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第1章 ヘビメタ老人

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 白が、どこまでも広がっている。
 無いが有るのか、有るが無いのか、あまりにも存在するもがなんにもない世界。
 風すらも。
 音すらも。
 ひょっとして時すらも、無すらも。

 いや、
 変化は突然、
 一人の小柄な少女が、すんと一瞬にして浮かび上がるようにあらわれていた。

 真っ白な布を全身にふんわりやわらかくまとっており、頭のすぐ上には光の輪が浮かんでいる。
 地に立っているように見えるが、足元に影はなくただ白いのみであり、立っているのか浮いているのかは分からない。
 目を閉じて軽くうつむいている。

 そおっと顔を持ち上げながら、ゆっくりとその目を開いた。
 やわらかな微笑をたたえたまま、彼女は口を開いた。


 こんにちは。
 えっと、みなさんにちょっと質問があって、ここにきました。
 といっても、そんな大したことじゃないんですが。


 生きる、ってどういうことだと思いますか?


 人は、生き物は、どうして生きるのでしょう。
 辛い、死にたい、と思っても、それでも生きようとするのでしょう。
 生命の尽きる最後の最後まで、生きようとするのでしょう。

 結局わたし、分からないままだったあ。
 まあ、大した年数も生きていなかったので、悟れるはずもないんですけどね。
 だからこそ、みなさんに聞いてみようかなと思いまして。

 といわれても、難しいですよね。
 言葉の問題ですし。つまり、どうとでもいえてしまうからこそ、絶対ともいえない。
 ただ、真理というのでしょうか。言葉に頼らない答えも、どこかに存在するんじゃないかと思うんですよね。
 探し続けているとか、そういうわけではなく、ちょっと疑問に思ったというだけなんですけど。

 あ、あっ、失礼しました!
 申し遅れました。
 わたし、たかつかといいます。
 途中で死にますけど、それまでの主人公ってことで、よろしくお願いします。

 前置きは、ここまでにしておきましょうか。
 どんどん、取り留めのない話になっても仕方ないですし。
 さっきの質問の答え、いつか、百年後にでも会えたら、教えてくださいね。


 それでは、わたしたちの物語、スタート!





   第1章 ヘビメタ老人

     1
「ふざけやがって!」

 怒声が空気をつんざくのと、目のすぐ上にガツッとなにか硬い物が当たるのは同時だった。
 たかつかは、痛みと脳を揺さぶる衝撃とに、顔を歪め歯をきしらせた。
 顔に当たったのは、目覚し時計であった。床に落ちて、裏側の蓋が外れて電池が転がった。
 反射的に目の上を押さえたその瞬間、ぶんと唸り飛んできたカバンが、鈍い音とともにお腹に当たった。

「見下しやがって! 気持ちいいかっ!」

 姉、たかつからいが、自分の部屋の中央で怒鳴り喚いている。

「こんなあたしを見ているのが気持ちいいんだろ! だから、いちいちくるんだろ!」
「そんなことないよ。わたしは、ただっ……」

 引きつったような顔の筋肉を、なんとかコントロールして必死に笑顔を作ろうとする香奈であるが、その努力はただ姉の怒りを誘うだけであった。

「なに、へらへら笑ってんだあ!」

 たっと近付いた魅来に、両手で強く胸を突き飛ばされた香奈は、後ろに転び倒れ、廊下の壁に後頭部をぶつけた。
 くっ、と呻き顔を歪めた瞬間、踏み降ろされた姉のかかとがお腹にめり込んでいた。
 香奈は目を見開き、もよおす気持ち悪さに口に手を当てた。

 ここまでするつもりはなかった、ということであろうか。魅来の顔に、明らかな動揺の表情が浮かんでいたのは。
 申し訳なさそうな、心配そうな。
 だがそれも一瞬、魅来はぶんと首を振ると、妹の顔を睨み付けた。

「ムカつくんだよ、てめえ。意味もないのに笑ってばかりいやがってさあ。へらへらへらへら、笑ってばかりいて。そうやってバカにして! そうやって見下して! ふざけんなあ!」

 怒鳴りながら自分の部屋に戻った魅来は、ベッド上の枕を掴み振り上げると、くるり振り向くや勢いよく振り下ろした。
 ぎっちり詰まった重たい枕に鼻をぶち抜かれ、香奈はまた後頭部を壁に打ち付けて、呻くような呼気を漏らした。

