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第九章 スカーフェイスにブランデーを

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「そこですっと両手を上げて! くるっと回って拳突き出す、右手! 左手! ちっがうよ、サテツのバーカ! ジャンプして、ばっと足を広げて着地しながらだってば!」

 ボスの手拍子と指示の声、と罵倒の言葉。
 いま注意を受けたのがサテツであるというだけで、彼女に限らずみんな動きがおかしく、全体的にちぐはぐだった。

 無理もない。
 振付解説を五分間ほど読まされた程度でダンスを覚えられるのなら、苦労はないというものだ。

「踊るのヘッタクソだなあ、みんな。ちなみに使う曲は『スカーフェイスにブランデーを』だから、身体の重心を柔らかく動かしながらも、ぴっ、ぴっ、って末端の勢いある仕種が大切になるから意識すんだぞ」

 スカーフェイスにブランデーをって、どんな曲だったかいまいち記憶が曖昧なのだけど、確かジャズの名曲のような気がする。
 でも、そもそもジャズでダンスだなんて……どんな雰囲気になるのか想像がつかないのだけど。

「えー、振付自体は可愛らしいのに、その曲じゃあなんだかイメージが違あう」

 曲を知っているらしいノッポが、不満の声を上げた。珍しく、生来の仏頂面と喋っている内容とが一致した瞬間だ。

「だからいいんだよ、だから。噛み合わなさそうなものが噛み合うってとこが気持ちいいダンスを作ってみたんだから。まあ、構想自体は二年前からあったんだけどね。とにかく、文句いうのはフリを全部覚えてしっかり自分のものに仕上げてからだ」

 ボスって否定されるとすぐ激怒するけど、確かに唇は尖らせているものの、でもむしろ楽しそうな表情。
 ダンスの出来上がりに、相当な自信があるのかな。
 二年前から、って、ボスってそっち畑の人だったの?

「どんな曲なの? 聞いたこともないから、イメージが掴めないよ」

 サテツは情報通で、こと我が校の生徒に関しては妙なところまで知っていたりするけれど、さすがにこういうことに関しては知識人並なんだなと、どうでもいいことを考えてしまった。

「だったらさあ、誰かラジカセ持って来いよ。乾電池で動かせて、カセットテープが聞けるのならなんでもいいから。うちテープはあるんだけど、再生する機械がないんだよ」
「えー、いまどきテープが聞けるラジカセなんてないでしょお?」

 ガソリンが苦笑い。
 いやいや、そもそもカセットテープが聞けるからラジカセというんだけどね。

「大きな電気屋さんに行けば、まだあるにはあるよ。杉戸には、ないだろうけど。ヨーカドー近くの第一家電で見たけど、あそこ潰れちゃったし」

 フロッグにいわれて、ガソリンはへーっと感心している。

「なあに、カセットテープって?」

 タイミングを見計らったように、ドンが尋ねた。

「おおー、同じ学年なのにジェネレーションギャップがあ!」

 ガソリンが後ずさるように大袈裟に驚いてみせる。あなたもラジカセがなんであるのかを勘違いしているけどね。

「うちに、まだある。押し入れの奥だけど。たぶん動くと思う」

 バースが久し振りに掛け声以外の声を発した。

「じゃあそれで聞けるかな。テープがカビてなければだけど。今度持って来て。よろしく。とりあえず今日のところはさ、あたしが口ずさんで、どんな曲なのか、踊るとどんな感じになるのか、見せてやっから。って先にそうしてりゃ良かったよな。……じゃ、やるね、こんな感じで……」

 ボスはぴしっと背を伸ばすと、小さな声で「ワン、ツー」とリズムをとり、そして身体を動かし始めた。

 手をすっと伸ばし、身体をくるり回転させ、ちょっと雑ではあるけどもジャズのメロディを口ずさみながら。

 ああ、この曲なんか聞いたことある。
 知らないといっていたサテツも、「なんだ、その曲かあ」と納得したようだ。

 そうか、これがスカーフェイスにブランデーを、だったんだ。
 ジャズというとサックスとかトランペットとか、オルガンといったイメージはあるけれど、これは確かオーケストラ風バンドの、ノリの良い曲。去年、町の祭りでブラスバンドが演奏していたのを覚えている。

 自らの口から発するその曲に合わせて、ボスは踊り続ける。
 ぴょんと跳ね、くるりと回り、すっと足を上げ、すいっすいっと腰を振りながら右へ移動、左へ移動、またくるっくるっと回って、素早く反転しながら万歳、細かなステップで回転しながら再び前を向いてジャンプ。

 なんだかボスの動きがとっても可愛らしく、また、その表情がとっても楽しそうで、わたしは魔法でもかけられたかのようにすっかり引き込まれてしまっていた。

 踊りながらであるためか、最初から雑だった口ずさんでいるメロディは、すっかりなんの曲なのか分からなくなっていた。
 でも問題ない。わたしの頭の中に、脳の奥からすっかり蘇った曲が、ボスのダンスに合わせて流れ始めていたからだ。

 くるくる回り、跳ねるボス。
 まるで、悪戯好きな妖精を見ているかのようだ。

 きっとみんなも同じような気持ちじゃないかな? そう思ったけど、それを確かめるために視線を逸らすのも勿体なくて、わたしはひたすら妖精の軽快に舞う様を見つめ続けていた。

