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20話 川口佐和子(5)
しおりを挟む佐和子と大輔はお互いを見つめ合う。お互いに答えのない問題に何も言えなくなってしまう。
しばらくし、佐和子が口を開く。
「……大輔さんは?大輔さんはどう思う?」
「……俺?」
大輔はまた黙り込む。……どうしたら良いのか分からないからだ。
大輔は佐和子が座っているカウンター席の隣に座り、佐和子と向き合う。そして本音を話し始める。
「……本当は佐和子ちゃんに全てを話し、許してもらおうと思っていた。あのコメントから分かってると思うけど、嫌がらせをしていたのはウチの常連さんだった……。当然許される事じゃないけど、その子も色々抱えていてどうかしていたんだと思う。凄く後悔していたし、泣いていた……。俺は同情を引く為に泣く女性を何度も見て来たから分かるけど、あれは本当に自身の軽率な行動を悔やんでの涙だった。佐和子ちゃんが心労で痩せてしまったと聞いた時の悲痛の表情も本物だと思っている。あの子には、やり直して欲しいと願っているんだ。だから……。」
大輔は佐和子から目を逸らす。痩せた佐和子を見ていると、また怒りの感情に駆られるからだ。
「……それなのに、どうして訴える話をしたの?」
佐和子は目を逸らした大輔の顔を見ず、正面にある酒のボトルを見ている。
「……許せなかったから……、佐和子ちゃんを……!……あ、いや、アカウント主以外にもコメントをしている四人が居ただろう?あの子達はまだ佐和子ちゃんの電話番号をネット上に晒す可能性がある。アカウント主を訴えるのは、あの四人を黙らせる意味でもあるんだよ。晒したらこちらは法的手段を取る、それを見せつける事が出来るんだ。」
「……ねえ、聞きたいのだけど、あの写真を……投稿?したのは、あの電車で会った人なの?」
「……あ……。……うん、そうだよ……。」
「やっぱり……そうだったんだ……。」
佐和子は両手を額に当て俯く。相手に検討がつかなかったが、最近の身の回りの事を思い出し電車で顔を合わせた女性について思い出していたのだ。……その女性が自分を敵意を持った目で睨んできた事も……。
「……あれからコメントを見直して考えたの。あの人達、私に相当苛ついていただろうな……って。大輔さんは初めて会った時にここはカジュアルバーだと言ってくれていたけど本当は違うんだね……。ごめんなさい、私全然分かってなくて……。」
「それは……、ごめん嘘吐いた俺が悪いんだ!佐和子ちゃんが萎縮して次は来ないと思ったから!」
「……分かってる。違うよ、言いたい事はそうゆう事じゃない。そんな優しさにも気付かず軽く来ていた事が恥ずかしくて……。ごめんなさい……。」
「そんな!うちはそんな硬くやるつもりはないんだ!さ……、誰でも気楽に寄ってくれるような場所にしたくて!」
「……ありがとう……。でも、この場所が好きな人達からしたら嫌だったと思う。……大輔さんの事が好きな人からしたら……。一緒に買い物に行った私に苛ついたと思うの……。」
「……どうして彼女だと分かったの?」
「え?……あ、なんとなく……。」
佐和子は大輔を見て、また目を逸らす。……佐和子は、電車で大輔とえみが一緒の姿を目の当たりにし、あまりにも絵になる姿からその場を立ち去っている。美形の大輔に、釣り合う程の美人の女性。ただでさえ美人なのに化粧や服装にて、より自身を魅力的に着飾っていた。そして彼女が着ていたコートは、自分がお店で試着したコートとおそらく同じ物だと佐和子も気付いていた。自分は13号だったが、おそらく目の前にいる女性のコートは7号……。それをモデルのように着こなし、美しく凛として大輔の横にいる姿に、佐和子は……嫉妬していた……。だからこそ、嫌がらせをしてきたえみの気持ちがなんとなく分かったのだ。
若くて美しいえみに嫉妬する佐和子に、好きな人の素顔を引き出している佐和子に嫉妬するえみ。互いに嫉妬し合っていた事に気付かなかっただろう。
「……あの人達に謝ってほしいの……。大切な居場所の雰囲気を壊してごめんなさい……と。あのバーでの後ろ姿の写真を見て、私が店の品位を壊していたとやっと気付いたの……。私はもうバーには来ない。だから許して欲しいと……。」
「もうここには来ないつもりなの!そこまでしなくても!……いや、そうだよね怖いよね……。ごめん……。でも、煽っていたあの子達に怒ってないの?佐和子ちゃんの事晒そうとまでしたのに……。この先、晒されないかとか怖いよね?」
