じょいふる

かつたけい

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最終章 ゴキブリ食べたことありますか

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   最終章 ゴキブリ食べたことありますか

     1
 先日、とおがねによって、かさはらかおりの財布が盗まれるという事件が起きた。
 それは風子への、周囲の態度に多大な影響を与えた。
 みなで風子のことを責め立てた後ろめたさや恥ずかしさのためか、風子へのあからさまないじめと呼べるようなものがほとんどなくなったのだ。
 これまでの理不尽ないじめの数々を考えると、決してそれだけが原因ではなく、むしろ風子自身の変化によって、風子自身が種をまき、芽を育み続けた効果、ともいえるかも知れない。ただ、この一件がきっかけとなって、このような状況変化が起きたというのも、また間違いのないことだった。
 一番のいじめっ子であった遠金恵理香にしても、周囲の空気が空気なので手が出しにくなったか、目が合う度に睨み付けるという程度になっていた。

「はい、オレンジジュース。……つぶつぶ入りの」

 風子は、おおはしみちに缶ジュースを渡した。

「お、おう……さんきゅ……」

 大橋道矢は、ちょっとばつが悪そうに受け取った。

「他になにか」
「い、いや……ありがとな」

 別に風子は、使い走りをさせられているわけではない。購買部に行くついでだから、と自分から買って出ただけだ。 

「おう、サッカーマニア!」

 教室の壁の窓に、二年生であるすずうちたつの姿。仲良しのおおひろしと一緒に、廊下を歩いている。窓から風子が見えたので、話し掛けたのであろう。
 まったくの見ず知らずの時に、校庭で一回サッカーボールを蹴っただけなのに、彼はよく風子に話しかけてくる。
 最近はよくこのように、サッカーマニアと呼ばれることが多い。風子は別にサッカーそのものに興味はないが、JFLチームのサポーターであることが、彼にとっては十分にマニアックな趣味に値することなのだろう。だから別に、否定はしない。

「どうも……こんにちは」

 風子は、軽く会釈する。

「どう、部活は」

 窓越しに、鈴内達也は尋ねた。

「……まだ全然ですけど、マイペースでやってます」
「上手になってさ、おれ達の試合を応援に来てよ。ぎょい~ん、でけでけでけって」

 鈴内達也は、妙な声を発しながら、エレキギターだかベースだかを弾く仕草を真似した。

「ブラスバンドなので、そういう楽器はないんですが……」
「あら、そうなんだ。まあいいや。じゃ、またね~」

 鈴内達也は大きく手を振って、大木弘とともに去っていった。

「ねえ、佐久間さん、タッちゃん先輩と知り合いなの?」

 とうよしばやしまさもりかわたく、女子三人に取り囲まれていた。

「一緒に、サッカーやったことがあるくらいで……」
「羨ましい! 今度やるときは、絶対誘ってよ! 別にサッカーじゃなくっても、なんでもいいから!」

 森川拓美は風子の両肩を掴んで、激しく揺さぶった。

「は、はい……機会があれば……」

 鈴内先輩は面白い言動で有名人なのは知っていたが、そんなに女子にもてるとは知らなかった風子である。

「絶対よ、約束よ、あたしら友達よ、友達を裏切るんじゃないわよ」
「はあ……」

 なんと答えたらいいものやら、風子はすっかり困ってしまった。

     2
 ★★★レス厳禁! ハズミSCについてみんなが思い思いのことを語るスレ☆☆☆ 【パート1】


 726:えじー:200x/09/21 (日) 02:16:08 ID:Ekx3Ia1wq
 
 ほんと弱いよな~。



 727:ハズミ命:200x/09/21 (日) 02:24:56 ID:Kze432qox

 明日こそ点を取るぞー。



 728:てつ:200x/09/21 (日) 02:43:19 ID:o1b7SmI5z

 どうも、テツです。バスケ部からお呼びがかかったんで移籍しまーす。



 729:SAM:200x/09/21 (日) 10:10:14 ID:bBydx7xxo

 この前、試合前の交流会で女の子がお菓子を持ってきてくれた。
 このスレ見ているかどうか分からないけど、あらためてお礼ゆわせてください。
 おいしかっっtです。
 ありがとう。



 730:怒りのおじさん:200x/09/21 (日) 16:39:02 ID:gl2ps3pcl

 メガホンじゃなくて手を叩け。耳障りだ。特に真後ろでやられると。メガホンは声出すことのみに使え。あと、前に誰もいないからって、席をがんがん蹴飛ばしてんじゃねえよ。金属パイプ繋がってるから、ごわわわああんて響いてくるんだよ。大人なんだから、最低限のルールくらい守れよ馬鹿野郎。ゴミもきちんと持ち帰れ。田舎っぺどもが。



 731:H&E:200x/09/21 (日) 17:09:42 ID:cqms77cos

 一番後ろの席のあたりでさ、この前の2失点目の直後、「うわ、くせえっ」って思った人、ごめん。犯人オレ。



 732:FW原理派:200x/09/21 (日) 19:58:51 ID:uqmvbcn8

 そろそろトドロキたん得点のヨカーン。



 733:吹雪:200x/09/21 (日) 20:34:15 ID:ixehyaytv

 この前、帰りに駐車場のとこで財布落としたことに気付いてさあ。
 引き返して探してたら、手伝ってくれた男性がいて、おかげでどぶの溝に落ちてたのを見つけられました。
 名も言わずに立ち去った、11番のレプリカユニを着ていた、ぽっちゃり体型の、色白の、チョビヒゲの謎の人。おれと同じくらいだから、身長170くらいの人。ほんとにほんとにありがとうございます。今度絶対見つけだして、なんかおごらせてもらいますからね。



 734:  :200x/09/21 (日) 21:04:04 ID:bcokroh93

 別にサッカーでなくてもよかった。何でもよかった。
 いじめられ続けるのが嫌で、逃れたかった。
 好かれなくてもいいけど、構われない存在、意識されない存在になりたかった。
 自分を変えるしかないけど、どうすればいいのかも分からなかった。
 自分が異端だから目立つ。趣味があれば、なにかが変わるかも知れないと思った。
 そう思っていた時、ひょんなことがきっかけで、ハズミSCの試合を観に行くようになった。
 応援することを通して、いろんなことを見つけられた。
 前向きに成長していこうと頑張っていくことの大切さを教えてもらった。
 以前からのサポーターには悪いけれど、このチームが弱くてどん底の状態の時に出会えてよかった。
 一緒に、少しづつ成長することが出来たから。



 735:絶対残留:200x/09/21 (日) 22:32:48 ID:qrtb3h5pm

 オレの予想した初得点シーン。6バックなんかにしてきて、超守備的に行くと思いきや、全員で攻撃してんの。超攻撃的で、相手は防戦一方、でもなかなか得点出来なくて、あとちょっとでスコアレスドローかって時に、テツからの折り返しを、駆け込んだヨントスがオーバーヘッドボレー。


     3
 うめむらともの足下に、ボールペンが転がった。

「拾ってくれよ、それ」

 遠金恵理香の言葉に、梅村智子は一瞬の躊躇、複雑な表情を見せたが諦めたようにしゃがんでボールペンを拾……おうとしたところ、誰かに蹴飛ばされてボールペンはさらに転がった。