 しかし次の瞬間、わたしの意識は妖精の国から一気に現実世界に引きずり落とされた。落差、那由他の位。それくらいわたしは、引き込まれていたのだ。

「おーい、なにやってんだあはまお、じゃなくてボス! なんだよ今のはあ!」

 コタローコーチの、のほほんとした叫び声が響いた。
 仕事が一区切りついたのか、ジャージ姿で校舎の方から手を振って走って来る。走ってといっても、わたしたちが早歩きする方が速いくらいだけど。

「なんでもないよ! 変なタイミングで来んなよバーカ!」

 ボスも、すっかり自分の世界に入ってしまっていたのだろうか。恥ずかしいところを見られてしまった、とばかりに顔を真っ赤にしてコーチに噛み付いた。

「別にいつ来たっていいだろが! で、なんなんだよいまの踊りは」
「ただのウォーミングアップだよ! いま野球少年少女の間で大流行の、ダンスを取り入れた動的ストレッチ。そんなことも知らねえのかよ、本当にバカだな」

 ボスはなんだか適当なことをいいつつコーチの死角に回り込むように移動して、なにかを丸めてズボンの中にしまうようなゼスチャーをわたしたちに向けて素早く何度も繰り返した。

 あ。
 いわんとすることを理解したわたしは、手にしていたダンスの振付書をさっと背後に隠した。そのままそーっと折ってお尻のポケットに入れていると、みんなも気が付いたようで慌てて隠し始めた。

 危なかった。
 いなほ祭りでのチーム紹介の際にダンスを披露することは、他の先生だけでなくコタローコーチにも内緒にしておくのだった。

 その後、わたしたちはボスに合わせて一回通して踊ってみたが、やはりちぐはぐ感じは否めなかった。ウォーミングアップという建前である以上、コーチの前でいつまでも続けるわけにはいかず、終了し、普通の練習に入った。

 まだ飲み込めてなくて全然踊れなかったけど、でも、さっきのボスみたいに踊れたら気持ち良いだろうな。

 今夜、家でフミと練習してみよう。
 また、どんとお尻をぶつけられなければいいな。

     2
 呼び鈴を押しかけたところで、いきなり玄関のドアがことっと開いた。
 隙間からボスの顔が見えたかと思った瞬間、

「うわ、びっくりした!」

 その顔がびくっと驚いて、飛び上がっていた。

「それこっちの台詞ですよ。心臓が止まるかと思った。行くといっておいたのに……」

 わたしはドキドキする胸に、そっと手を当て撫でつけた。

「ああ、いや、まだまだ来ないと思ってて。でもなんか、足音が聞こえた気がしたから」

 そうなんだよ。ボスって右耳は囁き声すら聞こえないくらい悪いっぽいのに、もう片方は聴力が犬並みなんだよな。

 玄関のドアがさらにゆっくり開くと、ボスがそおーっと顔を出して来た。
 わたしの顔を確認すると、ニコリどころか完全に破顔した屈託のない笑顔を作った。学校では決して見せることのない可愛らしい表情に、わたしはまたドキリとしてしまった。

「よく来た。まあ入んなよ」
「それじゃあ、お邪魔します」

 ノブを掴み引っ張り、ドアをもっと開こうとしたのだけど、ボスが内側からぐいぐい引っ張っていてびくともしない。これ、なんの冗談? 入りなよっていったよね。絶対。

「あの、開かないんですけど」
「この隙間から入るんだ」
「え……」
「いいから!」
「ボスなら出入り出来るかも知れないけど、わたしにはちょっと」
「じゃあ、出血大サービスでもうちょっとだけ開いてやるから」

 ドアの隙間がほんの僅かではあるが大きくなって、わたしはそこへぐいぐいと身体を押し入れた。
 なんでこんなわけの分からないことをしないとならないんだ。

 と疑問と不満が頭の中を駆け巡ったが、その理由はすぐに分かった。ボスの服装によって。

 ノースリーブに、ミニスカート。
 靴下は履いていない。学校でスカートの時は、いつもぶ厚いタイツで肌を完全に隠しているのだけど、今日は素足。

 つまりそれは、あの酷い傷や痣が、目の前に完全に晒された状態であるということに他ならなかった。

 やはり、夢なんかではなかったんだ。
 以前にガソリンたちと体育館の更衣室で見た、あの光景は。

 ドアをほとんど開けなかったのは、このような服装だから、間違っても人目につくことがないようにということだったんだ。

「家では薄着なんですね」

 わたしは靴を脱ぎながら、何気ない風をよそおった。
 本当は何気なくなんかなかったのだけど。
 どういった言葉なら問題ないか、ボスの感情を刺激することがないか、迷った挙句、別段無難とも思えないけれどとにかく消去法で選んだのだ。

「いつもってわけじゃないけど、今日はさすがに暑いからね。だからドアあまり開けられなかった。こんな傷だらけだからさ。ごめんね」

 申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
 確かに今日は恐ろしく暑くてムシムシとしているけど、でも普段学校では、長袖二枚重ねとか、凄い厚着をしていて、そっちの方がよっぽど暑い気がするけどな。
 まあ、だからこそ家では開放されたいのだろう。もう、わたしに隠す必要もないのだし。

