[完結] 偽装不倫

野々 さくら

文字の大きさ
上 下
1 / 50

序章 不倫の偽装

しおりを挟む


「もういい!」

女性は仕事から帰って来たばかりの夫を置いて、コートと鞄を抱えアパートを飛び出す。


女性の名前は『川口佐和子』。結婚7年目になったばかりの33歳。怒りながら行きつけのある場所に向かい、ドアを開けるなり一言叫ぶ。


「マスター、いつもの!」


「……佐和子ちゃん……、はいはい。」


ここは東京に立地されている、小さなバー。マスターと呼ばれる男性は「いつもの」と呼ばれるカクテルを佐和子に出す。今日バーに現れた事から、佐和子の気持ちの憤りを察しているようだ。

佐和子は客がいない事を確認し、カウンター席に座る。


「圭介のバカ!」

「はいはい。」

マスターは佐和子のいつものカクテルを出す。


「もう帰らないんだから……。」

「だめだよ、旦那さん心配するから。」

佐和子はカクテルを一気に飲む。


「心配なんてしない!」

「そんな事ないよ。」


マスターは相槌を打ちながら、しかし佐和子の良い方向に助言する。


「マスター、私と不倫して!」

「……もう酔ったの?」

マスターは苦笑いしながら佐和子に水を出す。


「水じゃなくてお酒!もう一杯!」

「頭冷やしなさい。」


マスターは佐和子から離れる。佐和子が夫を心から愛している事を知っているからこその行動だろう。


「今日は特別な日だからね。荒れる気持ち分かるよ。」


佐和子はマスターの言葉に黙り込む。……水を飲みながらボロボロ泣き始める。


「旦那さん、仕事だろう?仕方がないよ。」

「でも約束した!結婚記念日は早く帰って来るって!それなのに……。」


「一ヶ月前にだろう?」

「それは分かってる!でも……!」

佐和子は黙り込む。グラスを傾け、水を飲み干し溜息を吐く。


「……私が許せないのは今日の約束を忘れていたこと……。去年も一昨年も仕事だったけど、覚えてくれていた、謝ってくれていた!それなのに今日はそれすら忘れていた!もういい、離婚する!」

言葉に反し大粒の涙を流す。好きだから離婚したくない……、その気持ちが全面に溢れている。


「……本当に離婚して良いの?」

マスターは佐和子の気持ちを試すように軽く聞く。おそらく佐和子の離婚宣言など信じていないのだろう。


「良いの!」

佐和子は無理に叫ぶ。

……その姿を見たマスターは小さな溜息を吐き、佐和子に優しく話しかける。



「……分かった、俺は佐和子ちゃんを応援するよ。本気で離婚を覚悟しているなら、捨て身で不倫したら良いよ。」


佐和子は顔を上げ、マスターを見る。


「……不倫してくれるの?」

「しない、旦那が好きな女性に手を出して何が楽しいの?」


佐和子はその言葉にまた俯く。また涙が溢れてきたのだ。


「だって不倫したら良いって!私にはマスターしかいない!だからお願い!」

佐和子はマスターの手を握り頼み込む。


── マスターはその姿に、黙って佐和子の左手薬指の結婚指輪を外す。


「……え?」

佐和子はまた顔を上げ、マスターを見る。


「指輪は預かった。これで俺は君の『不倫相手』だ。」

「……意味分からないんだけど……。」

佐和子の涙は引っ込み呆然としている。


「俺は君と不倫はしない。しかし旦那さんからしたらどうだろう?夜な夜な行き先も告げずに出て行く妻。しかも最近やたら化粧をし、服装や髪型が変わり色気がある。しかも結婚指輪まで外していたら流石に『不倫』を疑うだろう?嫉妬して旦那さんはどうなるタイプだと思う?」


佐和子は黙り込む。嫉妬なんてされた事なく想像出来ない。

「じゃあ佐和子ちゃんは旦那さんが同じ事をしていたらどうする?」


「……離婚する……。」

佐和子は涙を流し呟く。


「不倫じゃなくても?」

「不倫に決まっているじゃない!」

佐和子はまたボロボロと涙を流す。


その姿にマスターは頷く。

「……そう、佐和子ちゃんみたいな性格の子は不倫を疑い、事実を調べず離婚を考える。向き合うのは傷付くからね……。しかしね、全てが君みたいな人ばかりじゃない。失うかもしれないと気付き、慌てて関係の修復を考える人も居る。君の旦那さんはどんなタイプかな?」


「……分からない……。」

佐和子は、大好きな夫が不倫を疑った時どうなるのかが想像出来ないのだ。怒りから離婚だと騒ぐ?自分を殴る?家を追い出す?それとも……。

佐和子の中で一番残酷な想像がつく。違うと否定したいが、いつもの夫の様子からそうなってもおかしくないと悟る。


「やだ!分からない!分からないよー!」

佐和子は俯き涙を流す。

そんな佐和子にマスターはハンカチを渡す。


「……分からないなら試せば良いよ。当て付け不倫ではなく、『偽装不倫』で……。」

佐和子はハンカチで涙を拭き、マスターを見つめ一言呟く。


「マスター、不倫相手になってくれる?」

「『偽装』のね。……旦那さんに殴られる覚悟は出来ているよ。」



夫の事が大好きな妻は自身への愛を確かめる為に危険な『偽装不倫』を企てる。下手したら離婚問題に発展するかもしれない人生最大の賭けに出る。


夫は、妻が不倫しているかもしれないと気付いた時どのような反応をするのか?

一組の夫婦と、それを協力する男の物語が今始まる。











しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛のかたち

凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。 ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は…… 情けない男の不器用な愛。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

じれったい夜の残像

ペコかな
恋愛
キャリアウーマンの美咲は、日々の忙しさに追われながらも、 ふとした瞬間に孤独を感じることが増えていた。 そんな彼女の前に、昔の恋人であり今は経営者として成功している涼介が突然現れる。 再会した涼介は、冷たく離れていったかつての面影とは違い、成熟しながらも情熱的な姿勢で美咲に接する。 再燃する恋心と、互いに抱える過去の傷が交錯する中で、 美咲は「じれったい」感情に翻弄される。

幼馴染以上恋人未満 〜お試し交際始めてみました〜

鳴宮鶉子
恋愛
婚約破棄され傷心してる理愛の前に現れたハイスペックな幼馴染。『俺とお試し交際してみないか?』

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

クリスマスに咲くバラ

篠原怜
恋愛
亜美は29歳。クリスマスを目前にしてファッションモデルの仕事を引退した。亜美には貴大という婚約者がいるのだが今のところ結婚はの予定はない。彼は実業家の御曹司で、年下だけど頼りになる人。だけど亜美には結婚に踏み切れない複雑な事情があって……。■2012年に著者のサイトで公開したものの再掲です。

crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

社長から逃げろっ

鳴宮鶉子
恋愛
社長から逃げろっ

処理中です...