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第十六章 日常の中ならばよかったのにな
06 「了解した!」祥子が叫びながら、斧を振り上げるのと
しおりを挟む「了解した!」
祥子が叫びながら、斧を振り上げるのと、
しなっていた白く長いものが、いきなり硬く尖り、真っ直ぐ突き出されるのと、
同時であった。
現在、ヴァイスタと交戦中だ。
マンションの、一室で。
須黒先生の部屋の、真下で。
あまりの巨体のため、窮屈そうに背を屈めている、ヴァイスタと、
銀黒の魔道着、嘉嶋祥子が。
祥子の背後には、明木治奈が、ぐったりしている須黒先生を膝に乗せ、介抱している。
天井には、大穴。
上の部屋にいた彼女たちは、この穴から須黒先生と治奈がヴァイスタに引きずり込まれ、助けるべく祥子が踊り飛び込み、交戦中というわけである。
日本の一般的なマンション室内なので、ヴァイスタには実に窮屈そうであるが。
屈みながらヴァイスタは、もう一本の白く長い腕を振るった。
祥子を避ける円弧を描いて、須黒先生を介抱していた治奈へと、襲い掛かった。
触手状のにょろり長い腕、先端に手や指はないが、ぱっくり裂け目が開いて、そこに生えている無数の鋭い歯が、治奈へと噛り付こうとしたのである。
「うわ!」
驚く治奈だが、祥子には想定内の攻撃だったようである。
柄のない、巨大な斧。刃身に空いた穴に指を掛けて、そこを軸にくるり回転、振り下ろし、触手の先端部分を切り落とした。
感じるであろうタイミングとしては実に危機一髪で、ふう、と治奈は安堵のため息を吐いた。
床に落ちた、落とされた腕の先端は、もうちりちり音を立て干からび始めている。
また、ヴァイスタ本体の、切断された断面からは、とろーっと粘液が垂れて、もう回復が始まっている。
ヴァイスタは、致命傷を与えない限り、どのような傷であろうともすぐに修復されてしまうのだ。
「先生! 先生!」
治奈が、ぐでっと横になっている須黒先生を膝に乗せ、軽く揺すったり、軽く頬を叩いている。
「つつ……大丈夫よ。もう、意識はあるから」
「よかった。頭を強く打ち付けてたみたいじゃったから」
よかった、と本当にいえる状況かどうか。
LDKには、巨人ヴァイスタ、向き合う祥子、そして須黒先生、治奈。
魔道着を着ているのは、祥子ただ一人。
須黒先生は魔法使い引退の身であるし、治奈はクラフトが発動せず変身が出来ていない。
ヴァイスタは身を縮めて窮屈そうだが、それ以上に祥子の方が戦いにくそうだ。
狭い空間で、戦えない二人を庇いながらであるためだ。
また、祥子の得物が巨大な斧で、小回りの効く武器ではないためだ。
それでも、斧の側面で受けたり、側面の大きな穴を軸に振り回すなど、器用に交戦していたが、だがここで思わぬアクシデントが起きた。
「がっ」
「明木さん!」
治奈が、須黒先生に肩を貸して、隣の部屋へ連れて行こうとしていたのだが、そこをまた円弧の攻撃で襲われ、祥子が距離的ぎりぎり庇い切れなかったのである。
負の連鎖。
治奈のこと、残った須黒先生のことに焦った祥子の身体に、ヴァイスタのもう一本の腕が巻き付いていた。
「うああああ!」
ぎりぎりと、西洋甲冑に似た銀黒の魔道着が、締め付けられる。
全身、巨大な斧ごと。
丸太も楽々とへし折れるであろう、凄まじい力で。
魔道着を着ていなかったら、一瞬にして身体はバラバラになっていただろう。
むしろ、魔道着を着ているからこそ、ヴァイスタの攻撃に躊躇がないのである。
別に、良心の呵責があって、加減しているわけではない。
ヴァイスタにそのような、人間的な感情は残ってない。
なるべく絶望を膨らませた方が、より強い仲間、つまり強力なヴァイスタが生まれる可能性が増すということだ。
必ずしもその絶望、死の恐怖が、魔法使いのヴァイスタ化を誘うわけではないが。それならそれで、殺して食ってしまえば、膨らんだ絶望の分だけ、自分がより強いヴァイスタになる。
そのような理由であろう、というのが、現在の最新学説である。
「ぐうう……」
ヴァイスタの長い腕に全身を巻かれ締められ、祥子の、歌劇団スターのように整った顔が苦痛に歪む。
「嘉嶋さん! その変な形の斧をエンチャントして、こっちに投げて!」
「無茶、いいますね、須黒さん」
祥子は、銀黒髪の中で、苦痛に顔を歪めながらも、微かに苦笑を浮かべた。
「スタークストレング……」
額に脂汗を浮かべながらの、呪文詠唱。
確かに無茶な要求である。
集中しなければ、呪文詠唱は出来ない。
集中すると、身体に力を入れることが出来ない。
身体に力を入れなければ、ヴァイスタの締め付けに耐えられない。
多少なら耐えられても、格段に増した激痛、呼吸もろくに出来ないのに呪文を唱えるなど、普通に考えて、出来るものではない。