 ふと、わたしの脳裏にある考えがよぎっていた。
 暑いからではなく、もしかしたら……お父さんに見せるために、わざわざ薄着になっている? と。

 まったくの想像ではあるけれど、まるで根拠のないことではないはずだ。

 先日ここへ来た時、わたしはボスのお父さんの姿を見ることはなかったけど、でも家の中から聞こえてくる声は聞いた。
 ボスとのやりとりも。
 そして……服だかなにか布を裂くような音と、ボスの悲鳴。
 その後、お父さんはボスの傷だらけの容姿を罵倒していた。

 本当だったら、ボスはもっと酷いことをされるべきところ、この傷のおかげで、事なきを得たのではないか……
 ということは……

 いや、
 いやいや、すべてわたしの想像だ。

 ここであれこれ考えても、なんの意味もない。
 仮にそうであったならば、などと考えても仕方がない。
 もうお父さんは殴ったり蹴ったりといった暴力は振るわない、そういっていたとのことだし。

「うちエアコンなくてさ、暑いでしょ。ごめんね」

 ボスはまた謝った。
 言葉遣いといい、この柔らかな物腰といい、おそらくはこれが本当のボスなのだろうけど、この違和感にはまだ慣れない。

 すっかり敬語が染み付いたわたしのボスへの態度だけど、それにすら違和感を覚えてしまう。まあ、わたしのボスへの言葉遣いは、ここまで来ていまさら変えられるものではないけれど。

「気にしないで下さい。暑くたって、外で練習していると思えば気にならないですよ」

 もあっとした熱気は屋内特有で、結構厳しいものもあったけど。でも別にこの環境で算数の問題を解けというわけじゃないし、我慢出来ないものでもない。

 狭い廊下は、左側と正面にふすまがあり、右側にはおそらくトイレやお風呂があると思われる木の扉。

 案内されたのは、左のふすまを開けた部屋。六畳の和室だ。
 ボスの部屋のようだ。
 広くも狭くもない部屋だけど、隅っこに赤いランドセルとグローブが転がっているだけという、あまりの物のなさに、妙に広く感じられた。

 わたしの記憶が正しければ、この一帯は古くからある借家であり、その古さのためなのか、かすかにカビのにおいがする。

 それよりも、もっともっとかすかにだけど、とてもわたしを不安にさせるようなにおいが空気中に漂っていた。
 でも、気のせいかな。
 気のせいだろうな。
 ……血のにおいが、するだなんて。

 たくさんの人が暮らしてきたはずの古い家だ。色んなにおいが混ざっていておかしくないし、なにかが血のように思えてしまうこともあるのだろう。または、過去に工作好きな人が住んでいてよく失敗して指を切ったりしていた、とか。

 何故わたしがボスの家を訪れたのかだけど、特に意味はない。
 いつかまたボスの家へ行ってみたい、と二人っきりの時に何気なく話したら、「今日は誰もいないから、来る?」と、急遽決定したものである。

 ボスの家庭問題に深入りしようなどというつもりはないけど、でも既に浅入りともいえない状態にはいるわけで、ならばこうして家に遊びに行くくらいならいいかなと思ったのだ。というより、むしろすべきかと思った。

 ボスのためにも。
 わたしのためにも。
 だって、秘密を抱え張り詰めたままの精神状態では、いつか追い詰められてしまうから。

 ボスの怪我、以前見たのは上だけで、足を見たのは初めてだけど、想像していた通りとんでもない状態だ。新たな傷はもう出来ないのだとしても、いつか治るなどとても信じられないくらい酷い。

 右耳が悪いことや、時折激しく咳き込むこと、これも怪我つまり虐待を受けているであろうことと関係あるのだろうか。これらについては、まだボスからなにも切り出されていないし、こちらから尋ねるつもりはないけれど。

 などと思っていた時である。
 げほっ、と吐くようなボスの突然の咳に、わたしはびくっと肩を震わせた。
 げほ、げほ、と何度も続き、苦しそうな表情で床に両手をついた。
 なおも止まらず、咳は出続ける。
 その激しさは、臓器が裏返って飛び出てくるのではないかと思うほどだった。

「だだ大丈夫ですか?」

 あまりにも咳が激しく、ボスの顔が苦しそうで、わたしはただうろたえてしまっていた。

「だい、じょぶ、だよ、なんでも、ない」

 むせ返るような咳の合間に、かすれた声が切れ切れに返って来た。
 その後も激しい咳は続き、なんとか状態がおさまるまで二分ほどもかかっただろうか。
 なにも出来ずおろおろするしかないわたしにとって、一時間にも二時間にも感じられる時間だった。

「病院には、行ったんですか」

 ようやく少し落ち着いたわたしは、二呼吸、三呼吸ほど置いて、尋ねた。
 こちらから踏み込むまいと思っていたとはいえ、こうして目の前であんな激しい咳を発作がおさまるまで見続けてしまったとあっては、黙っているわけにいかなかった。
 ボスは何秒か間を置いて、ゆっくりと口を開いた。

