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第十七章 信じてるから  ―― 対前橋森越戦・その5 ――

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 せっかく奪い取ったはいいが、2番に身体をくっつけられ、しんどうりようはバランスを失って転倒した。
 痛みに顔を歪める間もなく立ち上がると、全速力で守備へと戻る。
 全速力といっても、現在可能な最大限というだけであり、歩いているのと大差のないものであったが。

 非常に小柄で、体重も四十キロほどしかない良子であるが、全身をおおう疲労に身体が鉛のように重くなっていた。

 なにもなくとも力抜けたようにがくりと膝を落とすわ、ユニフォームが接触した程度でもバランスを崩して転倒するわで、まえばしもりこしがよほど荒いプレーをしない限りは良子が倒れることで審判の笛が鳴ることはなくなっていた。

 ボールは2番から、ふみへと渡った。彼女はぽっかり出来たスペースを使い悠々と前へ運んで行く。

 佐原南フィクソのあしは、自身のマーク相手である6番の動きを意識しながらも、タイミングを見て津田文江へと突っ込んだ。

 津田文江は難無く浮き球を上げ、留美の頭上を通してゴール前へと送った。

 駆け上がった2番がフリーで待ち構えている。
 これが通っていたならば、佐原南は三失点目を奪われていたかも知れない。

 だが2番が受ける寸前、ゴレイロのゆずが大きく飛び出して、ヘディングでクリアしていた。

 留美の津田文江への安易ともいえる飛び込みは、浮き球を放り込ませて処理するための誘導作戦だったのだ。

 留美はそのまま津田文江の脇を抜けて駆け上がり、落ちてくる柚葉のクリアボールをさらに頭で跳ね上げて前へと送った。

 敵陣左サイドで洋子が胸トラップを見せるが、久野琴絵のプレスに慌てて出しどころを探してきょろきょろ。

「ドン!」

 双葉がパスコースを作るため下がってきた。
 洋子はすぐさまボールを出すが、ことがさっと伸ばした足にわずかに当たってコースが変わった。

 追い掛ける双葉。
 後ろから駆け込んだ6番が、双葉と肩を並べた。
 二人が同時に足を伸ばすと、ボールは小さく跳ねてサイドラインの方へと転がった。

 こぼれて来たボールへと、良子が荒い呼吸ふらふらとした足取りで向かう。

「来てる!」

 ベンチから、すず鹿すみの悲鳴のような叫び声。

 分かっている。
 この足音は津田先輩のものだ。

 良子は、ボールを大きく前へと蹴った。
 前橋森越ゴール前へと放り込んだつもりであるが、ボールは大きくそれて、左側のサイドラインを割った。

 良子は悔しそうな表情を作ったかと思うと、がくりと膝が崩れ、前へ倒れそうになった。
 左足を前へと突き出して、なんとか踏ん張って身体を支えた。

 ぶるぶると全身を震わせながら立ち上がろうとするが、必死に力を込めても身体がいうことを聞かない。
 両の膝に手を置いて、腕の力で立ち上がった。
 とと、と後ろによろけ、背中で誰かにぶつかった。

「邪魔だよ」

 津田文江だ。
 彼女は胸で、どんと良子を押した。

 良子はまたよろめいて、足をもつれさせたが、なんとかバランスを取り自分の身を支えた。

「無理だ! もう下がれ、シャク! 主将権限で、そうするけど、いいな」

 はなさきつぼみ主将には珍しい、怒鳴るような大声が飛んだ。

 良子は歯を食いしばりながら、錆びたブリキ人形のようにぎこちない動きで花咲先輩へと顔を向けた。そして、荒い呼吸の中から熱い吐息に乗せて言葉を搾り出した。

「……待って、下さい。この、試合は、あたしに権限が、あるはずです。あたしが、主将、の、はずです」
「しかし……」
「お願いします。まだ、やれます。やらせて、下さい」

 息たえだえといった良子の顔であるが、その瞳だけは不屈の闘志に燃え輝いていた。

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 それを見てしまった以上は、はなさきつぼみも諦めるよりなかった。せめてこの程度とばかり、小さなため息を一つ吐いた。

「分かったよ。……勝敗は、もう気にするな。自分の限界に挑戦して、思い切り燃え尽きてこい。それが佐原南の未来に繋がると、わたしは信じる」
「わがままを聞いていただいて、有り難うございます」

 良子は真面目な表情で深く頭を下げた。
 持ち上げるとその表情を少し崩し、柔らかな微笑を浮かべた。

「でも、勝ちます。絶対に」

 ぎゅっと拳を握った。
 それは単にこの逆境の中で諦めず闘志を奮い立たせるための自己暗示に等しい言葉だったのか、それともなにか確信めいたものを感じていたからなのか、自分でも分かっていなかった。
 どうでもいいと思っていた。
 だって、やることはなにも変わらないのだから。