「ごめえん、気付かなかったあ」

 ためが、にこにこと笑っている。
 梅村は這いつくばるようにして右手を大きく伸ばした。いっ、と甲高い悲鳴をあげた。手の甲を踏まれたのだ。

「ちょっと、なにふざけてんの、手なんか伸ばしてきて!」

 はしもとは振り返り、怒鳴った。だがその口元には、うっすら笑みが浮かんでいる。
 足裏でぎゅっと手の甲を捻られた梅村は、苦痛にまた悲鳴の声をあげた。
 最近、よく見る光景だ。
 クラスの女子の半数近くが、まだ飽きもせずに誰かをいじめている。


 誰も知らないことではあったが、梅村智子をクラスでの新たな標的になるよう仕向けたのは、友人であるはずの笠原香であった。
 佐久間風子へのいじめが収束していったことにより、いつ自分にそれが向いてくるのかと恐れ、先手を打って根回しをしたのだ。
 遠金恵理香とのいざこざがきっかけで、風子にカツアゲめいたことを行っていたことがみんなに知られてしまったことがあったが、そのときの責任をすべて梅村一人にかぶせてしまったのだ。


 佐久間風子の足元にボールペンが転がってきた。風子はボールペンを拾った。
 遠金恵理香の表情が、睨み付けるようなとげとげしいものに変化した。
 風子は構わず、遠金の席へと向かうと、ボールペンを机の上に置いた。

「余計なことすんじゃねえよ」

 遠金はダンと荒々しく大袈裟な仕草で頬杖つくと、不機嫌そうに声を発した。

「もう、やめよう……そういうこと。人の気持ちを……もう少し考えて……」

 風子は、そっぽ向いている遠金の顔を、まっすぐ見つめた。

「うるせえあ。なにを小学生みたいな幼稚な正義感振りかざしてんだよ、鬱陶しい。てめえ、またいじめられたいのかよ!」
「それで自分が恥ずかしくないのなら、そうすればいい」

 あのいつもおどおどとしていた佐久間風子に、そうピシャリといわれて、遠金恵理香は二の句を告げなくなってしまった。唇や頬をひきつらせている。また、ダンと机を叩いた。

「梅村さん、大丈夫? 手、踏まれてたけど」

 風子は心配そうに梅村のほうへ行き、手を伸ばしたが、しかしその手は強く払いのけられた。

「気安く触んないでよ! 自分がいじめられなくなって、ほっとしているんでしょう! ざまあみろって、思ってんでしょう! ちょっと前まで、うじうじしていたくせに、なにを偉そうに高いところから見下ろしてんの? あんた何様? ほんと頭くる!」

     4
 余計なことだったのだろうか。
 他の人が酷い目にあっていても、ほうっておけというのか。
 それが、当たり前なのだろうか。
 今までは自分のことで精一杯だったが、こうして少しだけ心の余裕ができると、ほかの人のことが目に付いて、あれこれと気にしてしまう。
 でも……
 あの梅村智子の表情、声……
 プライドを必死に守ろうとしているような、悲痛な……
 やはり、余計なことなのであろうか。


「てめえ、これっぽっちかよ、この野郎」

 廊下の角を曲がった水のみ場のあたりから、声が聞こえてきて、風子は足をとめた。

「だってもうそんなお金……」

 気弱な感じの、男子の声。

「どっかで盗んでくりゃ、いくらでも金なんか作れるだろ。頭が間抜けなのか、お前は」
「いいから金持って来いつってんだよてめえ!」

 頬を殴るような、鈍い音が聞こえた。
 どうしよう……
 他のクラスの生徒の、恐喝現場に遭遇してしまった。
 息が、苦しくなっていた。
 心臓の鼓動が、触れずとも分かるくらいに速くなっていた。
 情けなくなってきた。
 ある程度の言動を取れるようになってきたとはいえ、それは勝手を知る自分のクラスだったから。
 このような場面に遭遇しても、おろおろするばかりで、なにも出来やしないではないか。

「おい、お前らなにしとるか!」

 先生の怒鳴り声が聞こえた。

     5
 朝のホームルームも終了し、一時限目の授業が始まる直前である。
 佐久間風子の姿は、教室にはなかった。
 ほんの、つい先ほどまで、自分の席についていたはずなのに。


 教室の校内放送用のスピーカーから、ガリガリと音が出た。
 そして、人の声。通常は、チャイムを鳴らしてから喋り始めるものなのであるが、突然であった。


 い、い、一年、B組……佐久間風子です。
 みなさんに聞いて貰いたいこと、考えて貰いたいことがあります。
 生きる意味って考えたことありますか。
 みなさんは、どうして生きているのでしょうか。
 そもそも、生きるってなんでしょう。
 生きるということは、自分だけが楽しむことですか。
 自分だけが楽をすること、要領良く生きていくことですか。
 自尊心を満足させることですか。
 気にいらない人を攻撃することですか。
 なにかの感情を人にぶつけるからには、当然相手がいます。
 吹き出す負の感情の、はけ口の対象にされてしまった人が、どんな気持ちで学校に来なければならないか分かりますか。
 いまよりほんのちょっとだけでいいんです。
 相手がどんな気持ちでいるのか、想像してみませんか。
 いまよりほんのちょっとだけでいいんです。
 隣の人に……

 佐久間、お前なにやっているんだ!
 自分のしていることが分かっているのか!



 ふるない先生と思われる、ガラガラとした怒鳴り声。
 スピーカーからは、がちゃがちゃという音がして、最後にぶつっ、そして無音になった。

「おいおい、クマスケのやつ、やってくれたよ!」

 1年B組の教室はどっと沸いた。
 もう授業開始であるというのに。教卓前に先生が立っているというのに。
 突然のアトラクションに、みんな楽しそうに笑っている。

「遠金、お前のこといってたんだぜきっと」
「一番ブー子のこといじめてたもんな」
「ついに爆発しちゃったな、あいつ。退学する気じゃねえの?」
「いやだよ、こんなんやってくれるんなら、毎日来てくれよ」
「クマ最高!」

 楽しげにはしゃぐ生徒たち。
 遠金恵理香は無言で立ち上がると、風子の机に近寄り、蹴り倒してしまった。倒れた風子の机から、中身が飛び出て床に散らばった。
 踏み付け、蹴飛ばした。
 無言のまま自分の席に戻ると、両手のひらで自分の机を力の限り叩いた。

     6
 一年B組の担任は、一時限目はD組での授業を行う予定であったが、急遽自習の時間に変更した。
 職員室に佐久間風子を呼び、叱るためである。
 というわけで、風子は現在、職員室で足を組んで座る担任の前に立たされている。