佐和子は黙り込む。当然ながら怖い。……でも。
「訴えたりはしたくないの……。でも晒されたくもない……。我儘だよね……、でもそれだけは嫌……。」
佐和子は首を横に振る。その気持ちは、大事にしたくないというものではない。相手を訴えるとなると相手の人生も大きく変わる、佐和子もそこらへんの事は分かっている。だから拒否しているのだ。
「本当に良いの?」
「うん、なんとなく意地悪して来た他の理由も分かるから……。私、電車で赤ちゃん見かけて別車両に行こうとしていたじゃない?大輔さんが気付いてくれた通り……辛くて……。正直に言うとね、幸せそうな家族を見ると意地悪したくなる……。勿論しないけど、最低だよね?……だからって訳じゃないんだけど、意地悪したくなる気持ち分かるから……。だから……。」
大輔は立ち上がり、佐和子を見つめる。
「……あ、最低だよね。ごめんなさ……。」
目を逸らした佐和子を大輔は黙って抱きしめる。……大輔は佐和子の子供が欲しい気持ちは正直分からない。しかし佐和子の悲痛な表情を見れば、どれほど悩んできたかは想像出来た。
「……大輔さん……。」
「……俺が佐和子ちゃんを絶対守るから。訴えずにやれる事やってみるよ。」
「本当?」
「うん、だから佐和子ちゃんはもうこの事を忘れて。しっかり食べないとだめだよ。元の健康な君に戻ってくれ……。」
「……うん、ありがとう。……もう大丈夫だから……。」
そう言い大輔からそっと離れる。
「……あ、ごめん。」
「ううん、ありがとう……。」
大輔は椅子に座り佐和子から離れる。その後も二人は目を合わさず、しばらく黙り込む。
「あ、そうだ!」
佐和子はわざとらしく大きい声を出して沈黙を破り、そして持って来た鞄からある袋を出す。
「これ、あの日貸してくれたコートとマフラー。本当にありがとう。……風邪引かなかった?」
「別に良かったのに……。ありがとう。」
「ううん、あの日は本当にごめんなさい。助けてくれてありがとう。」
「お礼を言ってもらう事なんてないよ。……俺のせいだったんだから。」
「違う、私のせいだった……。大輔さんは気を付けるように再三言ってくれていたのに……。」
「そんな事……。」
お互いにまた黙り込む。別れが近いからだ。
佐和子はジュースを無理矢理飲み込み、大輔に告げる。
「……あ、私そろそろ……。」
佐和子は椅子から立ちあがろうとする。
「待って。まだ話したい事がある。SNSについてなんだけど、もう削除した方が良いよ。また変な事に巻き込まれたら大変だから。」
「……うん、そうだよね。もう変な事になったら怖いし、見たい写真もないから……。」
佐和子の目は哀愁に満ちている。大輔が予想した通りSNSのおすすめ写真を見ており、幸せそうな写真に心が折れていた。佐和子は盗撮写真の投稿以外にも、SNSを止めたい理由はあったのだ。
「消そう。合う人、合わない人がいるんだよ。……って俺が勧めたんだけど。ごめん、軽率だった。責任持って消させて欲しい。」
「お願いして良い?」
佐和子はパスポートを解除し、大輔にスマホを渡す。渡された大輔はアカウント削除を行い、SNSアプリをアンインストールする。そしてえみをメッセージアプリ上でブロックしようとするが、ある考えから手を止める。
大輔は作業が終わり佐和子にスマホを返す。佐和子のその顔はどこか清々しい表情をしていた。もう嫌がらせのメッセージに怯える事も、他人の幸せも見なくて済む。佐和子はSNSには向いていない方だった。
「じゃあ私……、そろそろ……。」
佐和子はまた立ち上がろうとする。
「あ!……あ。あのさ。」
「何?」
「いや……。」
大輔は何かを話そうと、佐和子が持って来てくれたコートとマフラーを見る。綺麗に畳まれたコートにマフラー、しかし佐和子は不器用でこんなに綺麗に畳めないと気付く。畳んでくれたのはおそらく……。
「ねえ、旦那さんこのコートとマフラーを見て何か言っていなかった?」
「え?……うん、何も……。」
「何も?本当に?」
「うん、何も……。」
大輔は、佐和子の夫が何故何も言ってこないのか考える。普通、妻が知らない男物のコートとマフラーを身につけていれば問い詰めるだろう。しかし、佐和子の夫はそれをしない。本当に何を考えているのか分からない。そんな夫と一緒に居る佐和子が不安になるのも当然の事だと思う。
「……これから旦那さんとの関係はどうするの?『偽装不倫』は一人でやっていける?」
「『偽装不倫』はもうしないよ。……今回の事は人の心を試そうとしたから天罰が落ちたのだと思ってる。だから、もうしない。」
