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第四話 boy's side 『被虐と加虐』
2-1 溌溂
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「ありがとうね」
放課後、皆が部活や家路に向かいだす中、矢野は潜めるような、しかしひそひそ話をするのには張りのありすぎる声で小さく頭を下げると、はにかんで首を傾けた。すぐに大原のことを言っているのだと分かったし、むしろ、いつ矢野の方から言及があるのかと、授業が終わるたびに気をもんでいたぐらいだった。
おれは何でもないふうに、白々しく、えっ、と疑問符を返した。それでもすぐに、あまりしらばっくれるのも不自然のような気がしてしまって、ああもしかして大原のこと、とやはり白々しく付け足した。
「そうそう。わざわざ朝早く来てまでやってくれるなんてさ、はらっぺ、喜んでたよ」
まるで自分が助けてもらったみたいに、本当に嬉しそうな顔。テンションが上がっているのだろうか少し上気した頬がうっかり目に入ってしまって、思わず唾を飲み込んだ。夏日に当てられているみたいに、喉が乾く。
「仲里くん、意外に優しいんだーって、びっくりしちゃったな」
「意外って、ひでえな」
照れ隠しのつもりで言うと、矢野ははっとなって口を押さえた。そこで初めて、矢野が手ぶらであることに気がついた。
「ええっと、いや、優しくなさそうってことじゃなくってさ、ほら、仲里くんってなんかムスッとしてること多いじゃん。だから、近寄りがたい雰囲気があったっていうか――」
「もっと酷いこと言ってねえか、それ」
笑いながらそう返して、心の中のどこかに一つ、氷のかけらが落ちるのを感じた。
ムスッとしてる。十分自覚はあったけれど、こうして人に言われることは初めてだった。そんな顔をしている自覚はあったくせに、矢野にそう思われているとは思いもよらなかった。だんだん、自分が今どんな顔をしているのかが気になってくる。
「矢野はさぁ」
顔を見られたくなくて、カバンの中を確認するふりをした。次の言葉を待つ矢野の息遣いが、耳の中に遠く聞こえた。
「近寄りがたいのに、おれに声かけたんだよな」
大原のために。ぼそりとそう付け加えた後に、はっとして目を向けた。窓際の、前から三つ目。いない。ああよかった、大原はもう部活に行ったんだ。
「あー、やっぱばれてたか」
「ばれてた、って、隠すつもりあったか?」
「いや、なかったけどさ」
「頼まれたのか?」
「まあね。仲里くんと話すきっかけが欲しいって言われて。はらっぺ内気だからさ」
想像していたよりもあけすけに話す矢野に驚いて、思わず彼女に目を向けてしまった。何でもないことを話すような――いや、彼女にとってはそういう面倒くさいことも、本当に何でもないことなのかも知れない――さばさばとした表情。悪気のない大きな瞳。
矢野は、こいつは、違うな。少なくとも、きっかけ作りのために友達を使う大原や、愚鈍で陰険な南川とは、確実に。
矢野が、机に置いたカバンを肩にかける。ああ、もう教室から出ていくつもりだ。
「あ、あのさ」
変な焦燥感に駆られて、小さな声で呼びかける。矢野が何かを言いかけていたような気がする。きっとそれは大原についてのことで、だからおれにはどうでも良いことだった。言葉を中断されても、矢野は嫌な顔を見せない。
「せっかくだから、おれは矢野と仲良くなりたい」
さあ、どうだろう、矢野の返事は。いや、考えるまでもない。仲良くなりたいという申し出に、ここまで話しておいてノーと返すようなやつがいるだろうか。少なくとも矢野に限って、そんな意味の分からない人間であるはずがない。とりあえずは仲良くならないと。仲良くなって、そしていずれはきっと、きっと、いや絶対におれは矢野を、矢野と――。
いつの間にか、教室は静かだった。淡く、夕陽と呼ぶにはまだ青い光が、窓側の机に白く反射している。矢野はどういうわけだか何も言わなくて、それはもしかしたら、おれの下心が見られてしまっているせいなのかも知れない。
一応、いろいろと言葉を選んだつもりだった。一瞬のうちに「どうせなら」を「せっかくだから」に言い換える配慮ができたという事実に、自分のことながらおれは酔ってしまっていた。だけどその自己陶酔が冷め始めてしまうほどには、矢野の無言は長い。