「まったくお前は……」担任教師はお茶をすすった。「一学期にはトイレでタバコを吸って停学になるし、問題ばかり起こす奴だな」
「すみません」

 停学の件、風子は無実であるが、この先生に説明し分かってもらおうなどとは思わない。

「なにがすみませんか。謝って済む問題か。放送室ジャックなぞして、やっていいこと悪いことの区別もつかんのか。だいたいお前はだな……」

 風子は、延々と続く説教を黙って聞いていた。
 自分の主張そのものは間違っていないと思うが、確かに主張などというのはあのような場で、あのように述べるものではない。
 今回の件は、全面的に自分が悪いと思っている。
 しかし、自分でも理解出来ないのだが、そうせずにいられなかったのだ。
 何故だか無性に、ことを大袈裟にしてやりたかったのだ。
 その後、三十分ほども説教を受け続けただろうか。

「どうだ、反省したか」

 ようやく一段落ということか、先生は飲み干した湯飲みを机に置いた。
 風子は、まったく表情を変えることなく、おもむろに口を開いた。

「はい。……最初から、よくないことは分かってました。反省した上でのぞみました」
「馬鹿かお前は! それは反省しとらんってことじゃないか!」

 先生が怒るのも当然だろう。しかし、風子には風子の考え、いいたいことがある。

「そもそも何故こういうことをいいたくなってしまったのかを、よく考えてみて下さい。……生徒一人一人から、目をそらさないで下さい。いいやすい生徒にだけいって、あとは知らぬふりするのもどうかと思います。そういうことがしっかりと出来ないのなら、教師という職業が向いていないのだと思います」
「生意気いうなこの!」

 先生は目をかっと見開き、立ち上がった。
 頬を張る音が響いた。

「親のスネかじっとるガキの分際で、教師の仕事を云々するな。なにも分かっていないくせに」

 すっかり興奮してしまっている。

じき先生、今時体罰はまずいですよ、すぐ問題になっちゃうんですから」

 隣の男性教師が、心配して声を掛ける。

「親にいいつけるなら、いいつけりゃいいんですよ」
「誰にもいいませんから。……では、失礼します」
「おい、佐久間、待てこの、こら!」

 風子は、担任の制止も聞かず、立ち去った。
 廊下へ出ようと、職員室のドアを開けた。
 そこに、遠金恵理香が立っていた。

「ちょっと面貸せ」

 彼女の口元には軽い笑みこそ浮かんでいるが、目は充血し、怪物のような異様な狂気を帯びていた。

     7
「舐めたこと、いってくれたねえ」

 体育用具室に、佐久間風子と遠金恵理香の姿はあった。
 先日、男子生徒に襲われた場所であるが、風子は気にせず、来た。なにかあれば、また窓ガラスを割って騒いでやると思っている。
 遠金の言葉に、風子はただ沈黙している。

「あたしのこといったんだろ」
「誰にどうとかじゃない」

 風子は、ようやく口を開いた。

「自分の気持ちとして、いわずにいられなかった」
「でも、あたしのことだろ」

 遠金は、ふんと鼻を鳴らした。

「そうかもしれない」
「ふざけんなよ、てめえ!」

 遠金の目が吊り上がったかと思うと、拳を振り上げ、風子へと殴りかかった。
 直後、遠金の目は驚愕に見開かれた。
 突き出した手を、風子が受け止め、掴んだのである。
 もう片方の手を振り回す遠金であるが、風子はその腕をも掴んだ。

「離せ、この馬鹿!」

 遠金が予想するよりも、遙かに風子の腕力があったのであろう。火事場の馬鹿力というものか、はたまたケーキ屋での肉体労働の賜物か。
 だが遠金にとって、腕力がどうこうよりも、風子が抵抗してくること自体がなによりも信じられないようであった。
 いつも黙って殴られ、一つ怒るだけで十の土下座をしていたのだから。
 風子の手をなかなか振りほどくことが出来ず、舌打ちする遠金。
 しかし、さすが荒っぽいことには慣れて場数を踏んでいるということか、遠金は、不意に風子へと飛び込み、体当たりを浴びせた。
 風子はバランスを失い、よろけ、後ろの壁にぶつかった。
 遠金の手が、自由になる。
 一瞬にして、風子へと詰め、髪の毛を掴んだ。
 こうすれば、風子の顔面を壁にぶつけてやることも、顔面に膝蹴りを叩きこんでやることも出来る。
 と、考えたのかも知れないが、しかしそれも束の間。風子の手が伸びて、遠金の髪をつかみ返していた。と同時に、風子は残る片手で、自分の髪の毛を掴む遠金の腕を激しくしめあげた。
 遠金は激痛に耐え切れず、苦痛の呻きを洩らした。
 風子は、自分の髪の毛を掴む遠金の腕を、強引に跳ね上げ、自らから引き離した。
 今度は、自由になった風子が遠金をつきとばした。
 先ほどとは反対に、遠金が壁に背中を叩きつけら、呻き声をあげた。
 遠金のすぐ眼前に、風子の顔があった。
 そして風子は、小さく口を開き、ゆっくりと、はっきりと、言葉を発した。

「今まで、自分がなにをしてきたのか……考えてみて」

 風子は、真っ直ぐ遠金の顔を見つめている。その、あまりの表情のなさが不気味であったのか、遠金の腕や首筋に、ぶつりぶつりと鳥肌が立っていた。
 遠金は、唾を飲み込むと、いまにも喰い付かんとする犬のように、険しい表情で大きく口を開いていた。

「やられるほうが悪いんだよ! お前が馬鹿で、どんくさかったってことだよ! ゴキブリ女! ばーか! ばーか!」

 その、もはや罵詈雑言ともいえないような言葉に、風子はまるで表情を変えることなく、ただ、小さくため息をついた。


 めにはあおば  まほととぎす はつがつお


 遠金の叫び声をかき消すかのような、凄まじい音が響きわたった。
 風子が遠金の頬に、渾身の力を込めた平手打ちを放ったのだ。
 意外と腕力のある風子である。遠金はたまらず、吹っ飛ばされ、もんどり打って床に倒れた。
 真っ赤になった頬をそっとおさえ、上目遣いで風子を見つめる遠金。
 突然、大きく口を開くと、凄まじい金切り声をあげた。
 目が大きく見開かれている。恐怖に怯えたような、怒りに震えるような、そんな表情であった。
 いつも見下していた相手に冷たい表情で見下ろされ、彼女は軽い錯乱状態に陥ってしまったようであった。

「よしお、よしお! この前の女がいるよ。早く来て! 犯っちまってよ!」

 なんとなく聞き覚えがある。確かよしおとは、竹田の下の名前だ。先日、この場所で風子を襲おうとしていた、男子生徒。遠金との交友関係は、よくは知らないが。
 しばしの沈黙の後、風子はおもむろに口を開いた。

「……遠金さんの仕業だということは分かっていたけど。……でも……どうして、あんなことを……」
「さして不幸でもないくせに、自分を不幸だと思いこんで、じめじめして、戦おうともしない。そんなに自分を不幸と思いこんで酔いたいんだったら、本当に不幸してやりゃ満足だろう。……そう思ったんだよ!」

 遠金は、風子と視線を合わせようとしない。
 明後日の方向に、喚き続けている。

「そんな理由で……」
「あたしがなんでこんな嫌な奴になったかなんて、てめえにゃ分からないだろ! なんでこんなクソみたいなねじくれた奴になったかなんてさあ。お前、レイプなんかされたことないだろ!」
「あるよ」

