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第十五章 諦めない限り、可能性はなくならない  ―― 対前橋森越戦・その3 ――

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 そうとでもいわないと、そうとでも思わないと、自分がこの試合を諦めてしまいそうで。
 感情を偽らなければ、この重圧に心臓がグシャグシャに押し潰されてしまいそうで。
 感情を偽らなければ、みんなの気持ちを守ってあげられない気がして。

 でも、間違ったことはいっていない。
 まだ終わっていないのは本当のことだ。
 終るのは、すべてを諦めた時だ。
 諦めない限り、一分一秒でも時間がある限り、可能性はなくならない。
 せっかく残されている可能性、自分から放棄してどうする。
 自分にやれることを精一杯やるんだと、何度もそう自分に誓ったじゃないか。
 一失点したくらいがなんだ。フットサルは得点の多少を競う競技。得点もあれば失点もある。失点にびくびくしてどうする? 心が折れかけてどうする?
 ここで気持ちが折れるというのは、すべて諦めて逃げ出すのと同じことだ。

 そしたら、これまでの日々はなんだったんだ。
 一年生たちの必死の努力が、なんの意味もなかったことになってしまうじゃないか。
 信頼してくれた先輩たちを、裏切ることになってしまうじゃないか。

 わたしだって……
 津田先輩のことを考えるだけで泣きわめきたくなるような、そんなガラスのように脆くなっていた自分を、双葉ちゃんや留美ちゃん、兄貴たち家族に励まされ、支えられ、ここまで来たんだ。
 少しは頑張ったと、少しは成長したと、自分を認めたい。
 だから、こんなところで下を向いてなんかいられないんだ。
 わたしは、前へ進むんだ。
 やるぞ。
 精一杯、力の限り。
 頑張って、そして試合を楽しんで、そして、勝つんだ。
 みんなと一緒に。
 絶対に、勝つんだ!

「交代! ビニとダリー! カスコはビニのところ」
「分かった」

 腿上げで身体を温めているすず鹿すみは、良子の言葉に頷いた。
「それと、ダリーのところには、ドン」
「えーーーーーーーっ!」

 驚き立ち上がったのは佐原南の先輩たちである。
 第一回戦でも洋子出陣の際にこのような反応があったが、今回の反応はその時より何十倍も何百倍も凄まじいものだった。

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「嘘だろ!」
「早まるな、シャク! 考え直せ!」
「お願いだからっ」
「そりゃドンが急成長中なのは認めるけど」
「でも、どう考えても無茶だろ!」

 口々に懇願する先輩たちに、しんどうりようは微笑を返したのみであった。

 確かに、無茶と考えるのも無理はない。常識的に考えれば、先輩たちの気持ちは充分に分かる。
 第一回戦の時は、結果的に苦戦したことは別として、相手がそれほど強くはなかったからなんとかなったのだ。
 どんだいようの入ったポジションが、ミスが失点に直結することの少ないピヴォやアラであったから、なんとかなったのだ。
 この試合は相手が違う。
 現実問題ここまで押し込まれているというのに、フットサル経験が浅い鈍台洋子に守備の中心であるフィクソとなってFPの舵取りをするなど、出来るはずがない。
 一点を追う立場であるというのに、点を取る形が現在まったく見えていない。攻撃にはまず守備を安定させる必要があるというのに、その守備をかなぐり捨ててどうする。
 やけっぱちにすら、なっていないではないか。

 と、みなが不安なのはそういった点だろう。
 やれることがないからとりあえず変化をつけて奇跡を期待するという、苦し紛れとすらいえない、策とすらいえない策であり、もしも策だというのならそれは愚策の骨頂、そう責められても仕方がない。

 実際、良子自身にもそう思っている部分があるのだ。
 理屈の上では、これは愚策だと。

 だけど第一回戦で一緒にピッチに立って一緒に戦って、良子は洋子のことを充分に信頼に応えてくれる選手だという確信に近い思いがあったのだ。
 理屈ではなく、直感で。

「やれる?」

 やはり賭けにはなる、という意識もあってか、良子はちょっとぎこちない笑顔になり、尋ねた。

「うん、さすがに緊張はするけど、頑張ってくるよ。後ろにはユズちゃんだっているんだしね」

 鈍台洋子は、ただでさえ細い目をさらに細めた。傍からは笑っているようにしか見えないが、果たしてどんな感情の中にいるのか本人のみぞ知るであった。

「ドン、緊張してんじゃねえ! 楽にやれ楽に! でも集中しろ! ガッチガチに集中して、絶対に失点すんな!」

 くちが突然大噴火し、重圧という溶岩を洋子の上に容赦なくどかんどかんと落とした。

「そんな無茶苦茶なあ」

 泣きそうな声だか、顔はにこにこの洋子。

「まあとにかくだ、思い切り楽しんでこいよ」

 武朽先輩はにっと微笑むと、太った背中を思い切り叩いた。

「お、ドンちゃん、出番か? 頑張れ!」

 すぐ間近からの老人の声に、洋子はびくり肩を震わせると、そーっと振り返った。

「ユズちゃんのおじいちゃん!」

 そう、声の主は先ほど観客席から叫んで係員に注意されていた老人、ゆずの祖父であった。

「ちょっと、部外者がなんでいんだよ!」
「ジジイ、おい!」
「常識ないのかよ」
「孫が孫ならジジイもジジイだな」
「このハゲ!」

 二年生三年生からどっと批難の嵐が起こるが、老人はどこ吹く風。

「いやあ、大旗をなんとか返してもらったはいいが、そのかわりに席を追い出されてしまって」

 禿げた頭をなでながらわははと笑った。

「じゃあそのまま会場出てけよ」

 なるみやももが、どんと胸を突いた。

「しかしそれじゃあ孫娘の、柚葉の応援が出来ない。おーい、柚葉あ、頑張っとるかあ! 勝ってるかあ! ゆっずっはああ! 勝ってるかああっ!」

 どんどんどんどん!
 老人はピッチにいる柚葉へ視線を向けると、胸に抱えている太鼓を激しく打ち鳴らした。

「負けてるよっ!」

 ゴール前の柚葉は、ベンチにいる祖父に一瞬目をやり、怒りの声を張り上げた。
 視線を戻した後も、口から不満の噴出は続く。

「おじいちゃんさあ、恥ずかしいからやめてよねっていったでしょ! もう! 京浜東北線でどこまでも北へ行っちゃって、うちに戻ってくるな!」
「なんだ柚葉、知らんのか? 京浜東北線はな、少し先の大宮が終点なんだよ。高崎線や新幹線に乗ればもっと北へ行かれるけどな」
「じゃあ、新幹線で果てまで行っちゃええ! うちに帰ってきたら、柚葉死ぬからね!」
「でもきっちりの電車代しか持ってこなかったからなあ。あと、おにぎり一個分くらい。柚葉の旗を作るのにお小遣全部使っちゃったからな。仕方ない、全部全部ぜえ~んぶ、可愛い孫娘の柚葉のためだあ!」
「知らないよ! もお、喋らないでよお。集中出来ないでしょお!」

