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第三章 関西弁

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「つっ!」

 きりたにまいの指に激痛が走った。
 どう考えてもシュートを弾くべきところで、いいところを見せようと無理にキャッチしようとして失敗したのである。

 自慢ではないが、自分の指はとにかく細い。キーパーグローブをはめていなかったら、ぽっきり折れていたかも知れない。

 でもまだ折れていない。
 痛いだけ。
 まだやれる。

「もういっちょ! お願いします!」

 舞は気迫の大声を出して、ないあさ先輩へと深く頭を下げた。

 現在、体育館で女子フットサル部の練習中だ。
 ゴレイロは、壁側のゴールを使っての練習。現在行なわれているのは、一年生の桐谷舞とゆずを対象としたPK五十本ノックである。

 PKに備えての練習でもあるが、主目的はシュートへの反応を磨くことだ。

 舞はもう四十本ほどを受けており、すっかり息が上がってしまっていた。

「いい根性だね、ビリー。でも、いま指やっちゃったろ。無理はしないでちょっと休んでなよ」

 三年生の宇内麻江、荒っぽいのが多い佐原南女子フットサル部の中でも非常に稀有なおっとり優しい性格の先輩である。

 でも……優しくなんかなくていいから、その呼び名をやめて欲しい。
 入部した頃に呼ばれていたキリの方がかっこよくかったのに、いつしか変化してビリーになってしまったのだ。
 っと、そんなことはどうでもいい。

「あたし、まだやれます」

 舞は中断させられることに不満げな表情を作った。

「やるなとはいってないでしょ。一休みしろといってるだけで」

 でも、まだ規定の五十回には達していないというのに。
 舞は不満げというより、明らかに不満であった。

「よっしゃ、それじゃあたしの番だな。先輩、よろしくお願いしまっす!」

 九頭柚葉は、グローブの手のひらを拳でバスバスと叩くと、不敵な笑みを浮かべてゴール前に立った。

 桐谷舞は、ふんと鼻から息を吐くと、傍らにしゃがんで両手のグローブを外した。
 面白くない気分を胸の中に押し殺し、高まった内圧をまた鼻からふんと吐き出した。
 このような気分になること、今日に限ったことではないが。

 ユズに練習をさせたくない。
 ますます上手になってしまうではないか。
 自分も練習の手を休ませたくない。
 ますます下手になってしまうではないか。

 それが、舞の不満の要因であった。
 中学時代には他にゴレイロをやる子がいなかったし、シュートも結構止めることが出来ていたから、自分には特別な才能があるのだと疑っていなかった。
 もっと強くなりたい。そう思って、フットサルの強いことで知られる佐原南に入学し、入部したのであるが、そうしたらどうだ。果たして井の中の蛙も良いところであった。

 でも、
 だからって……

 ユズが練習しないことを祈るなんて、スポーツマンシップどうこうなど関係なく、なんの意味もないことだよなあ。

 舞は、体育座りで自分の膝に顎を埋めた。

 だってさ、自分の知らないところで練習することを止められるわけないし、仮に願いというか呪いというかが成就してユズが落ちこぼれたとしても、じゃあ他にどれだけ祈ればいいの?

 宇内先輩に、ツカマロ先輩に……
 そうしてレギュラーの座を手に入れたとして、今度はシュートを決められないように相手の不調を願うか?

 きりがないし、意味がない。
 結局は、真面目に練習して自分が成長するしかない。
 それが耐えられないのなら、フットサルをやめるしかない。

 分かってはいるんだ。そんなことくらい。
 でも自分の心を自在にコントロール出来るくらいなら、こんなに悩んでいない。

 ならどうするか。自分がひたすら練習するしかないじゃないか。それなのに、まだ五十も終わってないのに一休みしろだなんて、先輩もあんまりだ。
 PK練習たった十本の差でも、その分ユズが上手になってしまうではないか。その分自分が下手になってしまうではないか。

