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第十章 とあるヴァイスタの誕生と死と
16 くちゅ きちゃ 音だけを聞けば、子供が口にゼリーを
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くちゅ
きちゃ
音だけを聞けば、子供が口にゼリーを入れたままふざけているような、別段異常性を感じるものでもない。
ならば何故、その音がここまでの吐き気を催すのか。
魂の根底から揺さぶられ、無意識からの恐怖を呼び起こされるのか。
中途半端な勇気や鈍感さなど無意味とばかり、木っ端微塵に踏み砕くのか。
視認しているからである。
子供の悪ふざけなどではないことが、分かっているからである。
直視しがたい異常な光景。
だというのに、令堂和咲、明木治奈、昭刃和美の三人は、どこの魔女に呪縛を掛けられたか、起こっていることから目をそらすことが出来なかった。
脳が、現実を受け入れることを、拒絶しているのであろうか。
しかし、そうだとして、誰がそれを責められようか。
顔面の肉や骨を食われて、むごたらしい状態で転がっている、第三中学校の制服を着た平家成葉の死体。
大鳥正香が、四つん這いになったまま、上から覆いかぶさって、そのお腹に頭を突っ込んでいる。
どう見てもヴァイスタとしか思えない、かつての面影など微塵もない、スライムを人間の形にこね作り上げたかのような、おぞましい肉体へと化した大鳥正香が。
お腹に顔を押し付けているというよりも、完全に顔がお腹の中に埋まっている。潜っている。
制服を食い破って。
お腹の肉を食い破って。
胴体を突き破り、背中側へ抜けそうなくらいに、頭が潜っている。
ちっ
くちっ
ちちゃっ
くり抜かれた腹部の、粘液や血液による海の中に、正香は、顔を突っ込んで、ぶるぶる細かく頭を震わせている。
見るまでもない。
お腹の中にある物を、食べているのだ。
先ほど見せた、顔が縦に裂けての、ピラニアに似た鋭い無数の歯で。
成葉の、絶命したばかりでまだ温かい、臓物を。
くちっ
きちゅっ
……
大鳥正香が、不意に、お腹の中に突っ込んでいた頭を上げた。
血液で、どろり真っ赤になった顔。
顔全体が、縦に割れた口と化しており、その歯にかじられている、小腸が、ずるるんと引っ張り上げられた。
顔の裂け目が閉じることで、ぶちゅり噛みちぎられた腸が、蛇がのたうつように、お腹に空いた臓物の海の中に落ちて、ちゃっと微かな音を立てた。
満腹になったのか、満腹でもないが他に優先することが出来たのか、大鳥正香は、四つん這い姿勢のまま少し腰を上げると、くるり百八十度向きを変え、歩き始めた。
縦に裂けて無数の鋭い歯を見せていた顔は、もう完全に閉じており、完全なのっぺらぼうに戻っている。
つい今まで、そこが巨大な口になって、同級生の死骸を食らっていたなどと、誰が信じるだろう。
血で真っ赤に染まっていたはずの顔は、皮膚から吸収したのか、粘液と共に流れたのか分からないが、いつの間にか、真っ白な色に戻っている。
もう動かない、転がっている成葉のむごたらしい死体。
目を背けることが出来ず、アサキは身体を震わせながら、
「成葉ちゃん……」
青ざめ呆然とした表情で、小さく口を開いていた。
自分のその声により、心が現実に戻ったか、ぶるりと激しく身体を震わせると、
「成葉ちゃん!」
叫んでいた。
大きな声で、叫んでいた。
「成葉ちゃん! ……成葉ちゃん!」
狂ったように、何度も、何度も。
ぼろぼろと、目から涙をこぼしながら。
叫んでいた。
泣き叫んでいるアサキの横で、治奈とカズミは、まだ呆然と立ち尽くしている。
四つ足で這い回っている、親友の、すっかり変貌した姿を、