 などと祖父と孫娘が仲良く(?)バトルをしていると、

「仕方がないな、ここにいてもいいから黙って見てろよな」

 副主将のあらがみが、ぐっと老人の肩を押さえ込んで座らせた。いつまで問答されていても、試合の邪魔になると思ったのだろう。

「でもうるさいから太鼓を叩くのはやめろよ、じいさん」
「心得たあ!」

 どんどんどんどん!
 老人は立ち上がると、了解の太鼓を激しくかき鳴らした。

「あのお、もう入っていいのかにゃ?」

 にこにこしながらも、おずおずと尋ねるのは洋子であった。この雰囲気を邪魔していいのかな、悪いのかな、でも邪魔されてるのはこっちだよなあ、となんとも微妙な笑顔で。

「ああっ、ごめんドンちゃん!」

 珍客乱入に呆気に取られていた良子は、目をぱちぱちさせながら洋子へと向き直った。

「もちろん入っていいに決まってる。期待してる。さっきすっごくよかったから、あの時の感じでお願い。頑張ろう」
「そんなよかった? 無我夢中だったからかなあ」

 洋子は微笑み満面のまま、交代ゾーンへと向かった。
 なお、二枚替えだが鈴鹿澄子はとっくに山崎芳枝と交代してピッチに入っている。

「決めろドンちゃん! 見せてやれ佐原魂! ヘイヘイ!」

 柚葉の祖父が椅子の上に立ち上がって太鼓をどかどか乱れ打ち、二秒後に荒上真子副主将に引きずり下ろされ頭をブン殴られた。
 などとやっている間に、鈍台洋子とよしとがようやく交代ゾーンにて入れ代わった。

「大丈夫かなあ、あいつ」

 とりわけ不安そうな表情なのは武朽恵美子だ。彼女は専業フィクソであるため、いかに試合を左右する難しいポジションであるか充分に分かっているのだろう。
 それ以上に、洋子が相変わらず緊張感のない笑みを浮かべていることに対して不安になっただけかも知れないが。

 ぽーん、と競り合いに揉まれたボールが跳ね上がった。
 8番が素早く反応し、高井真矢を背中と腕で防ぎながら落下点へと走り寄った。
 これを拾われたら、そのままゴールまで持って行かれてしまうかも知れないところであったが、だが8番にボールが渡ることはなかった。

 その目の前をふっと駆け抜けた洋子が、ボールを奪い取ったのだ。
 洋子はくるり身体を半回転させると、鈴鹿澄子へとパスを出した。
 ベンチで見ている武朽恵美子は、ほっと安堵のため息をついた。

「悪くないな、あいつ」

 不安が杞憂に終ったかどうかまだ判断出来るものではないが、最初の不安が大きく軽減されたのは間違いなかった。

 周囲の表情を見れば、同じような感想を抱いていたのは武朽だけではないようであった。あの肥満した体格を見れば、不安になるのも思いもよらぬ俊敏性に驚くのも当然だろう。
 現在も太ってはいるものの入部当初と比較して相当量の贅肉がそぎ落とされている。足腰の筋肉がトレーニングでしっかりついていることと、脂肪という重たい重りが取れたことの相乗効果が出ているようであった。
 もともと、肥満体ながらも幼い頃から運動は続けており、運動神経自体が非常に高いこともあるのだろう。

 そんな洋子が、またもやみなを驚かせる質の高い動きを見せた。
 鈴鹿澄子がタッチミスを突かれボールを掻っ攫われたのだが、洋子が上手にパスコースを消しつつ、機を見て飛び込み奪い返したのだ。

「ドン、いいよ。そのまま続けてこう!」

 良子は手を叩いた。
 他の部員たち同様に良子自身も不安であったが、やれるという確信、自信が心の中で大きくなりつつあった。

 洋子個人のセンスもあるが、九頭柚葉が後方から発する声の効果も大きいようだ。幼なじみだけあって柚葉は洋子のことをよく分かっており、指示する内容が現実的で的確なのだ。

 窮地に追い込まれていた佐原南であるが、交代で入ったフィクソが予想以上の安定感を見せてくれたことにより僅かながら希望が生まれていた。

 不意に悲劇が襲ったのは、そんな矢先のことであった。

 それは、フィクソとは関係のないところで起こった。
 得点を焦る鈴鹿澄江が、津田文江を倒してしまったのだ。

 いや、正確には倒してはいない。しかし、審判から分かりにくい角度で、津田文江が足を引っ掛けられたかのようにつんのめって倒れ落ちたことに、審判は躊躇なく笛を吹いた。

 津田文江は顔を歪めて、左の足首を押さえてばたんばたんと転げ回っている。
 審判は取り出したレッドカードを、鈴鹿澄子に向けて高く掲げた。

「触ってない!」

 良子はピッチの外から怒鳴った。
 自分の角度からは、向き合う二人の姿が良く見えていた。澄子は絶対に、津田先輩を引っ掛けてなどいない。

「その通りです。あたし本当に、ぶつかってないどころか触れてすらいません!」

 顔面蒼白になって、澄子は必死に審判へ抗議する。
 澄子と良子だけではない、ピッチに立つ佐原南の選手たちが口々審判に詰め寄った。
 ベンチの部員たちもだ。接触プレーなどなかった、相手の演技である、と口々に主張をした。
 だが、どれだけ食い下がろうとも判定が覆ることはなかった。

「ごめん……」

 鈴鹿澄子は涙目でそう呟くと、がくりうなだれてピッチから出た。
 良子は、元気なくベンチへと歩いていく澄子と肩を並べた。

「こっちこそごめんね。カスコはファールなんかしていないのに。守ってあげられなかった。ほんとごめん」
「……良い子だね、シャクは。でも、審判にそう取られるようなプレーをしてしまったあたしの責任。そこも含めてフットサルなんだから。……あたし、自分が情けなくてしょうがない」

 澄子は鼻をすすり袖で涙を拭うと、真っ赤な目で天を仰いだ。

 こうして佐原南は、圧倒的強大な戦力に対して一人少ない状態で戦わなければならなくなったのである。

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 フィクソを入れ替えた効果によって破滅的な劣勢状態から少しは抜け出せたかに思われた佐原南であったが、この退場劇によって破滅的な劣勢に逆戻りどころかかつてないほど最悪な状態に陥っていた。