 ぐるぐる回る思考。
 と、いきなりすぐそばから怒鳴り声が飛び込んできた。

「カスコ! てめえ、なにやってんだよ下手くそ! ズズカステラ! コートネーム変えちゃうぞ、ズズカステラって」

 すず鹿すみが、ワンタッチで捌けば味方のチャンスになるところキープしてしまったため、くち先輩に罵倒されていた。

 こぼれたボールが舞の方へと転がってきた。
 澄子は唇をへの字に曲げ、イライラした様子で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回しながら、体育座りをしている舞へと近づいてきた。

「あんまり気にしない方がいいよ、カスコ」

 自分が慰めてもらいたい気持ちのくせに、だからこそ、澄子へと慰めの言葉を発していた。

「別に気にしてなんかいません。構わないでください」

 同じ一年生同士であるというのに誰とでも敬語で接する鈴鹿澄子。ボールを爪先でちょんと蹴り上げて手のひらに乗せると、FP練習の中に戻っていった。

「なんだよ、あいつ。……言葉だけは丁寧なくせに、いっつもギスギスしちゃってさ。余裕ないんだよ」

 でも本当に余裕がないのは自分だ。
 実力がないくせにプライドだけはあって、上手くいかないことをごまかすためにいつも変な弁解ばっかりしている。

 違う方向から、今度は荒上先輩の叫び声。

「下手! 下手っぴ! ドヘターズは、そっちの隅っこで練習してろ、邪魔だあ!」

 一年生のしんどうりようたかふたが、荒上先輩に怒鳴られている。
 二人は、簡単なパスをトラップミスばかりしているものだから、肝腎の戦術練習が進まず、怒った荒上先輩に外されてしまった。

 でも二人は、まったくしょげることなくコートの隅で楽しそうにはしゃぎながらボールを蹴っている。
 ひとくくりにされて練習から外された二人であるが、見ていると圧倒的に新堂良子の方が下手である。
 酷い。まるで始めたばかりの小学生のようだ。
 ゴレイロである自分の方が、よほど上手に蹴ることが出来るだろう。
 でも……本当に楽しそうだ。

 っと、良子がトラップしそこねて背後に流れたボールを追い掛けようとして、踵を返した途端に足をもつれさせて転んでしまった。

 ぷ、と舞は吹き出していた。
 そして、声を上げて笑ってしまった。

 別に他人の失敗が楽しかったわけではない。
 良子のあの天真爛漫で一生懸命な様子が、見ていてなんとも心地好かったのだ。

「不思議な子だなあ」

 なんだか自分まで元気が出てくる。士農工商の法則などどいったマイナスなものではなく、単純にあの明るさに元気がもらえる。

「本当に面白いよね、あの子」
「うん」

 九頭柚葉の言葉に、舞は素直に頷いていた。

「って、ええっ?」

 練習していたはずの柚葉が、いつの間にか自分にぴたり肩を寄せていた。
 舞はびくりと肩を震わせると、独り言を聞かれてしまった恥ずかしさから立ち上がった。

「ビリー、指どう? 大丈夫そうなら代わろうか」

 柚葉の言葉に、舞は無言のまま自分の手を見つめた。
 ふふ、と笑うと腕を伸ばして、何度かグーパーを繰り返して感触を確かめた。

「じゃあ遠慮なく。……先輩、よろしくお願いします! 出来れば最初から、五十本!」

 ゴールの前に立ち、キーパーグローブをはめた。

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 ターンから短いドリブル、ちょんと蹴り放ったシュートがゴレイロの意表を突いてすぽんとゴールに吸い込まれた。

「よおおおおおっし!」

 しげみつはただでさえ地声が大きい。叫び声をあげれば、それはもう騒音の域であった。

「努力練習は裏切らない! 劇的な同点ゴールには違いないが、これは奇跡ではない、そう、必然!」
「つべこべうるせーんだよ、シゲマン!」

 ぱかっ、といきなり後頭部を殴られた。

「あいたああっ、ムクチ先輩、なんで殴るんですかあ?」

 香奈美は殴られた後頭部を両手でおさえ、すりすりした。

「お前が殴られるようなこといってっからだよ」
「いってませんよ、一言も。でも殴るのはまだいいですけど、その呼び方だけはやめて下さいよ」

 その呼び名、シゲマン。そう呼ばれることになったのは奇跡ではない、そう、必然。ただ苗字を訓音で読んだだけである。

「そう呼びたくなるような、女の子の大切なところみたいなワイセツな顔してっからだよ」
「してませんよおおお! どんだけ卑猥な顔なんですか、あたしいいい。というか、ただあたしの苗字から取った呼び名というだけなのに、出鱈目な由来を勝手に付け足さないでくださいよ! 絶対にいま適当に考えたでしょ」
「注文多いんだよ、お前。不満なら女性総理にでもなって世の中を変えろ! 人任せにするな!」
「下品な呼び名と政治が、どう関係あるんですかあ?」