 そう決心をより固く持つ良子であったが、その気持ちが試合の状況を覆すことはなく、その後も変わらず前橋森越がペースを握り続けた。

 後半戦開始直後に比べれば、佐原南がボールを持ち、攻め上がる機会も増えてはいたものの、全体を見れば主観的客観的どちらの視点からも佐原南の防戦一方という状態であった。

 だが、見る者が見れば分かっただろう。
 先ほど留美と柚葉が見せたような連係による守備。
 個人の頑張りで食い止め続けていた前半戦に比べ、後半戦は息の合った抜群の連係で守ることが多くなっていた。

 支配はされているものの、相手に与える決定機の数は確実に減っている。
 洋子と良子、双葉と良子との連係で上手に追い込んで奪ったシーンもあったし、そこから決定機を作りかけたこともあった。

 先ほど津田文江は、「お前らの連係など通用しない」と良子を罵っていたが、そんなことはなかったのである。

 もちろん出続けることで対策される部分はあったが、それを上回る早さでじわじわと連係を成長させていたのも事実であった。

 個人としての良子は相変わらず酷いものであったが、五人全体を見た場合、良子は完全になくてはならないピースの一つになっていた。
 それを感じたからこそ、花咲蕾は良子が出続けることを認めたのかも知れない。
 このまま真っ当なプレーをしても、逆転は難しい。ならば、良子たちの起こす奇跡にかけたのかも知れない。
 だが、いくら奇跡が起きて劣勢から立て直すことが出来たとしても、残り時間はあと七分しかなかった。

     3
 床に胸を打ち付けていた。
 切り返そうとして、タッチミス、消失感からバランスを崩して転倒してしまったのだ。

 しんどうりようの滑稽な姿を、ふみはボールを踏み付けニヤニヤ笑みを浮かべながら見下ろしている。

「これだけ恥ずかしい姿をさらしてるくせに頑張り続けているご褒美に、少し心の救いになること教えてあげてあげようか。人間の能力はね、平等じゃない。絶対に埋められない差があるんだ。別に、あんたらが一年生だけだから苦戦しているわけじゃないんだよ」
「確かに……そうかも知れない。でも……」

 良子はゆっくり首を持ち上げ、津田文江を見上げると、腕を伸ばし、草をむしるがごとく床を引っかき、上体を起こそうとする。

「人間は努力、信じる心、勇気で、いくらでも、強くなれる!」

 ましてやフットサルはチームスポーツ。信頼なくして成立しえない競技なのだから。

 だが、良子の考えは津田文江には理解出来ないようであった。
 いや、仮に理解出来たとしても、それこそチームワークを否定しての勝利を見せつけることに意地になっていただけかも知れない。ただ良子の精神を潰したいがために。

「中学では、作った笑顔の下でビクビク怯えているだけだったくせに、いうようになったねえ。単なるざれごとをぺらぺらと偉そうに。というかさあ、いくらでも強くなれる、って別に強くなんかなってないじゃない。負けそうじゃない。現実見てものいってる? 適当なこというだけなら、誰でも…」
「現実をぎょうさん見てきたから、ゆうとるんや!」

 大声で割り込んだのは、高木双葉であった。
 良子同様、走り回って息も切れ切れの苦しそうな表情で、言葉を続けた。

「シャク、良子は、うちの人生なんか比較にならんくらい辛い目におうてきたからな。そんな良子が、うちらと会って強くなれたとゆうてくれるんなら、こんなに嬉しいこと、こんなに誇らしいことはない。その思いを受けて、うちらもまた強くなれる。……そう、うちら五人、成層圏同盟や。魂の絆で、いくらでもいくらでも強くなれるんや! 分かったかボケ!」
「だったら勝ってみなよ。いくらかっこつけたこといっても、二点差で負けているのが現実でしょ。無能が束になっても同じこと。とっとと上級生に泣きついたら? どいつもこいつも酷いのばっかりで、試合をバカにしてるとしか思えない。ほらほら、カスは早く引っ込め引っ込め」

 津田文江は、パンパンと手を叩いて挑発した。
 双葉は歯軋りし、なにか反撃してやろうと口を開きかけたが、すっと良子が制止するように前に立った。

「みんなを、悪く、いうのは、やめてください。あたしは、いくら笑われても構わない」

 良子は目を細め、津田文江を睨み付けた。
 普段の良子を知る者ならば、疲労や必死さ故にそのような表情に見えただけと思ったに違いない。良子が他人を憎むことなど絶対にあるはずがない、と。