 まえばしもりこしが、失点リスクの減ったことを生かして猛攻を仕掛けてきたのである。

 むらたにさくたかどんだいよう、佐原南のFPフイールドプレーヤー三人は自陣ゴール前に押し込められて、弾き返すのが精一杯の状態であった。

 油断をしていたわけではないのだろうが、真矢がするり突破された。
 シュートを打たれたが、ゴレイロゆずが必死のブロックを見せる。
 こぼれたところを詰められたが、柚葉はボールに飛びついて抱きかかえ、なんとかゴールを守った。

「クビ、お前だけでも前へ出ろよ! ずっとここ戦場にするつもりかよ!」
「出来るならやってるよ! 簡単にいわないで! こっち三人しかいないんだよ!」

 失点を防ぐということにおいて、どちらのいうことももっともな理屈であった。

 結局、咲美は前へ出られず、佐原南は自陣ゴール前で相手の波状攻撃を受け続けることになった。

 二分経てば、退場で減った人数は戻る。
 絶望的な状況下で選手たちの精神をなんとか持ちこたえさせていたのは、そんな思いだろうか。

 しかし、弱りそうになる気持ちをどんなに奮い立たせたところで、相手もこの得点のチャンスに奮い立っている。となれば人数という物理面で不利な佐原南が、絶対的に分が悪いといえた。

 前橋森越は、佐原南を圧倒し、支配し、隙あらばシュートを放つ。
 佐原南が防ぎ続けることが出来ていたのは、単なる運であった。

 声を掛け、神経を研ぎ澄まし、予測し、食らい付き、粘り強く諦めず、そして柚葉の素晴らしい反応、と、要素は多分にあるものの、それらを総合した上で、やはり1失点で済んでいるのは単なる運であった。

「手を打たないと。あたしが出てもいいかな」

 あしがアップをしながら、良子に話し掛けた。

 良子は唇をきゅっと結んで考え込んでいる。
 代えるならフィクソ、つまり鈍台洋子とだ。
 洋子よりも、留美の方が能力はすべてにおいて高い。

 ただ、それだけにこの試合は後半から出場させたかった。ハーフタイム中に研究されてしまうのを防ぐために。

 一人少ないという危機的状況だからこそ、躊躇しているというところもあった。交代直後の失点というのは、人数が揃っている時でもよくあることだからだ。
 このピンチをなんとか乗り切ることで、ドンちゃんにもっともっと自信がつくのではないかという気持ちもあったし。

 でもこの状況だ。そんな悠長なこともいっていられないか……
 もしも二点差などつけられたら、取り返しのつかないことになってしまう。

 ただでさえ圧倒されているというのに、相手はますます勢いづいて攻めてくるだろう。攻めてくるにしても、守りを固めてくるにしても、どちらにせよ勝てる可能性が限りなく低くなってしまう。

「分かった。ドンと交代しよう」

 良子が決意を固めた、その時であった。
 不運、としかいいようのないことが起こったのである。

 競り合いに揉まれ跳ね上がったボールに、鈍台洋子が誰よりも素早い反応を見せて落下地点へと飛び込んだ。

 バウンドするボールを踏み付けて収めるなりクリアするなり処理すべき場面であったが、揉まれたボールには不規則な回転がかかっていた。
 誰もが予期せぬ方向へと跳ねたのだ。
 本来フットサル用ボールはほとんど弾まないものであるが、その回転のためか大きく跳ねた。

 洋子の誰よりも素早い反応が、皮肉なことにむしろあだとなった。それでもくるり瞬時に反転してボールを追い掛けようとしたが、そうはさせまいと5番が進路を塞いだ。

 その攻防の反対側から高井真矢がボールへと走り寄るが、間一髪の差で津田文江に取られてしまった。

 真矢は奪い返そうとするが、津田文江はくるり反転して突進をかわし、続いて突き出される咲美の足をもなんなくかわし、ボールを蹴り上げゴール前へと放り込んだ。
 飛び出した久野琴絵が、上手くタイミングを合わせて右足を振り抜いた。

 至近距離からのボレーシュートは威力抜群で、枠を完全に捉えていたが、ゴレイロの九頭柚葉は素晴らしい反射神経を見せ倒れ込みながら右手で弾いた。

 だが、これが精一杯だった。
 CKに逃れるつもりだったのだろうが、角度を変えきれなかった。

 ポストに当たって跳ね返ったボールに津田文江が飛び込み、再びゴール前へと戻す。
 ゴレイロが倒れて無人となっているゴールに、久野琴絵は今度こそ冷静に、ボールを押し込んだ。

 そろりと柔らかく、ゴールネットが揺れた。
 こうして、前橋森越が追加点をあげたのである。

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「くっそおおおおお!」

 ゆずは倒れたまま、拳で床をどんどんと叩いた。

 まえばしもりこしの選手たちは、得点をあげたことを中心に抱き合い喜んでいる。
 追い付くどころか離されてしまった佐原南の選手たちは、そんな態度を見てより一層がくり頭をうなだれた。

「ごめんね」

 どんだいようが、誰にともなく謝った。失点の起点になってしまったという自責の念があるのだろう。

「なにいってんだよお。ドンちゃんは、少しも悪くないって。ボールがあんな動きをするなんて、誰も思うはずがない。運が悪かっただけだよ」

 と庇うのは、九頭柚葉だ。

「でも、あたしは違う。もっと集中していれば、せめてコーナーに逃れることが出来たはずなんだ。だから、失点はあたしのせいだよ」

 いや、違う。
 失点したのは、わたしのせいだ。

 しんどうりようは、心の中で自分を責めた。
 失点そのものは、柚葉のいう通り鈍台洋子のミスではない。そして、柚葉のミスでもない。

 あまりに一方的に押され、攻め込んできている敵の人数が多かったからこそ招いてしまったものだ。ならば、少しでも早くあしと交代しておくべきだったのだ。
 指揮官であるわたし一人だけの責任だ。

 でも……本当にそうだと思っているのなら、ここでくよくよ自分を責めていてもなんにもならない。
 諦めず、勝つために全力を尽くすこと、それが責任を取ることになるはずだ。そうしなければなら義務が、わたしにはある。

 主将を任されているのだから。
 最後の最後まで諦めない、自分にそう誓ったのだから。

 チームの結束そのものは、どんどん高まってきている。
 みんな、どんどん成長している。

 わたしだって、ドンちゃんだって。
 そうだ、勝負はまだ終わっていない。
 まだ時間はある。
 残り時間が一秒でもある限り、わたしたちは負けていない。
 負けていない限り、戦うぞ。
 佐原南、ぜんこんぜんそうだ。