 などと二人がくだらないやりとりをしていると、

「どうしたムクチ?」

 とくまるのぶがやってきた。

「いやあ、今日もシゲマンが生意気でさあ」
「なんだあ、今日も用具室に行くかあ?」
「いえ、滅相もない。……勝手なことをいって、すみませんでした」

 理不尽な先輩二人にたてついても仕方ない。香奈美は渋々と謝ると、練習に戻った。

 つうかあたし、なんか悪いことした?
 ほんと横暴なんだからな、あいつら。

 などと、心の中でぶつくさ文句をいいながら。
 その不満が、いつの間にか無意識に口をついて出てしまっていた。

「……いつの日か目にもの見せてくれる。聖剣があったら絶対に退治してやるんだから。ああ、見ているがいいさ。横暴の限りを尽くすがいいさ、町を徘徊するゴロツキども。そしてその暁には、これまでの自らの行為を悔やむがいい」

 握る拳を、天へと突き上げていた。

「だからうるせえんだよ!」
「おは!」

 香奈美は背後に武朽先輩の飛び蹴りを受けて吹っ飛び、受け身取れずに腹から落ちてマット運動のように前転して床に背中から落ちた。

 三十秒ほど激痛に呻いたあと、ゆっくりと上体を起こした。
 右膝を擦りむいて血が出ていることに気がつくと、急に泣き出しそうな顔になった。

「膝、擦りむいたあ。いったああい。茂満香奈美は出血すると戦意喪失により戦闘力が半分にダウンするのだあ。いたいよおお」

 と泣き叫んだが、誰も見向きもしないので、体育座りになって、ぺろと自分の膝の傷を舐めた。
 他の一年生たちの声が聞こえて、舐めながら、ちらり視線を上げた。

「なんかさあ、ダリーって忍者の子孫みたいだよねえ」
「そう? というかそれ意味分かんないよ」
「だからさ、落ちずに疾って鍛えるみたいなさあ」
「忍者のあれは別に自分の髪の毛じゃなくて、布かなんかでしょ。子孫がどうとか、関係ないじゃん」
「ああそうか。でもその髪、お風呂大変そうだよねー」

 今日も吉田理恵がいつものように、他の一年生たちにいじられている。

 ダリー、中学からのあだ名であり、そのままこの部活でもコートネームとして採用されている。

 吉田理恵 - よしダリえ - ダリー、である。

 理恵は一見、暗い感じを周囲に与える。
 実際、非常に無口でほとんど喋ることがない。
 いまも三人に囲まれいじられているが理恵本人は、一言も口をきいていない。

 髪の毛がとにかく長いというところも、そういうイメージで見られる一因であろうか。ぎゅっと縛って上げているというのに、先がお尻にまでかかっているのだから。

 ただし、脳内ではそこそこほがらかなようであり、なんだかんだとノリはとてもよい。
 いまも忍者の子孫などとからかわれ、髪を解いて忍び疾りをしてみせてよなどとリクエストされて、その通りにしてしまったくらいである。

 いじられからかわれはするものの、嫌われていないし、なんだかんだと人付き合いもよく、人気がある。

 茂満香奈美は、彼女のそんなところが羨ましかった。

 香奈美は小学生の頃から友達がまるでおらず、人に構って欲しくてとにかく目立とうと大声を張り上げる癖がついてしまったものの、その成果はまるでなく空回りするだけでますます孤立。
 このような状況、みんなでわいわいやるような部活に入れば変わるかも知れないと思って中学ではサッカー部に入ったのであるが、さして変化しないどころか、うざったいといわれていじめられた時期もあった。