 姉妹喧嘩、というよりはどう見ても一方的な暴力であった。
 なぜこのような状況になっているのか。

 簡単でもよいのならば、それほどの字数は消費せず説明可能だ。
 香奈が姉の魅来に、「なんかお話しようよ」といったところ大爆発された。
 ただ、それだけだ。

 廊下に尻をついている香奈は、頭を振ると、脇に落ちている目覚し時計を拾い、電池と電池蓋を直して、枕とともに姉の部屋の前に置くと、ふらふらとしながら立ち上がった。

「また、遊びにくるね、お姉ちゃん」

 顔に笑みのようなものを作り、震える声でそういうと、部屋のドアを閉めた。

 どがん、とドアに重たい物が当たったような音が響いた。

 香奈はドアの前で、しばらく呆然と突っ立っていた。
 最初は、なにをどう思考してよいか分からない状態であったが、時間が経つにつれてだんだんと感情の整理が出来てくる。
 しかし、冷静になるにつれ、冷静でいられなくなり、不意にどっと込み上げる負の感情に泣きそうな顔になっていた。

 ひぐっ、と顔を引きつらせながら息を飲むと、ぶんぶんと首を振った。
 なんとか笑顔のようなものを作ろうと、両手の指を頬に当てて、にいっ、と口元をつり上げて見せる。
 続いて、降ろした腕をお腹の前で交差、自分を抱きしめるように脇腹をくすぐり始めた。

「元気。笑顔。元気っ。笑顔っ」

 作った笑顔でそうささやきながら、香奈は自分の身体をくすぐり続けた。
 そのまま自分の部屋に入っても、なおくすぐり続けた。
 元気、笑顔、と呪文のように唱え続けた。

 きっと、いつか、分かってくれるから。
 きっと、いつか、二人で笑い合える時がくるから。
 絶対にくるから。
 だから。

 と、心にいい続けながら。
 でも、それが彼女の限界だった。
 つう、と頬に熱いものが伝うと、ベッドに突っ伏して、声を押し殺しながら泣き続けた。

     2
「えーっ、そうなの? それ本当なのかなあ」
「らしい。よく知らんけど」
「まあ、知らないよね。出がらしを腐らせた記憶なんてないもんね」

 たかつかは、けんと歩いてる。
 昨夜テレビの健康情報番組でやっていたカテキンパワーのことなど、なんということのない話をしながら、しき商店街のオレンジと茶色のタイル道を、肩を並べて。

 二人は幼馴染である。
 香奈は十三歳。中学二年生。
 謙斗は十六歳。二学年上の高校一年生、香奈の姉であるらいと同い年だ。魅来は、高校へは通っていないが。

 香奈、魅来、謙斗、三人は他人がむしろ心配するくらいべったりの仲だった。
 幼い頃から、ずっと。
 一年ほど前に、ある事件が起こる、その時までは。

「そもそも自分でいれないもんな、緑茶なんてさ。飲まないし、飲むとしてもペットボトルばっかりだろ」
「え、わたしいれるよ」
「珍しいよ、それ」
「そうかなあ」

 などと他愛のない会話を続ける二人。

 現在は朝。
 行き先はそれぞれ異なるが、登校の途中である。

 謙斗は、たち高等学校。この商店街の先にあるひがしうす駅から、電車で一駅のところにある県立高校だ。
 香奈は、うす第二中学校。東臼城駅までは行かずに、手前で折れて、少し歩いたところにある。

 特に事情がない限りは、このように分かれ道まで一緒に歩くことが多い。
 本当に仲がいいね、と友達からよくいわれるが、それは真実ではない。いや、仲がいいのは間違いないが、なにか事情があるからこうして肩を並べているのではなく、事情がないからこうしているだけ。そこをみんな分かっていない。

 三人いつも一緒だった頃には、そんな弁明をする必要はなかったのだが。

 いつも一緒だった、といっても、登下校においては自分だけ仲間外れな記憶しかない。
 それも当然で、通う中学校と小学校が家から反対方向なのでルートがまったく重ならないし、
 さらにさかのぼれば三人ともが小学生だったとはいえ、自分だけが幼い子供で、二人の大人びた会話についていけなかったし。
 去年は去年で、中一と中三ということで同じ学校だったけれど、謙斗と姉の仲がよすぎて、自分は一歩引いていたし……それに、あんなことが起きてしまったから。

