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9話 偽装のデート(2)
しおりを挟むしばらくし佐和子がポツリと呟く。
「……ごめんなさい……、もう大丈夫。」
「本当に?」
「うん、ごめんなさい。寒かったよね?」
佐和子はコートを返す。
「帰ろう、具合悪いんだろう?」
「違うの。もう大丈夫だから。」
「だめだよ、家に帰って休もう。また元気になってからで良いじゃないか。」
「……やだ、一人にしないで……。」
佐和子はマスターの手を握る。その手は何かに恐怖を感じていると分かる。
「……分かったよ、本当に大丈夫?」
「うん。」
佐和子はマスターの手を強く握る。
二人は電車に乗り、待ち合わせをしていた駅に向かう。佐和子は先程と違い、少しずつ表情が緩やかになっている。
マスターは何があったのか聞きたいが聞かない。ただ佐和子の手を優しく握っており、佐和子は電車からの景色をただぼんやりと見ている。
10分程経ち待ち合わせだった駅に着く。電車を降り、改札を出た所で佐和子はいつも通りの表情に戻っている。
「……もう大丈夫!ありがとう。」
佐和子はマスターから手を離す。
「……そう?じゃあ行こうか?」
佐和子はマスターに着いていく。5分ぐらいで着いたのは百貨店だった。
「……え?ここ?」
「来たことある?」
「一度だけ。」
「……そう……。じゃあ行こう。」
「待って!ショッピングセンターとかじゃないの?」
「うん、だからここまで来たんだよ。」
「いや、でも……。」
「さあ、行くよ。」
マスターは佐和子の手を引き、二人は百貨店に入って行く。
「ちょっと、分かったから手を離してよ!」
「逃げない?」
「うん、だから……。」
「分かったよ。」
マスターは佐和子の手を離す。佐和子は俯き、少し頬を赤らめていた。
「……まずは化粧品だね。」
「どうせ化粧が濃いですよーだ。」
さっきまでとは違い、話し方が戻って来ている。佐和子は完全に落ち着いたようだ。
「だからごめんって。お詫びでもあるんだよ。」
「結構でーす。」
「普段どこの化粧品使ってるの?」
佐和子は答える。誰もが知っている化粧品メーカーだった。
「じゃあ行こう。」
「だから行かないって!」
マスターは佐和子の背中を無理矢理押し、化粧品売り場に連れて行く。
…
佐和子は唖然とする。化粧水乳液のセット100mlで1万越している商品が多数あったからだ。その他にも、ファンデーション少量で5000円、アイシャドウ少量で4000円、チーク少量で3000円、口紅だけで7000円、佐和子の頭はクラクラする。
それはそのはず、佐和子は普段は化粧水乳液で150ccで3000円、ファンデーション2000円、アイシャドウ1000円、チーク1000円、口紅1500円ぐらいの商品を購入しているからだ。
今来ている店はいつも愛用している化粧品と同じブランドだが、金額の差が大きくあるブランドだ。佐和子が普段買っているのは薬局やショッピングセンターなどの安値で売られている化粧品であり、百貨店で売っているのは新作の高級ブランドばかり。その事を知らないと金額に驚いてしまうのだ。
「これなんて良いんじゃないの?」
マスターはポーチに入っているファンデーションとリキッドのセットを指さす。
(1万円ー!!たったこんだけで?何ヶ月持つのこれ?)
佐和子の心は混濁しているが顔には出さない事を心がける。
「うーん、他のが良いな……。」
だめだ、目の前にある高すぎるブランドに思わず顔が引きつる。
「そう?じゃあこれは?アイシャドウと口紅変えるとイメージ変わるっていうし。」
マスターはピンクのアイシャドウと口紅を指差す。
(また1万!!こんなの3000円で買えるのに?)