 だが良子はいま、本気で津田文江を睨んでいた。
 憎んでいるというのは少し違うかも知れないが、怒っていることに間違いはなかった。
 決して気持ちのよいものではない。
 でも、親友がここまでバカにされて、黙っているわけにはいかなかったのだ。

 良子の気持ちに双葉は気が付いているようであったが引っ込みがつかなかったようで、一瞬表情を和らげたかと思うとまた津田文江へとからかうような顔を向けた。

「お前こそ引っ込んだらどうや。次の試合のこと考えとるんやったら、出っぱなしもまずいやろ。それとも、そんなに良子が、シャクが怖いか? 自分で潰さなければ心配なくらい怖いか? 怖いんやろなあ。小心そうな顔しとるもんなあ。うちも気は小さい方やけど負けるわあ」

 小心、という言葉に反応して津田文江はぴくりと頬を痙攣させた。だがすぐに、冷静そうな表情を作り薄笑いを浮かべた。

「考えてないよ。次の試合なんて」
「嘘つけや」
「本当。だって、うちが優勝だなんて絶対に出来るはずがないもの。まあ、ドリと当たるかもと知るまでは、行けるとこまで行こうとは思っていたけどね。でも無理だね。あたしとコトだけで、あとはてんで無能なクズばっかりなんだもの」
「お前、なにを……」

 信じられない、といった表情で双葉が口を開き喋りかけたが、それは一瞬にして良子の声に掻き消されていた。

「チームの仲間を、信頼していないんですか?」
「仲間?」

 津田文江は良子の言葉を復唱すると、わざとらしい仕草でぷっと笑った。

「いないよりまし、というだけの連中を仲間っていうのなら、まあ仲間だね。とりあえず邪魔だけしなければいい。……そんな、睨まないでよ、ドリ。あたしたち二人のおかげでみんな、自分たちも強くなったんだと勘違いして頑張っているんだし、お互い様ってことで別に問題ないでしょう?」
「でも……でも、それじゃあ……」

 あまりに可哀相だろう。それに、あまりに失礼だろう。
 まるで信頼されていないどころか、このような場でおおっぴらに存在を否定されている前橋森越の選手たちに、良子は心から同情した。

 それでも勝ちたいから、弱小から脱却したいから、ひたすらに我慢をして得難い戦力を受け入れる。どれだけ辛くて惨めであるか、想像もつかない。

 でも、同情はするけれどそれと勝負はまた別だ。
 むしろ、信頼関係の成り立っていないこのようなチームに負けるわけにはいかない。

 仲間を信頼しようとしない津田先輩に、負けるわけにはいかない。

 だって、分かり合った仲間たちとパス交換をする中でさらに信頼を深め、お互いに成長していくのがフットサルなんだから。

「なあにその顔? なんだろうと、勝てばいいんだよ」
「それは、違う」
「違くないね」
「違う! 違う!」

 確かに自分も小学生の頃は、味方の動きがどうにももどかしく、個人プレーに走ったことがあった。それがフットサルじゃないとはいえない。
 でも、目指すやっぱりチームプレーなんだ。
 ベンチにいるみんな、練習を一緒にするみんなと、絆を高め合うことなんだ。
 その上で勝利を目指し、掴み取ることが、最高に嬉しいんだ。

「小賢しい顔。あんたがいま、なにを考えてんだかよおく分かるよ。だったら、あたしのことをさあ……止めてみな!」

 試合再開の笛と同時に、津田文江は不意にボールを転がして良子の脇を抜けた。

 良子は決して油断したつもりはなかったが、しかし身体が動かなかった。簡単に、突破を許してしまっていた。

 しかし津田文江はボールを保持することは出来なかった。
 芦野留美が正面から突っ込んで、ボールタッチの微妙な隙を狙って大きくクリアしたのだ。

「タッチ荒いよ、疲れてんじゃないの? それとも良子が怖いのかな?」

 留美にしては珍しく毒舌を吐いた。
 津田文江の良子への罵倒を審判が放っておいている以上は、この程度の口撃で注意されるはずもない。自分の鬱憤をぶちまける意味でも、心理戦に持ち込む意味でも、無駄ではないと思ったのだろう。

「怖いわけないでしょ、こんな奴が!」

 津田文江は留美、そして良子に鋭い眼光を浴びせると、クリアボールを拾った2番にパスを要求しながら走り出す。

 6番は、鈍台洋子をかわすと前へ、津田文江を走らせるパスを出した。

 通らなかった。
 軌道上に、前線から駆け戻った双葉が滑り込んでカットしたのだ。
 滑る勢いですぐさま起き上がると、洋子へとパスを出し、前橋森越ゴールへと走り出す。

 苦しそうな表情。
 良子ほどではないにせよ、双葉も前目からの守備で走り回っており、すっかり息が上がっていた。
 洋子とのワンツーで2番をかわしたはいいが、飛び出したゴレイロに大きくクリアされていた。