 遠い記憶だ。
 一年も前のことじゃないのに、でもなんだか遠い記憶だ。

 別に思い出そうとしたわけではないが(そもそもあんなこと、わざわざ思い出そうとするはずがない)、香奈は無意識に目を細めていた。
 でも、その細めた目がすぐ驚きに見開かれていた。

「お、なんだあれっ!」

 という謙斗の声にびっくりしたのだ。
 びくりとしながら顔を謙斗へと向け、続いて彼の視線を追った。
 確かに、「なんだあれ」であった。誰でもそう思うだろう。感嘆符を付けるか付けないか、という違い程度で。

 商店街のタイル道をひょろひょろとした若者が歩いているのだが、身にまとっているのがインド僧のような黄色い布なのだ。
 顔はどう見ても日本人。髪の毛もちょっとオシャレにぼさぼささせたような、いわゆる普通の若者。あくまで着ている物だけインド風なのだ。
 こちらへ、ゆっくりと歩いてくる。こちらへといっても、香奈たちと進行方向が反対なのでお互いに近付いているというだけのことだが。
 すれ違った。
 香奈は思わず足を止め振り返り、去り行く背中を見つめていた。

「確かに、すごい」

 呟いていた。
 だが別に、いつまでも見ていたくなるようなものでもない。二人は前へ向き直り、また歩き出す。

「バンドでもやっているのかな」

 見ていても仕方ないといっても、見たからには話題にするのは当然だろう。

「あの格好からバンドという発想に結び付く思考が、おれにはまったく理解出来ないのだが。……あ、香奈、ひょっとして、ちょっとバンドに興味わいてきてる年頃? やってみたいとか」
「いやあ、全然」
「なあんだ」
「残念そうにいう意味が分かんない。ああ、でもギターは弾いてみたいなあ。でけでけでけでけって」

 香奈は軽く腰を落とし身体を左右に揺すりながら、ギターを構え弾く真似をした。

「それベースじゃなかったっけ? でけでけ、って。ベンチャーズのだろ?」
「え、ギターでしょ。といっても、よくは知らないけど、なんとなくそうだと思ってた」
「うーむ。ギターが正解な気もしてきた。低い音っぽい記憶からベースと思っていただけで、よくよく考えてみると別に低くもない」
「それはそうと、さっきの人、なんであんな格好をしていたんだろうね。バンドじゃないというのならさあ」
「いやだから、どう考えてもバンドと関係ないだろ、一般常識的に。そりゃ、たまたまバンドマンかも知れないけど」
「だったらきっと、カレーとかヨガが大好きなんだな」
「お前ら、ほんと姉妹きようだいだな。確か去年も、スーパーで木こりみたいなゴツい外国人がメイプルシロップ手にして選んでいるってだけでカナダがどうこうって二人でおおはしゃぎして……」

 言葉途中で謙斗は、しまったという表情を顔に浮かべ、口を閉ざした。

 香奈の表情が暗くかげっていた。
 それに気づいたからこそ、謙斗は慌て、口を閉ざしたのだろう。

「ごめんっ」

 謙斗は頭を下げ、謝った。
 沈んだようにぼーっとしていた香奈であったが、不意に我に返って、

「あ、ああっ、な、なんで謝るのか分からないっ。こっちこそごめん」
「香奈の方こそ、なんで謝るのか分からないよ」
「だって」

 こんな程度のことで、なんだか暗い雰囲気にしてしまって。
 インドの格好だからカレーが好きとか、どうでもいいこといわなければよかったよ。そこからの会話の流れで、こうなってしまったのだから。

 まあ、わたしの気持ちが弱いというのが、一番の問題なんですけどお。
 でも、仕方ないじゃないか。
 好きでこんなふうになったわけじゃないんだ。

 と、作り笑顔で場を取り繕いながらも、心の中でぐちぐちと考えてしまう。
 そんな香奈にとって、後ろから投げ掛けられた声はまさに助け舟だったことだろう。

「おはよう香奈、おはようございます謙斗先輩」

 女子の声。
 と、ほとんど同時に、二人は後ろから肩をばしりばしりと叩かれていた。
 振り返ると、そこにいるのははやかわ。香奈の小学生からの友達であり、現在中学でのクラスメイトだ。