「提案したのは俺だよ!佐和子ちゃんが悪い訳ないだろう!」
「ううん、私が……。だからもうしない。」
「じゃあこれからずっとあの旦那さんと一緒に暮らすの?不安な気持ち抱えて?」
「うん。今までもそうだったから今更……。」
佐和子の表情は悲壮感に満ちている。だから余計に痛々しい……。
「……どうして?どうしてそんな人と一緒に居るの?料理も服も髪型も褒めてくれなくて、心配もしてくれなくて、佐和子ちゃんの事こんなに不安にさせているのに、どうして一緒にいるの?」
大輔の彼女達は、大輔に不満を持つとすぐ去っていった。しかし佐和子は不満を持ちながら圭介の側にずっと居る。勿論、交際と結婚では話は違うが、今まで簡単に付き合い別れる経験をしている大輔からしたら、なぜ佐和子は一人の側にずっと居る事が出来るのか理解出来なかった。
「……本当にそうだよね。でも私は圭介が好きなの……。」
「どうして?佐和子ちゃんを大事にしていないのに?」
「穏やかで、優しくて、笑顔が大好きなの。」
「……本当に優しい人はもっと気遣ってくれて、労ってくれる人だよ。」
「圭介は優しい人だよ。」
「……あ、そうだよね。ごめん。」
「ううん、ごめんなさい……。馬鹿だよね……、分かってる……。」
お互いにまた黙り込む。大輔が初めて佐和子の夫を否定した。今まではバーのマスターとして、友人として話を聞き夫を肯定し、佐和子が夫と仲良くやっていけるようにしていた。しかし今は違う……。
「佐和子ちゃん、俺は君の事全然分かっていないと思う。だから良かったら話してくれないかな?……旦那さんとの出会いとか、どのように付き合い結婚したのか、佐和子ちゃんが旦那さんに愛されているか不安に感じている事も、子供の事で悩んでいるのを旦那さんは知っているのか、話してくれないかな?こうやって話せるのも最後だし、話聞きたいな。俺はいつも結婚してからの話しか聞いていないから、夫婦としての背景を何も知らないと思う。だから知りたい……、話してくれないかな?」
「……うん。」
佐和子は椅子に座る。
そう、大輔は「結婚してからの佐和子と夫の関係」しか知らない。夫は仕事ばかりで構ってくれない、「うん」と「ごめん」しか基本言わない、結婚記念日を忘れている、誠実で硬派な性格の銀行員。佐和子はそれを淋しいと感じている。それだけなのだ。しかし、どんな夫婦にも歴史はある。付き合い、結婚、夫婦生活からの今がある。だから大輔は、何故夫は妻にここまで淋しい思いをさせているのか、妻は何故ここまで夫を愛しているのかを知りたいのだ。
大輔はグラスを新たに二つ出し、先程買って来たミルクティーをコップに注ぐ。いつもはカクテルだが、佐和子の体調を考え酒は控える。
「乾杯。」
大輔は、佐和子に用意したグラスと自分のグラスを軽く当てミルクティーを飲む。……正直、甘い物は好きではないが佐和子に飲ませる為に飲み干し、余ったいちごパンを食べて見せる。
佐和子もミルクティーを飲み、パンも少し口に入れる。大輔が助けてくれた事により胸に詰まっていたものが取れ、やっと食べ物が飲み込めるようになった。
「……ふわふわしてて甘い……。美味しい……。」
……やっと食べ物の味が分かるようになった。この十日間、何を口にしても味なんかせず飲み込む事が出来なかった。せっかく圭介が作ってくれたお粥の出汁も塩も卵の味も風味も分からず、ただ食べさせてもらうだけだった。でも、やっと。やっと体がいつも通り機能し始めてくれた。
佐和子は安堵の溜息を吐き、ゆっくりパンを食べる。
「これも食べて。」
大輔はプリンを渡し、佐和子は口に入れる。口いっぱいに広がる甘さと柔らかい食感。佐和子の心に平穏が戻ってきた証だった……。
しかし大きな問題は解決したが、まだ問題は残っている。「今後の夫との関係」についてだ。
「……確か、旦那さんとは遠距離だったと言っていたよね。だけどいつ頃、どのように知り合ったとか聞いた事ないから話してくれない?」
「そういえば話した事なかったかも。」
「ごめん、いつも聞こうとしたら……女性のお客さん来て帰ってもらってばかりだったから……。」
「……あ、そっか……。」
佐和子はミルクティーを一口飲み、小さな溜息を吐く。
「……圭介とは同じ地元の同級生で、出会いは高校一年の時の文化祭だったの……。」
佐和子は鞄に付いているケータイストラップを大輔に見せ、二人の馴れ初めについて話し始める。
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