「そんな金ねえ、って蹴り飛ばされた。あ、あ、蹴られたっていっても、これ五月の時の話だからな。まあ無駄遣いの出来るお金が本当にないんだから仕方がないよ。それにさ、もしもちょっと入院しましょうなんてことになったら、その間、誰がお父さんの面倒をみるんだよ。カップ麺の作り方しか知らないんだから」
「あの……お父さんって、仕事していないんですか?」

 いまのボスの言葉だけでそう判断出来るものではないけど、でもなんだかそんな雰囲気を言葉の裏に読み取ってしまったのだ。働いておらず、健康保険にも入っていないのではないか、と。

「してないよ」

 ボスは隠すことなく頷いた。

「それじゃあ、この前はたまたま家にいただけと思っていたら、いるのが普通で今日がたまたま……」
「そういうこと。まあパチンコ打ちに出掛けてることも多いけど。でも今日はきっとね、女とデートだよ」
「え……」
「あ、いや、あの、悪いお父さんじゃないんだ。そこは絶対に勘違いしないで欲しいんだけど。お母さんの死んだショックから、三年経った今もまだ立ち直れないでいるだけなんだよ」
「そう……なんですか」

 そんなことを聞かされて、普通ならどう返すものなのだろう。

 一度話し始めたことで警戒心が和らいだのか、その後もボスは家庭のことを話し続ける。
 三年前にお母さんが胃がんで亡くなって、お父さんが気力を失って仕事を辞めたこと。
 お母さんの貯金や保険金を切り崩して生活していること。
 段々とお父さんの心が荒んでいって、段々と暴力を振るうようになり、それがエスカレートしていったこと。それがボスの全身にあるあの生々しい傷ということだ。
 ボスの話を信じるなら、もう暴力は振るわないと誓ったとのことだから、そこはあまり追求しづらいところだけど。

「だからね、細々とした生活なら何年だって送れるけど、でも収入がないのは間違いなくて、だから無駄遣いは出来ないんだ。大きな病気にだって、なれないんだよ」
「でも……」

 なれない、といっても現実に病気かも知れないじゃないか。
 咳が出るし、右耳は聞こえていないし。
 なのに、無駄遣い出来ないなどという理由で病院に行くことが出来なくて、でも、お父さんは女の人と平気で遊び歩いていて……
 正直、釈然としないものがある。

「でもじゃないよ。いつかお父さんだって絶対に立ち直るんだから、あたしは別に心配してないんだよ。あと四年もすればあたしだって、アルバイトして生計助けることも出来るし」

 そういってボスは、なにも心配いらないという表情でにっこり笑うけど、
 でも、
 でも、
 でも……
 わたしはボスの、ノースリーブの肩から先を見る。
 ぺたんと座っている、短いスカートから伸びている細い細い足を見る。
 いつも長袖や黒タイツで隠されている部分がわたしの前にすべてあらわになっているわけだが、そこには肌色といえるような健全な部分がまるでない。
 顔や、手の先なんかが本来の肌の色なのだろうけど、腕にも足にも、どこにもそんな色は見つけられない。
 引き攣れて盛り上がった部分は焦げ茶色で、そうでない部分も赤痣青痣で埋め尽くされていて、それはなんだか、全体的にやすりで研いだかのようにガサガサで……

 これまでずっと、こんな理不尽な仕打ちを受け続けていたというのに……
 どうして、前を向いていられる?
 どうして、笑っていられる?
 どうして、訪れる未来を信じていられる?

「違うよ! だってこれ別に、お父さんから受けたものだけじゃないんだから!」

 ボスが唐突に、荒らげた声を出した。
 わたしは、つい考えていることを声に出してしまっていたのかも知れない。そのなにかに、ボスが過剰に反応し、否定したのだ。

「違う、って、なにが……」
「お父さんからはね、蹴られたり、殴られたりしたことしかないってことだよ」

 なにをいっているのか、一瞬では理解出来なかった。
 なんといったのかは聞き取れているが、意味するところが分からなかったのだ。だって、蹴ったり殴ったりされ続けていたから、ボスの肌がこのような酷い状態なわけで。

「それ、どういう……」
「切り傷もあるでしょ? これ、あたしが自分でやってたんだよね」
「え……」

 嘘。
 絶対に、嘘だ。
 嘘に決まっている。
 だって、だって、身体中、無数にあるよ。切り傷。
 傷痕が、こんもり盛り上がっていて。
 どれだけ激しくざっくりとえぐった傷なのか。
 子供が、自分でこんなこと出来るはずがない。
 不可能でなくとも、わたしには信じられない。

「嘘だと思うんならさ、見せてやるよ。お父さんからだけじゃないんだって、教えてあげるよ」

 わたしが疑っていることを感じて、むっと眉をしかめた表情のボスは、部屋の隅へと膝で移動して押し入れを開けると、なにやらごそごそと取り出した。
 それは厚手の黒いタオルが何枚かと、刃がボロボロと欠けた包丁だった。