 いや、クリアミスだ。
 ボールは弧を描いて横へと跳ねていた。
 双葉はふらふらとした足取で追い、バウンドしたところを右足で踏み付けた。
 ターンしてゴールへと向き直ろうとしたが、振り返れなかった。背後に、津田文江が密着していることに気が付いたからだ。

 第一試合での双葉のままだったならば、パスを出す相手を探し、結果奪われていただろう。

 だが、もうその時の双葉はここにはいない。躊躇することなく足の裏で小さくボールを引くと同時に反転、津田文江の脇を抜こうとした。

 その気迫のこもったプレーに、驚いて身じろぎする津田文江。残った足に、双葉は突っ掛かってしまい、前へよろけ、倒れた。

「あいたっ!」

 双葉は絶叫に似た鋭い悲鳴をあげ、身体を丸め足首を押さえて顔を苦痛に歪めた。

 笛が鳴った。
 津田文江に、イエローカードが出された。

「勝手に転んだだけでしょ!」

 津田文江は、審判へと怒鳴り声を張り上げた。
 つとめて冷静を保とうとしてはいるようだが、随所にこのような態度を見せてしまうことから、かなり佐原南いや成層圏同盟からプレッシャーによるストレスを受けているようであった。
 絶望の中、まったく諦めることを知らない彼女たちから。

「うちはルールの範囲内で一生懸命やっとるだけや。ジャッジするんは審判。……って、お前がさっきシャクにいったこと、そのまま返したるわこのボケ」

 倒れたまま双葉は審判に聞こえないよう小声でぼそりというと、ごろんと大の字になった。
 喘ぐよう大きく口を開け、胸を大きく上下させながら空気を吸った。

     4
「大丈夫?」

 しんどうりようが、ふみを押し退けるようにたかふたへと近寄ると、心配そうに顔を覗き込んだ。良子の顔自体も、他人から心配されて不思議のないほど酷いものであったが。

「平気や。ちょっと休憩しよ思って、わざと転んだだけや」
「それならいいけど……あ、いや、別によくはないけど」

 そこまで心肺ボロボロの状態だなんて。

 でも、後半戦はとにかく成層圏同盟による連係で攻めると決めたのだ。良子としては、よほどのことがない限り双葉を交代させたくはなかった。

「あんなあ、良子、聞いとるか?」
「聞いているよ」
「うちって、おかんに似たのか思ってることを知らない間に口に出してしまうところあるから、だからな、なるべく裏表がないよう、正直に、生きてきたつもりや。でも、な、一つだけ……嘘ついてたこと、あんねん。めっちゃこっ恥ずかしい、嘘やねん」
「なあに? あ、別にいわなくていいんだよ。黙っていたいことなら」
「黙ってたいことやからこそ、いまゆうたるんや。いつ独り言からばれるか、分からんからな。……うちな、中学の、頃から、男を取っ替え引っ替え、ゆうてたやん」
「え……」

 双葉の言葉に、良子は驚いたようにぱちぱちと瞬きした。
 その顔は、次第になんともおかしそうな笑みへと変化していった。

「ああ、いってたね。あたしの家で勉強してた時だよね、確か」
「実はな、あれ真っ赤な嘘やねん。信じてたやろけど、まったくの出鱈目やねん。ほんまはな、男の子と手を繋いだこともあらへんねん。男子と向き合うとな、緊張してなんも話せんねん。この前話した小学時代の、関西弁のマサト君としか、まともに会話したことあらへん。……って、なにいってんのやろなあ、フットサルと全然関係あらへんことをぺらぺらと。ほんまアホやなあ、うちは」
「そんなことないよ」

 さすがに取っ替え引っ替えは嘘だろうとは思っていた。そうであれば、高校でもなんらかの気配があって然るべきだからだ。
 とはいえ、あそこまで自慢話を並べたてておきながら、まさか手を繋いだ経験がないどころかまともに話すことも出来ないとは思わなかったが。

「じゃあ、あたしと留美ちゃんと、おんなじだね」

 良子は声を立て、楽しそうに笑った。

「あたしもないよ。取っ組み合ったことなら数え切れないけどね、小学校中学校で」

 柚葉の声だ。
 自陣ゴール前よりかなり前に陣取っているとはいえ、なんたる地獄耳。

「あたしもあたしもあたしもっ。だってあたしはあ、ユズちゃんと結婚するんだもん」

 どんだいようが、ぽっと赤らんだ頬を両手で覆った。

「だからドンちゃん、それはあ……」

 柚葉は、なにをいっても無駄だとばかりに肩を落とした。
 良子と双葉は、同時に吹き出していた。
 留美もつられて笑い出し、洋子はいつもにこにこ笑顔であった。
 残る柚葉は決まり悪そうにぶすくれた顔で頭を掻いていたが、唇を歪めたかと思うと表情を崩し、楽しげに笑い出した。

