赤信号が変わるまで

いちどめし

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最終話

呼びかけてくれたなら②

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「こんにちは、幽霊さん」

 降りて来た彼氏さんは自動販売機の前に立つと、わたしが姿を現す前からそうつぶやいた。
 何度も目にしたことのある光景だ。
 違うのは、挨拶が「こんばんは」ではないことくらい。

 反射的に姿を現しそうになるのを、目の前の少女を見て思い留まった。
 この子は彼氏さんのことを快く思ってはいないのだろうし、わたしが彼氏さんと馴れ合うことを歓迎していないのは明白だ。
 そんな彼女の前で嬉々として姿を現すことには、罪悪感に近い、逆らい難い抵抗を感じてしまう。

 わたしが姿を見せないせいだろう。
 彼氏さんは気落ちしたように軽く息をつくと、苦々しくも穏やかな笑みを浮かべながら自動販売機に小銭を投入した。

「会わないの?」

 小さな声。
 大きな瞳が、見慣れない表情をして揺れている。

「会っても、いいの?」

 微笑みかけられて、少女は目を伏せた。
 意図したものではなかったにしろ、彼女にイエス、ノーの返答を求めるのは少し酷だったかも知れない。
 返事のないまま、ついには背を向けられてしまったので、わたしは仕方なしに彼氏さんの方へ目をやった。
 彼は、受け取り口からオレンジジュースの缶を取り出したところだった。

 出て来たばかりの缶は、そのまま封が開けられることもなく、さながらお供え物のようにーー実際に、それはお供え物のつもりなのだろうーー自動販売機の脇に置かれてしまう。
 誰のために缶を置いたのか、だなんて、考えるまでもない。

 自動販売機と、彼氏さんと、オレンジジュース。
 物足りない。
 この光景の中には、わたしの姿がない。
 じわじわと欲求が高まっていく。
 もう、姿を現してしまおうか。
 少女のことが気になるとはいえ会うなと言われたわけではないのだし、彼氏さんも、わたしの登場を心待ちにしているはずだ。

「あたし、ね」

 意を決して、という表現が似合いそうな呼びかけかただった。
 振り返ると、もはや悪霊と呼ぶにはあまりにもいたいけな印象を持った少女が、足元に視線を落としたまま、艶のないアスファルトに靴の裏をぐりぐりとにじりつけている。

「あたし、おねえちゃんが楽しそうにしてる方が、嬉しいよ」

 大きな目がちらりとこちらに向けられ、すぐに地面へと逃げてしまう。

 自動販売機の前の彼氏さんは、わたしが近くにいることなど知る由もないといった様子で、仏前に立っているかのごとく粛々と自身の近況を報告していた。
 恋人との仲はうまくいきましたよ、という内容だった。
 内心に安堵を膨らませながら、少女の言葉を待つことにする。

「だからーーいいよ、会っても」

 吐き捨てるように言い放ったのは、彼女なりに意地を張ってみせたのだということなのだろう。
 何と言い返してあげようかと考えているうちに、少女は大股で近寄って来て、その表情を確認するよりも前にわたしとほぼ密接するかたちになった。

「今まで、ずっと、ずっと、ごめんね」

 今更の、初めての、どの出来事について謝っているのかも分からない謝罪。
 彼女のしてきたことの中には、「ごめんね」という言葉なんかで済ませることのできないものもはっきりと存在している。

 だけど、
 そんな一切合財を抜きにして、左右に結われた髪が何かを堪えるようにして震えている様は、愛おしかった。

 普段よりもさらに小さく見える頭にぽん、と触れて、わたしは一歩引きながら膝を曲げる。
 中腰になったわたしを真っ直ぐに見据え、少女は薄い唇をきゅっと噛んだ。
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