「おー、サッチーおはようっ」

 香奈は、明るく元気な大声を出した。気まずくなっていた雰囲気をごまかそうと。

「おはよ、早川。つうか何故おれと香奈とで挨拶を分けるんだよ」
「一応先輩ですからね、一応。あたしは香奈と違って幼馴染じゃないわけですし、例え不本意であろうとも良識あり健全な中学生としては一定の距離は置かないと」
「とかいいつつ、思いっ切り肩を叩いたよな、おれだけ。恨み晴らさでみたいに。良識あるとかいっといて」
「だから、一応っていったじゃないですか」
「つうか一応じゃない先輩ってなんだよ」

 軽口いえる空気が復活。佐知恵さまさまである。
 三人はお喋りをしながらタイル道を歩くが、だがすぐに商店街を抜けてしまい、謙斗だけお別れだ。
 真っ直ぐ進むと突き当りが鉄道の高架、そこに東臼城駅があり、彼だけそこから隣の駅へ向かうのだ。

「じゃあな。お前ら義務教育組は、しっかり勉学に励んで、将来の日本を豊かにするために尽くすんだぞ」

 勝手な理屈をいいながら、謙斗は一人、駅へと向かう。

「先に社会に出て立派な模範を示してくれれば、いくらでも従いますよ」

 佐知恵が謙斗の背中へと、言葉をやり返した。
 香奈と佐知恵は、高架にたどり着く一つ前の道へと折れた。線路に平行するようにして、少し歩けば彼女らの通う中学校だ。

「しっかし仲がいいよねー。野田先輩と香奈はさあ」

 はあ。今日もいわれたか。
 毎日毎日飽きないなあ。

「そんなことないよ。ちびとかいうんだよ」

 ほぼ毎日いわれるからといって、慣れるものでもない。あまり気分のいいものではなく、香奈は、中に一体なにが入っているのかというくらいに、ほっぺたを膨らませた。

「仲がいいからいうんじゃない?」
「悪くてもいうよ! サトダとかさあ」

 さとよしひこ、香奈をよくちび扱いするクラスメイトである。

「いまの会話を二段論法で考えると、つまり香奈は、里田に好かれている、ということだ」
「絶対になあい!」

 香奈は、どんと肩を佐知恵にぶつけた。香奈の方が遥かに背が低いものだから、当たるのは肩でなく肘のちょっと上であるが。

「どうだかなあ」

 佐知恵も笑いながら、腰を軽く落として肩をぶつけ返す。

「そっちに、反撃の権利などない」

 さらにやり返す香奈。

 そもそも二段論法など、論法ではない。
 外に出たら雨だった、つまり香奈が外に出ると雨が降る、とか。

 などと、雑談というか戦いというかを続けているうちに、彼女らの通う中学校に到着した。
 こうして今日も、愛すべき平凡な日常が始まったのである。

     3
「じゃあ次っ、これ分かるっ?」

 というと高塚香奈は身をくねらながら、少しかすれた裏声を作って、

「そりゃないっちゅーねん!」

 振り上げた手を振り下ろす。

「分かったっ! トトンポンのトトンポンじゃない方の真似」

 よしひさが、自信ありといった顔でポンと手を打った。

「ブブー。外れえ。おっしいなあ」
「あたし分かった。惜しいで分かった。その真似をしているせんざきまさ、の真似」
「大 正 解っ!」

 香奈は「解っ」の直前でくるんと回り、ぴっとつちおりを差した。

 ここは香奈たちの通う中学校の、教室だ。
 彼女らが現在なにをしているのかというと、なんのことはなく、芸能人の物真似クイズである。

「次は?」

 はやさかの催促に、香奈は外国人の男性俳優のような渋い顔になって、

「えー、そんないくつもレパートリーあるわけないじゃあん。次は佐知恵の番でしょ」
「でしょとかいわれても、どうやったらいいのか分からん。上品育ちだから、あたし」
「簡単だよお。例えば、ゴリグリのしいろくの真似。『なーんでや、なーんでや、うちなーんちゅ、なーんでや』」
「似てる……。ていうか結局、香奈が全部やっちゃってんじゃんかあ」