佐和子は黙り込み、なんて断ろうか悩む。すると……。
「いらっしゃいませ。」
販売員がマスターと佐和子の元に来る。
「あ、いえ、その!」
「丁度良かった!すみません、彼女に合う化粧品を選んでもらえませんか?」
佐和子は思わず口をあんぐりさせる。選んでもらっても購入出来ないからだ。
「かしこまりました。ではこちらへ。」
「あ、その、すみません、また来ます!」
佐和子は頭を下げ、マスターの腕を掴み走って逃げる。
「佐和子ちゃんどうしたの?」
「……あ、えーと、化粧品持ってるから!」
「でも、一度相談した方が良いよ。」
「うん、でも、まずは色々見たいし。」
「あ、そっか。」
佐和子は安堵する。とにかく高い化粧品は回避出来た。その後は適当に見歩き化粧品を忘れさせる作戦でいこうと頭の中で思考する。
「……今日はこないだみたいな格好じゃないんだね?」
良かった、話が逸れた。
「……あ、うん。さすがに若作りし過ぎかなって……。」
話が逸れ安堵していたが、佐和子は誹謗中傷を思い出し表情を険しくする。
「え?可愛かったのに?」
「私、もう33だよ。さすがに……ね。」
「いや、でも……。……じゃあ、これからの佐和子ちゃんの服を買いに行こう。」
マスターはまた佐和子の手を握り、無理矢理連れて行く。
「え?いや、ちょっと!どこ行くの?」
マスターは答えずに佐和子をある店に連れて行く。そこは、よく聞くブランドの名前だった。
「ほら、このコートなんてどう?」
マスターはブラウンのロングコートを指差す。手やフードにファーが付いておりフワフワしている。こないだ佐和子が着ていたコートに似ているが30代向けの大人のデザインだった。
「可愛い……。」
佐和子は見惚れる。その姿にマスターは店員に声をかける。
「すみません試着していいですか?」
「はい、勿論。」
「え!」
佐和子は戸惑いつつ試着させてもらう。生地は滑らかで肌触りが良く、凄く暖かい。初めてこんな良い物に触れた。
佐和子は見た目の可愛さと肌触りの良さから多少高くても購入しようと決める。さりげなく値札を見て思考を巡らす。
(1万円かぁ、お小遣いでなんとかなるよね……。)
実は川口家はお小遣い制であり、圭介だけでなく佐和子もだった。圭介は3万、佐和子は1万。そのお金で佐和子はお菓子やジュースや電子書籍など嗜好品や娯楽を楽しんでいた。ただ、化粧品や美容院代は家庭のお金としている。圭介は外での付き合いがある事から3万と決めたのは佐和子で当然納得している。
「すみません、これ……。」
「ください」と言いかけ佐和子は気付く。
(あれ?1万円って「0」がいくつあるんだっけ?「1000円」で「0」が3つ、「1万円」が「0」で4つ……。)
佐和子は一気に血の気が引き青ざめる。
「いかがですか?」
「あー、えっとー。」
佐和子はどう断ろうか考える。
「これ下さい。」
マスターが勝手に間に入る。佐和子はその瞬間にマスターを見る。
(ちょっと待ったー!!これ1万じゃなくて10万よ!10万!10万!私のお小遣い10ヶ月分よー!我が家の食費の2ヶ月半よ!明日からもやし生活になるー!!)
主婦の悲痛な叫びだった。
……ちなみに今着ているダウンジャケットは4900円である。
「す、すみません、検討します!」
気の利いた断りの言葉など考えられず、佐和子はマスターの腕を掴み逃げる。
「どうしたの?知り合い?」
マスターは佐和子の考えが分からないようだ。
「いや、えーと。ほら、別のが見たいな。」
「あ、そっか。今からコート買ってもあまり使えないもんね。じゃあ春服を買おう。」
マスターはそう言い、佐和子をまた有名ブランドの店に連れて行く。清楚な白くて薄いセーターにカーデガン、淡いピンクのスカート、それに合うヒールの靴をマスターは見立ていく。
「……あ、可愛い……、じゃなくて……。」
値札をさりげなく見ようとする。
「いらっしゃいませ。」
店員が出てくる。
「すみません、試着お願いします。」
「いや、その……!」
「はい、こちらへ。」
佐和子はまた青ざめる。完全に断るタイミングを見誤ってしまったようだ。値段次第では試着せずに断らないと……。分かっているが、目の前にある服の魅力に胸がときめき抗えなかった。それは佐和子が女性だったからだろう。鏡に写る自身の姿に心拍数が上昇する。
「佐和子ちゃん?」
「あ、うん。」
佐和子は試着室のカーテンを開ける。なかなか似合っており、清楚な30代といった感じだ。先程試着していたコートと合わせれば、より似合うだろう。
マスターは、また瞬きを忘れじっと見ている。
「あ、着替えてくるね!」
佐和子は恥ずかしくなり試着室のカーテンを閉める。そして、服を脱いでいる中で値札が見えて佐和子の背筋が凍る。
白いセーター2万5000円、カーデガン2万3000円、スカート3万8000円、ヒールの靴4万2000円だった……。
(トータル、12万8000円!お小遣い1年分!どこのセレブの服なのー!)