 家では一人でアニメを見ているかテレビゲームをやっているか。それ以外の時間の使い方を知らなかった。

 だから、人付き合い、人との話し方というのがどうにもよく分からない。
 せめて他人の気持ちが理解出来るくらいにはなろう、とは思い心掛けているものの、触れ合いがないものだから経験も生じず、だからそれがきちんと出来ているか自信はない。

 人と接するにあたり、とりあえず明るい態度をとってけば損はなかろう。そう思い実践しているつもりではあるが、相手の反応の空気感というものがまったく理解出来ずに不安は深まるばかり。

 本当に怒っているのか、実は笑っているのか。
 ただ自分のことをバカにしているだけではないか。
 そう不安になればなるほど、自分が人とどう接すればいいのか分からなくなってしまう。
 どういう立ち位置に自分を置いて、他人をどう見ればいいのか。

 忍々でござるとか、別に好きでいっているわけではないのだ。
 ただただ他人に対してどう喋ってどう接したらいいのかが分からないのだ。

 魔法少女ルミナスビューティのように同時に色んなバリエーションの自分を存在させることが出来るのなら、色々と実験が出来るのだろうけど。
 結局、考えのたどり着く先は一つ。
 フットサルの練習を頑張ることだ。
 必死に頑張って実力をつけて代えがたい戦力にさえなれば、少なくとも邪険にされることはないだろうし。

 そうだ。
 やれること、やるしかないじゃないか。

「練習は嘘をつかないのでござる!」

 突然バカでかい声を張り上げた香奈美は、ボール拾いをしていた一年生から一個奪い取ってドリブルを始めた。
 わき目もふらぬ全力疾走だ。

「忍々!」

 風になった。

「うるせーよバカ!」

 武朽先輩が横から接近、容赦ないスライディングタックルによって香奈美の身体はボーリングのピンのように弾け飛び、ごろごろごろごろと転がった。

「いったああああああっす、魔法少女カナミンまさかの負傷。戦闘力が半分にダウンだああ」

 水揚げされたエビのように背を丸めたまま痛みにバッタンバッタンと暴れる香奈美を、武朽恵美子は右足で踏み付けた。

「こいつさあ、いつも変なことばかり叫んでて、いい加減むかつくから用具室でお仕置きしようぜ」

 近くの徳丸信子に声を掛けた。

「調子に乗ってんだよ、こいつ」

 徳丸信子も、香奈美に近寄ると背中を踏み付けた。

「忍々なんて普通いわねーよ、バカじゃねーの」
「さ、三日ぶりのお仕置き部屋あ♪」

 武朽と徳丸の両先輩は、香奈美の襟首を情けも容赦もなく引っ張り引きずり、用具室俗称お仕置き部屋へと引っ張っていった。

 香奈美が強制連行されたのはこれで十回目。
 トップを独走していた九頭柚葉に、怒涛の追い上げを見せてついに並ぶことになったのである。

     3
 いばさきゆうの性格を一言で表すならば、とにかく自信がないということ、これに尽きるであろう。

 だから、これまでの人生で一度たりとも立候補という行動を取ったことがない。どんな少人数の中であろうともだ。二人しかいなかろうとも、「わたしがやるよ」などといったことがない。

 最初から微塵も自信など持っていないくせに、失敗するとすぐに落ち込む。
 もうこれは生来の性格であり、きっと一生直らないのだろう。

 魂が雲の間から下りてくる時に、あれやこれやと色々なものをリュックに詰め込んだけど、そそっかしくてことごとくを間違えてしまったのだ。強さとか、勇気とか、そんなものをこれっぽっちも詰め込まなかったのだ。

 なのに下界に降り生まれて両親につけられた名前がユウキ。なんの冗談だと思ってしまう。

 本当に魂が地上に降りてくる際にそんなそそっかしいことをしたのかは分からないけれど、もうそうとしか思えない。
 だって、自分がこのような性格になってしまったことについて、思い当たる節がまったくないのだから。

 そこそこ裕福な、優しい両親とお兄ちゃんのいる暖かな家庭でのびのびと暮らしてきて、習い事だってなんでもさせてあげるといわれていて、それでなんでこんな性格になる?