「バカじゃないの?」

 津田文江が不快そうに顔をしかめながら、良子たちをねめつけた。

「バカで結構。バカはバカでもフットサルバカだぜ」

 柚葉はぎゅっと拳を握り、いつもの不敵な笑みを浮かべた。

「ユズのくそったれのいう通りやあ! なんだか絆、最高潮に達してきたでええええ!」

 双葉は、足を上げた反動で一気に立ち上がると、良子の真似をして、

「どっかあああん!」

 ぴょんと跳ねながら、右腕を高く突き上げた。

     5
 大苦戦。
 窮地。
 絶体絶命。
 暗闇。
 こうした負の言葉以外に、佐原南の状況を端的客観的に示すものがあるだろうか。

 残り時間があと六分半しかないというのに二点のビハインド、相手は一向に守りを固めることなく前へ出続けているため防戦一方で攻めの糸口が掴めない。
 状況だけを考えれば、楽観的な言葉など一つたりとも出るはずがないのだ。

 だというのに、これはどうしたことだろう。
 現状のどこをどう抜き出してみても絶望して不思議のない状況であるというのに、しんどうりようたかふたどんだいようあしゆず、ピッチに立っている佐原南の五人からは、絶望どころかまるで希望が失われていない。そう断言出来るほどに、みなの顔には微塵の曇りもなく、実に爽やかな表情であった。

 疲労に顔をぐしゃぐしゃに歪め、肩で大きく息をしており、辛そうではあるものの、それすらも充実に満ち足りた心地好い時であるかのような、そんな表情であった。

 一体なにがその希望を生み出しているのか、おそらく彼女たち本人にも分かっていなかっただろう。
 理由など分からなくとも、力が身体の奥底からこんこんと沸き上がってきているのが事実。鉄の鎧をまとっているがごとくに疲れ切っているはずの五人であるが、希望が背中を後押しして身も心も軽くなっているようであった。

 相乗効果ということか、連係面も後半戦開始時に比べると著しく向上していた。
 といっても相変わらず押し込まれて守備以外のなにもさせてもらえない状況ではあったが、みな疲労に顔を歪めながらも頭の中はクールに、集中し、計算し、声を掛け合い、出だしの一歩は気力でカバーし、相手を追い込んでボールを下げさせたり奪い取ることが出来るようになってきていた。

 試合開始からつい先ほどまで奇跡的なセーブを連発していた柚葉であるが、守備の重圧が軽減したため的確なコーチングが出来るようになっていた。

 連係は自信を、自信は連係を呼び、防戦一方ながらも闇雲なクリアだけではなく、攻め込もうとするシーンも見られるようになってきた。

 さすがは今期公式戦無失点のまえばしもりこしを相手にしているだけあり、結局はなにもチャンスを作れないまま奪われてしまうのだが。

 一秒、また一秒と電光掲示板に映し出されている残り時間が減っていく。
 しかし佐原南の……成層圏同盟の五人は、守備に奔走しながらも胸の奥のかすかな希望を次第に膨らませているように見えた。
 そう見える彼女らの表情で、中でも顕著なのが良子であった。

 実際に、心からの希望が芽生えていたのだからそう見えるのも当然だ。

 良子はこの試合を楽しんでいた。
 最初は緊張する自分の心を押さえ付けて、楽しもうと無理に思い込もうとしていたけど、いまは違う。
 かけがえのない大切な仲間とフットサルが出来る、それはもしかしたらこの一瞬だけで、もう二度と来ないかも知れない。そう思うと、緊張すらもいとおしくなる。楽しい気分になる。

 単に虚勢を張っているだけなんだろうな。
 きっと胸の奥にいる本当のわたしは、小さくて、おどおどしたままで。
 でも、いいんだ。
 素敵な仲間に囲まれた、濃密な時間を過ごしているこの幸せは本物なんだから。

 ふと周囲を見回して、仲間たちの顔を確認した。
 自分と同じでただ強がって弱気を見せないようにしているだけかも知れないけど、みんな、いまにも倒れてしまいそうなくらい疲れきっている中、前を向いて、現状を打開しようと懸命に走っている。

