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第六話
静色の花束③
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何が起こっているのか、分からない。
もちろん、彼氏さんは先のわたしの意地悪な質問に答えているだけに過ぎないのだろう。
それだけに、わたしは自分が彼の言葉にたじろいでいる理由が分からなかった。
「幽霊さんのことを幽霊だとしか思えなかったら、こんなもの、花束なんて、渡しませんよ」
打って変わって、彼氏さんの声は穏やかなものになる。
悪霊退治を提案した時の、興奮気味な態度に似ていた。
それで、わたしは彼の言葉に一片の偽りもないことを悟った。
花束を抱く腕に力が入る。
じきに来るであろう言葉に身構えたためだった。
「その花束はお供えなんかじゃない。プレゼントですよ。幽霊さんへの」
わたしの心境を知ってか知らずか、彼氏さんは悠然として言葉を紡ぎ続ける。
おかしなものだな、と思う。
さっきまでは得られずに落胆していたはずなのに、今度は目の前にあるその言葉を恐れているのだから。
「つまり、そういうわけですよ。僕は、幽霊さん、あなたのことが、どうしようもなく、女性として気になるんです」
風情も何もなく彼氏さんが言い切ってしまったからなのだろうか。
身構えていた割には、その言葉がわたしを強く揺さぶることはなかった。
彼氏さんの必死な想いを一身に受けながらも残酷なほどに落ち着き払っている自分に気づき、どうしようもなく悲しくなる。
両腕で抱えていた花束を片手に持ち替え、空いた右手をこめかみに添えた。
もしも、花束を受け取る前にこの言葉を聞いていたら、わたしは何と答えただろう。
どんなに心が震えただろう。
もしもそうなっていたら、どんなに嬉しかっただろう。
一度喪失感を味わったからこそ、どちらの道が正しいのか、分かってしまった。
正しい答えを知ってからでは、誤答に身を委ねることなどできるわけもなかった。
震える指先が、体温のない額に触れる。
この、夢から醒めた幽霊が、わたしだ。
熱のこもった彼氏さんの目。
愛おしい。
彼の額は、わたしのと違って温かいのだろう。
花束の香りを吸い込んでから、震えの治まった手を自動販売機の光の中に振り上げた。
頬を張る高い音が、冗長に響きながら寂しげな闇の中へ溶けていく。
わたしの手のひらには、彼氏さんの体温が微かに残っていた。
「そんなの、だめですよ。カノジョさんは、どうするんですか」
彼氏さんは頬を打たれた格好のまま、顔を斜め右に向けながら虚空を見つめている。
「それに……目を覚ましてくださいよ。わたしはーー」
わたしは、幽霊なんですよ。
最後の言葉が、彼氏さんの耳に届いていたのかは分からない。
わたしはそれだけ言うと、背後の闇と混ざり合うようにして、花束もろとも姿を消した。
幽霊でも、構いません。
彼氏さんはもしかすると、そう言うのかも知れなかった。
そんな言葉をかけられれば、わたしは懲りずに、幸せな夢を見てしまうのに違いなかった。
だから、姿を消した。
そんなわたしは、きっと悲しい顔をしているのだろう。
通りの向こうから、車が走って来るのが見える。
確信した。
わたしが彼氏さんにしてあげられる、最後の仕事がまだ残っていることを。
「そうだ、いいこと、思いついた」
無邪気な、子供の声。
わたしの姿を探そうと車道に近づいた彼氏さんの後ろで、お下げの少女が笑っていた。
「おっさんも死んじゃえば、おねえちゃんと同じ、幽霊になれるかも」
そうすれば、わたしと彼氏さんは、ずっと一緒にいられる。
そう思ったのだろう。
小さな手が、頼りなさげな背中を、ぽん、と叩いた。
彼氏さんが棒きれのように倒れていく先には、見慣れたタクシーが突っ込んで来ている。
コマ送りで悲劇へと近づいていく世界。
その中で、わたしの身体だけが早送りされている感覚だった。
一瞬にして波長を合わせると、傾いていく彼氏さんの身体を抱き寄せるようにして受け止め、そのまま車道の反対側へと振り投げる。
花束がばさりと足元に転がって、悲劇を回避した世界が正常に動きだした。
危機一髪というタイミングで、彼氏さんの倒れる予定だった場所に白いタクシーが急ブレーキで停車する。
わたしは急いで花束を拾い上げ、再び姿を消した。