「まだまだあ! たったの二点差だああ!」

 良子は腹の底、心の底から絶叫していた。

     5
「ほな、行ってくるでえ!」

 たかふたは、良子の肩を叩くと元気良くピッチへと入っていった。
 現在の状況や、双葉の気弱な性格を考えると単なる空元気かも知れないが、それでもこのような態度を取ってくれることが良子には有り難いことだった。

 チームがどんより沈んでしまっていては、もしかしたら起こるかも知れない奇跡すら絶対に起きやしないからだ。

 まだすず鹿すみの退場から二分を経過していないが、佐原南が失点をしたため人数補填が認められ、高木双葉が入ってFPフイールドプレーヤー人数は四人に戻った。

 どんだいようあしに交代させようという矢先に失点したわけであるが、やはり交代はせず洋子をそのままピッチに残すことにした。人数が四人に戻るということであれば、粘り強く守備を頑張ってきたここまでの流れやチームワークを大事にしたかったからだ。

 変わらずまえばしもりこしに支配され続けることにはなるだろうが、先方としても二点差をつけたことを考えれば、疲労対策もあるしいつまでも怒涛の攻撃を続けるはずもないだろう。

 だが、ことは良子の期待する通りには運ばなかった。
 運ばなかったどころではない。佐原南に退場者が出て一人少なかった時よりも、むしろ前橋森越の猛攻が強まっていたのである。

 どうやら点差がついたことで、前橋森越の選手たちが勢いづいているようであった。

 津田文江と久野琴絵という代表クラスの実力を持つ選手のうち、久野琴絵だけがベンチに下がったが、それでもその猛攻の衰えるきざしはまったく見られず、佐原南としては防戦一方で攻め込む隙を見出すことが出来なかった。

 前橋森越のキックインを、双葉は読んで5番の前へ上手に身体を入れて奪ったが、前を向くどころかこれっぽっちのキープすらも出来ず8番に取られてしまう。

 8番はすぐさま前へと強く蹴った。
 リレー競技のバトンタッチのように津田文江が背後を見ながら小走りでボールを受けようとしたが、寸前に横から飛び込んだ鈍台洋子が大きく蹴飛ばしてキックインに逃れた。

「助かったわ、ドンちゃん。サンキュ」

 双葉が礼をいうと、洋子は細い目をさらに細めて唇を釣り上げた。

「ここ集中しよ! 集中!」

 ベンチから良子は手を叩いた。

 5番が、キックインのボールを蹴った。

 受けようとする8番の後ろから洋子が飛び出し、つんのめるように倒れながら頭でクリアした。

 双葉はクリアボールの落下地点へと走り、足を伸ばして甲でトラップ。
 おさめる間もなく、双葉の前に津田文江が立ち塞がった。

 双葉はくるり反転して背中でボールを守った、その瞬間、再度反転、津田文江の脇を抜けた。
 よろけ、身体が前のめりになった。
 足を伸ばして踏ん張る間に、ボールは津田文江に奪われていた。

「ワラ、ナイスファイト!」

 良子は叫んだ。
 代表級の実力を持つ津田文江を個人技で抜くなど無謀な試みといえたが、良子としては、そんなことよりも双葉の必死な気持ちこそを褒めたかった。

 そうだ。
 こっちだって、ただ押し込まれているだけじゃあない。
 少しずつ、変わってきている。
 小さな小さな、土の中に潜っていてまだ見えない小さな芽に過ぎないかも知れないけれど、確実に、なにかが少しずつ芽生えてきている。茎を伸ばし、花を咲かそうとしている。
 間違いなく、成長している。
 それをみなが実感し、手に掴むことが出来れば……
 でも、そのためにはどうすればいい?
 なにを、変えればいい?

 自問しながらも、良子の考えはほぼ決まっていた。
 あと一歩で届きそうな、その芽を掴むために。

 その時である。
 良子は戦慄し、ぞくりと総毛立っていた。

 津田文江がプレーの合間にこちらを、良子の方を見ていたのである。
 その笑みに、良子の表情は凍り付いていた。
 どっと、手から大量の汗を噴いていた。

 津田文江に、気持ちを完全に見透かされているような気がした。
 お前がなにを考えているのか分かっているぞ、と。
 あがけ、もがけ、と笑われているような。
 でも……

 良子は拳を握った。

 でも、それでも構わない。
 どんなに笑われようとも。
 他人は関係ない。
 わたしはわたしで頑張る。ただ、それだけだ。
 だから……
 だから、

「交代!」

 良子の澄んだ甲高い叫び声が、場内に響いた。

     6
 むらたにさくに代わってピッチに入ることになったのは、他ならぬしんどうりよう自身であった。

「心臓、止まる……あと、任せた」

 ぜいぜいと息を切らせ戻ってきた咲美は交代ゾーンで腕を上げ、良子とハイタッチ。
 二人は入れ代わった。
 この試合、初めて良子がピッチに立った。

 その時である。
 ピッチの中からぷっと吹き出すような声が聞こえてきたのは。

 津田文江だ。
 にやにやとわざとらしい笑みを浮かべている。

 らしい、というより間違いなくわざとだろう。声を出したのも、浮かべているその表情も。
 そうした態度の一つ一つが、どれだけ良子の心へダメージを蓄積させていくか、中学校時代、いや小学校時代からよく心得ているのだ。

 良子は気にしなかった。
 正確には、気にしないふりをした。

 過去は関係ない。
 津田先輩も、この試合においては単なる敵。
 とてつもない難敵には違いないけど、でも、ただそれだけのことだ。
 必死に食らいついて、絶対に止めてやる。
 先輩を、
 前橋森越を。
 そうして流れを掴み、引き寄せるんだ。
 試合に勝つためにも、自分自身が過去を肯定して前へ進むためにも、こんなところで逃げていちゃあいけない。
 前の試合で足首をちょこっと痛めた程度、それを出なくていい理由になんかしちゃいけない。
 だから……

「いっくぞおお!」

 良子は突如全力で走り出した。
 ぐろ先輩に処置してもらったテーピングが効いたのか、痛みはまったく感じなかった。

 ほら、走れる。
 走れるじゃないか。
 やれるぞ。
 下手くそだって構わない。
 体力の限り、全力で駆け回ってやる!