 風子は淡々といった。
 過去の記憶に一瞬、苦痛の表情を浮かべた。
 遠金は、唖然とした表情で風子の顔を見つめていた。ごくり、と唾を飲んだ。
 風子は、ゆっくりと語り出す。

     8
 中二の時、風子は同級生の男子数人に強姦され、処女を失った。
 きっかけは、親友であったあつとの、ちょっとしたいさかいだった。
 風子に恨みを抱いた阿尾敦子は、クラスの不良生徒に風子を襲うようけしかけたのだ。
 行為の写真を、男子に撮られた。
 ばらまかれたくなければいうことを聞け、と、ことあるごとに呼び出され、蹴られ、殴られ、性欲処理の玩具にされた。
 あまりに恥ずかしく、屈辱的なことであったため、レイプされたことまではいえなかったが、親や先生に暴力を受けていることを相談した。
 先生は、調査しますといったきり、結局最後までなにもしてくれなかった。
 親に、学校に行きたくないと伝えた。「戦わないから舐められるんだ」と無理矢理に連れていかれた。単なるいじめと思っているからこその言動であろうが、でも、レイプされたことを黙っていてよかったと風子は思った。こんな親では、それすらも自分が悪いことにされてしまうから。
 風子は何度も自殺を考えたが、どうしても死ぬことが出来なかった。
 そうこうしているうちに、もう何ヶ月も生理が来ていないことに気が付いた。最初はストレスによる生理不順だと思っていたが、段々と不安になってきた。
 男子生徒らに打ち明けた。
 なお、この頃には不良仲間が不良仲間を呼び、風子を玩ぶ男子たちの人数は十人ほどに膨れ上がっていた。
 生理の来ないことに対し、みな最初は笑って相手にしなかった。
 本気でいっていることが分かると、「おろす金なんかあるわけねえだろう!」と、彼らは風子を床に叩きつけ、血を吐くまでお腹を蹴飛ばし続けた。
 その後も、風子は変わらず陵辱を受け続けた。
 毎日のように、呼び出された。
 やはり、生理が来ない。
 お腹はまだまったく変化はない。しかし、変化してからでは遅い。死ぬほど恥ずかしかったが、妊娠検査薬を買ってみた。
 結果は陽性だった。
 五回検査し、五回とも陽性だった。
 当然といえば当然だった。生理が来ないことに気が付いた段階で、医者にかかるべきだったのだろう。
 結局、同じ県に住んでいる祖母に、親には内緒にしてもらって金を借り、中絶手術を受けた。
 自殺すら出来ない自分の勇気のなさが腹立たしかった。
 宿りつつも生まれることのない魂を作ってしまった罪悪感に、身も心も崩れそうだった。
 ほんの数ヶ月の間に、風子はすっかり陰気な性格へと変わってしまっていた。
 クラスの男女全員からいじめられるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

     9
「でたらめいってんじゃねえよ!」

 遠金恵理香は叫んだ。

「……本当は、一生誰にも見せたくなかったんだけど」

 風子は制服の裾をたくしあげ、お腹を出した。
 遠金は思わず呻いた。
 吐き気を催したかのように、口をおさえた。
 へその周囲の皮膚がひきつれている。
 肉が裂けるほどに蹴られたのだろう。
 しかも赤黒く、痣が残ってしまっている。
 それだけではない。右腹から、左胸にかけて、肉が盛り上がって赤い線になっている。
 すっかり精神錯乱状態になって、男子の一人を刺し殺そうと、ナイフを持って襲いかかったことがある。ナイフをもぎ取られ、興奮し激高した男子に返り討ちにあった、その時の傷痕だ。

「毎日のように蹴られて、殴られて、生きたゴキブリを口に入れられたり、裸にされてプールに投げ込まれたり、燃え尽きるまで背中に蚊取り線香を置かれたり、腕を縫い針で刺されたり、接着剤を目や口に塗られたり……毎日、毎日、毎日、毎日……どんなに苦しいか、想像……出来る?」

 風子の呼吸は荒くなっていた。
 頭を抱えた。
 なにか、暴力から守ろうとするかのように、必死の形相で、頭を抱えた。


 もう殴らないで。
 蹴らないで。
 なんでも……いうことききますから。
 だから、
 お願い……します。


 頭を抱えて低い呻き声をあげる風子。
 床に崩れたまま、涙目になって見上げている遠金。
 風子は、なにかまとわりつくものを振り払うかのように、ダン、と壁を強く叩いた。
 息荒く、あらためて、遠金の顔を見下ろす。
 そして、口を開く。

「多かれ……少なかれ、人は……生きていれば、理不尽な目に、辛い目にあう。だからって、関係のない人間を攻撃していい理由になんか……ならない。……本当に地獄にいるかのような苦しみを味わったのなら、そんなに苦しい思いをしたんだったら!」

 風子はいきなり、遠金のお腹を蹴飛ばした。踵で、踏み砕くように。
 遠金は悲鳴をあげ、こみ上げる嘔吐感に口を押さえながら、ばたんばたんと床を転げ回った。

「そんなのは、たいしたことじゃない、ただの肉体の痛み。……遠金さんだって、そんな……さっきいっていたような、酷い目にあったというのなら、体も、心も、とても痛かったはず。……でも、本当に痛かったのなら……本当の痛みや、辛さを、知っているのなら、他の人を同じ目にあわせようなんて、思うはずがない。……きっと、その時に本当の苦しみというものを感じなかったんだ」

 その淡々とした口調に、遠金は身体を震わせながら、おずおずと風子の顔を見上げた。
 風子の表情に、ひ、と悲鳴を上げた。

「だから……今から本当の苦しみってものを、教えてあげるよ」

 風子は、近くに置かれているドラム缶を思い切り蹴飛ばした。これまでにないくらいの、力を込めて。
 がん、という音以外に、本来聞こえてくるはずのない音が聞こえた。
 聞いたことのない、奇妙で、不気味な音。
 風子の足首が、本来曲がるはずのないほうに曲がっていた。
 ぐっと呻き声を上げ、顔を歪ませると、ばたりと床にくずおれていた。
 足首を押さえ、なおも激痛に呻いている風子。
 遠金は、はあはあと荒い呼吸をしながら、よろよろと、なんとか立ち上がった。
 引きつったような笑みを浮かべた。

「ば、馬鹿じゃねえのかこいつ……自分で自分の足を折っちまいやがった……」

 遠金は、ふらつく足取りで体育用具室を去っていった。
 風子は、かつて感じたことのない激痛に、涙をぼろぼろこぼしながら床をのたうち回り続けていた。

     10
「いよいよだなあ」

 なお腕を組みが、しみじみとした口調でいった。彼は、蓮見製菓社員、元サッカー部の選手だった男である。
 ピッチ上では、これから試合を行う選手たちがウオーミングアップをしている。

「そうですね」

 と返すのは、彼の隣に座る佐久間風子。脇には、松葉杖をかかえている。
 風子の足首の骨は、若さもあってかなり回復こそ早いものの、まだまだギプス固定で松葉杖がかかせない状態だ。
 彼女のそのまた隣には、近藤悠子が座っており、