そんな気がした。
放課後、皆が部活や家路に向かいだす中、矢野は潜めるような、しかしひそひそ話をするのには張りのありすぎる声で小さく頭を下げると、はにかんで首を傾けた。すぐに大原のことを言っているのだと分かったし、むしろ、いつ矢野の方から言及があるのかと、授業が終わるたびに気をもんでいたぐらいだった。
おれは何でもないふうに、白々しく、えっ、と疑問符を返した。それでもすぐに、あまりしらばっくれるのも不自然のような気がしてしまって、ああもしかして大原のこと、とやはり白々しく付け足した。
「そうそう。わざわざ朝早く来てまでやってくれるなんてさ、はらっぺ、喜んでたよ」
まるで自分が助けてもらったみたいに、本当に嬉しそうな顔。テンションが上がっているのだろうか少し上気した頬がうっかり目に入ってしまって、思わず唾を飲み込んだ。夏日に当てられているみたいに、喉が乾く。
「仲里くん、意外に優しいんだーって、びっくりしちゃったな」
「意外って、ひでえな」
照れ隠しのつもりで言うと、矢野ははっとなって口を押さえた。そこで初めて、矢野が手ぶらであることに気がついた。
「ええっと、いや、優しくなさそうってことじゃなくってさ、ほら、仲里くんってなんかムスッとしてること多いじゃん。だから、近寄りがたい雰囲気があったっていうか――」
「もっと酷いこと言ってねえか、それ」
笑いながらそう返して、心の中のどこかに一つ、氷のかけらが落ちるのを感じた。
ムスッとしてる。十分自覚はあったけれど、こうして人に言われることは初めてだった。そんな顔をしている自覚はあったくせに、矢野にそう思われているとは思いもよらなかった。だんだん、自分が今どんな顔をしているのかが気になってくる。
「矢野はさぁ」
顔を見られたくなくて、カバンの中を確認するふりをした。次の言葉を待つ矢野の息遣いが、耳の中に遠く聞こえた。
「近寄りがたいのに、おれに声かけたんだよな」
大原のために。ぼそりとそう付け加えた後に、はっとして目を向けた。窓際の、前から三つ目。いない。ああよかった、大原はもう部活に行ったんだ。
「あー、やっぱばれてたか」
「ばれてた、って、隠すつもりあったか?」
「いや、なかったけどさ」
「頼まれたのか?」
「まあね。仲里くんと話すきっかけが欲しいって言われて。はらっぺ内気だからさ」
想像していたよりもあけすけに話す矢野に驚いて、思わず彼女に目を向けてしまった。何でもないことを話すような――いや、彼女にとってはそういう面倒くさいことも、本当に何でもないことなのかも知れない――さばさばとした表情。悪気のない大きな瞳。
矢野は、こいつは、違うな。少なくとも、きっかけ作りのために友達を使う大原や、愚鈍で陰険な南川とは、確実に。
矢野が、机に置いたカバンを肩にかける。ああ、もう教室から出ていくつもりだ。
「あ、あのさ」
変な焦燥感に駆られて、小さな声で呼びかける。矢野が何かを言いかけていたような気がする。きっとそれは大原についてのことで、だからおれにはどうでも良いことだった。言葉を中断されても、矢野は嫌な顔を見せない。
「せっかくだから、おれは矢野と仲良くなりたい」
さあ、どうだろう、矢野の返事は。いや、考えるまでもない。仲良くなりたいという申し出に、ここまで話しておいてノーと返すようなやつがいるだろうか。少なくとも矢野に限って、そんな意味の分からない人間であるはずがない。とりあえずは仲良くならないと。仲良くなって、そしていずれはきっと、きっと、いや絶対におれは矢野を、矢野と――。
いつの間にか、教室は静かだった。淡く、夕陽と呼ぶにはまだ青い光が、窓側の机に白く反射している。矢野はどういうわけだか何も言わなくて、それはもしかしたら、おれの下心が見られてしまっているせいなのかも知れない。
一応、いろいろと言葉を選んだつもりだった。一瞬のうちに「どうせなら」を「せっかくだから」に言い換える配慮ができたという事実に、自分のことながらおれは酔ってしまっていた。だけどその自己陶酔が冷め始めてしまうほどには、矢野の無言は長い。
そんな気がした。
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