 良子は自己暗示をかけるがごとく胸の中で言葉を叫んで心身を勢いづかせながら、より足の回転を加速させてボールを持つ8番へと突っ込んでいった。

 8番は一瞬驚いた表情を浮かべたが、良子の動きは単調であったため、難無くかわすと仲間へとパスを出した。

 バランスを崩してよろめく良子の背中に、また津田文江の嘲笑が聞こえてきた。

 良子はくるり振り返り8番へ向かおうとしたが、既に8番がボールを持っていないことを知ると立ち止まった。軽く首を回して、すっとピッチ全体に視線を走らせ状況を把握すると、叫んだ。

「守備しっかり! 追い込んでいこう。アロは少しだけドンに近寄って、フォローを。それと、ワラは頑張って上がって。堅実もいいけど、少し出鱈目な動きも見せて揺さぶろう!」

 しかし一言発するだけですべて劇的に改善するはずもなく、焦れた洋子が9番へと飛び込むがかわされ、真矢のフォローも間に合わず、ドリブルによる中央突破を許してシュートを打たれてしまう。

 弾丸のようなボールは精度高くしっかりとゴールの枠を捉えていたが、柚葉は半歩横へ移動して、腰を落としながら胸の中にがっちりと抱え込んだ。

「そう何度もやられてたまるかよ」

 柚葉は不敵な笑みを浮かべると立ち上がり、助走をつけてボールを持った右腕を大きく振った。

 鈍台洋子が受けようと走り寄ったが、腰を落として胸で受けるべきところを足を高く上げて蹴り上げてしまった。

 9番が拾った。
 良子が後ろから迫り、回り込んでボールを奪おうとまとわり付くが、9番は仲間のフォローを待ちライン際でキープをする。

「シャク、加勢するで!」

 たかふたが前線から駆け戻ってくる。

「大丈夫! 前にいて!」

 良子は手のひらを突き出して双葉が戻るのを制した。
 大丈夫、という言葉がどこから出てくるのかというほどに良子の動きは酷いものであったが。

 だが、9番に精一杯しつこく絡み付きまとわり付き、ついに相手のタッチミスを誘うことに成功。ころころ転がるボールへと反応し、こうしてついに良子は相手からボールを奪い取ったのである。

 佐原南ベンチから拍手が起きた。
 しかし、タッチミスからせっかく奪ったボールであるというのに、良子自身もタッチミスで、すぐさま9番に取り戻されてしまった。

 自分のミスなど想定内。自分が下手であると常に認識している良子は、すぐさま再度奪い取るべく9番へと身体を突っ込ませる。

 9番はこの矢継ぎ早に少し慌ててしまった。次に取る行動を迷っているうちに、どっと音がしてボールが高く跳ね上がっていた。
 飛び込んだ良子と、二人の足にボールが挟まれ蹴られたのである。

 二人は落ちてくるボールを見上げ、肩を並べるように走った。
 先にボールに触れたのは良子であった。背中を押されてバランスを崩しながらも、足を伸ばしてボールを大きく蹴り上げる。良子はそのまま倒れて、ごろごろと転がった。

 前橋森越のゴール前へと、大きな山を描いてボールが飛び、落ちる。
 高木双葉が走り込み、上手くボールに右足を合わせ、そのまま振り抜いた。

 球威はそれほどでもなかったが至近距離からのシュートであるためゴレイロはまったく反応が出来なかった。
 ゴレイロをかすめるようにボールはすり抜け、ガン、という音とともにポストを直撃した。
 跳ね返り転がるボールへ、双葉は自ら押し込もうと詰めるが、寸前のところでゴレイロにクリアされた。

「ああくそっ!」

 この試合で初めて佐原南が掴んだ決定的なシーン。
 決められなかった悔しさに、双葉は床を踏みつけた。

「ナイスファイト! この調子でやってこう!」

 立ち上がりながら良子は叫び、手を叩いた。
 良子の顔には、なんともいえないすがすがしいものが浮かんでいた。
 双葉を褒めると同時に、自分自身もなんともいえない心地好さを感じていたのだ。
 理由は分かっている。
 自らが作り出したチャンスであったからだ。
 下手ながらも、いや下手だからこそ相手に執拗に食らいつき、奪い、前線へパスを供給し、決定的なチャンスを、自分が。

 やれるんだ……
 わたしにも……

 心地好さは、そのまま自信に繋がっていった。
 だが自信を深めたところで基本技術が向上するはずもなく、今度は9番に無抵抗で抜き去られた。

 慌てて9番の背中を追う。
 視界の片隅に、ゴール前へと飛び込む津田文江の姿が見えた。鈍台洋子がマークしていたはずであるが、巧みにタイミングをずらして振り切ったのだろう。

 ここを通されたら、やられる……
 良子は不本意ながらファール覚悟で9番の肩に手を掛けた。だがわずかに遅く、ボールは打ち出されていた。

 ゴール前の、ゴレイロが飛び出せない絶妙な位置で津田文江はボールを受けると、迷わず右足を後ろに振り上げた。

 佐原南の部員たちが失点を覚悟し、前橋森越の部員たちが追加点を確信し歓喜したその瞬間、
 前半戦終了を告げる笛が鳴った。

 佐原南にとってまさに救いの笛であった。

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「なんといっていいのかなあ」

 二年生のぐろふえは弱ったような表情でぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回した。

 現在、佐原南とまえばしもりこしとの試合はハーフタイムに入ったばかりである。

 すっかり疲労し切った表情でピッチから出て来る佐原南の選手たち。その中の一人であるしんどうりようを中心に、一年生がまず輪になり、さらに二年生三年生が囲んでいる。

 須黒笛美の煮え切らない苦い表情や口調は、説明すると次のような理由によるものであった。

 相手に二点ものリードを許したまま折り返すこととなったわけであるが、それは佐原南が弱いからでは決してない。一年生のみで構成されているとはいえ、さすがは佐原南へ進学し、入部を希望し、ピッチに立っているだけあり、それぞれの持つ素質は存分に発揮していた。
 単に、対戦相手である前橋森越が想定を遥かに上回る強さであったということだ。
 しかしながら経験不足や技術不足が随所に現れているのもまた事実である。
 一年生だけで戦うことを決めたのは主将のはなさきつぼみであるが、上級生にはみな同じような責任があるわけで、この前半戦の結果に対して厳しくふるまうかべきなのか否か、逆転勝利を狙うにあたってどう接すればよいのか、それらを決めかねてしまっているというわけである。
 佐原南の主力が出たとしても、あの破壊力を防げる保証、勝てる保証などないが、しかしながらやはり現在陥っているこの苦境の主な原因はメンバーが一年生だけということに尽きるであろう。

 と、これが苦虫噛み潰している理由だ。
 須黒笛美だけでなく、上級生はみな同じような気持ちに陥っているようであった。

 発端を作った張本人であるはなさきつぼみ主将だけは、まるで他人事といった体でそっぽを向いて眼鏡のレンズなどを拭いていたが。

「では作戦会議を始めようかあ。どうしたどうした、みんな暗いぞお!」

 どんどんどんどん! と間近から太鼓の爆音が響いた。
 ゆずの祖父が、輪の中央で新堂良子の隣に立って、にこやかな笑みを浮かべてバチを振っていた。

「女の子は華が命!」

 どんどんどんどん!

