も、国立の特待生は狭き門、しかし県立大の特待生なら俺の学力ならおそらく合格は出来ると母さんを説得してくれたみたいだけど、母さんはそれを拒否していた。
……だから話は進まず、期限が近付いていた。特待生受験の期限が……。
母さんはギリギリでようやく折れた……。
『……分かった、東京の県立受けなさい……。あんたが馬鹿だから国立無理だしね!』
『……うん。』
俺は何も感じない。こんな言葉でいちいち傷付いていたら、俺は今まで生きて来れなかった……。
『……ただ、受けるのは経済学部。』
『……え?どうして?俺は医学部に行きたいのに!』
『医者はなかなか働けないから!』
『その分、あとでしっかり働くよ!』
『……仕送りしてよ。』
『え?』
……その言葉に、俺はある疑問をぶつける事とした。
『……母さん、前から聞きたかったんだけど、どうしてバイト代全て家に入れないといけないの?父さんの遺産あるよね?』
『そんな物もうない……。』
『父さん、かなり残していたはずだよね?だから母さんも働かなくて良いって言って……。私立高の辞退はまさか……、お金が……。』
俺は通帳を見せて欲しいと言った……。
母さんは渋々、通帳を俺に投げつけた。
俺は通帳を見て愕然とした。
『ねえ、この入金なに!どうしてこの人にお金払ってるの?』
『うるさい!このお方はお前に恵を与えて下さっている方だ!馬鹿なお前に知識を授けて下さっている方なんだ!』
……いつから払っていたのかは知らないけど、うちにお金がなかった理由はよく分かった……。俺のバイト代から払っていた事も……。借金があった事も……。
『……分かったよ、とにかくこの人にお金渡すの止めて。そして母さんも働いて……。』
『お母さんは働いた事ないの!』
『……バイトなら出来るよ!俺でもしているんだから!』
『うるさい!お前はお母さんの言う事を聞いていれば……!』
『……分かったよ……、仕送りするから……。経済学部受験するから……、頼むから借金だけは返して!お金渡すのは止めて!俺は母さんの言う通りに生きていくから!』
── 俺は自分の夢を諦めた……。周りが自分の夢に向かって行くなか俺は十八歳で自分の夢を……。そうしないと母さんが何をするか分からないから……。
だから俺は死ぬ気で勉強した。何の為か分からない勉強を……。
── 俺は、俺は、あの先生みたいなお医者さんになりたかったのに……。
東京県立大の特待生枠として受験し受かった。安堵から力が抜けた。これでやっと……、やっと……。
『……川口くん、東京に行くの……?』
佐和子が悲しそうな表情で聞いてきた。……そう、東京に行く事はみんなと離れる事……、十八年育った町を離れる事……。
……分かっていたけど、俺はそれよりも東京に行きたかった……。
こうして高校を卒業する事となる。そこに……。
『川口くん!』
佐和子がやって来た。
『渡辺さん、渡辺さんに出会えて楽しかったよ。ありがとう。元気でね……。』
『う、うん……。』
佐和子はボロボロ涙を流している。感受性が豊かな子。……自分の感情をしっかり出せて羨ましかった……。
『あ、あのね……、私……、私……、川口くんの事……、す、好きなの……。』
佐和子が俯きもじもじとして言った。
『俺も渡辺さんの事好きだよ。』
── 本心だった。
『違う、そうじゃなくて……、だから好き、好き、付き合って下さい……。』
最後は消えそうな声で言い切る。そんな佐和子は頬だけでなく、耳まで紅潮していた。
『……付き合う……?』
『だから、小林くんと綾乃みたいに……。』
『……え?』
── 正直付き合うの意味もよく分からなかった……。二人が付き合っていたのは知っていたが、実際はどうゆう事なのかよく分かっていなかった。……それを、渡辺さんと俺が?……でも、そうしたらこれからも関われるのか?それは……嬉しかった……。
『……うん。』
俺は頷く。
『……え?良いの?』
『これからもメールしたりする事だよね?』
『あ、会いに行って良い?』
『東京に!』
それは新幹線で六時間以上かかる距離だった。
『うん、頑張って働くから……。』
『……うん。』
高校の校門の前で、俺達はこの先について話した。胸に付けた花に、卒業証書。蕾を付けた桜の木々が風に吹かれて揺れていた。
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