 佐知恵は頭をかきつつ苦笑した。

「ねえ香奈あ、ねえ香奈あ、他になにかあるのお?」

 吉田久美が、からかうように尋ねる。

「ないよもう! だから、みんなの、番、だってばあ!」

 香奈が不満げな顔で、身体をクネクネさせて、オーバーリアクション気味に大きく跳び上がってどんと床を踏みつけると、みんなから笑いが漏れた。

「面白いよなあ、香奈って。ちょこちょこしてて、見てて飽きない」
「わたしは愛玩動物かあ!」
「いやいやほんとに。あんなお姉ちゃんがいるってのに、明るいよねえ」
「志織っ!」

 佐知恵の、小さくも叱咤するような鋭い声に、土屋志織は、しまったという表情を顔に浮かべ、きゅっと口元を結んだ。
 なんとも気まずそうな顔を香奈へと向けるが、時、既に遅く。
 一人だけ時間の流れに取り残されたように、香奈は無表情のままぴくりとも動かなかった。

「香奈」

 佐知恵が声を掛けるが、香奈の耳には届いていなかった。

「香奈……香奈!」

 何度も呼び掛ける佐知恵の、何度目の声に反応したのか、ようやく、香奈の周囲に時間が発生した。頬がぴくりと痙攣すると、ぶるぶるっ、と全身を震わせた。
 焦点の合わない目で壁をぼーっと見つめていた香奈であるが、もう一度全身を震わせ、そして左右に細かく首を振ると、ぎゅっと拳を握った。
 と、いきなり表情が、ふにあゃっと柔らかくなり、先ほどまでのように戻ると、もう一回ゴリグリの物真似を披露した。

「……と、こんな感じでっ。さあサッチー、やってみようかっ!」
「えー、結局やらせるんか」

 佐知恵も、香奈に負けず劣らずの作ったような笑顔で、その場をごまかした。
 といっても、もう乾いた空気感しか周囲には生じなかったが。
 それでも香奈は続ける。
 楽しそうな顔を、態度を。

「難しいならっ、佐知恵リサイタルでもいいんだよ。ほらあ、カラオケ用に練習してるんだあ、とかいってた曲あるでしょ」
「えー、なんでこんなとこで披露しなきゃいけないんだよ」
「こんなとこだからいいんじゃん。どう頑張っても酷い点数しか取れなかった時の練習にさあ」

 作った笑顔、空気に隠れるように、香奈は右手をそおっと持ち上げて自分の胸に軽く当てた。
 さっき自分がどんな感情であったのかを、冷静に考えてみる。
 姉のことを口にされた時の、自分の感情を。
 不快、そんなことは考えるまでもなく分かっているが、なにがどう不快であったのかを。
 時が止まり、現在なお苦しみ続けている身内の話を、冗談の場でさらりといわれたことに対しての憤りなのか、
 それとも、自分の心にもどこか姉を見下ろすような思いが存在していて、それに気付くのが、認めるのが、怖かったのか。
 そんな気持ちなど絶対にない。と強く自分を信じてはいるけど。


 やがて、業間休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
 英語担当の山崎先生が前のドアから入ってきて授業が開始されたが、香奈はすっかり上の空で机に出している教科書も違う教科。
 回答を指名され、慌てたように立ち上がるが、数学の教科書をしかも逆さに広げて、なにやらわけの分からない数式を読み上げて、先生に怒鳴られるのだった。

     4
 しき商店街の歴史は、戦後復興の歴史でもある。
 つまり、焼け野原から始まっているということ。

 戦争で土地も金も失ったある資産家が、地方に分散させていたわずかな財産をかき集め、住民たちにかす汁を無料で供給し続けた。
 資産家の財産は一年もしないうちに尽きてしまったが、やがてそこにはバラックの店が建った。その元資産家が、安価な料理屋を始めたのだ。
 周囲には、一件、二件、と店が増えて、昭和三十年代のうちには、東西に長く伸びる大きな商店街へと発展していた。

 鉄道の支線が引き込まれたのも、そこに商店街があったからといわれている。
 ただし、商店街があったからこそ路線の拡張が難しく、電車が二駅を行ったりきたりしているだけという皮肉な結果になっているのだが。