 日々、部活と勉強を必死に頑張っているけれど、それもやっぱり自信がないからだ。
 全然勉強してないであろう成績の悪そうな子が友達と楽しそうに話していたりするの見るけれど、あれ本当に羨ましい。あれこそ高校生の真の姿だ。
 ああなりたい。
 心からそう願う。

 そう、人間には別に才能なんかいらないのだ。単に、自己肯定する能力があればそれでいいのだ。
 ないから苦労しているのだが。

 自己肯定さえ出来れば、人生もっと楽になれるのに。
 いまのままの自分でも、自信を持つことが出来るかも知れないのに……

 とかなんとかいいながらも、実は一つだけ、自信を持っている能力がある。
 ロングシュートの精度が高いんじゃないか、と。

 といっても中学生の頃に試合をやっていて、ちょっと狙ってみたところ決まってしまった、ということが四、五回ほどあっただけなのだが。

 とはいえ狙って打ってすべて入ったわけで、確率でいえば百パーセント。自分はロングシュート百発百中女なのだ。

 それが怖くなって、もうロングシュートを狙うのはやめた。

 もしも外してしまったならば、ドン底まで落ち込んでしまうからだ。やっぱり偶然だったんだ、自分には才能なんてないんだ、と。

 フットサルの試合はサッカーほどロングシュートを狙える機会があるわけではないのだが、例え単なるシュート練習であろうとももう打つつもりなどはない。
 このような素晴らしい能力がある(かも知れない)ことは、自分の胸の中だけに秘めておくべきなのだ。
 そうだ、墓場まで持っていくぞ。

「悠希さあ、あのロングシュートまた見せてよお」

 背後からそんな声を掛けられて、悠希は心の中でひゃあああああと悲鳴を上げた。
 何故その秘密をっ!

 振り返ってみると、そこにいるのは中学からの仲であるさきさくらであった。

「やだよお、絶対に決まるわけなあい。あれは偶然なんだから、そのこと絶対に誰にもいわないでよねえ」

 一瞬、桜に殺意が芽生えた悠希であったが、作り笑顔でなんとか気持ちを封印した。

「えっ、桜あ、悠希ってそんなロングシュート凄いの?」

 いかん、近くにいたやまざきよしが話に乗ってきてしまったではないか。桜め、余計な一言を……
 芳江も、よりによってなんでこの話題に食いつくかなあ。

「うん、すっごいよお。長くてロングなのを、ずっこーんと気持ちよく何度も入れてんの見たあ」

 こらキザ、それ以上いうなよ!
 というか長くてロングってなんだよ。そもそもいってることなんだかやらしくないか? 別にわたし、長くてロングなものどころか短くてショートなものも持ってませんから!

「ん、顔が赤くなってるよ、テバ」

 山崎芳江が悠希をコートネームで呼び、その顔をじっと見つめた。

「あ、ああ……」

 一人で変な妄想をしていたことに、悠希の顔はさらに真っ赤になった。

「照れてるんだよ、きっと。あれから絶対にロングシュート見せてくれないしさあ」

 桜は演技めいた感じの不満顔を作った。

「いや、でもわたしっ、ほんと全然そんな才能なんてないよ。だいたい本気で蹴ったって、筋力ないからろくに飛ばないもん。仮に飛んだとしてもそれで精一杯になって宇宙開発間違いなし」
「ええ、じゃあ、試しにやって見せてよ」