「てめえは黙ってろっていったろ!」
「無駄にうるせええ!」
「参加してんじゃねえよジジイ!」
「あっち行けよハゲ!」
「ジジイ!」
「やっぱり追い出そうぜ」

 と、上級生たちに引きずられてあっという間に場外へと摘み出されそうになるジジイ、いや柚葉のお祖父さん。

「おい、柚葉っ、助けてくれっ」

 腕を掴まれどかんどかん背中を押されながらも、なんとか振り向いて孫娘に助けを求めた。

「やだよ。早く消えちゃえ。もしも試合に負けたらおじいちゃんのせいだからねっ」

 孫娘は無情であった。
 無情ではあったが、祖父には通じなかった。

「おお、そうか、すまない、わたしの応援が足りなかったか。だから苦戦しているんだな。ではもっと頑張るから……」

 次第に声が小さくなり、やがて完全に消えた。
 たかはしなるみやももが、体育館非常口まで引きずって、背中を蹴り飛ばして鉄の扉を閉めたのである。

 後に残るは静寂ばかり。
 いや実際には観客もおり会場はずっと騒々しいが、柚葉の祖父一人でそれを遥かに上回る程の騒々しさだったのだ。

「ったく変なじいさん先祖に持ってんじゃないよ、バカユズ!」

 成宮桃子が、柚葉の頭をげんこつで殴りつけた。

「あいたっ! 好きで先祖に持ってるわけじゃないですよ!」
「うるせえ、お前がそんなだから、あんなじいさんが生まれてくるんだよ」
「意味分からない! 順序が逆! もう、いってえなあ。脳細胞死んでバカになっちゃったらどうすんだよお」

 柚葉は頭を押さえ、なでた。彼女は、ふと視線を感じたように、そちらへ目を向けた。
 視線の主は新堂良子であった。彼女は笑みを浮かべながら、柚葉と成宮先輩とのやりとりを見ていたのだ。

「あ、ごめんなシャク。ハーフタイムの大事な時間を使っちゃったね」

 成宮桃子は申し訳なさそうに謝りながら、もう一回柚葉の頭を殴った。

「いえ、いいんです。ほとんど話すことはないので。だから別にずっと続けててもよかったんですけどね。いえ、むしろその方がよかったかな」

 良子は柔らかな笑みを浮かべた。

「この試合の行方を決めるのは気持ちの問題、ということか?」

 いままでそっぽを向いて我関せずといった体で眼鏡のレンズを拭いていた花咲蕾が、ようやく眼鏡をかけ、口を開いた。
 良子は小さく頷くと、少し間を置いてまた口を開いた。

「前半は、他にも色々な要因がありました。わたしも緊張というか怖がってしまって指示ミスが多かったし。……後半に関してなんですが、ルミとワラ、それとわたしの三人を軸にして組み立てます。みんな知ってると思いますけど、わたしたち三人はよく外でこっそり練習していましたし、連係に関しては自信がありますから」
「不安要素はもろもろだけどねえ」

 とくまるのぶがぼそり呟き鼻でため息ぼやき節。

「じゃ、お前出たら勝てんのかよ」
「そういうわけじゃないけど……」

 に発言をたしなめられたと思ったか、信子はばつ悪そうに口ごもった。
 とはいうものの、初心者がただ頑張っているだけにしか見えないような良子のプレーを見ていれば、信子でなくとも不安に思うのが当然ではあろうが。

 真理江と信子のやりとりに周囲が少し緊迫したものになりかけたが、良子はまるで気にしたそぶりなど見せずに言葉を続けた。

「誰がプレー不可能になるか分からないので、他のみんなはそのやり方をしっかりと見ていて下さい」
「シャクたち三人が出るというのは分かったけど、ゴレイロは?」

 須黒笛美が、ちょっと奇妙に思えるような質問をした。

 何故に奇妙かというと、笛美のいう通り良子はまだ三人のFPフイールドプレーヤーしか伝えていないからである。
 出場メンバーを確認したいのであれば、ゴレイロよりも残るFP一人を先に尋ねるのが普通ではないか。

 つまり笛美にとって、残るFPが誰であるかの予想は大方ついており、それは少し聞くに躊躇うものであり、それは誰がゴレイロであるかによって容易に判断が可能である者、ということだろう。

 ゴレイロにきりたにまいを使うのであれば、残る一人のFPとは本職ゴレイロである九頭柚葉であろうし、
 九頭柚葉が前半戦に続いてゴレイロのままなのであれば、残る一人のFPとは……

「ゴレイロは引き続いてユズ。残るFPは、同じく引き続いてドンに出て貰います」
「おおお!、驚かないようゴレイロから聞いたのに一気にいわれたあ!」

 笛美だけでなくみな不安を感じるところであったのだろう、周囲が少しざわついた空気になった。

 第一試合と、この試合の前半にも出場して周囲と遜色のない働きを見せている鈍台洋子であるが、まだ部員たちの信頼を勝ち得るには至っていないのである。

 実際に経験の浅さからの判断ミスでピンチも招いているし、見た目より遥かに俊敏とはいえその見た目が見た目なのでなおさらということなのであろう。

 当の洋子自身はどう考えているのか。いつも通りの笑顔であるが、もともと常に笑顔であるため内心を読み取るのは難しかった。

「わたしは別に問題ないと思うよ」

 みなの気持ちを察したのか、主将の花咲蕾がさらりとした口調でいった。

「ピッチに立つたびに、ドンの動きがどんどん良くなってきているのを感じられたからね。この第二試合では、フィクソというミスが失点に直結するポジションで、あの猛攻に耐え続けることが出来たんだ。最後の最後に失点はしてしまったけど、あれは不運で仕方がない。今度はルミがフィクソだろう? 前へ出ればもっと楽にやれるだろうし、ドンとユズはこの三人と相性がいいみたいだからね。カスコが出られない以上、前目でキーマン一人作って組み立てるのも前橋の守備力を考えると難しいだろうし、ゴレイロも含めた五人での連係で戦うというのは悪くない選択だと思う。わたしはね」