「今日こそ、ぜーったいに勝つぞお」

 ぎゅっと拳を握って気合を入れている。
 ここは華鳴市立烏ノ山陸上競技場、観客席の最前列だ。



 結局、携帯電話で救急車を呼んだり、職員室にいる教師に声を掛けに行ったのは遠金恵理香であった。
 風子はあまりの激痛に、戻ってきた彼女に涙目でお礼をいうのが精一杯だった。
 所詮は肉体の痛みだ、などと格好をつけた直後だというのに、最悪に自分がみっともなく、恥ずかしかった。
 脅かすためにドラム缶を蹴飛ばして、まさか自らの骨を折ってしまうなんて……
 その一件から、すでに一ヶ月以上が経過している。
 遠金恵理香であるが、以前ほどの荒々しさがなくなり、おとなしくなり、あまり喋らなくなり、そして、つい先日、他県の高校に転校していった。
 親の転勤が理由とのことだが、実際のところはどうなのか分からない。
 遠金には、まったく恨みはない。
 さりとて別に同情も感じない。
 過去、同じような目にあい、自分はこうなり、彼女はああなったというだけのこと。
 立場が逆でも、おかしくなかったのだ。
 今となっては、彼女に対して奇妙な仲間意識すら感じている。
 とはいっても、もう会うことはないだろうが……



 骨折してからも、風子はハズミSCのホームゲームには足を運び続けた。
 しかし願いも虚しく、ハズミSCは無得点記録を更新し続けた。
 今日十月二十六日は、JFL後期第十三節、エアーズ和歌山との試合だ。
 来期からJ2が一チーム、JFLが二チーム、とそれぞれ枠が増えることに伴い、今年のJFLには自動降格がなくなった。地域リーグに落ちる可能性があるのは、入れ替え戦を戦わなければならない最下位のチームだけだ。
 現在、ハズミSCがその最下位である。
 追い抜ける可能性が確率上残されているのは、下位から二番目である鎌田製鉄FCのみだ。
 可能性があるとはいえ、状況は絶望的といえる。
 最近まで、ハズミSCとの勝ち点差が一だけだった鎌田製鉄FCだが、しかし前々節ついに初勝利。なんと次の試合も勝利してしまったことにより、ハズミSCとの勝ち点差が大きく開いてしまっているのだ。
 ハズミSCが残留を果たしたいのであれば、他力本願は当然のこと、自分たちもこの後の試合を勝ち続けるしかない。
 もしも今日、鎌田製鉄FCが引き分け以上、もしくはハズミSCが引き分け以下ならば、その時点でハズミSCの今期最下位が決定する。
 そうなれば、社会人チームとの入れ替え戦を戦うことが決定してしまう。
 先ほどの木場直樹の、「いよいよだなあ」という台詞、それはそういう意味であった。いよいよ、「今日で来期の運命が決まる」という試合を迎えたのだ、と。
 入れ替え戦を戦うことになろうとも、最近の守備陣の出来を考えれば社会人チーム相手にははほぼ鉄壁といえるだろう。
 しかしサッカーはなにが起こるか分からないスポーツ。相手だって、モチベーション高く挑んでくるだろう。
 最初から引き分け狙い、PK戦狙いで挑まれたならば、そうそう相手の守備を崩せるものではない。
 と、普通に考えるだけでも不安な要素がたくさんあるというのに、しかもハズミSCは魔女の呪いでもかかっているのか今年一得点すらもあげていないのだ。
 一得点でもあげられれば、呪縛から解放される。そうなれば、この守備陣だ、負けるわけがない。
 しかし、それが出来ないから、困っているのだ。
 と、いうサポーターたちの悩み。
 分かる。
 でも。だから、来たのだ。
 風子は。
 この、スタジアムに。
 自分なんかに、試合をどうこうする力なんかあるはずないと思うけれど、そんなことは関係ない。精一杯、大好きなチームを応援するために。


 ハズミSCとエアーズ和歌山、ユニフォーム姿の両選手達がピッチ上に広く散らばった。
 センターサークルの中央に、ボールが置かれる。
 主審が時計を見、そして、手を上げる。
 笛の音が鳴り響いた。
 ハズミSCボールでキックオフ。
 運命を分ける戦いが、始まった。

     11
 開始早々から、ハズミSCの動きがどうにもぎこちない。
 点を取らなければ入れ替え戦行き決定、ということが焦りを呼び、冷静さを失わせてしまっているのだろうか。
 と、風子は思った。
 それほど、素人目に見ても、酷い出来だったのだ。
 パスは簡単にカットされてしまうし、相手のプレッシャーをなんとか凌いでも、ただ自陣でのろのろとボールを回すだけ。気ばかり焦るのみで、出しどころがないのだ。
 結局、適当なロングボール。
 当然のごとく相手に奪われ、縦パスの速攻であっという間に大ピンチ。
 ハズミSCのサポーターからは、選手たちの行動が自滅行為にしか見えなかったであろう。少なくとも風子には、そう思う。そんなことはないのかも知れないけど、選手が勝つために頑張っていることなど分かるけど、でも、そう思う。
 仕方ないのも分かる。
 点を取らなければならないといっても、その点の取り方を知らないのだから。
 十分、二十分と時が流れていく。
 開幕時の守備陣だったら、もう何点取られていたかも分からない。
 いや、今だって一点取られたら、立て続けに取られる可能性は高い。絶対に勝たなければならない今日の試合、バランスを崩してでも点を取りに行く必要があるためだ。単純に、迫る降格に意識が動揺もするだろう。
 防戦一方のハズミSCであるが、狙って守備的にというよりも、単に混乱しているだけのようである。
 個人能力の高い守備陣であるため、簡単に失点こそしてはいないが、しかし、ここ数試合でワーストといってもよい酷い試合内容。なにをしたいのか意図の分からないボール回し。

「なんだか、もやもやするなあ」

 近藤悠子はじれったそう。
 拳を握っては、自分の太ももをしきりに叩いている。

「だな。こんなメンタルじゃ、入れ替え戦だって厳しいぞ」

 木場直樹が呟く。
 風子たちは、最近彼と一緒に試合を観ることが多い。
 社の飲み会で秋高鉄二に、「木場さんは若く可愛い娘が好きなだけですよね」といわれたことがあると、風こたちの前で平気で話していたこともあるくらいだ。もちろん奥さんがいつもすぐそばでしっかり見張っているからこそ、そういうこともいえるのだろうが。