 山崎芳江が楽しげな顔でせがんだ。

「やりません!」
「えー、見せて見せてえ! じゃあ親友のあたしにだけ特別にさあ」
「あ、ずるいぞ芳江。じゃあ今日からあたしも親友だあ!」

 勝手なことをいう二人。
 悠希はドンと床を踏み鳴らした。

「例え千本の槍で全身を串刺しにされて惨たらしい最後を迎えることになろうとも、ぜーったいにやんないもん! 誰がやるか!」

 あれはわたしの最後の砦、生きていくための心のよりどころなんだ。打って外してますます自信を失ったら、お前ら責任取れるのか。

「ケチ! テバのケチ!」

 と、桜と芳江が同時に責めたてた。
 表情を見るに、それはほとんど冗談のつもりだったのであろうが、

「うるさいうるさいうるさい!」

 悠希は本気で頭に来てしまっていた。
 自信をなくす不安から、自己防衛反応に出たのだ。

「おい、どうしたあ? ザキ同盟の諸君」

 ゆずの声だ。きりたにまいとともに、ゴールを担いで移動させているところだ。

「悠希がさあ、テバがさあ、得意技のロングシュートを見せてくれないんだよおお。親友のあたしがこんなに頼んでいるのにい。うええええん。寂しいよお。というかユズちんさあ、ザキ同盟ってなあに?」

 桜は泣き真似したと思うと、すぐにけろりとした表情に戻って尋ねた。

「あ、いやさ、お前らさきやまざきいばさきだろ。関西弁たちがなんちゃら同盟だなんだ遊んでっから、じゃあお前らはさしずめザキ同盟だなって」
「それいい!」

 桜は叫んだ。

「テバ、ビニ! あたしたちも同盟を結ぼう!」
「やあだ、桜ちゃんあたしのことテバとか呼ぶし、ロングシュート見せろとかしつこいし」

 悠希。

「あたしもやだ。桜って、一年生同士なのに普段でもコートネームで呼ぶんだもん。そんな結託なんかしたら、部活以外でもビニビニいわれそうでやだ。桜一人で同盟結んでなよ」

 芳江。
 試合時はコートネームで呼び合うルールだが、本名を覚えるのが面倒なのか先輩は普段からコートネームで後輩を呼ぶことが多い。
 桜も一年生だが、よくコートネームで人を呼ぶ。

 親しみを込めたニックネームのつもりなのだろうが、でも芳江は自分のコートネームであるビニが大嫌い。本当に嫌い。本人がそう公言している。
 まあ、それはそうだろう。
 名前をもじったものならいざ知らず、「海外の成人向け雑誌の表紙みたいな顔してるから、ビニ本のビニだ」じゃあ……

 こうして悠希と芳江は去り、須賀崎桜が取り残された。
 三国の同盟交渉決裂の瞬間であった。

 梅雨の桜に北風びゅうびゅうという、なんとも複雑なことになっていた。

 しかしながら、彼女ら三人は九頭柚葉の適当な名付けによって周囲からひとくくりにされるようになり、まだまだ先の話ではあるが、やがて否が応でも自分たちが運命共同体であることを実感していくことになるのであった。

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「ね、こうして軽く足の裏で踏み付けるだけで、簡単にボールは止まるでしょ。さく、分かった? ほら、もう一回っ」

 たかはこんと右足でボールを押し出して、むらたにさくへと転がした。

「軽く踏み付ける、と」

 村谷咲美は真矢にいわれた通りに足の裏でボールを踏み付ける。
 だが力加減が無茶苦茶で、ぎゅうっと体重を乗せ過ぎてボールの形が変わってしまっていた。

「あ、ぷっと笑ったろ」

 咲美は、真矢を睨んだ。

「いやあ、笑ってないと思うなあ。ぎゅうううってボール踏んだ音を聞き間違っちゃったんじゃない?」

 真矢はおかしいのを押さえて平然と済ました顔をしていたが、滲み出るその態度に咲美の忍耐は限界点を越えた。

「なに調子に乗ってんだよ!」

 怒鳴っていた。

「あ、ええとっ、別に、調子になんか乗ってない。なに勘違いしてんの?」
  親友が突然切れてしまったことに、真矢はうろたえた。

「乗ってんだろ。バカにしてんだろ。友達だと思って教えてもらおうとしたあたしが間抜けだったよ。この雑用係! 妙ちくりんなコートネームつけられた腹いせをこっちに向けてこないでよ!」
「あ、あたしはっ、その……咲美が下手だから付き合ってやってんじゃんか! 感謝の言葉しか、いわれる筋合いはない!」

 売り言葉に買い言葉。真矢も後に引けなくなっていた。
 雑用係、妙なコートネームによる腹いせ、確かに咲美のいう通りであったかも知れない。そうしたところからの反動で、自分は親友に接し、怒らせてしまったのだ。怒らせてしまったくせに、後に引けず謝ることが出来なかった。