 単語と眼光で会話する花咲主将にしては、珍しく長い台詞であった。

「そうなんですよね。カスコがいれば、色々と違ったことも出来たんですが」

 カスコとは、すず鹿すみのコートネームである。
 一年生の中では芦野留美に匹敵する実力を持っているが、しかしその実力を発揮する前に警告二回で退場させられており、もう後半戦に出ることは出来ない。

「すみません」

 鈴鹿澄子は悔しそうに唇を噛んで下を向いた。

「頑張ります!」

 反対に明るい声を張り上げたのは、鈍台洋子であった。

「自分の能力なんてよく分かりませんが、主将がそういうのならそうなのかも知れないし、シャクちゃんがそういうのならここはあたしでなければならないのかも知れないし。だからあたし、やります。頑張ります」

 虚勢も多分にあるのかも知れないが、とにかく洋子は明るくそういうと自分の胸をどんと叩いた。

「やる気があってええなあ、ドンちゃんは。うち、この状況で出ろいうんがちょっと重くなってきたかも」

 と、ちょっと元気のない声を出しため息を吐くのは高木双葉であった。
 前半戦では意気揚々とピッチへと立ち、そこそこよいプレーも見せたものの、元来が気弱な性格であり、高揚していた気分がひとたび落ち着くと今度は降り掛かる重圧が苦痛になってきたようであった。
 聞かれない声で呟いただけなのかも知れないが、静かになっていたタイミングであったため、全員にしっかり聞かれてしまっていた。
 はっと気まずそうな表情を浮かべる双葉に、

「おいタコ焼き屋、お前なあ」

 九頭柚葉が詰め寄り、両肩を強く掴んでいた。

「ドンちゃんだって笑って頑張るっていってんだぞ! まあドンちゃんは、いつも笑ってる顔にしか見えないってだけなんだけどさあ。この前もアイスクリームを道路に落としちゃって、顔ニコニコしてんのに道に拳を叩きつけて悔しがってて見てて怖かったあ。って、関係ないこといってんじゃねえよ関西弁! そうじゃなくて、みんなやることやって頑張ってんのに一人盛り下げるようなこといってんじゃねえってこと。お前ん家の親は元代表だろうが! お前も偉そうに自慢してたろうが! あたしの親は代表でもなんでもないぞ! まあ佐原南のエースではあったけど」
「耳元でごちゃごちゃやかましい。雑音多いわ、お前の言葉。うちかてやることはやっとるわ。プレッシャー感じてなにが悪いんや。親だ代表だ、こんなとこで関係ないやろ!」
「関係あんだろ!」
「あったらなんや!」
「頭脳が間抜けか、てめえは!」
「やかましい! ……いいたいことくらい、分かっとるわ」

 別に母が代表だから娘がどうというわけではないが、現在は状況が状況であり、なににすがろうともまず自信を持て、と柚葉はそういっているのだろう。

 双葉としては降り掛かる重圧を軽い愚痴にしただけのつもりだったのかも知れない。
 柚葉に注意されたのが気に入らずに言動がエスカレートしてしまったのだろう。いつも一番ふざけているのはお前だろう、と。
 口を閉ざしおとなしくなりながらも、なおむくれっ面の双葉であったが、周囲の静まり返った空気や、自分たちへ向けられたなんともいえない視線にはっと気付くと、ばつの悪さに俯き硬直してしまった。

 周囲どころか共同責任を負うべき柚葉までが他人のように無言で、すっかり孤立の双葉は頭を掻いたり鼻を掻いたりしていたが、場の空気も自分の気持ちもごまかすことは出来ず、やがて、ちょっとふて腐れたような表情のまま、でもしおらしい口調で謝った。

「うちが……悪かったわ。ごめんな」
「え、っと、いや、別に謝んなくたっていいよ。プレーで見せてくれりゃあいいさ」

 あっさり謝られると、反対に困ってしまう柚葉であった。

「せやな。ここまできたら、開き直って思いっきりぶつかるしかないもんな。……よっしゃ、やったるで! ユズ公、腐れユズ、うちのほっぺを本気で殴れ。弱気な自分を吹っ飛ばすんや! もう絶対後戻りはせんって気合を入れるんや」
「本気で殴れって、お前……いいのか? じゃなくて、ええのか?」

 柚葉は真顔になった。

「いちいち関西弁でいい直さなくてええから、早く!」
「分かった。じゃ、ほんとに殴っからな。覚悟しろ」

 柚葉はゆっくりと右腕を振り上げた。
 その迫力に双葉は怖気づいたか、

「やめ! やっぱ優しくや優しく! 軽く、ぺちっとな。ユズ公、腕っ節だけはゴリラ並みに強いからな」
「分かった。かる~くだな。じゃあいくぞ」

 二人だけの世界に周囲が唖然としてしまっている中、柚葉は改めてゆっくりと右手を上げた。
 次の瞬間、
 ぶん! と風が唸り、平手が打ち下ろされた。
 肉を裂き骨を砕くような凄まじい音が響き、双葉の身体は文字通り横っ飛びに宙を舞っていた。
 踵が地についた刹那、そのままくるりんと身体が反転して、顔面から床に叩きつけられ激しく胸を打ってバウンドした。

「ちょっとそこまでやる……」

 というくちの声を、双葉の絶叫が掻き消した。

「いてええええええええっ! うぐうううううう、クソユズ本気で殴りおったあああああ!」

 双葉は顔を押さえてしばしの間、ばったんばったんばったんばったんのたうち回ると、突然立ち上がって柚葉の胸倉を掴んで引き寄せた。

「なにすんのやあ自分! おう! なんとかいってみい!」
「ああ痛かった? ごめんね。いっぺん思いっ切りぶっ飛ばしてみたかったから、いい機会かなと思って。そんな怒んなよ。お返しにあたしのことも同じように殴っていいからさあ。ほら」

 柚葉は、軽く横を向いて双葉に頬を差し出した。

「ほんまやな。容赦せえへんで。お前と違うてこっちはひ弱でキュートな女子や、怪力やないからグーでいくで。歯ぁヘシ折れても知らんで。やっぱ初めては優しくう、とかいっても聞かへんからな」
「いいよ別に。関西弁で殴られたって効きゃしねえよ」
「関西弁が殴るわけやない! この拳やで。ほな覚悟しいや、いくでえ! 顔面ブチ抜いて風穴あけたる!」

 双葉は準備運動に右肩をぐるぐる回すと、腰を捻って上半身を後ろへ振り絞った。矢を解き放ち、フック気味に柚葉の顔へと拳を突き出した。
 柚葉がぎゅっと目を閉じたその瞬間、双葉の拳はスローダウン。指を広げ、手のひらで柚葉の頬をさするかのようにぬるーっと優しくなで上げた。