形式だけの詠唱をしたところで、念を集中出来ていなければ、なんの意味もないのだ。
だが、
「アインスタークスゲイフル」
祥子の腕が、巻き付いたヴァイスタの腕の中で、ぼーっと青白く光っていた。
エンチャントは通常、手のひらに気を集中させ、武器へ翳すことで、破壊のエネルギーを流し込む。
腕にいくら魔法を集中させようとも、この、全身を締め上げられた状態では、流石にそれは困難に思われるが……
ぎゅうぎゅうと絡み付かれたまま、激痛に、呼吸の出来ない苦しさに、顔を歪めている祥子。
「ぐ、ぐ」
苦痛の表情のまま、身悶えを始めた。
絞められたまま、肩を揺すった。
揺すっているうちに、身体と一緒に締め上げられていた、巨大な斧が、落ちた。
そう、祥子のこの身悶えは、斧を自由にするためだったのである。
それだけではない。
落下する斧の、刃身が青白く輝いている。
締め上げられながら、祥子は、エンチャントを完了させていたのだ。
ヴァイスタに掴まれ宙ぶらりんになっている状態で、足を軽く持ち上げて、斧の刃身に空いた拳大の穴に、爪先を差し入れ、そこを軸に、くるりん。落下の勢いを利用して、飛び、須黒先生の元へすとん。
いや、すとん、というには、あまりにも巨大な、重厚感満載の無骨で歪な斧であるが、須黒先生は、穴に指を掛けて、軽々と受け止めていた。
「ありがとう」
先生は、にこり微笑んだ。
構える姿も、なんだか軽そうである。
エンチャントの効果だろう。
破壊力が増すだけでなく、軽くなるのだ。
あの状況下であったというのに、銀黒の魔法使いは、かなり高度なエンチャントを施したようである。
須黒先生の筋肉量という、そこだけの問題かも知れないが。
ぶん、ぶん、と思い切り斧を振ってみるが、ヴァイスタは完全無視で、銀黒の魔道着を締め続けている。
ヴァイスタは、魔力が高く、かつ襲いやすい者から襲うためである。この中で一番魔力を持っている者が、なおかつ自分の腕の中にあり、なおかつ武器をも捨てたとなれば、手放す道理がないのだ。
斧を振りながら、須黒先生は、
「魔道着を着ていないからってえ……舐めんじゃねえぞお!」
吠えた。
舐めるも舐めないも、もちろんヴァイスタの習性などはよく分かっているはずで、自分に気合を入れただけだろう。
気合の雄叫び張り上げて、タイトスカートを気にもせず、床を蹴って、ヴァイスタへと飛び込んだ。
魔力を帯びた巨大な斧を手にしているだけあって、さすがに、ヴァイスタも反応した。
祥子を締め上げながら、反対の腕を、しならせて、そして一気に突き出した。
その行動、予測済み。
須黒先生は、にょろり長いヴァイスタの腕へと、飛び乗っていた。
白い皮膚をぬらぬら覆う粘液を利用して、腕の端から端へと滑る。
斧を振り上げる。
ヴァイスタは、その斧による頭部への一撃を警戒したのだろう。
また、この空間に武器といえる武器は、その斧しかないことを認識したのだろう。
祥子への締め上げを解いて、解いたその腕で、自らの頭部をガードしたのである。
だが、元魔法使いである須黒先生には、その行動すらも予測済み。
腕の上を、そのまま滑り続け、軽く跳躍。頭部と、ガードする腕とを飛び越えると、部屋の壁へと、両足を着いた。
そして、慣性で壁に押し当てられる勢いを利用して、壁を走ったのである。
上へと、そして、さらには天井を、走ったのである。
混乱に腕を絡ませたヴァイスタ、の頭上から、須黒先生が逆さまに落ちた。
ずちりむちゅり、と巨大なゼリーを握り潰したら、このような音がするだろうか。
たん、とヴァイスタの背を蹴って、須黒先生は逆さまから正の姿勢に戻り、着地した。
小さくため息を吐いた。
ヴァイスタの背中が、職人が出刃包丁で開いた魚さながらに、大きく、深く、避けていた。
それを認識すると、須黒先生はもう一回、小さく息を吐いた。
髪の毛を掻き上げ、スカートの乱れを直した。
「嘉嶋さん、昇天をお願い」
「承知。……ほとんど体術のみでヴァイスタを倒すとは。お見事です、さすが元魔法使い美里」
「昭刃さんから、なにか聞いた?」
「いえ、なんにも」
ははっと笑いながら銀黒の魔法使い、祥子は、手を伸ばす。
ぴくりとも動かず立ち尽くしているヴァイスタの、腹部に正面から手を当てて、呪文を唱え始めた。
と、その背後で須黒先生が、くたっとやわらかく崩れ、倒れてしまった。
先に気を失っている治奈の身体へと、折り重なって。
二十代故に微量にしかない体内の魔力を、エンチャントされた武器によって、吸い尽くされたためである。
どん
どおん
上の階から、低い音が響いている。
ぐらりぐらりと、揺れている。
天井に、人が楽々通れるほどの、大きな裂け目が出来ている。
この裂け目の向こう、上の部屋で、万延子たちがまだ、ヴァイスタと戦っているのである。
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