 高井真矢と村谷咲美は、小学五年生からの仲である。
 同じクラスになり、帰り道も一緒であることからあっという間に仲良くなった。

 真矢は小学一年の頃からずっとフットサルを続けていたが、どうにも芽が出ずぱっとせずであった。

 でもやり続けてさえいれば、いつか花は咲くはずだ。
 そう信じていたのであるが、
 なにも実感出来ぬままに小学時代は終わり、
 中学校では自分より経験の少ない者にレギュラーの座を奪われ、
 高校ではこれっぽっちも戦力と見られていないということなのか、関係ない雑用ばかり押し付けられるし、試合で声掛けをスムーズにするためのコートネームだというのにアロー北陸などと妙な名前を付けられるし。本名より長いじゃないか、それ。

 いつになったら芽が出る? 花が開く?
 一生、芽など出ない気がする。
 きっと自分は、路傍の雑草なのだ。花など咲かないのだ。

 その点、咲美は違う。
 名前の通り、とっくに美しく咲いていた。

 咲美の家は両親が元サッカー選手で、兄と自身も小学生の頃からずっとサッカーというまさにサッカー一家。
 足元の技術こそ上手ではない咲美であるが、長身という武器を生かして毎試合のように点を取っていた。ハットトリック達成回数も片手では数え切れない。まさにエースと呼ぶに相応しい存在であった。

 志望する高校にことごとく女子サッカー部がなかったことと、足元の技術も向上させたいということで、親友である真矢は咲美から相談を受けた。
 佐原南高校に行ってフットサル部に入るというのはどうだろうか、と。

 真矢は嬉しかった。
 そこはもともと真矢が志望していた高校であったから。
 親友が同じ学校に入学し、そして同じ部活、しかもこっちの畑であるフットサル部に来てくれる。こんな嬉しいことが他にあろうか。

 咲美はサッカーが凄いんだから、きっとフットサルでも点が取れるだろう。
 自分も、これまでいくら頑張っても結果が出なかったけれど、咲美とならなんだか凄いパワーを出せそうな気がする。

 そして二人は第一志望である佐原南高校に入学し、フットサル部に入ったわけであるが、真矢が脳裏に描いていた未来予想図はことごとくが絵空事にしかならなかった。

 大きな理由としては、高校になっても真矢の立ち位置がまったく変わらなかったということであろうか。経験が長いのになんだか蚊帳の外的な。

 さらには、真矢だけが部の中でやたら雑用を押し付けられること(実は単に器用そうなのを買われてのことであったのだが、まだ真矢はそのことを知らなかった)。

 佐原南が強豪校であることは知っていたが所詮は公立校だ、そう思っていたところ実際には上手な者ばかりおり、相対的に自分が惨めに思えてしまう、という点も大きい。

 しんどうりようなど、どうしようもない下手くそのプレーを眺めて心を慰めるしかなく、それが余計に惨めさを増大させるのであるがさりとてどうしよもなかった。

 どうしようもない下手くそは、新堂良子以外にも一人いる。真矢のすぐ身近、親友の村谷咲美がそんな存在であった。
 咲美は長年サッカーをやっていたとはいえ足元の技術は小学生なみに下手で、だからこそフットサル部で鍛えようと入部したのだから。

 下手だと本人から聞いてはいたが、いざフットサル部で一緒に練習するようになって、その通りであることを知った。

 もとから劣等感の塊であった真矢にとって、それは歪んだ優越感を生み出すものでしかなかった。

 長身を生かしたサッカーでどれだけ点が取れようと、フットサルは足元でやる競技なんだ、わたしの方がずっと上手なんだ。
 時折そう思っては、自己嫌悪に陥っていた。
 自己嫌悪に陥ってもう思うまいと反省するくせに、ことあるごとにそう思ってしまっていた。