「入れ替え戦なんて行かないよ。絶対勝つんだから!」

 声を荒らげる悠子。

「そうだな、すまんすまん」
「どうせ、鎌田製鉄なんてこれから負け続けるんだから。ハズミは今日から連勝。入れ替え戦なんかしないよ」

 予想なのか願望なのか、どちらなのか傍からはさっぱり分からないが、過去の結果を考えれば、誰もが願望としか受け取らない台詞であろう。
 過去の結果だけではない。現在の、選手たちの動きを見ても。
 攻守あまりにも連係がちぐはぐ。その分を個人で頑張ろうにも、その個人個人の気持ちがすっかり畏縮してしまっている。自分たちの動きの悪さから、結果、相手から怒濤の攻撃を受けることとなり、ピンチまたピンチで一瞬たりとも気の休まる暇がない。
 入れ替え戦が……降格が、近づいてくる。ハズミSCのサポーターからすれば、胃に穴が空きそうなほどストレスのたまるゲーム内容であったことだろう。
 しかし、畏縮しながらも精一杯に走る守備陣の奮闘と、神様の分けてくれた幸運とで、ゴールを割らせることだけはなんとか阻止し続け、そして、前半終了の笛が鳴った。

     12
 風子らの知るはずもない、ハズミSC控え室。
 ここでも、自分達の人生を賭けた、戦いが行われていた。


「じゃ、後半は6バックな。この前のやつやるから」

 監督がとんでもないことを実にさらりといってのけたため、最初みんなの頭の上に疑問符が浮かんでいた。
 聞き取れてはいたけれど、信じられなかったのだろう。
 段々と、選手たちの顔が蒼白になっていった。

「点取らなきゃいけないのに、そんな……駄目ですよ」

 なかえいが、キャプテンとしての任務を果たそうとする。殿の乱心を止めなければ、と。

「馬鹿、攻撃的6バックだよ。この前練習で何度かやってみただろ。あれを、有効に働かせるためには、とにかく全体をコンパクトにすること、DFもボランチも全員FWになったつもりでやること。いうことはそれだけだ」
「つうか、あれ、単なる遊びでしょう!」
「最初はな。ただ、やれそうなことを実感した。なんとなく。……驚かせてやれ。面白い試合になるぞ」

 状況をわきまえずただ面白いことをいっているとしか思えないその言葉に、田中英二は別にメンバーを代表してというわけではないだろうが深いため息をついた。
 ながーく息を吐いたと思うと、今度は深く息を吸い込んだ。
 ながーく息を吐いたと思うと、今度は深く息を吸い込んだ。
 大袈裟に、わざとらしく。

「みんなもやれよ。ほら、吐いて~……」

 田中は、選手たち全員に何度も深呼吸をさせた。いつの間にかにんまりとした笑みを浮かべ、みんなの顔を見つめている。
 その、田中の表情を見ているうちに、いつの間にか、みんなの顔にも笑みが浮かんでいた。そして、誰からともなく声をあげて笑いだしていた。
 田中も、ふふっと笑った。

「こうなったらさ、楽しむしかねえよな。がちがちしてちゃあ楽しめねえからな。……勝てるかどうかなんて、誰にも分からん。相手だって頑張っているんだし、サッカーってそういうもんだし。今日だって、失点するかもしれない。でも終了の笛が鳴る最後の最後まで、ボールを追いかけて、ゴールを目指そうぜ。仮にだ、仮に今日負けたとしたって、入れ替え戦に勝ちゃいいだけだ。もし落ちても、強くなって上がってくればいい。……みんな一緒にさ。そんだけのこった」

 それは、超高校級として騒がれた過去のある元Jリーガーの、いわば社会人リーグ残留宣言であったか。
 もし降格したならば、他のクラブからのオファーもあるだろうに。J2、もしかしたらJ1からだって、声がかかるかも知れない。
 しかしこれが田中英二の、彼なりのキャプテンとしての責任の取り方だったのであろう。
 期待されて加入しながらも、これまでただの一勝たりともチームにもたらすことなく、今日負ければ降格といった状態にまでチームを追い込んでしまった、責任を。
 みんな無言で、キャプテンの顔を見つめていた。
 全員、前半開始前とはあきらかに目の輝きが違っていた。

     13
 主審が片手を上げる。後半開始の笛が鳴った。
 ハズミSCは、ハーフタイムで選手交代を行っている。

 たかやまゆうOUT。
 みずきようすけIN。

 センターサークルでボールを持ったエアーズ和歌山のFWが、まず後ろにボールを戻す。追い掛けるハズミSCのとどろき
 世界各国共通の、キックオフ後の動き出しであろう。
 しかし思いのほか激しい轟のプレスに、エアーズ和歌山のMFは焦り、ボールを足下におさめる際にもたついてしまう。
 轟は、一気に間合いを詰める。しかし相手が焦って蹴ったボールは、運悪く轟に当たって大きく飛んでタッチラインを割ってしまう。
 エアーズ和歌山は、すぐさまスローイン。
 ほとんど一直線上に並んでいるようなハズミSC守備陣の中から、おかざきけんが巧みに飛び出しカットした。そして前線へ大きくフィード。
 ハイボールを処理しようとしたエアーズ和歌山のDFに、ボールだけを見て走り寄った轟がぶつかって倒してしまう。
 主審は轟に近寄り、イエローカードを出した。
 観客席で観ているこんどうゆうはぼやく。

「ああもう。視野狭いなあ。……というか、だいたいなによ、あのハズミのディフェンスは。ボランチが引き過ぎて、6バックじゃん。本来ボランチの位置に、司令塔の英二がいるよ。点取らなきゃいけないのに、ガチガチに守り固めちゃって、なに考えてんの?」

 悠子はもどかしそうに、声を荒らげる。
 いらいらしてしまって、タオルマフラーを引っ張ったり縮めたりと、意味のない行動をとってしまっている。

「あの監督、酒飲み話を本当にやっちまうつもりとは。……悠子ちゃん、まあ見ていな。勝負の結果はそりゃ神様だって分かんねえけど、面白いものが見られるぜ」

 なおが、ちょっと興奮したように髭面の奥で笑みを浮かべた。

「いわれなくたって、最後の最後まで見るわよ」

 唇を尖らせる悠子。
 しかし、やはり悠子にはなにを考えての布陣なのかがさっぱり分からないようで、

「面白けりゃいいってものじゃないのよ」

 と、しきりに小声でぼやいている。
 悠子の隣では、佐久間風子が両手を組んで、祈るような気持ちでピッチでの攻防に視線を向けている。

 どん どん どん どん

 両サポーターの太鼓の音、そして必死の声援が、ピッチ上の選手達に降り注がれている。
 エアーズ和歌山の七番、けいいちがボールを持った。彼はJFL屈指のドリブラーだ。ドリブルの速度はさほどでもないが、とにかく器用で簡単にはボールを奪われない。
 ハズミSCは、ほぼフラットに並んだDF六人のうち、二人がさっと飛び出して取り囲み、ボールを奪おうとする。
 和歌山の羅田は、背後から自分を追い抜こうとする味方の動きに反応して、くるり反転しつつヒールでハズミSCゴールへと、軽く蹴った。
 しかし、そのパスはエアーズ和歌山には渡らなかった。
 余っているハズミSCのDF陣に、奪われたのだ。
 ハズミSC、ヨントスからあきたかてつにボールが渡る。そして鉄二から、やや自陣に戻り気味だったFWありむらこうへいに。