 良子は、そんなみんなの存在を大切に思った。
 この試合、絶対に勝利を掴みたいと心から願った。

 と、その時である。
 審判の笛の音が響いた。
 鈍台洋子が、抜こうとする9番を止められず、足を引っ掛けて転ばせてしまったのだ。

 後半戦、六回目の直接FKであるため、前橋森越は第二PKを選択した。

 第二PKとは、ゴールから十メートル離れた第二ペナルティマークから蹴るPKだ。壁のないFKといってもいい。

 キッカーは津田文江だ。
 ゆっくり焦らすように第二ペナルティマークに近寄ると、そおっと腰を屈めてボールを置いた。

 わざとらしい、にやにやとした笑みを浮かべながら、ボールとの距離をとった。

「ごめんねユズちゃん」

 洋子は両手を合わせ、この大ピンチを作ってしまったことを謝った。

「大丈夫大丈夫、止めるから」

 軽い口調に軽い表情の九頭柚葉。

 その薄皮一枚下にある弱気に気付いたか、津田文江はにっとした笑みをさらに強くした。
 鼻で笑った。
 柚葉にプレッシャーを与えようと、表情の変化や態度を演技しているのだろう。

 だが、
 振り返ってみれば、この津田文江の挑発は失敗であった。

 むしろ柚葉の弱気を吹っ飛ばし、負けず嫌い、挑戦心を呼び起こす結果になったのである。

 柚葉はぴくりと頬の肉を引き攣らせると、ふーーっと息を吐き、顔を上げた。

 右足を、前に出した。
 続いて、左足。
 右足。
 左足。
 ゴール前から一歩、また一歩。
 セットされたボールへと近づいて行った。
 津田文江のお株を奪うような、にやにや顔で。

 PAペナルテイエリアから出るか出ないかという、ボールから五メートルの距離にまで近付くと、ようやく足を止めた。

 何事かと驚いているような津田文江の顔を見て満足すると、爽やかな表情になり、

「さ、やろか」

 周囲が一斉にざわついた。
 敵味方、みな混乱したような表情になっている。

 当然だ。
 ボールから五メートル以上の距離はとっているためルール上の問題はないが、しかしシュートの弾道を見切って防ぐにはある程度の距離が必要。だというのに佐原南のゴレイロは、その距離を自ら縮めて半分にしてしまったのだから。

 キッカーからすれば、障害物がやや大きくなって蹴りづらいという側面はあるにせよ優位は動かない。

「シャク、ええんか?」

 双葉は不安そうに良子の顔を覗き込んだ。

「信じてるから」

 良子は別に笑っているわけではないが、澄んだ目の、どちらかというまでもない明るい表情で、真っ直ぐ柚葉を見つめていた。

 笛が鳴った。
 津田文江は、ゆっくりと、ゆっくりと、ボールへ近付いていく。

 柚葉は、そよ風を浴びているかのごとく微動だにしていない。

 津田文江が蹴り足を上げた瞬間、柚葉は反応しぴくりと身体を震わせた。
 蹴り足が下ろされた。
 これまでのゆったりしたモーションからは考えられないくらいに速く、振り下ろしたと見えたその瞬間には、ボールは鈍い音とともに打ち出されていた。

 弾丸は唸りを上げ、ゴール隅を捉える完璧な軌道を描いた。

 これが入らないはずがない。
 前橋森越の追加点が決まった。

 と、誰しもが思ったその瞬間、
 ばずっ、という音と共に、仁王立ちに立つ柚葉の左手の中に吸い付くようにボールがおさまっていた。

 観客席がどっと沸いた。
 前橋森越のベンチでは選手たち全員が、信じられないといった茫然自失の表情を浮かべていた。

 佐原南も茫然という意味では同様であったが、しかしすぐにそれは歓喜の雄叫びに変わっていた。

 五メートルという通常のPKよりも短い距離からのシュートを、なんなく見切ってワンハンドキャッチしてしまったのだからこれらの反応は当然といえるだろう。

 きっと、わざと隙を作って蹴らせたのだ。
 ボールの軌道を読んだのではなく、自ら作り出し、誘導したその軌道上に手を置いたのだ。
 良子はそう判断していた。

「凄い……柚葉ちゃん……」

 良子は呆気にとられたような表情のまま、ぼそり呟くように声を出した。
 信じていたはずなのに、この驚き。
 でも驚いて当たり前だ。

 津田先輩の針の穴を通すような高いシュート精度を逆手に取った作戦であることは理解出来る。だからといって、あのような剛速球をワンハンドキャッチで止めてしまうなんて……

 いくら誘導しようとも、そこにボールが来る確証などないのに。
 技術だけでなく、どれだけの度胸を持っているのだろう。

 きっと、津田先輩の平常心を奪うことで、わたしたちがもっと攻めることが出来るようにしてくれたんだ。
 だからあえて難しい守り方を選択したんだ。
 どっと歓声の上がるような、劇的なセーブを作り出すために。