「あぶねぇだろうが、おい」
血相を変えてタクシーから飛び出してきたのは、ハルヒコさんだった。
彼氏さんを突き倒した少女の姿は、もうない。
もちろん、彼氏さんは先のわたしの意地悪な質問に答えているだけに過ぎないのだろう。
それだけに、わたしは自分が彼の言葉にたじろいでいる理由が分からなかった。
「幽霊さんのことを幽霊だとしか思えなかったら、こんなもの、花束なんて、渡しませんよ」
打って変わって、彼氏さんの声は穏やかなものになる。
悪霊退治を提案した時の、興奮気味な態度に似ていた。
それで、わたしは彼の言葉に一片の偽りもないことを悟った。
花束を抱く腕に力が入る。
じきに来るであろう言葉に身構えたためだった。
「その花束はお供えなんかじゃない。プレゼントですよ。幽霊さんへの」
わたしの心境を知ってか知らずか、彼氏さんは悠然として言葉を紡ぎ続ける。
おかしなものだな、と思う。
さっきまでは得られずに落胆していたはずなのに、今度は目の前にあるその言葉を恐れているのだから。
「つまり、そういうわけですよ。僕は、幽霊さん、あなたのことが、どうしようもなく、女性として気になるんです」
風情も何もなく彼氏さんが言い切ってしまったからなのだろうか。
身構えていた割には、その言葉がわたしを強く揺さぶることはなかった。
彼氏さんの必死な想いを一身に受けながらも残酷なほどに落ち着き払っている自分に気づき、どうしようもなく悲しくなる。
両腕で抱えていた花束を片手に持ち替え、空いた右手をこめかみに添えた。
もしも、花束を受け取る前にこの言葉を聞いていたら、わたしは何と答えただろう。
どんなに心が震えただろう。
もしもそうなっていたら、どんなに嬉しかっただろう。
一度喪失感を味わったからこそ、どちらの道が正しいのか、分かってしまった。
正しい答えを知ってからでは、誤答に身を委ねることなどできるわけもなかった。
震える指先が、体温のない額に触れる。
この、夢から醒めた幽霊が、わたしだ。
熱のこもった彼氏さんの目。
愛おしい。
彼の額は、わたしのと違って温かいのだろう。
花束の香りを吸い込んでから、震えの治まった手を自動販売機の光の中に振り上げた。
頬を張る高い音が、冗長に響きながら寂しげな闇の中へ溶けていく。
わたしの手のひらには、彼氏さんの体温が微かに残っていた。
「そんなの、だめですよ。カノジョさんは、どうするんですか」
彼氏さんは頬を打たれた格好のまま、顔を斜め右に向けながら虚空を見つめている。
「それに……目を覚ましてくださいよ。わたしはーー」
わたしは、幽霊なんですよ。
最後の言葉が、彼氏さんの耳に届いていたのかは分からない。
わたしはそれだけ言うと、背後の闇と混ざり合うようにして、花束もろとも姿を消した。
幽霊でも、構いません。
彼氏さんはもしかすると、そう言うのかも知れなかった。
そんな言葉をかけられれば、わたしは懲りずに、幸せな夢を見てしまうのに違いなかった。
だから、姿を消した。
そんなわたしは、きっと悲しい顔をしているのだろう。
通りの向こうから、車が走って来るのが見える。
確信した。
わたしが彼氏さんにしてあげられる、最後の仕事がまだ残っていることを。
「そうだ、いいこと、思いついた」
無邪気な、子供の声。
わたしの姿を探そうと車道に近づいた彼氏さんの後ろで、お下げの少女が笑っていた。
「おっさんも死んじゃえば、おねえちゃんと同じ、幽霊になれるかも」
そうすれば、わたしと彼氏さんは、ずっと一緒にいられる。
そう思ったのだろう。
小さな手が、頼りなさげな背中を、ぽん、と叩いた。
彼氏さんが棒きれのように倒れていく先には、見慣れたタクシーが突っ込んで来ている。
コマ送りで悲劇へと近づいていく世界。
その中で、わたしの身体だけが早送りされている感覚だった。
一瞬にして波長を合わせると、傾いていく彼氏さんの身体を抱き寄せるようにして受け止め、そのまま車道の反対側へと振り投げる。
花束がばさりと足元に転がって、悲劇を回避した世界が正常に動きだした。
危機一髪というタイミングで、彼氏さんの倒れる予定だった場所に白いタクシーが急ブレーキで停車する。
わたしは急いで花束を拾い上げ、再び姿を消した。
「あぶねぇだろうが、おい」
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