真っ白でぬめぬめとした、ヴァイスタにしか見えないおぞましい姿を、
まだ、現実であると受け入れることが、出来ないのだろう。
もちろんアサキにしても、そんな現実は受け入れられるものではないが、しかし、自分と治奈たちとは一緒に過ごして来た日々の長さが違う。
治奈たちの驚きが、悲しみが、その深さが理解出来るはずもなかった。
浅いから、いち早く気付いたのか、それは分からないが、アサキはぴくり肩を震わせて、前方遠くへと視線を向けた。
大鳥正香の、ぺたぺたと四つ足で這う音に、別の足音が重なっていたのである。
誰かが、こちらへと走ってくる。
慶賀応芽であった。
膝丈の、ぶかぶかのTシャツ一枚という、まるで寝間着みたいな姿だ。
全力で走ってきたのか、苦しさに歪んだ顔。
近付き、立ち止まると、少しの間、膝に手をついてぜいはあ激しく息を切らせていたが、すぐに顔を上げると、険しい表情で、
「あかんかった……間に合わへんかったか」
舌打ちすると、靴の裏で道路を激しく踏み付けた。
まだ半ば呆然とした顔で、夢現の境界にいたカズミであったが、その応芽の様子を見て、応芽の声を聞いて、はっと我に返っていた。
「ウメ、お前、今なんていった……」
震える、かすれた声でそういうと、応芽の顔を、きっと睨み付けていた。
言葉の真意を糺そうとしたのか、ただその態度に不快を感じたのかは、分からない。
どのみち、うやむやに紛れてしまったからである。
「ああーーーーっ!」
女性の、恐怖に驚く悲鳴が、澄み渡る青空を震わせたのだ。
仕事帰りであろうか。
見ず知らずの、二十代と思われる女性が、こちらを見ており、悲鳴の凄まじさにも劣らないだけの表情を、その顔に浮かていた。
白くぬめぬめとした、顔のパーツのない化物と、顔と内臓とを食われた女子中学生のむごたらしい死体、血の海、驚き恐怖するのが当然の反応であろう。
畳み掛けるように、ことは起こる。
ぶーーーーー
ぶーーーーー
リストフォンが、不意に、強く、振動を始めたのである。
ここにいる全員、死体である成葉の左腕の物も、腕が膨れたためバンドが切れて、道路に転がっている大鳥正香の物も。
emergency
黒い画面に、表示されている。
つまりこの通報は、ヴァイスタが出現したことを知らせる警報なのである。
自動的に、地図表示へと切り換わる。
それぞれの現在地と、ヴァイスタ出現ポイントを示すマーカーが表情される。
それらはすべて、この場所に、重なっていた。
もう……間違いない。
そう認識したアサキたちの顔は、いつ気を失って倒れてもおかしくないくらいに、まるで全身の血を抜き取られでもしたかのように、青ざめきっていた。
げご
大鳥正香が、四つん這い姿勢のまま、どこから声を出しているのか分からない不快な音を発したと同時に、またすべてのリストフォンが振動した。
須黒美里先生からの通信である。
空間伝送スピーカー技術で、それぞれのリストフォン近くで空気が振動し、先生の声を作り出し、共鳴する。
「大変! ヴァイスタが現界に出たみたい! 反応が弱いし、『なりたて』かも知れない。それより……場所が、大鳥さんの家の前なんだけど、まさか大鳥さん……」
「先生、せせ、正香、ちゃんがっ!」
言葉を遮って治奈が、リストフォンを口に近付けて、泣き出しそうな声を出した。
「どがいすればええんじゃろ? どがいすれば助けられるんじゃろ?」
いつも淡々飄々としている治奈が、起きたことの衝撃に、なすすべもなく涙目で狼狽えていた。
少しの沈黙を挟んで、また空間スピーカーから先生の声が流れる。
「通行人、目撃者はいる?」
「は、はい。通りがかりの女性が一人」
「まずは、その人の記憶を消して」
「分かりました。……アサキちゃん、お願い出来るかの?」
治奈の頼みに、アサキは青ざめた顔のまま黙って頷くと、生まれたばかりの子鹿よりもぶるぶる震える足取りで、女性へと歩き出した。