「やるぞお!」

 キャプテンの田中英二は、片手を高く上げ、叫んだ。
 それはハズミSCの、反撃の狼煙であった。
 直後、観客席、そして相手チームの選手は信じられない光景を目にすることとなった。
 ハズミSCの、自陣にべったり引いていた守備陣六人が、一斉に前方へと走り出し、オーバーラップ、駆け上がり、前方の味方を追い抜いた。
 前線へと出た守備陣にボールが渡ると、FW、MFはバランスを取るように後方へ。
 つまり瞬く間にDFと、FW、MFとが完全に入れ替わったのである。
 観客席にどよめきが起きた。
 完全にマークする相手を見失った、エアーズ和歌山の選手達。
 秋高鉄二が、パスと見せかけたフェイントでDFをかわし、一気にドリブルでペナルティエリア内に入る。

「テツ! 行けえ!」
「決めろ!」

 ハズミSCサポーターの、叫び声。
 鉄二は、相手GKと一対一になった。
 GKは飛び出し、激しいスライディングでボールを奪った。鉄二は足を払われ、宙を舞い、地に落ちた。
 主審の笛が鳴った。
 ハズミサポーターからブーイングが起こる。
 だがこれは、PKだろう。ハズミSCによる決定的ともいえる得点機会を阻止したのだから。
 しんと静まり返る応援席。裏腹に、ハズミSCのサポーターや、選手達の胸は、張り裂けんばかりに高鳴っていることであろう。
 だが、結果は彼らの予期せぬものだった。
 倒された秋高鉄二に、イエローカードが出されたのだ。
 シミュレーション、という主審の判定だったのだろう。PKを貰うためにわざと倒れたという。
 ハズミSCのサポーターから、壮絶なブーイングが起こる。
 今日勝てなかったならば、他会場の結果を待つまでもなく入れ替え戦行きが決定してしまうのだ。当然であろう。
 ついに初得点、という機会を潰されたのだ。当然であろう。

「わざとなら、ああまで痛そうな顔しねえよ、テツは器用な演技の出来るタイプじゃねえ」

 観客席で、蓮見製菓サッカー部OBである木場直樹が吐き捨てる。
 ピッチ上、秋高鉄二は立ち上がり、審判に文句をいうこともなく腰をさすりながら自陣へ戻って行く。
 ハズミSCの選手たちであるが、ポジションはすべて元にもどっているようである。DFはDF、MFはMF、FWはFW。
 エアーズ和歌山GKの、助走を付けた大きなキックで、ゲーム再開だ。
 6バックの一人であるともよしが、J1を知っているだけあるといった絶妙な勘と経験とで落下点を予測、マッチアップする相手FWの方が大柄だというのに、しっかりとボールを奪った。
 友井は落ち着いて、頭で田中英二へと送る。
 田中は胸でトラップし、落ちるところを轟祐二へ柔らかく蹴り上げる。
 轟は相手のプレスをかわすと、再び田中へと戻す。
 ここでまた、ハズミSCの守備陣全員オーバーラップが発動。
 先ほどと比べれば、対応されてしまっているが、やはりエアーズ和歌山の選手達はマークのズレにより混乱しているようだ。
 その混乱する守備の間を縫って、入れ替えでボランチの位置にまで下がったセンターFWの轟が不意に飛び出し、友井芳樹とのワンツーで相手をかわし、シュートを放った。
 エアーズ和歌山のGKは、まったく反応出来なかった。
 しかし、なにをしようとも個人技が突然向上するものでもなく、ボールは虚しくも枠の上へ。
 エアーズ和歌山のゴールキックになった。
 友井芳樹が先に落下地点に入り、跳ね返し、水田恭助が拾った。
 ボールを回し始めるハズミSC。

「ね、段々と、和歌山の攻撃が薄くなってきてない?」

 素朴な疑問を発する、観客席の近藤悠子。

「守備陣が厚くなってんだよ。JFLでハズミSCに点を取られたチームはないってのに、ここ数分で何度もヒヤリとさせられたからな」

 自分の見解を述べるのは、木場直樹である。
 風子は、彼らの言葉を考えながらピッチを見る。
 確かに、木場直樹のいったような、そんな気持ちが選手たちに影響を与えているのかも知れない。それほどにエアーズ和歌山は、なんだか楽しんでいないサッカーに見えた。前半の、ハズミSCの選手たちのように。
 反面、躍動感に溢れているように見えるのはハズミSCである。
 自陣に引きこもりがちになる相手に、ハズミSCは波状攻撃で何度もエアーズ和歌山ゴールを脅かす。
 守備陣全員オーバーラップのもたらした効能であろうか。ハズミSCの選手たちは、現在奇策によらず、正攻法でエアーズ和歌山の選手を押し込め、防戦一方へと追い込んでいた。
 頻繁なオーバーラップなど、自身も混乱するだけであろうし体力も消耗する諸刃の剣。しかし、こうなることを予測しての監督の作戦だったのであれば、それは見事に的中したといえるだろう。
 しかしながら、引かれた分だけ回せるとはいえ、引かれているのだから相手ゴールは硬く、なかなかこじ開けることが出来ない。
 怒濤の攻めを見せるほどに、相手はより自分の殻に閉じこもってしまう。
 ハズミSCに初めて得点を与えたチーム、という汚名を被りたくないのであろう。初めてどころか、唯一になるかも知れないのだから。
 守り続けるエアーズ和歌山。
 攻め続けるハズミSC。
 刻々と、時間が流れて行く。
 そんな中、ハズミSCに二つの悲劇が起きた。
 まず、友井芳樹の負傷退場。
 レッドカードでもおかしくないような、羅田圭一の悪質なファールに見えたが、それはサポーターの贔屓目というものだろうか。羅田にはイエローカードが出されただけだった。
 交代要員として、わたなべてるひこが入った。朴訥とした雰囲気の、風子が気に入っている選手だ。
 交代から数分後に起きたこと、それが二つ目の悲劇であった。
 次のようなものである。
 エアーズ和歌山のFWと、岡崎健吾が接触した。互いに上空のボールだけを見てしまい、相手に気づかなかったのだ。二人ともピッチ上に倒れ込んだ。
 主審の笛が鳴り、試合が止まる。
 倒れている二人に近寄ってきた主審は、躊躇うことなく岡崎健吾に向けてレッドカードを出した。
 客席が、一斉に爆発した。
 納得いかない、というゼスチャーで主審に詰め寄るヨントス。今度はヨントスにイエローカードが出された。

「これがレッドで、さっきの友井に怪我させたのがイエロー? わけ分かんない! その前だってPKのはずなのに、テツのシミュレーションとるし。なんかむこう、選手が十二人もいるよ! 審判、敵だ!」