 どうであれ、住民にとっては存在が当たり前だった敷渡商店街。
 平成という時代に入ってからも、じわりじわりと発展を続けていくものと思われていたし、実際にそうであったが、ひがしうす|駅の反対側、徒歩十分ほどのところに、地下鉄の駅が出来てからというもの様相ががらり一変し、衰退の一途を辿ることになる。
 その地下鉄というのが、都心までのアクセスが比較的快適で、駅周辺に便利な商業施設がどんどん出来上がっているためである。

 と、そのような歴史があることを知ってはいるし、衰退と聞けば寂しい気持ちにもなるが、さりとてどうしようもなく、また、普段からそんなことばかりを考えていたら生活が出来ない。

 だから、というわけではないのだが。
 高塚香奈が、毎日のように商店街のオレンジと茶色のタイル道を歩いているのは。
 商店街に用事があって訪れているわけでも、衰退が寂しくて少しでも賑やかにしようと歩いているわけでもない。
 中学校からの帰り道、というだけの理由だ。

「おー、香奈ちゃんっ、学校お疲れさん!」

 生臭いにおいに乗って届く威勢の良い声。
 魚屋のゲンタさんだ。

「こんにちはあ」

 笑顔で返して歩き続けると、今度は隣のお店から女性の怒鳴り声。

「ほんとバカ! そこは発注先が変わったっていったでしょ! つうか店番と掃除だけしてろっていつもいってるでしょ! ったく八十過ぎた爺さんのくせに、余計なことばっかりして!」

 金物屋のしようさんが義理の娘に叱られて、ごめんごめんと白髪頭をかいている。
 よく見る慣れた光景ではあるが、慣れていようとも香奈の抱く気持ちは変わらない。

 かわいそうだなあ。
 である。
 何十年もの間、自分こそが店の主人で、ずうっと頑張ってきたというのに、それが現在では息子の奥さんにいつも怒鳴られてばかりで。

 金物屋の正二さんだけではない。
 年寄りと後継ぎのいる店は、どこも同じようなものだ。
 こうして毎日のように商店街を歩いていると、週に何度もこのような場面を見てしまう。

「おやじ、ふざけんなよお! もうなんにもしなくていいからさあっ!」

 まただ。
 五年ほど前に雑貨店からコンビニエンスストアになった店舗の前で、なかかずさんが息子に怒られている。
 百八十はあろうかという大きな身体だというのに、すっかり小さくなってしまっている。息子はもっと身長があるが、そういうことではなく。

 悲しいよな、こういうのって。
 あらためて、香奈はそう思う。
 年齢に負けていられない、元気を出さなきゃ、と頑張ろうとして、でも、余計なことばかりしてっと隅に追いやられて、なんにも出来なくて、どんどん元気がなくなっていく。
 悪循環だよな。
 ただでさえお年寄りは弱いものなのに、ますます弱くなってしまうじゃないか。

 という香奈の考え、振り返れば思い違いもいいところだったのだが。

 まあ確かに、邪険にされて肩身の狭い立場であることに違いはないかも知れない。
 ただし、
 この商店街の老人たちは、まったく弱くなどなかったのである。

     5
「おかえり、香奈。なんか冷たいものでも飲む? ああ、そうだ、テスト返ってきたんでしょ? どうせいい点だったに決まってるから、詳しくは聞かないけど」

 玄関を上がったところに立って、笑顔でぺらぺら口を動かし続けているのは、たかつか
 香奈の、……香奈たちの、母親だ。
 学校から帰ってきたばかりの香奈がべたべた攻めを受けるという、日々の恒例行事である。

「いいよいいよ、喉が乾いたら自分で好きなの飲むから。テストは、まあまあ、だったかな。後で見せるね。まずはちょっとくつろがせてよ」

 と、香奈はいつもと同じような台詞をいいながら、靴を脱いでタタキから上がって階段をのぼる。
 のぼりながら、いつものように心の中でぼやく。

 いつもいつもああやって、わたしのことばっかり構うんだからなあ。

 と。
 でも、それも仕方がないのかなあ。
 お姉ちゃんが、まったく構わせてくれないのだから。
 とはいうものの、だからといって自分のことばっかりべたべたとまとわりついて、べたべたとかわいがってくるのは、ほんと迷惑だ。
 やめて欲しいよ。
 だったら、わざと嫌なことでもして、悪い子になればいいのかなあ。
 とか、本気で考えちゃうよ。このままだと。
 まあ、悪い子になるもなにも、そもそもよい子でもなんでもないけどね、わたしは。