さすが主婦、算数は苦手だがお金が絡んだ計算だけは早い。ちなみに今佐和子が着ている服のトータルは、ジャンパーを抜いて1万円以内である。
現実に戻された佐和子は試着室から出てくる。
「あの……、すみません……。」
佐和子は申し訳なさそうに断ろうとする。
「これ下さい。」
マスターがまた間に入ってくる。
(はぁー!!12万8000円よー!!もやし生活どころか1日1食生活になるわー!!)
「ありがとうございま……。」
「す、すみません。本当にすみません!」
佐和子は服を返して何度も頭を下げ、またマスターの腕を掴み足早に逃げる。
「佐和子ちゃんどうしたの?」
「……ごめんなさい、連れて来てもらった時に言わないといけなかった……。実は……、その……、持ち合わせそんなになくて……。だからごめんなさい!」
佐和子は謝る。
「……え?」
マスターは奇怪な表情をする。
「……あ、そうよね……。普通もっと持ってくるよね……。」
佐和子は俯く。
「……あ、いや。エスコートすると言っていただろう?」
「うん……。ショッピングセンターだと思ってたから、服とかカジュアルだし、お金もそんなに持って来てなくて……、ごめんなさい……。」
佐和子の服装は安物のダウンジャケットにジーパン、黒いシューズだった。それに比べ、マスターは高級そうなジャケットにズボン、そして革靴を履いていた。ブランドに詳しくない佐和子だが、上質だと見て取れる。
「いや、百貨店だし服装なんて気にしなくていいよ。」
「……でも高級な物が多いし……。私には釣り合わなくて……。」
佐和子は大輔のしっかりとした服を見て、また俯く。
「だったら釣り合うような服を買おう。あの服を買おう。」
マスターは佐和子の手を引く。
「待って!だから私12万8000円なんて持って来ていないの……。だから……。」
佐和子は慌てて手を離す。
「……え?」
「え?」
マスターはまた佐和子を奇怪な目で見る。
「だからエスコートすると言っていたのに。俺が買うに決まっているだろう?」
「はぁ?マスターが?意味分かんないんだけど!」
マスターはしばらく考え、佐和子がそうゆう事に慣れていないと気付く。
「……あ、ごめん。俺の中でエスコートは店に連れて行ってプレゼントする事だったんだ。」
「いやいやいや!だから意味分かんない!何でマスターがプレゼントしてくれるの?」
「……不倫相手……だろう?」
「『偽装』でしょう!」
「……旦那さん、佐和子ちゃんがブランドの服着ていたらさすがに気付くよ……。」
「……え?」
その説明には無理がある。佐和子の夫の圭介は妻が髪を切ろうが、服を変えようが反応しなかった。ブランド服に変えた所で本当に気付くのか疑問だった。
マスターは佐和子の手を握り、先程の服を買おうと話す。
「ありがとう!でもいらない!」
「どうして?」
「だから……、その……。」
佐和子は黙り込む。その表情から佐和子を困らせているとマスターは気付く。
「……あ、うん。ごめん。」
「あ、ううん。ごめんなさい。」
二人は顔を見合わせ黙る。
「じゃあショッピングセンターに行こうか?」
「ごめんなさい……。」
「いや、こっちこそ先走ってしまったよ。」
マスターは握っていた佐和子の手を慌てて離し、スマホのアプリでショッピングセンターを検索する。徒歩10分の場所に立地されている事を調べ百貨店を出ようとする。
二人は並んで歩き出口に向かう。しかし佐和子は急に立ち止まり、あるジュエリーショップをじっと見ている。その目はどこか儚げな表情をしていた。
マスターは佐和子の様子から、ある事に気付く。
「ほら、行くよ。」
また佐和子の手を握り、百貨店を後にする。
「マスター、歩くよ!マスター!」
佐和子はマスターの手を離そうとするが、マスターは力強く握っており離さない。
「……大輔だから……。」
「え?」
「俺の名前はマスターじゃない、大輔だから……。」
マスターは佐和子の手を引き歩いて行く。
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