赤信号が変わるまで

いちどめし

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第四話

わたしの名前③

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「じゃあ、やっぱりわたしのことなんですね」

 幽霊さん。
 さほど重要ではない話題であるはずなのに、わたしはその言葉を胸の中で改めて意識し、どきりとする。

「気に入りませんでしたか」

 彼氏さんの、照れくさそうな顔。

 彼氏さんがわたしのことを幽霊さんと呼んだのは、わたしが彼氏さんのことを勝手に彼氏さんと呼んでいるのと同じだ。
 これは、気に入らないどころか、ちょっとだけ嬉しいことですらある。
 きっとわたしだって、うっかり彼氏さんのことを「彼氏さん」だなんて呼ぼうものならば、今の彼と同じ表情になってしまうだろう。

「いいですよ別に。幽霊さんでいいです。うん、しっくりくるからそれでいいです。幽霊さんって呼んでください」

 だから、早口に、芝居がかった身振りを併せてそう言ったのは、照れ隠し。
 わたしにとっての彼氏さんと、彼氏さんにとってのわたしが同じくらいの距離にいる。
 考えすぎなのかも知れないけれど、そう思い始めると、小さな喜びたちが憮然とした表情の器から飛び出してしまいそうだった。

「そんなことも今はどうだっていいんです」

 機嫌の悪そうな声を出すと、憮然とした表情はなんとか持ちこたえてくれた。
 彼氏さんの失礼な一言に対して問いただしている最中だというのに、緩んだ顔を見せてしまっては格好がつかない。

「あの、僕が何かしましたか?」

「それはこっちのセリフですよ。わたしが何かしましたか?」

 きょとんとする彼氏さんに対して、やっぱりわたしは怒っているような態度で言い返す。

「いいえ、わたしは何にもしてませんよ。それなのにとり憑いてるだなんて、失礼もいいとこです」

「あ、ああ、そのことですか」

「はい、そのことです」

 まさに、忘れていた、という感じの反応。
 怒っているふりをする気さえ失せてしまって、わたしは脱力しながら腰に手を当てた。

「まったく、どうしてとり憑かれてるだなんて思うんですか」

 目的の質問へ行き着くまでに、随分と回り道をしてしまったような気がする。
 だけど、回り道をしたからこそ、こうして彼氏さんの返答を安心して待つことができる。

 彼氏さんはためらうように視線を宙に泳がせた後、わたしの顔を申し訳なさそうに見つめながら、

「特にこれといった理由は、ないんですよ」
 と言って再び視線を泳がせた。
 あまりに間の抜けた返答に、わたしは自分の表情が怪訝なものになっていくのを感じた。

 彼氏さんの言葉をそのまま受け取るのならば、特にこれといった理由もない言葉に、わたしは踊らされていたということになる。
 この間の幽霊退治といい、彼はわたしの気持ちを振り回してばかりだ。

「しいて言うなら、悪い幽霊じゃあありませんよねっていう意味です」

 わたしのやりきれない気持ちを察したのだろうか、彼氏さんは取ってつけたように言い放った。
 向けられているのは、反応をうかがうような中途半端な笑顔。

「ひどいなぁ。わたしのこと、そんなふうに思ってたんですか」

 拗ねた態度をとってみせたのは、彼氏さんの表情に悪戯心をくすぐられたからなのだろう。
 そうでなくても、今更になって「悪い幽霊じゃあありませんよね」だなんていう確認をされなければならないことに、わたしは少しだけむっとしてしまっていた。
 直前の自分の言葉を借りるなら、「失礼もいいとこ」だ。

 腕組みをし、つん、と視線を逸らしてみせると、彼氏さんは「やってしまった」と言わんばかりの酸っぱそうな顔をした。
 ささやかな仕返しに成功したような気がして、思わず笑顔が出そうになる。

「思ってたら、こうして何度も会おうとは思いませんよ。ただ、幽霊とこうやって良い関係でいられるっていうことが、なんだか不思議で」

 言ってしまってから、彼氏さんははっとしたようだった。
 それは、この雰囲気から考えれば場違いなほどに甘く、照れくさい言葉。
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