「くそ! くそ!」

 その効果はてき面に表れたようで、津田文江は悔しさに憤怒の形相で床を蹴りつけている。

「よおーし、みんなあ、そろそろ本気出そうかあ!」

 柚葉はゆっくりゴールラインにまで下がると、右手にボールを持ち替えてたたっと助走し、自慢の強肩をぶんと振った。

 9番が後ろへ下がりながら胸に当てて落とすが、その前を双葉が横から駆け抜けて、落ちたボールを奪い取った。

「なに渡してんだよエリ! 真面目にやれ! バカ!」

 津田文江の怒声が、びりびりと会場の空気を震わせた。
 相当にイライラが溜まっているようであった。

 何故なのか、良子には分かっていた。
 いまや試合に勝つことが目的ではないからだ。良子の精神をどん底に叩き落とすことが、唯一無二の目的になっていたからだ。
 だから、決して希望を失わない良子が憎くて仕方がない。
 良子に希望を与えるような、周囲の明るい態度が疎ましくて仕方がない。
 佐原南に希望を与えてしまうかのような、ふがいない味方のプレーに腹が立って仕方がない。

 良子が毅然とした態度をとり、そして試合や自己の成長を楽しむほど、津田文江は冷静さを失い、我を忘れていった。
 敵味方構わず怒鳴り声を張り上げ、審判のジャッジにも執拗に食らいつくようになった。

 まさに柚葉の第二PKセーブでの作戦がもたらした効果であるが、しかしこの状況は佐原南にとって、いや、良子にとって良い面ばかりではなかった。

 敵味方誰かれ構わず毒を吐き散らす津田文江の姿に、良子も少しずつイラついてきていたのだ。自制しようと努力するものの、その自制が少しずつ困難になってきていた。

 感受性が強すぎるのだ、良子は。
 だから、自分の仲間が罵倒されることどころか、相手側の選手たちが津田文江の毒を浴びていることにも同情してしまう。それらが、フラストレーションとして蓄積され平常心を蝕みつつあった。
 そんな矢先に、また津田文江の毒が全身から激しく噴出した。

「どんくさいんだよ! いちいちぶつかってくるな!」

 床に尻餅をついている鈍台洋子に、いまにも食い殺しそうな剣幕で怒鳴り付けたのだ。
 その言葉の通り、洋子が津田文江を止めようとして、足をもつれさせてぶつかってしまったのである。

 弾かれ尻餅をついたのは洋子であり、ボールを取られることはなかったとはいえ、津田文江からすれば相手の行為はあからさまなファール狙い、もしくはイラつかせようとしてわざとぶつかったかに思えて、激高したのだろう。

 こいつらの思うつぼにはまってたまるか、とでも思ったのか津田文江は深く呼吸をすると、顔の筋肉を動かし笑みの形を作った。引き攣ったような、ぎこちのないものであったが、なんとか顔に余裕のようなものを作ると、ゆっくりと、口を開いた。

「下手くそなだけじゃなくて、なあにそのぶくぶくした体型。へーえ、こんなのがフットサルやってんだあ。佐原南では、こんなのが試合に出られるんだあ」

 しらじらしい笑みを浮かべながら視線を動かして、洋子の肥満した全身をなめ回した。

「ごめんなさい」

 故意ではないとはいえ、押してしまったのは事実。洋子は、立ち上がりながら津田文江へ軽く頭を下げた。罵倒に腹を立てることなく。

 でも、その罵倒は良子には許せなかった。
 二人の間にすっと入ると、津田文江へと睨むような視線を向けた。

「津田先輩、あたし、さっきいいましたよね。みんなを悪くいうのはやめてくださいって。あたしはなんといわれても構わないって、いいましたよね」
「うん、聞いた。でもあたし、はい分かりましたなんて一言もいってないと思うけど。なに都合よく解釈してんの? それとも記憶力がないの?」

 津田文江は、ようやく良子が腹を立てて食いついてきたことに気がおさまったのか、そよ風に当たるかのような飄々とした表情でいってのけた。

「もういいよ、あたしがとろいのが悪いんだから。どうもありがとう」

 洋子は、そういうと自分の場へと戻ろうとする。

「とろくなんかない。あんな素早く動けて、凄いよ。自信を持とうよ、もっと。チームにかかせない、佐原南にかかせない一人なんだって。だからこうやって、試合に出てもらっているんだから」

 その言葉に洋子は振り返り、にやあっと幸せそうな笑みを浮かべた。
 良子も笑みを返した。

     6
 審判の笛が鳴り、試合が再開された。
 早々、佐原南はピンチを向かえることになった。
 良子のところからだ。
 こぼれたボールをことと競ったのだが、肩を当てられ、転ばされ、奪われたのだ。