 タオルマフラーを叩きつけ、喚く近藤悠子。
 十一対十、悠子にいわせると十二対十で試合が再開した。
 こうなった以上は必然であるが、ハズミSCの先ほどまでの勢いは完全に萎え、防戦一方に回らざるを得なかった。
 田中英二は、なにやら大きな身振りで味方を励ましている。「守備陣の六枚が五枚になっただけ、気にしない気にしない」など、落ち込む仲間の精神を慰め励ましているのだろう。
 しかし、十一対十だ、大きく影響するに決まっている。
 しかも、Jリーグでも通用しそうなDFしかもセンターバックを、レッドカードによる一発退場と負傷退場とにより、一気に二人も失ってしまったのだから。
 エアーズ和歌山は水を得た魚のように、完全に息を吹き返していた。
 猛攻また猛攻。
 ハズミSCとしては、相手の怒涛の攻撃に耐えるしかなかった。
 我慢しながらも、なんとかチャンスを窺うしかない。
 点を取られない限り希望はあるといっても、その希望が、どんどん失われていく。選手、サポーターの表情から。
 一点でも取られたら終わりだが、一点も取れなくても終わりなのだ。
 スコアレスのまま、刻々と時間が過ぎていく。
 そしてついに、後半ロスタイムに入った。
 ロスタイムは三分だ。
 攻められ続けていたハズミSCであるが、秋高鉄二がなんとかボール奪取。そこから田中英二、轟祐二、とボールが渡る。
 人数有利に攻め急いで前掛かりになっていたエアーズ和歌山の、穴を突いた格好になった。
 轟が、田中とのワンツーで、するりと抜け出したのだ。
 オフサイドはない!
 ゴールへ走る轟。
 相手GKと一対一になった。ゴールへの角度が急であったため、切り返し、そしてペナルティエリアに入り込んだ。
 と、その瞬間、追いすがる和歌山の選手に背中を突き飛ばされ、倒され、転がった。
 主審の笛が鳴った。
 轟はとくに足を傷めたふうでもなく、すっと立ち上がった。
 主審が駆け寄ってきた。
 馬鹿、演技しろ、痛がれ! ハズミSCの他の選手、サポーターのほとんどが、そんな表情になっていただろうか。
 半分期待、半分落胆といった。
 この主審だし、またシミュレーションの判定か、と。
 案の定というべきか、主審はイエローカードを取り出し、高く掲げた。
 だがそれは、エアーズ和歌山の選手に向けられたものであった。
 PKだ……
 ハズミSCのサポーターは、どっと沸いた。
 耐えに耐え、ついにチャンスが巡ってきたのだ。
 今シーズンで、初めて得たPKであった。
 試合は後半ロスタイム。これを決めればついに初得点、そしてハズミSCの初勝利がほぼ決まることになる。
 キッカーは、キャプテンである田中英二だ。
 ゆっくりと、ボールをセットする。
 しんと静まり返る、ハズミSC側の観客席。
 必死に祈るサポーター達の姿。
 風子も、両手を合わせ、祈った。
 得点は、PKでもなんでもいい。これを決められれば、呪縛から解放される。
 きっとチームは変わる。
 たとえ今日、鎌田製鉄FCが勝ち、ハズミSCの入れ替え戦行きが決まろうと、そんなことは関係ない。きっとハズミSCは勝ってJFLに残留してくれる。だから……
 と。
 神様なんているはずがない。もしもいるのなら、自分をこんな目に遭わせるはずがない。そう思い、恨んですらいた、神様だというのに。
 しんと静まり返る中、主審の短い笛の音が響いた。
 キッカーの田中英二は、胸の前で十字を切った。
 ゆっくりと、ボールに歩み寄った。
 小さく足を振り上げ、振り下ろした。
 威力こそないが、右上隅をしっかり狙ったシュート、GKが反応して横っ飛びをするが間に合わない。
 しかしボールはクロスバーの外側をかすめ、飛んでいってしまった。
 PKを外した……
 一斉に落胆の声をあげるサポーター達。
 選手もがっくり肩を落とし、自陣に戻って行く。
 エアーズ和歌山GKのゴールキック。
 渡辺輝彦と、和歌山の羅田圭一が空中で奪い合った。
 こぼれたボールにヨントスが駆け寄った。
 和歌山のDFが、迫って来る。
 ヨントスの蹴ったボールは、エアーズ和歌山の選手の足に当たってタッチラインから飛び出した。
 ハズミSCボールだ。
 みねれいが、力ない足取りでボールに向かった。
 死刑宣告を受けた囚人が刻々と執行の瞬間を待つような、そんなどんよりとした雰囲気がハズミSCの選手にもサポーターの間にも流れていた。
 いつの間にか、サポーターも応援をやめて静まり返ってしまっている。
 と、その時であった。

「まだ時間ある! 走れえ!」

 風子は立ち上がり、スタジアム全体に轟くような大声で叫んだのである。
 すっかりしょげ静まり返っていたサポーター達、そして選手までもが、きょとんとした顔で風子のいる方を見ていた。

「怜二! こっちだ!」

 秋高鉄二の叫び声。
 与那嶺怜二は、両手をぶんと振るい、鉄二へとボールを投げた。
 鉄二は胸でトラップ、素早く反転するとドリブルで駆け上がる。あまりの勢いに、エアーズ和歌山は慌てて三人がかりでマークにつく。
 しかし鉄二は、あっさりとボールを離した。田中英二が駆け上がってきていたのを察し、横へパスを出したのだ。
 主審が、自分の腕時計をしきりに見ている。
 タイムアップ寸前ということだろう。
 田中英二は、水田恭助とのワンツーで突破をはかった。しかし、相手DFにスライディングクリアされる。
 クリアボールは与那嶺怜二に当たって、コーナーの方へと転がる。
 このボールがゴールラインを割ったならば、相手のゴールキックに変わり、おそらくその瞬間に試合終了であろう。
 しかしまさにボールがゴールラインを割ろうとしたその瞬間、なんと遥か後方から全力で駆け上がった秋高鉄二が追いついていた。
 鉄二は、ボールを止めずに、ダイレクトにクロスを上げる。
 とはいえ、それはとてもクロスとは呼べないような、精度の低いキックであった。とりあえずゴールの方向には向かっていても、そこに誰も味方がいなければ意味がない。
 誰かの動きを期待するものであったとしても、こうも低く速いボールなど、誰も予測も反応も出来なかったであろう。
 いや、反応している選手が一人いた、
 田中英二である。
 和歌山DFのマークをするりとかいくぐり、飛び出していたのである。
 鉄二の上げるクロスと呼べないクロスの、タイミングや弾道をまるで予想していたかのように。
 慌てて、エアーズ和歌山のGKが飛び出そうとする。
 今まさに地面に落ちようとしているボールを目掛けて、田中英二はまるで競泳選手のスタートのように頭から突っ込んでいた。
 選手達の動きが止まった。
 観客席も、誰も口を開く者はなく、収容人数二千五百人のスタジアムは、誰一人いないかのようにがらんと静まり返っていた。
 隣の息遣いどころか、心臓の音まで聞こえそうなほどに。
 その静寂を打ち破ったのは、風子であった。
 足の骨折の痛みも忘れて、立ち上がっていた。
 叫んでいた。
 両手を高くあげ、絶叫していた。
 呼応するかのように、一瞬にして歓声が爆発し、スタジアムは強烈な熱気の渦に包み込まれた。
 主審が高く手をあげ、試合終了の笛を吹いた。しかし爆音にかき消されて、誰の耳にも届いてはいないようだった。
 空は秋晴れ。
 雲一つない澄み渡った青空だった。
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