 などと胸に呟いているうちに、二階へ到着。
 高塚家の二階には、自分と姉と、二つの部屋がある。

「お姉ちゃん、ただいまあ」

 香奈は、姉の部屋のドアへと顔を近づけ、声をかけた。
 返事はない。
 分かっている。
 あるはずがないのを分かっていて、でも声をかけた以上は、しばらくそこに立っていた。
 三十秒ほど経って、諦めて寂しい笑みを浮かべつつ自分の部屋へと入った。

 制服を上も下も脱いで、壁に吊るしたハンガーに掛けると、ベッドの上にたたまれているスエットを手に取った。
 と、その瞬間、

「ああっ、忘れてたっ!」

 素っ頓狂な大声を張り上げると、スエットをベッドの上に戻して、クローゼットを開く。
 私服のブラウスとスカートを取ると、いそいそと着込み始める。

 学校帰りに本屋で英語の参考書を選ぼうと思っていたことを、すっかり忘れていたことに気が付いたのだ。

 ここから五分ほどの場所にある商店街の本屋だから、さしたる手間ではないものの、とにかくうっかりしていた。今日の帰り道は、別段ぼーっとしていたわけでもなかったのに。

 通学カバンに入っている財布をポシェットへと移し替えると、部屋を出て、

「お姉ちゃんっ、ちょっと本屋に行ってくるね」

 ドアの向こうにいるはずの姉へと笑顔で語り掛けると、素早く階段をおりて一階へ。
 靴を履き、外へ出た。

     6
 一体なんなんだ……この、取り合わせは。


 と、香奈が驚き不審がるのも、無理はないだろう。

 商店街の本屋へと向かっている途中、数人の年寄りたちが歩いているところに遭遇。
 これは、いいだろう。別になにもおかしくない。
 年寄り同士、仲がいいのは結構なことだ。

 驚いたのは、その中に混じってある人物の姿を見たからだ。
 高校一年生、十六歳、香奈の幼馴染である、けんの姿を。

 別にそれだって、悪いことではない。
 老若交流、結構なことだ。
 だけど、なんだなんなんだと驚き気になるのも無理はないというものだろう。

 老人はみな、商店街の人たちだ。
 コンビニの、なかかずさん。
 煎餅店の、そとゆたかさん。
 香奈が行こうとしていた本屋の、とくしげひでさん。
 三人が三人とも、既に八十歳を幾つも越えているはずだ。

 みんな腰が真っ直ぐで若い感じではあるけど、でも顔だけを見れば年齢相応にシワだらけ。
 年寄りだけなら老人会とか商店会とか、別に不思議ではないけれど、そんな老人たちと、商店街とまったく関係のない高校一年生が、どうして一緒にいるのだろうか。

 彼らは、香奈の前を横切っていく。
 香奈の姿には、一切気付いていないようである。

 コードが、とか、メジャーとかマイナーとか、そんな話をしている。

 なんだろう、レアな電気コードの話だろうか。分からないけど、そんな気がする。
 お店で会えば気さくに挨拶をかわせる仲ではあるものの、謙斗がいることによる異質感に、声を掛けるべきか否かを躊躇っているうちに、彼らは商店街の人混みの中に消えてしまった。
 しばらくぽかんとしていた香奈であったが、突然、慌てたように彼らの消えていった後を追い、姿を探し始める。

「ストーカーだよな、わたし」

 だったら最初から、素直に声を掛けておけばよかった。
 まあ暇といえば暇だし、近所をうろうろしてる分には別に構わないけど。
 受験勉強も、焦って始めなきゃならないものでもないし。

 敷渡商店街の大通りや、その裏道などを首をきょろきょろさせて歩き回り、十分ほども経った頃であろうか。
 びっくりして飛び上がりそうになったのは。

 角を曲がった瞬間に、男性たちとぶつかりそうになったのだが、別にそれが理由で飛び上がりそうなほど驚いたわけではない。その男性たちが、予期しろという方が無理なあまりにもぶっ飛んだ服装をしていたためである。