全員の空間スピーカーから、また須黒先生の声。
毅然とした、でも少し震えている、少しかすれた声である。
「そしたら次は……現界で誕生したヴァイスタは、裂け目を探して、異空へ行こうとするの。そうなったらすぐに育ってしまうから、だから、その前に……」
「正香ちゃんなんですよ! 戻してあげられないんですか!」
アサキは女性へと向かいながら、自分のリストフォンへ口を近付けて怒鳴っていた。
「無理や」
と、ぼそり呟いた応芽の声を、カズミは聞き逃さず、じろりと顔を睨み付けた。
それに気付いた応芽は、気まずそうに少し目を落として視線をかわした。
「そこにいるのはヴァイスタ。放って置いたらそれが何人の人間を殺すと思っているの?」
あえて淡々と語っているとも思える先生の口調に、治奈とアサキは悔しそうに唇を噛んだ。
そんなアサキの顔が、すぐ笑顔に変わったのは、事態好転したわけでも諦めたからでもない。
目撃者である通行人の女性に近付いて、身体をそっと抱き締めたのである。
笑顔、といっても泣きそうなこわばった笑顔であるが、それでもアサキは懸命に、やわらかな表情を作ろうとしながら、抱き締めた。
不運にもおぞましい光景を目撃してしまい、発狂しそうになっている女性の身体を。
「大丈夫、ですから」
力のない声でそういうと、ゆっくり手を伸ばして、女性の頭頂へと翳した。
目を閉じて、強く、念じる。
記憶の一部の、情報伝達を断つ。
魔法そのものというよりは、魔力を応用した技術の類だ。
さらに、女性を誘導するために、軽い幻覚を見せる。
ここは普段通りの通り道。
今ここには誰もいない。
術の効果はすぐに表れたようで、女性は正気を失った、ぽーっとした顔になって、酔っ払いにも似たふらつく足取りで、この場を通り過ぎていった。
「ごめんなさい」
去りゆく女性の後ろ姿を見ながら、アサキは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
以前にも述べたことがあるが、アサキは、他人の記憶を操作することへの嫌悪感や罪悪感が強い。
ただ理不尽な恐怖を味わうだけであった先ほどの女性の、たった数分の記憶を断つことについてさえ、例外ではなく。
もちろん、現在それどころではないことも、理解はしているが。
アサキは俯いていた顔を少し上げて、頑張って毅然とした表情を作ると、四つん這いの白くぬめぬめした化け物、大鳥正香へと視線を向けた。
なんとかしなければ、という覚悟の意味での毅然めいた顔ではあったが、こうしなければという確たる情報も信念も決断もなく、結局、すぐにまた、おどおどした躊躇いがちな表情に戻ってしまった。
それが悔しくて、
なんとかしたいのになんにも出来なくて、アサキは済まなそうに項垂れてぎゅっと拳を握った。
戻す術があるのならば、とっくに先生が指示しているだろう。
つまり対策などは存在しない、あるとしてもまだ分かっていないということだ。
でも、
でも、なにかないのか。
正香ちゃんを、救うことは出来ないのか。
だって、
だって、
幼い頃に家族を殺されるという目にあって、ずっと、十年間も、その辛さを抱えていたんだ。
人間は、味わった辛さの分だけ幸せが訪れなければ、嘘ではないのか。
このままじゃあ、かわいそう過ぎる。
戻せたとしても、成葉ちゃんの生命を奪ってしまったことで苦しむのかも知れないけど。でもそれは、正香ちゃんの責任じゃない。
げご
這いずり回っている大鳥正香が、また、カエルの鳴き声を発する。
アサキは、びくりと肩を震わせた。
大鳥正香が、地へとくっつきそうな低いところから、こちらを見上げていたのである。