「痛くないわけじゃないけどね、もう慣れっこだから平気なんだ」

 部屋の中央に戻ると、下着がまる出しになるのも構わず短いスカートのままあぐらをかくと、目の前にタオルを敷いて、包丁を振り上げた。

 なにをしようとしているのか、分からなかった。
 すぐに分かったけれど、しかし、ただ分かっただけだった。

 恐怖に、言葉も出なかった。
 ひう、とむせるほどの勢いで息を飲み込んで、そのままぽっかりと口を開けているだけだった。

 刃が、鈍い光を放ったかと思うと振り下ろされていた。
 わたしは、驚愕と恐怖とに目を見開いた。

 次の瞬間、ボスの左腕が、真っ二つに裂けていた。
 左の、肘から手首のあたりまでが、ぱっくりと割れて、真っ白な肉が見えていた。
 その真っ白な裂け目が、さあっと一瞬にして真っ赤に染まったかと思うと、どろりどろりと血が吹き出すように溢れ出した。

「ああああああああああっ!」

 ようやく、魔女の呪縛から解放されたかのようにわたしの口から声が発っせられた。それは、狂ったような悲鳴、絶叫だった。
 なおも絶叫を続けるわたしを前に、ボスは顔色一つ変えることなく、口と片腕を上手に使いタオルで肘を縛り、前腕全体をぐるぐると覆った。
 魂を押し殺しているようなうつろな目をしていたボスは、はっと目を見開くとおろおろしはじめた。

「ごめん。ごめん。別に怖がらせるつもりじゃなかったんだ。あたしにとっては、当たり前のことになってたから、平気でやっちゃったっていうか……。ほんとごめん、おどかしちゃって」

 なお悲鳴を上げ続けるわたしに、ボスは何度も謝った。
 どれくらいの時間が経過したのか、わたしはようやく落ち着いて来た。といっても心臓の鼓動や動揺は、まだまだ隠しようのないほど酷い状態だったけど。

「どうして、そんなことを……自分で、だなんて……」

 引き攣る口の筋肉をなんとか動かして、なんとか発した質問だけど、

「ごめん。教えられない」

 一瞬で拒否された。
 教えられないというなら、わたしには聞くことも出来ない。

 でも、おかしくないか?
 自分で傷つけているというのが本当だとしても、どうしてわたしにそれを見せる? 理由は教えられないなどといいながら。

 わたしが、ボスのお父さんを悪者と思っていたから?
 だから、お父さんを少しでも庇おうと思って、わたしに見せた?
 そんな気がする。

 だって、実はいまだに虐待が続いているとして、それに対してボスが助けを求めたいのなら、もうとっくにそう出来ているはずだからだ。
 ここまで色々なことが明かされてしまっているというのに、こっそりSOSを発信することに意味はないだろう。

 ボスがいまいった通り、自傷行為がボスにとっては日常であるということもあるか。
 ちょっと指の先を針で突くような、もうそんな感覚なんだ。だから、ちょっと疑われた程度で、ムッとして簡単にやってみせた。

 なにがどうであれ、以前の公園での約束がある以上は、ボスが頑張って問題を自己解決するのを、わたしは黙って見ているしかないのだけど。

 でも……
 このまま時さえ流れれば、すべてが解決するのかな?
 みんなで、笑いあえるのかな。
 本当の、心からの、笑顔で。

 それは分からない。
 分からないからこそ、ただそこにいるだけでボスに安らぎや、勇気を与えられるような、そんな存在になりたい。ふと、そう思った。
 まるで対極にいる自分という人間が、なんとももどかしかった。

     3
「お姉ちゃん」

 常夜灯のかすかな明かりに照らされた、しんと静まり返った部屋。
 二段ベッドの下段で横になっているわたしの上から、不意にフミの声が聞こえて来た。

「……なあに?」

 わたしはちょっと面倒くさそうな口調になるのをぐっとこらえて、優しげな声で返した。

「今日、なにかあった?」

 どん、と心臓が跳ね上がっていた。

「どうして?」

 なんとか平常心を保ちながら、質問に質問を返した。

「だあって……なんだか暗いから」
「いつだって暗いよ、わたしは」
「まあそうなんだけどさあ」

 ぐさり。
 まごうことなき真実だからなにもいえないけど、いまの台詞はちょっと傷ついたぞ。
 でも今日のわたしの態度は、フミのいう暗いとか、落ち込んでいるとか、そういう類のものではない。
 いうなれば、不安、だろうか。
 誰だってそうなるだろう。
 あんな光景を見てしまえば。
 小学五年生の女の子が、顔色一つ変えることなく、自分の腕を刃物で強く深くざっくり切ってしまうところなどを見てしまえば。

 しかも結果としてそう仕向けたのは、わたしなのだから。
 お父さんだけを悪く思わせないように、ボスはわたしの前で腕を切ってみせたのだ。


 あれからわたし、なにを話しただろうか。
 言葉を失っても不思議ではない凄惨な光景を目にしたはずなのに、反対に意外なほどにすらすらと言葉が出て来て、会話が弾んだという記憶があるというのに、その会話をろくに覚えていない。場の雰囲気をごまかすことだけが目的になってしまっていたのだろう。

 ……なんだっけ、確かわたしの家にも遊びに来て欲しいとかなんとか、そんなことを話したような気がする。
 暑いのにエアコンがなくて苦しいからとか、そういうことではなくて、ボスの部屋があまりにも生活感がなさすぎて、つい招きたくなったのかな。……無意識のうちに、家庭の暖かさに触れさせてあげたいなと思っていたのかも知れないな。
 自分のことながら、どういう心境での発言だったのか覚えていないんだけど。