「はあ?」

 思いもよらぬくすぐったい感触に柚葉が目を開くと、前にはニヤニヤ笑っている双葉の顔。

「なんで……殴らないんだよ」
「殴ったわ。うちの柔肌が傷つかんように少しだけ加減してな」
「なんだよそれ! 本気でやれよ。ほら、もう一回。ばしっと思い切り。大嫌いなあたしの顔を殴れるんだぞ」
「嫌やわ。いまので充分過ぎるほどに手が痛いわ。うちはか弱い女子やからなあ」
「おいおいおい、冗談じゃねえぞ。同じくらいやり返されること覚悟しての、捨て身で諸刃のジョークだったんだぞ! こら関西弁! やれよ、思いっ切りやり返せよ! あたしだけ本気で殴っちゃって、なんか後味悪いだろ!」
「そっかそっか、後味悪いか。そうやって良心の呵責に一生苦しむとええわ。ぜーったい殴り返さへんからな」

 双葉はにまあっと笑むと、高らかに笑い声を上げた。

「くそお……」

 してやられたと思ったのか、柚葉は悔しそうに床をどんと踏み頭を掻いた。
 なおも、うーーと唸っていたが、しばらくすると突然ぷっと吹き出した。

「貸しにしといてやるよ」
「えー、それおかしいやん。うちの台詞やん。うわ、なにすんや!」

 突然、柚葉が脇腹を人差し指で突っついたのだ。
 すかさず双葉が反撃すると、柚葉はすぐさま反撃の反撃。

 無邪気に笑いながら脇腹を突っつき合う二人の姿に、あらがみが驚いたような呆れたような表情を浮かべながら、新堂良子に肩をぶつけながらぼそり。

「なあシャクレ、あいつらさあ、前からあんなに仲が良かったっけ?」
「いまは、最高なんじゃないですか? だからあたしたち五人は……最高の五人なんです」

 良子はにんまりと笑った。

「連係はシャクのいう通り確かに問題ないと思うけど、でもどうする? 攻める? 守る?」

 最高の五人の一人である芦野留美が、雰囲気を現実に引き戻した。

「二点差なんだぞ。攻めるしかないだろ」

 アホかい、といった顔の武朽恵美子。

「様子を見ながらだけど、まずはひたすらに守るしかない」
「だよね。一応確認した」

 留美と良子は、小さく頷き合った。

「えーーーっ、なんだよそれえ」

 自分がバカみたいじゃんかよ、と不満顔の武朽先輩であったが、それがピッチに立つ者の共通見解なのであれば、と、もうなにも口は挟めなかった。

「そう、そこで身体を入れて、奪う! そうそう、悪くない。もっと腕を上手に使った方がいいかな」

 ミーティングの輪の外では、いつの間にか鈍台洋子が花咲主将に動き方について個人指導を受けていた。
 態度こそ飄々としているものの、主将もなんとかしてチームを勝たせたいと思っているのであろう。
 筋のよさを褒められて、洋子は嬉しそうに細い目をより細めた。

「まもなく後半が始まりますので、そろそろ選手の方はコートに入ってくださーい」

 審判の女性が、両手を口に当て、叫んだ。

「それじゃあ……行こうか」

 良子は拳をぎゅっと握ると、引き締まった表情になった。
 もう悩みなどはない。ただ全力でぶつかるのみ。そう吹っ切れたような顔であった。

「っと、ちょい待ち、大事なこと忘れとるで」
「え、え、なに?」

 せっかくきりり引き締めたというのに、双葉の言葉になんとも間抜けな表情になる良子。

「円陣や、円陣。まだ切っとらんやろ。泣こうが笑おうが、これがシャクにとって最後なんやからな」
「ああ、いけない。ごめん」

 主将代行として試合をするなど今日が初めてであり、すっかり忘れてしまっていた。
 双葉のいう通り、第一第二試合のみを指揮する良子にとってこれが最後の円陣。間抜けな表情を、再びきりりと引き締めると、一年生の輪に自分も加わって、全員で肩を組んだ。
 腰を落とし、突き付け合った部員たちの顔をさっと見回すと、

「佐原南、勝つぞお!」

 腹の底から叫んだ。

「おう!」

 負けじと他の一年生たちも叫ぶ。

「最後まで走りきるぞ!」
「おう!」
ぜんこんぜんそう!」
「おう!」
「燃えろ青い弾丸!」
「おう! ……??」

 一年生たちは、つい反射的に応じてみたものの、なんとも不思議な表情をそれぞれ浮かべていた。

「なに……それ?」

 しげみつが小首を傾げた。

「勝利のおまじない」

 良子は少し恥ずかしそうに、悪戯っぽく笑った。
 以前に良子は、佐原南高校女子フットサル部の部長が代々執筆してきた俗称「部長ノート」を部室清掃中に発見した。誰も存在に気付いていなかったとはいえ部の遺産であり勝手に拝借は出来ないが、時折暇を見つけては部室で読んでいた。

 高木双葉のお母さんである旧姓むらが残したノートが、ゆうのことなども詳しく触れられており良子のお気に入りなのであるが、そこにこの魔法の呪文が書かれていたのだ。ここぞという時に使うと勝率が上がる、と。

 こうして、良子が指揮する試合の最後の円陣を切り終えた。
 良子を含め選手たちは笑顔でピッチへと入って行った。
 みな、軽いのか重いのか、どこか深層な決意を感じさせるような、そんな笑顔であった。

 前橋森越の選手たちは、すでに五人とも入ってそれぞれの位置についている。津田文江の姿も、その中にある。

「諦めた? そんな顔に見えるけど」

 近くを通った良子へ、津田文江は鼻で笑い話し掛けてきた。

「いえ。終了の笛が鳴るまでは、絶対に諦めません。それじゃあ、後半もよろしくお願いします!」

 良子は津田文江へ、そして相手の主将へと頭を下げた。

 津田文江は、再度ふんと鼻を鳴らした。

 佐原南も、選手五人がそれぞれの位置についた。
 良子は小柄な身体をくるりと回して、仲間たちの姿を見た。
 そして心の中で話し掛けた。

 勝ち負けは時の運かも知れないけど、
 全力で、
 ガムシャラに頑張ることは出来る。
 だから、
 悔いのないように、
 思い残すことがないように、
 全力で、
 楽しんで、やろうよ、
 ね、みんな。

 その瞬間、
 後半開始の笛の音が鳴り響いた。

 良子にとって、そして佐原南にとって、試練ともいえる強大な敵との、最後の戦いがこうして始まったのである。
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