その顔には、鼻の小さな隆起しかなく、見ていたというよりは顔を向けていたという方が正確であろうが、しかし間違いなく見られていた。目が合った。そうアサキは感じていた。
「あ……あ……」
青ざめた顔で、一歩退きながら、目を見開いて、上擦った声をあげていた。
大鳥正香の顔を見ているうちに、引き込まれていたのだ。
どっと、感情が、意識の濁流が、アサキの意識へと流れ込んできたのだ。
純然たる怨念が。
憎しみ……母親への、憎しみが。
父親によって母親と姉が殺された、という事件なのに、どうして母親への憎しみなのか。
流れてくるのは、単なる感情であり、その理由までは分からない。
分かっているのは、その憎しみの量、絶望の量を言葉で表すには、アサキの語彙は少な過ぎるということであった。
この、こんこんと噴き上がる怨念を感じているのは自分だけなのか、それは分からないが、それぞれ自分の複雑な立場や感情と向き合っているようで、治奈もカズミも、ぎりりと歯軋りし、息荒く肩を上下させている。
一人、吹っ切れたか、
カズミは、地に唾を吐き捨てると、一歩前に出た。
ぐ、と拳を握った。
自分の爪が食い込んで血で出そうなくらいに、強く、きつく。
歯を軋らせながら、地を這っている大鳥正香を、睨み付ける。
自分にいい聞かせるように、カズミは小さく口を開いて、もごもご小声で呟いている。
なにをいっているか、はっきり聞こえないけれど、でもアサキにははっきり聞こえていた。
カズミの、強い思いが。
ヴァイスタなんだ。
倒さなきゃあ、ならないんだ。
だって、そうだろう。
先生のいう通り、もしここで逃したら、何人の生命が失われることになる?
敵として、倒さなくっちゃいけない。
でも……
出来るわけがないよ。
こいつらみんな、優しいからな。
出来るわけが……ねえよ。
だからこそ……
「だったら、あたしが!」
カズミは、悲しげな怒鳴り声を、不意に張り上げると、両手を頭上高く交差させた。
左腕に着けたリストフォン、内蔵されている魔法力補正装置であるクラフトが、カズミの魔力に反応して光り輝いた。
「変身!」
きちゃ
音だけを聞けば、子供が口にゼリーを入れたままふざけているような、別段異常性を感じるものでもない。
ならば何故、その音がここまでの吐き気を催すのか。
魂の根底から揺さぶられ、無意識からの恐怖を呼び起こされるのか。
中途半端な勇気や鈍感さなど無意味とばかり、木っ端微塵に踏み砕くのか。
視認しているからである。
子供の悪ふざけなどではないことが、分かっているからである。
直視しがたい異常な光景。
だというのに、令堂和咲、明木治奈、昭刃和美の三人は、どこの魔女に呪縛を掛けられたか、起こっていることから目をそらすことが出来なかった。
脳が、現実を受け入れることを、拒絶しているのであろうか。
しかし、そうだとして、誰がそれを責められようか。
顔面の肉や骨を食われて、むごたらしい状態で転がっている、第三中学校の制服を着た平家成葉の死体。
大鳥正香が、四つん這いになったまま、上から覆いかぶさって、そのお腹に頭を突っ込んでいる。
どう見てもヴァイスタとしか思えない、かつての面影など微塵もない、スライムを人間の形にこね作り上げたかのような、おぞましい肉体へと化した大鳥正香が。
お腹に顔を押し付けているというよりも、完全に顔がお腹の中に埋まっている。潜っている。
制服を食い破って。
お腹の肉を食い破って。
胴体を突き破り、背中側へ抜けそうなくらいに、頭が潜っている。
ちっ
くちっ
ちちゃっ
くり抜かれた腹部の、粘液や血液による海の中に、正香は、顔を突っ込んで、ぶるぶる細かく頭を震わせている。
見るまでもない。
お腹の中にある物を、食べているのだ。
先ほど見せた、顔が縦に裂けての、ピラニアに似た鋭い無数の歯で。
成葉の、絶命したばかりでまだ温かい、臓物を。
くちっ
きちゅっ
……