 そしたらボス、また笑いながら謝ったんだっけ。家事をしなくちゃならないし、空いている時間に野球の練習もしたいから、と。

 ならその野球練習だけでも一緒にやろうと提案したのだけど、お父さんに野球をやっていることがばれるとうるさいし、いつ出掛けていなくなるのかも分からないから、と断られたのだ。

 以前は、遊んでいるのを見つけられると、そんな暇があったら働けと、蹴ったり殴ったりされていたらしい。もう殴らないとはいえ、やっぱり怖いのだそうだ。

 わたしはそうした話をを聞かされても、気のきいたなにを返すことも出来やしなかった。
 ガソリンやアキレスのように、なにか元気の出る楽しい話題でも振ることが出来れば良かったのだけど。
 暗くて話し下手なところ、これが自分だと思っていたから別に気にしていなかったけど、さすがにこの時ばかりはこんな自分がもどかしくてたまらなかった。

 やがて、ボスが夕食の準備をしなければならないとのことで、カスミまでの道を途中まで一緒に歩いて、別れた。
 ボスがわたしに見せたあの光景、それまですっかり麻痺して平気で雑談をしていたというのに、一人になった途端に、どっと頭になだれ込んで来てパニックに陥りそうになった。叫び出しそうになった。
 心臓がどくどくと激しく動いて、胸が苦しくて。

 ボスを傷付けさせてしまったことへの罪悪感と、ただ見ているしかないという罪悪感、この二つがぐるぐると回っているうちに、気が付けば自宅に着いていた。

 玄関を開けるなり、フミとしゆんが、わーっと走り、まとわりついてきた。
 そこは間違いなく、慣れしたしんだ日常であるはずなのに、頭の中ではボスの家でのことがまるで整理出来ておらず、なんだかぽわーんとした奇妙な気持ちだった。

 居間へ入るとキッチンでは、珍しくお父さんとお母さんが仲良く肩を並べて夕食を作っていた。いや、いつも仲はいいけど、こうして二人で料理を作ることが珍しかった。

 夕食は、とても美味しかった。
 お母さん一人だけで作った酢豚だけは、あまりに酷い出来で食べられたものじゃなかったけど、それでも……それすらも、美味しかった。

 箸を口に運びながら、じわりと涙が浮かんで、拭った。
 申し訳ない気持ちになったのだ。

 うちの、あまりの居心地の良さに。
 自分が幸せであることに。

 分かっている。申し訳ないなどと思ったら、それこそボスに怒鳴り付けられてしまうということを。「甘えられるんなら、甘えとけばいいんだよ! 子供なんだから」って。申し訳ないなどと思うことほど、失礼なことはないって。

 うちはうちで、よそはよそだ。
 分かってはいる。
 でも……
 理屈ですっぱり割り切れるくらいなら、そもそも悩んでなんかいない。

 その後フミと一緒に、今度いなほ祭りで披露するダンスの練習をした。
 まだわたしたちが下手なのは仕方ないけれど、
 そうであればあるほど、
 ボスが見せてくれた、あの姿が頭に浮かんだ。
 まるで妖精のように、
 悩みなどなに一つない、といった楽しそうな、無邪気な笑顔で、
 それはもう本当に可愛らしく、


「お姉ちゃん。お姉ちゃん!」

 気付けばわたしは常夜灯の薄明かりの中、ベッドに横たわっていた。……すっかり回想に入り込んでいた。そうだ、ベッド上段にいるフミと話をしていたのだったっけ。
 上から、フミが首を伸ばし覗き込んでいた。

「見ないでよ!」

 わたしは珍しく怒鳴るような声を出すと、タオルケットを頭から被ってしまった。
 どうして声を荒らげたのか自分でも分からない。
 分からなかろうと、こういう気分になることだってあるのだ。

 もう寝よう。
 このまま、眠ってしまおう。

 そう思ってぎゅっと目を閉じたけれど、そう簡単に眠れるはずがなかった。
 眠ろう眠ろうとするほど、今日見たことが頭の中をぐるぐると回り……
 無意識に、
 静かに、
 感情が高まり、爆発してしまっていたのか……
 泣いていた。
 すすり上げるように、嗚咽の声を漏らし、わたしは泣いていた。

     4
「よし、いいぞお。結構いい感じになって来てる!」

 ターンが全員でピシッと綺麗に決まったのを見て、ボスは嬉しそうに拍手をした。

 ここは小学校の校庭だ。
 片隅に置かれたラジカセのスピーカーから、ジャズの名曲である「スカーフェイスにブランデーを」が流れている。
 いなほ祭りでゲリラ披露する予定のダンスを、チーム全員で練習しているところだ。

 自分でいうのも照れるけど、確かにボスのいう通りこの数日でかなり良くなって来ていた。
 集団として息が合って来ているし、個人個人の動きも良くなっている。

 ようやく反復練習の成果が身体にしっかり染み付いて来た、ということなのだろうけど、でもそれだけではない。
 ガソリン、ノッポ、フミ、彼女らの見せる必死さに、みんなが自分もやらねばという良い影響を受けているのだ。
 影響を与えることが出来ているのかは分からないけど、必死というならわたしも一緒だ。
 ボスの秘密を知ってしまった者として、ボスのためにやれることはなにか? ボスが喜んで、より前向きになってくれることはなにか? そんなの分かるはずもなく、ならば自分にやれることをただ一生懸命にやるしかない。四人とも、そういう気持ちになっているのだ。

