いちどめし

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 黒く汚れた革の靴。
 裾の擦り切れたズボンは、膝の辺りがぼろぼろになっている。
 中年のそれと分かる、膨れた腹。伸びた革のベルトに引き締められ、苦しそうだ。
 下半身の出で立ちに比べれば随分と立派な渋い色の背広を羽織り、しかしその中のシャツには、食べ物のものらしい滲みが目立った。
 背広の前を閉めずにいるのは、サイズが小さく苦しいからだろうか。
 汚れたシャツは腹に突き出され、まるで磔にされているようだ。
 腹と同じようにたるんでいることを予想させる胸はやはり太いが、広い肩幅はがたいの良さを表していた。
 顔は……、これまた渋い。
 硬く閉じられた口。少しだけこけた頬。鼻は赤く大きいものの、深く刻まれた眉間のしわの真下では、むしろいいアクセントだ。
 細く、しわのせいか、笑んでいるような目。白髪交じりの太い眉が、威厳を増長させる。
 灰色を僅かに含むのみの立派な白髪は、全て後ろに流されて、本当は大きいはずの彼の存在感を、必要以上に小さくしていた。
 身長は、高い。
 彼の頭の先までを見終わる頃には、私はほんの少しだけ、見上げる形となっていた。
「失礼」
 しわがれた、それでもよく通る声で、彼はその一言を言い終えた。
 彼は私のすぐ隣まで来るとくるりと向きを変え、彼と私の目の前で、ゆっくりと扉は閉まる。
「すみませんが」
 目を合わさざるを得ない声。針のような眼光が、私のことを捉えていた。
「十三階まで、お願いしてもよいでしょうかね」
 彼からは、ボタンの場所まで遠い。私の位置からは、手を伸ばさずとも届くほど、近い。
 私は無言で、十三のボタンを押した。
「ああ、どうも」
 彼が頭を下げると、同時に大きな音がして、私たちを収容した小さな箱は、地震のものより大きく、縦に揺れた。
 彼はよろけ、尻餅をついた。私も倒れそうになり、壁によりかかった。
「どうやら」
 壁づたいに立ち上がる彼の声は、苦々しい。
「エレベーターが故障したようですね」
 彼は立ち上がると、自分の尻をはたいた。
 私は、パネルの上方に用意された、受話器のマークのボタンを押す。
 返事は、ない。
「これは……向こうから見つけてくれるのを、待つしかないようですな」
 彼はなぜだか、楽しそうに言う。
「ところであんた、さっきので怪我なんてしてないかい」
 大丈夫です。私は応える。
「急ぎの用事でも」
 ありません。私は再度応えた。
「そうですか、それなら」
 問題はありませんな。彼は愉快そうだ。
「それじゃあ、今は暇つぶしでもしていましょうや」
 彼は、せっかくはたいたばかりの尻で、どっしりと胡坐をかいた。
 急に、馴れ馴れしくなったような気がする。最初から、同じような態度だったような気もする。
 彼は……、年季の入ったこの男は、真っ直ぐに、私のことを見ているらしい。私が少しだけ身をよじると、男の黒目が私を追った。
「私はねぇ、この季節が、どうも嫌いでね」
 私と彼は、初対面のはずである。
「今日も道に、カマキリがおったのですよ」
 車道ですよ車道。私は返事どころか、頷くことさえできない。
「拾い上げて植え込みに放りましたがな。轢かれちゃさすがに可哀想だ」
 男は再度立ち上がると、矢張り尻をはたいて壁に寄りかかった。げふん、と咳払い。
「実際、潰れたカマキリもよく見るのですな。車に轢かれてぺたんこだ。見るたびに、不憫に思えてなりませんよ」
 何が言いたいのだろう。暇をつぶすなら、もっと他に話すことが在ろうに。
 しかしねぇ。吐く息とともに、ひときわ大きな声が発せられる。
「カマキリに関しては、もっと不憫で……惨い現場を見たことがある」
 それだから、この季節は嫌いです。深いしわの顔は、いかにも恐ろしく破顔した。