大鳥正香が、不意に、お腹の中に突っ込んでいた頭を上げた。
血液で、どろり真っ赤になった顔。
顔全体が、縦に割れた口と化しており、その歯にかじられている、小腸が、ずるるんと引っ張り上げられた。
顔の裂け目が閉じることで、ぶちゅり噛みちぎられた腸が、蛇がのたうつように、お腹に空いた臓物の海の中に落ちて、ちゃっと微かな音を立てた。
満腹になったのか、満腹でもないが他に優先することが出来たのか、大鳥正香は、四つん這い姿勢のまま少し腰を上げると、くるり百八十度向きを変え、歩き始めた。
縦に裂けて無数の鋭い歯を見せていた顔は、もう完全に閉じており、完全なのっぺらぼうに戻っている。
つい今まで、そこが巨大な口になって、同級生の死骸を食らっていたなどと、誰が信じるだろう。
血で真っ赤に染まっていたはずの顔は、皮膚から吸収したのか、粘液と共に流れたのか分からないが、いつの間にか、真っ白な色に戻っている。
もう動かない、転がっている成葉のむごたらしい死体。
目を背けることが出来ず、アサキは身体を震わせながら、
「成葉ちゃん……」
青ざめ呆然とした表情で、小さく口を開いていた。
自分のその声により、心が現実に戻ったか、ぶるりと激しく身体を震わせると、
「成葉ちゃん!」
叫んでいた。
大きな声で、叫んでいた。
「成葉ちゃん! ……成葉ちゃん!」
狂ったように、何度も、何度も。
ぼろぼろと、目から涙をこぼしながら。
叫んでいた。
泣き叫んでいるアサキの横で、治奈とカズミは、まだ呆然と立ち尽くしている。
四つ足で這い回っている、親友の、すっかり変貌した姿を、
真っ白でぬめぬめとした、ヴァイスタにしか見えないおぞましい姿を、
まだ、現実であると受け入れることが、出来ないのだろう。
もちろんアサキにしても、そんな現実は受け入れられるものではないが、しかし、自分と治奈たちとは一緒に過ごして来た日々の長さが違う。
治奈たちの驚きが、悲しみが、その深さが理解出来るはずもなかった。
浅いから、いち早く気付いたのか、それは分からないが、アサキはぴくり肩を震わせて、前方遠くへと視線を向けた。
大鳥正香の、ぺたぺたと四つ足で這う音に、別の足音が重なっていたのである。
誰かが、こちらへと走ってくる。
慶賀応芽であった。
膝丈の、ぶかぶかのTシャツ一枚という、まるで寝間着みたいな姿だ。
全力で走ってきたのか、苦しさに歪んだ顔。
近付き、立ち止まると、少しの間、膝に手をついてぜいはあ激しく息を切らせていたが、すぐに顔を上げると、険しい表情で、
「あかんかった……間に合わへんかったか」
舌打ちすると、靴の裏で道路を激しく踏み付けた。
まだ半ば呆然とした顔で、夢現の境界にいたカズミであったが、その応芽の様子を見て、応芽の声を聞いて、はっと我に返っていた。
「ウメ、お前、今なんていった……」
震える、かすれた声でそういうと、応芽の顔を、きっと睨み付けていた。
言葉の真意を糺そうとしたのか、ただその態度に不快を感じたのかは、分からない。
どのみち、うやむやに紛れてしまったからである。
「ああーーーーっ!」
女性の、恐怖に驚く悲鳴が、澄み渡る青空を震わせたのだ。
仕事帰りであろうか。
見ず知らずの、二十代と思われる女性が、こちらを見ており、悲鳴の凄まじさにも劣らないだけの表情を、その顔に浮かていた。
白くぬめぬめとした、顔のパーツのない化物と、顔と内臓とを食われた女子中学生のむごたらしい死体、血の海、驚き恐怖するのが当然の反応であろう。
畳み掛けるように、ことは起こる。
ぶーーーーー
ぶーーーーー
リストフォンが、不意に、強く、振動を始めたのである。
ここにいる全員、死体である成葉の左腕の物も、腕が膨れたためバンドが切れて、道路に転がっている大鳥正香の物も。
emergency