 本革か合成か分からないが黒革のテカテカピカピカした上下、ベルトや腕には鎖がジャラジャラ、鋲付きのプレスレット、銀のドクロがぶら下がったネックレス、真っ白なフェイスペイント、目の周囲には赤や黒で星型やコウモリ。
 金髪のカツラをかぶってる者もいる。
 三人だ。

 老人のように見えるが、実際どうかは分からない。
 顔が分厚く白塗りされているし、ぶつかりそうになったのを避けながら一瞬ですれ違ったからしっかりとは見ていない。
 シワや骨格など、いくら厚く塗ろうとも隠し切れるものではないわけで、それなりの年齢であることは間違いないのだろうが。

「ヘビメタ老人だ……」

 振り返った香奈は、高齢にもかかわらずしゃんと背筋の伸びた彼らの後ろ姿を見ながら、思わず呟いていた。

 しかし、なんだってこんな辺鄙な土地の商店街なんかを歩いているんだ。
 おかげで、驚いたじゃないか。
 ひょっとして、地元のケーブルテレビ番組の企画とか?
 今朝の登校中に、インド人の服装をした日本人の若者を見たけれど、それを遥かに上回る衝撃映像だよ。
 いやあ、ほんと凄いもの見ちゃったぞお。

 さて、

「本屋、行くか」

 ヘビメタ老人ではなく商店街の老人たちを探してウロウロしていたわけだが、いつまで探し続けていてもどうなるものでもないし。
 早く用事を済ませて家に帰って、学校の宿題もやりたいし。

 惣菜屋とコンビニに挟まれたところから、商店街のタイル道へと戻る。
 惣菜屋側に折れて、ほんの何軒か歩けば、「書店のとくしげ」に到着である。

 古臭い外観の建物だ。古臭いというかカビ臭いというか。
 昭和四十年くらいに建てられたまま、まったく改築していないので、当然といえば当然であろうか。
 近代的なものといえば、自動ドアくらいなものだ。それすらも、マットを踏む古いタイプのものだが。

「こんにちはあ」

 香奈は、マットを踏みドアを開け、古臭いカビ臭い店内へと入った。

「こんにちは、香奈ちゃん。欲しいものあったら探すよ」

 レジにいるアゴ髭もじゃもじゃの登山家のような男性はとくしげかずふみさん。五十歳をいくつか過ぎた、ここの現店主で、前店主の娘婿だ。

「参考書、選びにきた。決めているのはあるんだけど、もっといいのないかなあと思って」

 そういいながら、奥へと進む。

「ああそうか、香奈ちゃん来年から高校生だもんな」
「いや、あと一年あるんだけど。でももう、取り掛からないと」

 一番奥の、学習書コーナーへと進む。
 和文さんのお義父さん、元店主のとくしげひで老人が床や本棚の掃除をしているのをよく見るのだが、今日はいないようだ。
 先ほど、商店街の仲間と、野田謙斗と、歩いているのを見たが、まだ戻ってきていないのだろう。お茶を飲んでいるのか散歩しているのかは知らないが。

 香奈は学習書コーナーで、英語の参考書や数学の問題集などを手に取ってぱらぱらめくってみるが、どれもどうにもしっくりこなかった。
 これだと決めていた参考書も、ここには置いていなかった。
 和文さんに伝えたところ、取り寄せが必要とのこと。
 わざわざ売っている本屋を探すのも面倒なので、取り寄せをお願いした。

     7
 本屋を出て、自宅への帰り道。
 ちょうど商店街を抜けて住宅街へさしかかろうというところで、また凄い格好の老人たち、香奈のいう「ヘビメタ老人」と遭遇した。

 二度目で免疫も出来ているはずだというのに、初遭遇の時以上にびっくりして、ぽとりポシェットを落としてしまった。
 先ほどは、こんな商店街には似合わないあまりにも派手な服装に驚いたのだが、今度はまったく違う理由。

 先ほどは商店街の老人たちを探してウロウロと歩き回ってしまったわけであるが、そんな苦労などせずとも、とっくに見付けていたのだ。
 香奈は商店街の老人たちに、とっくに出会っていたのだ。
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