「私が子供の頃の話なんですがね」
 この、白茶けた男の、子供の頃の話。それもカマキリについての惨い話など、いったい誰が聞きたがるのだろう。
 私は、聞きたくない。
 ただ、彼の話を止めるほどの話題も勢いも行動力も、私は持っていないのだった。
「カマキリを、二匹捕まえたのですよ。私も、バカでしたね。小さな虫かごに入れたのですよ」
 なんと単純な話か。
「共食い、ですか」
 この箱に入ってから私は、おそらくはじめて、しっかりと言葉を紡いだ。男の話を、早々に終わらせたかったからに違いない。
 そんな私の魂胆を知ってか知らずか、男はまた、笑った。
「まあ、そんなところですがね」
 笑った。
 なぜ、笑ったか。私の言葉が、彼を調子づかせたのだろうか。
 にやりと笑う男の顔は、なんという皮肉だろう、そういう顔だった。
「一日置いて見てみたら、二匹ともね、死んでいたんですよ」
 私は、足を動かした。立ちっぱなしというのは、歩き続けるよりもずっと疲れる。
 私の位置が動くと、男の小さな目も、同じ方向へ。
「それがね、これがまた嫌な話でして」
 声のボリュームが、小さくなった。相手に耳を傾けさせるための、性格の悪い技術だ。それと分かっていながらも、私の耳は澄まされた。
「首がね、なかったんですよ。二匹とも」
 ひときわ小さな声。
 気づけば、さっきから私を追っている目は、剥いていると言っても差し支えがないほどに見開かれていた。
 黒い点は、やはり私を追う。
「二匹とも、立ったままの格好で、向き合っていましてね、首がないから、死んでいると分かったようなものです」
 なんと、居心地の悪い場所なのだろう、ここは。
「虫かごには、カマキリの頭が転げ落ちるような隙間なんてなかったのに、どちらの首も見当たりませんでした」
 私は無意識のうちに、天井を凝視していた。
 それでも、よく響く男の声は、真っ直ぐに、私の中に這入ってくる。
「気味が悪くってねぇ、そのまま、茂みの中に捨ててしまいましたがね」
 見ていないのは、怖い。男はまだ、さっきと同じ場所にいるのだろうか。
 もしかすると、すぐ近くにまで寄ってきているのかもしれない。
この箱は、狭い。男は最初から、近くにいる。それよりももっと近くにいるとなると……。
私はぞっとして、さっきまで男がいた方向を見た。
「いや、実に可哀想なことをしたと、今になっても思うのですよ」
 人当たりのよさそうな、しかしだからこそ不気味な男は、変わらず同じ場所にいた。
「でもねぇ、同時に思うのです」
 にやりと、男は笑う。
 私にはもはや、つい直前まで男が笑っていたかどうかなど思い出せなくなっているが、なんにしろ、男の笑顔は不吉極まりなかった。
「そう、なぜそうなったか、ですよ」
 開いていた目が、急に細くなる。それでも開いていると分かるのは、真っ黒な眼光が、線のような空間から、しっかりと覗いているからである。
 強く、硬質で、粘性を持った真っ直ぐな光。白髪交じりの頭髪が、黒い光をいやに際立たせる。
「どう、やったんでしょうねぇ」
 あまりにも、不敵。
 私は、今すぐにでもここから脱出したいという、強い衝動に駆られた。
「そういえば最近、似たような事件があったことを、ご存知ですか」
 私の心境を知ってかしらずか、男は尚も続ける。
「殺人事件です。首のない死体。本当に、どこを探しても首はない。しかも遺体は、立ったままの格好、なのだそうです」
 また、笑った。
「あなた……何か、知りませんか」
 知っているのは……分かっているのは、おそらくこの男の方だ。
 細い目が、見開かれる。
――ああ、そうか。
 きっと、獲物を見つけたのだ。黒い眼光は、隙を窺うようにして、少しも動かない。
 男が一歩だけ、歩み寄った。
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