黒い画面に、表示されている。
つまりこの通報は、ヴァイスタが出現したことを知らせる警報なのである。
自動的に、地図表示へと切り換わる。
それぞれの現在地と、ヴァイスタ出現ポイントを示すマーカーが表情される。
それらはすべて、この場所に、重なっていた。
もう……間違いない。
そう認識したアサキたちの顔は、いつ気を失って倒れてもおかしくないくらいに、まるで全身の血を抜き取られでもしたかのように、青ざめきっていた。
げご
大鳥正香が、四つん這い姿勢のまま、どこから声を出しているのか分からない不快な音を発したと同時に、またすべてのリストフォンが振動した。
須黒美里先生からの通信である。
空間伝送スピーカー技術で、それぞれのリストフォン近くで空気が振動し、先生の声を作り出し、共鳴する。
「大変! ヴァイスタが現界に出たみたい! 反応が弱いし、『なりたて』かも知れない。それより……場所が、大鳥さんの家の前なんだけど、まさか大鳥さん……」
「先生、せせ、正香、ちゃんがっ!」
言葉を遮って治奈が、リストフォンを口に近付けて、泣き出しそうな声を出した。
「どがいすればええんじゃろ? どがいすれば助けられるんじゃろ?」
いつも淡々飄々としている治奈が、起きたことの衝撃に、なすすべもなく涙目で狼狽えていた。
少しの沈黙を挟んで、また空間スピーカーから先生の声が流れる。
「通行人、目撃者はいる?」
「は、はい。通りがかりの女性が一人」
「まずは、その人の記憶を消して」
「分かりました。……アサキちゃん、お願い出来るかの?」
治奈の頼みに、アサキは青ざめた顔のまま黙って頷くと、生まれたばかりの子鹿よりもぶるぶる震える足取りで、女性へと歩き出した。
全員の空間スピーカーから、また須黒先生の声。
毅然とした、でも少し震えている、少しかすれた声である。
「そしたら次は……現界で誕生したヴァイスタは、裂け目を探して、異空へ行こうとするの。そうなったらすぐに育ってしまうから、だから、その前に……」
「正香ちゃんなんですよ! 戻してあげられないんですか!」
アサキは女性へと向かいながら、自分のリストフォンへ口を近付けて怒鳴っていた。
「無理や」
と、ぼそり呟いた応芽の声を、カズミは聞き逃さず、じろりと顔を睨み付けた。
それに気付いた応芽は、気まずそうに少し目を落として視線をかわした。
「そこにいるのはヴァイスタ。放って置いたらそれが何人の人間を殺すと思っているの?」
あえて淡々と語っているとも思える先生の口調に、治奈とアサキは悔しそうに唇を噛んだ。
そんなアサキの顔が、すぐ笑顔に変わったのは、事態好転したわけでも諦めたからでもない。
目撃者である通行人の女性に近付いて、身体をそっと抱き締めたのである。
笑顔、といっても泣きそうなこわばった笑顔であるが、それでもアサキは懸命に、やわらかな表情を作ろうとしながら、抱き締めた。
不運にもおぞましい光景を目撃してしまい、発狂しそうになっている女性の身体を。
「大丈夫、ですから」
力のない声でそういうと、ゆっくり手を伸ばして、女性の頭頂へと翳した。
目を閉じて、強く、念じる。
記憶の一部の、情報伝達を断つ。
魔法そのものというよりは、魔力を応用した技術の類だ。
さらに、女性を誘導するために、軽い幻覚を見せる。
ここは普段通りの通り道。
今ここには誰もいない。
術の効果はすぐに表れたようで、女性は正気を失った、ぽーっとした顔になって、酔っ払いにも似たふらつく足取りで、この場を通り過ぎていった。
「ごめんなさい」
去りゆく女性の後ろ姿を見ながら、アサキは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
以前にも述べたことがあるが、アサキは、他人の記憶を操作することへの嫌悪感や罪悪感が強い。