 フミなんか、家ではふざけたようなことばかりいっているけど、外でキャッチボールになると途端に真面目になるし、ここでのチーム練習にしたって本当に真剣だ。ダンスも野球も、こんなに真面目に運動に打ち込んでいるフミを、これまで見たことがない。

「おー、今日も元気にダンス体操やってるなー」

 コタローコーチがいつものジャージ姿で、まだ二十代だというのにもったりもったり年寄りくさく歩いて来ると、「おいっちにいさんし!」と呑気な声で、わたしたちのダンスを邪魔、いや真似し始めた。
 真似、といっても程遠い酷いレベルだけど。

 以前にも説明したと思うけど、このボスの創作ダンス、コーチには単なる野球練習前のウォーミングアップだと伝えてある。いなほ祭りの場での野球チーム紹介、どうせなら意表を突くものがいいということでダンスに決まったわけだけど、大人に知られてしまうと「ふざけている」「真面目にやれ」と却下される可能性があるからだ。

 連係を合わせるための練習を、ラストのところまで一通り進めてしまいたかったけど、単なるウォーミングアップだと伝えている手前コーチのいる前でそこまでは出来ず、とりあえずだらだら最後まで流してダンス練習は終了。

「よおし、続いてジョギングだあ! 行くぞお!」

 ボスが元気に声を張り上げた。
 続いてもなにも、本当はここからが野球の練習なのだけど。

「おーーっ! と、その前に、ちょっとみんなに話がある! 集合!」

 コタローコーチはみんなを集め、前に立った。

「ええとな、申し込んでいた大会のことなんだけどな……ダメだった。審査に通らなかった」

 申し訳なさそうな表情でいうと、口をきゅっと結んだ。

「えー!」

 みんなが口々に不満の声を上げる。
 それを楽しみに、日々練習をしていたのだから。

 なんの話かというと、来月に杉戸町内で行われるトーナメントの野球大会があって、それに申し込んでいたのだ。それが、お流れになってしまったというのだ。

「なんでさ! 資格はクリアしてるだろ!」

 ボスが食いついた。
 そう。資格もなにも、要項を読んだ限りでは少年チームとして取り合えずの形態を成していれば参加可能だろう、というくらいに緩い条件だったはずだ。

「実績がないこととな、あと女子チームだからだそうだ」
「なんだよそれ、強いチームに男も女もねえってのに! 男だって、こんなコタローみたいなどうしようもないヘンチクリンが存在しているってのにさあ!」
「悪かったな!」

 確かにボスのいう通りだけど、あ、いや、コタロー云々というくだりは除いて。でもとにかくうちは、チーム結成からまだ一点すらも取ったことない。実績どころか実力もなく、だからそこは間違ってはいない。
 でも……

「でも、そんなんどこにも書いてなかったろ。参加資格が男子だけだってんなら、それ先に確認しとけよバカ」
「いや、確認はしたんだよ。そしたら、なんだかうやむやな対応でな、とりあえず申し込んどいて下さいとかいわれてな。そしたら参加チーム数オーバーになってしまったらしい。オーバーってのが今回初めてらしいんで、きっと急遽どこか削らなきゃってんで女子チームであるうちが削られたってことなんだろうな。これまでが適当だったってことなんだよ。他にも大会はあるから、そっちも申し込むよ。最短で再来月になるけど」

 とのことだ。
 スポーツ界で女子が不遇なのは今日始まったことではなく、我々に限ったことでもないけれど……やっぱり、厳しいなあ。

「がっかりしてても仕方ねえ。取り合えずやれることは練習だけ! 練習で身につけた実力は、試合を選ばないんだから。大会で優勝出来るよう、張り切って行くぞ!」

 そう叫ぶと、ボスは走り出した。
 優勝もなにもまずは一勝、いや一点を取るところからなのだが。でも、そんなことをいっても仕方がない。
 目標は高くだ。

「おーーっ!」

 わたしたちも叫び声を上げると、ボスの背中を追い、走り出した。

     5
「デビルレーザー発射ああ!」

 ショートゴロを捕球したボスは、起き上がるなり壮絶そうな技の名前を叫びながらバックホーム体勢に入る。
 でも、ぶんと腕を振り下ろしたもののボールは全然飛ばず、ぽとり落ちて転がった。
 指が滑ったのかな。

 ピッチャーのフロッグが小走りに寄って、拾おうとするが、

「あたしが投げる!」

 ボスは怒鳴りフロッグを制止すると、自分でボールを拾った。
 もう走者であるバースはとっくに生還してしまっているが、それでもボスは全身全霊渾身の力といった必死な表情でぶうんと腕を振った。

 でもその迫力とは裏腹に、さして球威は出ずに、キャッチャーミットを構えているドンまでノーバウンドでは行かず、ころりころり転がってようやく届いた。

 調子、悪いのかな、ボス。
 よくよく見れば、なんだか顔がやつれているような気もするし。
 大丈夫なのかな。

 まあ、これまで家庭でどんな目にあっていたかを考えれば、もっともっとげっそりやつれてたって不思議ではないけれど。
 などと思っていると、不意にぴりりと熱い視線を感じた。
 ボスが、じーっとこちらを見ていたのである。
 視線に気づいたわたしが、気まずさについあたふたとしていると、ボスも視線に気づかれたことに気づいてあたふたとしはじめた。