 久野琴絵は持ち前の広い視野で佐原南ゴール前が薄くなっていることを瞬時に確認すると、大きく蹴って放り込んだ。

 なんとか駆け戻ったあしが反転し、頭で弾き返そうとしたが、ふみに身体を入れられ背中でぐいと強く押され、倒れそうになるのを踏ん張りこらえるのに精一杯で競り合うどころではなかった。

「カスが何人いても同じ!」

 津田文江は胸でボールを落としながら反転。ちょこんとボールを横へ跳ね上げると、追うように自身も跳躍し、留美をかわしつつ着地ざまにシュートを放った。
 小さく素早いモーションであったが、狙いは正確で威力も抜群だった。

 ゆずの反応が一瞬遅れ、ボールは伸ばした手の指先をすり抜けた。

 クロスバー直撃。
 大きく跳ねて戻るボールを、駆け戻ってきたたかふたが頭でクリアしようとするが、9番に先に落下地点に入られ取られてしまった。

 9番はすぐさま津田文江へと速いパスを出す。
 パスの軌道に飛び込もうとした良子の足先をかすめて、津田文江へと繋がった。
 留美がシュートコースを塞ぐが、

「邪魔!」

 津田文江はかわすことなく、再び右足を思い切り振り抜いた。
 だが、それは果たしてシュートと呼べるものであったのか。

 ボールは、留美の腹部を直撃していた。
 ぎゅるぎゅると回転し、ころり床へと落ち転がった。
 同時に、留美はがくりと膝を付き、そのまま力抜けたように真横へと倒れた。

 こぼれたボールを津田文江が押し込もうとするが、柚葉が飛び付き覆いかぶさった。
 ようやく留美の様子に気がついた柚葉は、立ち上がるなりサイドラインへとボールを蹴り出し、審判に向かって手を上げ叫び試合を止めさせた。

「ルミ、大丈夫か?」

 柚葉は膝をついて腰を落とし、留美の顔を覗き込んだ。

「……平気。……強烈なの、お腹に、食らった。……あと十秒だけ、休ませて」

 留美はお腹を押さえ、苦痛に顔を歪ませながらも笑みを作ると、床に手を置いて、立ち上がろうと全身を震わせた。
 柚葉は手を差し出し、助け起こした。

「津田……先輩」

 良子の指先は震えていた。
 呆然とした表情で、津田文江を見つめていた。

 いまの、わざとだ。
 わざと、お腹に当てたんだ。
 その前に留美ちゃんをわざわざ大声でけなしたのも、わたしに聞かせるため。

 どうして、そんなにわたしを憎むのか。
 確かに小学校時代、わたしは自惚れていた。天狗になっていた。他人を見下すような態度も、とってしまったかも知れない。

 でも、先輩、それって、そんなに悪いことですか?
 ここまでされなければならないくらい、悪いことですか?
 そうだとしても、だったらわたしだけを憎めばいいでしょう。

 こんな、
 こんなことのために、
 みんなを……
 わたしの大切な親友を……

「傷つけるというのなら、絶対に許さない!」

 良子は叫んだ。

「はあ? こんな程度で傷つくんなら、最初からフットサルなんかやんなきゃいいんだよ! 無能だから無能っていってんだ! 頑張るだけなら誰だって出来るんだよ。もう見るのも鬱陶しいから、練習するだけ無駄のカスどもは早くここから出てい……」

 罵倒の言葉はそこまでだった。
 剛風のような良子の絶叫に、掻き消されていたのだ。
 良子は声にならない声を上げ、叫んでいた。
 まるで獣のように。
 全身の中にある空気を、エネルギーを、すべて吐き出すかのように。

 小柄な身体のどこに、と思わずにいられない、会場を吹き飛ばすかのごとき凄まじい絶叫であった。

 その天を裂き地を砕くかのような大声に、魂の絶叫に、怒りの爆発に、一瞬たじろぐ津田文江であったが、すぐに気を取り直し、足元のボールを踏み付けころり転がした。

「かっこつけるのは、あたしを止めてからにしな!」

 津田文江は、転がしたボールを真横へと蹴るそぶりを見せて良子へ揺さ振りをかけると、真っ直ぐに脇を抜けた。
 手応えのなさに、にやり笑みを浮かべた。

 その刹那、浮かべたばかりの笑みが凍り付いていた。

 足元にあるはずのボールがないのだ。
 振り返った彼女は、張り裂けんばかりに大きく目を見開いていた。信じられないもの、有り得ないもの、圧倒的なものを目の当たりにしたのだ。

 吠えていた。
 津田文江は恐怖に口を限界まで開き、その否定しようもない恐怖から逃れようとしているかのように全身をぶるぶる震わせながら吠えていた。

 彼女の双眸に映るもの、それは前橋森越ゴールへとドリブルで向かう小柄な少女の背中であった。
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