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序章 不倫の偽装
しおりを挟む「もういい!」
女性は仕事から帰って来たばかりの夫を置いて、コートと鞄を抱えアパートを飛び出す。
女性の名前は『川口佐和子』。結婚7年目になったばかりの33歳。怒りながら行きつけのある場所に向かい、ドアを開けるなり一言叫ぶ。
「マスター、いつもの!」
「……佐和子ちゃん……、はいはい。」
ここは東京に立地されている、小さなバー。マスターと呼ばれる男性は「いつもの」と呼ばれるカクテルを佐和子に出す。今日バーに現れた事から、佐和子の気持ちの憤りを察しているようだ。
佐和子は客がいない事を確認し、カウンター席に座る。
「圭介のバカ!」
「はいはい。」
マスターは佐和子のいつものカクテルを出す。
「もう帰らないんだから……。」
「だめだよ、旦那さん心配するから。」
佐和子はカクテルを一気に飲む。
「心配なんてしない!」
「そんな事ないよ。」
マスターは相槌を打ちながら、しかし佐和子の良い方向に助言する。
「マスター、私と不倫して!」
「……もう酔ったの?」
マスターは苦笑いしながら佐和子に水を出す。
「水じゃなくてお酒!もう一杯!」
「頭冷やしなさい。」
マスターは佐和子から離れる。佐和子が夫を心から愛している事を知っているからこその行動だろう。
「今日は特別な日だからね。荒れる気持ち分かるよ。」
佐和子はマスターの言葉に黙り込む。……水を飲みながらボロボロ泣き始める。
「旦那さん、仕事だろう?仕方がないよ。」
「でも約束した!結婚記念日は早く帰って来るって!それなのに……。」
「一ヶ月前にだろう?」
「それは分かってる!でも……!」
佐和子は黙り込む。グラスを傾け、水を飲み干し溜息を吐く。
「……私が許せないのは今日の約束を忘れていたこと……。去年も一昨年も仕事だったけど、覚えてくれていた、謝ってくれていた!それなのに今日はそれすら忘れていた!もういい、離婚する!」
言葉に反し大粒の涙を流す。好きだから離婚したくない……、その気持ちが全面に溢れている。
「……本当に離婚して良いの?」
マスターは佐和子の気持ちを試すように軽く聞く。おそらく佐和子の離婚宣言など信じていないのだろう。
「良いの!」
佐和子は無理に叫ぶ。
……その姿を見たマスターは小さな溜息を吐き、佐和子に優しく話しかける。
「……分かった、俺は佐和子ちゃんを応援するよ。本気で離婚を覚悟しているなら、捨て身で不倫したら良いよ。」
佐和子は顔を上げ、マスターを見る。
「……不倫してくれるの?」
「しない、旦那が好きな女性に手を出して何が楽しいの?」
佐和子はその言葉にまた俯く。また涙が溢れてきたのだ。
「だって不倫したら良いって!私にはマスターしかいない!だからお願い!」
佐和子はマスターの手を握り頼み込む。
── マスターはその姿に、黙って佐和子の左手薬指の結婚指輪を外す。
「……え?」
佐和子はまた顔を上げ、マスターを見る。
「指輪は預かった。これで俺は君の『不倫相手』だ。」
「……意味分からないんだけど……。」
佐和子の涙は引っ込み呆然としている。
「俺は君と不倫はしない。しかし旦那さんからしたらどうだろう?夜な夜な行き先も告げずに出て行く妻。しかも最近やたら化粧をし、服装や髪型が変わり色気がある。しかも結婚指輪まで外していたら流石に『不倫』を疑うだろう?嫉妬して旦那さんはどうなるタイプだと思う?」
佐和子は黙り込む。嫉妬なんてされた事なく想像出来ない。
「じゃあ佐和子ちゃんは旦那さんが同じ事をしていたらどうする?」
「……離婚する……。」
佐和子は涙を流し呟く。
「不倫じゃなくても?」
「不倫に決まっているじゃない!」
佐和子はまたボロボロと涙を流す。
その姿にマスターは頷く。
「……そう、佐和子ちゃんみたいな性格の子は不倫を疑い、事実を調べず離婚を考える。向き合うのは傷付くからね……。しかしね、全てが君みたいな人ばかりじゃない。失うかもしれないと気付き、慌てて関係の修復を考える人も居る。君の旦那さんはどんなタイプかな?」
「……分からない……。」
佐和子は、大好きな夫が不倫を疑った時どうなるのかが想像出来ないのだ。怒りから離婚だと騒ぐ?自分を殴る?家を追い出す?それとも……。
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佐和子は俯き涙を流す。
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