「いやあ、腹が減っちゃってさあ」

 ごまかすようにいうと、頭を掻いてわははと笑った。

 空腹だからって、ああまで力が入らないことはないだろう。
 仮にそうだとして、家庭が家庭だからしっかりと食べることが出来ていないのだろうか。

 うちに遊びに来てくれれば、親に頼んで御馳走でも作って貰うのにな。
 でも、本当にそれがやつれてきていることの原因なのかな。
 もしも、他になにか……

「キミちゃん危ない!」

 ドンの叫び声が聞こえると同時に、わたしの頬にずばっとなにかが減り込んで、わたしはまるで握り拳で殴られたかのように身をのけ反らせていた。

 ドンが投げたボールを、わたしがぼーっと考え事をしていたため受け損なったのだ。
 ふっと意識が遠退きかけたけけど、なんとか持ちこたえた。

「ああ、痛かった」

 でも軟球で、助かった。
 もしも硬球だったら、頬骨が砕けているよ。ドン、もともと強い肩の力が、最近さらに強くなっているからな。

「ったく、ボケっとしてっからだよ!」

 じーんと鈍く痛んでいる頬っぺたをさすっていると、ボスの楽しそうな笑い声。

 酷い。誰のことを考えていてこうなったと思っているんだ。
 とわたしは面白くない気分だったけど、ボスの笑顔を見ているうちに、なんだかおかしくなってしまい、つい一緒になって声を上げて笑い出していた。

     6
「みんな、自分の胸に手を当てろ!」

 わたしたち杉戸ブラックデスデビルズの選手たちは、ボスにいわれるまま胸にそっと手を置いた。

 ここは小学校の体育館。
 壇上横の、暗幕裏にばらばらと集まっている。
 みな、野球のユニフォーム姿だ。

 いなほ祭りの日。
 これから、わたしたちのチーム自己紹介があるのだ。
 自己紹介といってもマイクで語るようなものではなく、前々から練習してきた例のあれだ。

「緊張してっか?」

 ボスが問う。

「してます!」

 わたしは間髪入れず一人大きな声を出して、仲間たちに笑われてしまった。
 なんだよ、みんなだって緊張しているくせに。ずるいなあ。

「失敗したら恥ずかしいって思うから緊張すんだよ」
「いえ、成功しても恥ずかしいです」
「じゃあ緊張をバネに変えて成長しろ」
「はい!」

 別にわたしはやけっぱちになっているわけではない。緊張に潰されないよう、ちょっとテンションを高めて逃避しているのだ。

「おい、お前ら、大袈裟だなあ。緊張で成長って、ただ紹介文を読むだけだろ。でもビージーエムに指定した曲、ちょっと合わなくないか?」

 紹介文を読むだけなら、確かに合わないだろう。
 コタローコーチは、なにも知らないのだ。わたしたちは、あえて隠していたのだから。

「……をもって、答辞に代えさせて頂きます。ありがとうございました」

 場内スピーカーから、教頭の声。
 次、
 とうとうわたしたちの番が来た。

「じゃあ先に行くな」

 コタローコーチは暗幕をそっと開けて、一足先に壇上へ立った。
 隙間から覗き見ているわたしたち。

 コーチは、マイクスタンドのマイクに顔を近づけるなり、ぼっ、とマイクを吹いてしまい、生徒たちのはははという乾いた笑い声を受けた。
 ちょっと、変な雰囲気にしないでよ! ただでさえ緊張しているのに。
 コーチはあらためてマイクに口を近づけると、

「大変失礼しました。ええ、ここでちょっと時間をお借り致しまして、学校の課外活動の一環……まあ正確にはちょっと違うんですが、この小学校で練習をしている、女生徒たちだけで作り上げた野球チームを紹介致します。不肖、わたくしはやしこうろうがコーチを務めております。まだまだ出来たばかりでお世辞にも強いとは申せませんが、彼女らの野球に打ち込む姿勢は男子チームのどんな強豪にだって決して負けておりません。学校の歴史とともに、これから成長の歩みを進んで行くことをお見守り頂きたく、ここでこのような場を設けさせて貰いました。では、生徒たち自らにチームの紹介をして貰います。ちょっと女子と思えない変なチーム名ですが、杉戸ブラックデスデビルズの選手たちです!」

 コーチの叫びと同時に、事前にお願いしていた通り「スカーフェイスにブランデーを」が大音量で場内に流れ始めた。

「行くぞ!」

 ボスはさっと暗幕を掻き分け、飛び出した。
 わたしたちも続いた。
 壇上、眩しい照明の下へと。

 わたしたちが、さっさっとポジションについている間に、ボスはコーチからマイクを奪い取って、

「よく噛まずペラペラいえたぞ、コタロー! でもチーム名ちょっと変は余計だ! まあいいや、銀河最強軍団杉戸ブラックデスデビルズのチーム紹介ダンス、張り切ってえ、いっくぞおおおおおおっ!」

 体育館の中をバリバリと大音量の響く中、ボスの小柄な身体が大きく宙に舞った。
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