ただ理不尽な恐怖を味わうだけであった先ほどの女性の、たった数分の記憶を断つことについてさえ、例外ではなく。
もちろん、現在それどころではないことも、理解はしているが。
アサキは俯いていた顔を少し上げて、頑張って毅然とした表情を作ると、四つん這いの白くぬめぬめした化け物、大鳥正香へと視線を向けた。
なんとかしなければ、という覚悟の意味での毅然めいた顔ではあったが、こうしなければという確たる情報も信念も決断もなく、結局、すぐにまた、おどおどした躊躇いがちな表情に戻ってしまった。
それが悔しくて、
なんとかしたいのになんにも出来なくて、アサキは済まなそうに項垂れてぎゅっと拳を握った。
戻す術があるのならば、とっくに先生が指示しているだろう。
つまり対策などは存在しない、あるとしてもまだ分かっていないということだ。
でも、
でも、なにかないのか。
正香ちゃんを、救うことは出来ないのか。
だって、
だって、
幼い頃に家族を殺されるという目にあって、ずっと、十年間も、その辛さを抱えていたんだ。
人間は、味わった辛さの分だけ幸せが訪れなければ、嘘ではないのか。
このままじゃあ、かわいそう過ぎる。
戻せたとしても、成葉ちゃんの生命を奪ってしまったことで苦しむのかも知れないけど。でもそれは、正香ちゃんの責任じゃない。
げご
這いずり回っている大鳥正香が、また、カエルの鳴き声を発する。
アサキは、びくりと肩を震わせた。
大鳥正香が、地へとくっつきそうな低いところから、こちらを見上げていたのである。
その顔には、鼻の小さな隆起しかなく、見ていたというよりは顔を向けていたという方が正確であろうが、しかし間違いなく見られていた。目が合った。そうアサキは感じていた。
「あ……あ……」
青ざめた顔で、一歩退きながら、目を見開いて、上擦った声をあげていた。
大鳥正香の顔を見ているうちに、引き込まれていたのだ。
どっと、感情が、意識の濁流が、アサキの意識へと流れ込んできたのだ。
純然たる怨念が。
憎しみ……母親への、憎しみが。
父親によって母親と姉が殺された、という事件なのに、どうして母親への憎しみなのか。
流れてくるのは、単なる感情であり、その理由までは分からない。
分かっているのは、その憎しみの量、絶望の量を言葉で表すには、アサキの語彙は少な過ぎるということであった。
この、こんこんと噴き上がる怨念を感じているのは自分だけなのか、それは分からないが、それぞれ自分の複雑な立場や感情と向き合っているようで、治奈もカズミも、ぎりりと歯軋りし、息荒く肩を上下させている。
一人、吹っ切れたか、
カズミは、地に唾を吐き捨てると、一歩前に出た。
ぐ、と拳を握った。
自分の爪が食い込んで血で出そうなくらいに、強く、きつく。
歯を軋らせながら、地を這っている大鳥正香を、睨み付ける。
自分にいい聞かせるように、カズミは小さく口を開いて、もごもご小声で呟いている。
なにをいっているか、はっきり聞こえないけれど、でもアサキにははっきり聞こえていた。
カズミの、強い思いが。
ヴァイスタなんだ。
倒さなきゃあ、ならないんだ。
だって、そうだろう。
先生のいう通り、もしここで逃したら、何人の生命が失われることになる?
敵として、倒さなくっちゃいけない。
でも……
出来るわけがないよ。
こいつらみんな、優しいからな。
出来るわけが……ねえよ。
だからこそ……
「だったら、あたしが!」
カズミは、悲しげな怒鳴り声を、不意に張り上げると、両手を頭上高く交差させた。
左腕に着けたリストフォン、内蔵されている魔法力補正装置であるクラフトが、カズミの魔力に反応して光り輝いた。
「変身!」
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