 その思いを態度に出しているつもりはまったくなかった。
 ただ自分の劣等感を慰めたいだけだったから。

 でも、知らず知らずに咲美を傷つけていた。
 たぶんわたし、こんなことを毎日のように咲美にいってしまってたんだ。
 そして、ついに爆発されてしまったんだ。

 でもさあ……
 そんな怒ることないじゃんか。
 だってそうでしょ? 咲美の方が、ずっと凄いんだよ。
 自分の長所を生かしたサッカーであんなに点をばかすか取り続けて、でも弱点を克服するためにフットサルという新たな舞台に挑んでいるわけでさあ。
 わたしなんか路傍に生えている誰も見向きもしない雑草だけど、そっちは野辺に咲く綺麗な花じゃないか。
 わたしなんかより、ずっとずっとずっと優秀なんだ。わたしがこうして比べようと思うのがおこがましいくらい、咲美は凄いんだよ。
 優越感に浸って上から目線になっていていいのは、そっちなんだよ。
 でも、でもさあ、だからちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、その優越感を分けてもらおうと思っただけじゃないかあ。
 それくらい、いいじゃないかあ。
 だからそんな怒らないでよ。
 謝るからさあ。

「だから、笑ってないのに笑ってるとかいって怒るなんて、ボール蹴るのがへったくそだからって疑心暗鬼になっちゃってんだよ。こっちは友達だと思って付き合ってあげてんのにさあ!」

 全然謝ってなどいなかった。
 なんでこんな言葉が口から出てくるのか、真矢にもわけが分からなかった。
 止めたいが、止まらなかった。
 謝ろうとして口を開いても、そこからはトゲどころか槍や銛のついたような毒舌しか出てこなかった。

「ああ、ここにいたあ。あのさあ、アロー北陸さあ」

 三年の成宮桃子先輩がやってきて、真矢の肩に手を置いた。

「なんですか!」
 喧嘩の最中ですっかり頭に血が上っていた真矢は、いきなり肩に置かれたその手を激しく振り払っていた。
 成宮先輩の顔が、ぴくりと引き攣った。

「あのお、アロー北陸のくせにい、生意気なんだけどお、用具室行くかあ?」
「いたっ。……あ、あの」

 真矢は肩をぎゅうっと強く掴まれたことで我に返ったが、既に遅かった。

「ちょっとこっちこいやコラア! ブチブチ切れてるゴールネットあんだろ、あれ全部直しとけ。別に今週中でもよかったけど、やっぱり今日中にやれや」

 成宮先輩は普段はちょっとエッチな優しい先輩なのだが、怒ると誰よりも怖いのだ。

「え、え、今日中はちょっと」
「直せっていってんだよてめえ。それか、用具室でお仕置きされるかあ? どのみちゴールネットが置いてあるのは用具室だけどさあ」
「分かりました、やりますよ」
「分かりゃいいんだよ。クビ、お前はとっとと練習に戻りな。シャクレたちの輪にでも入って、下手同士で蹴ってな」
「はい……」

 村谷咲美は少し不満げな表情を浮かべながら、踵を返し一年生たちの輪の中に戻っていった。

 去り行くその背中をちょっと悲しそうな眼差しでずっと見つめていた真矢であったが、

「北陸! 突っ立ってないで早く作業にかかれよ!」

 成宮先輩に雷を落とされてびくりと肩をすくめると、「はいっ!」と声を裏返らせて、走り出した。

 いったん部室まで行って修繕道具を揃えると、体育館に戻り用具室へ入った。

 真矢はカビ臭い用具室の中で一人、大きく長いため息をつくと、ゴールネットの修繕を開始した。
 前回も無理矢理にやらされているから、要領は分かっている。以前は先輩の誰にも教えてもらえず、泣く泣くインターネットで調べながら修繕したのだが。

 要するに、他にも破損の酷いネットがあり、そこから無事な部分を切り取って縛り付けるだけの作業だ。
 新品のネットを張替えればいいだけなのにと真矢は思うのだが、こうすることで若干経費が浮くのだそうな。とはいえ、何故自分が担当しなければならないのかとは思うが。

「ああ、からまってる!」

 ちまちまと作業を続ける中、真矢は声を荒らげた。
 不要な方のネットをそろりそろりと持ち上げながら、切り取る部分に印を付けようとしていたら、あと一目分というところでぐしゃぐしゃにからまっていることに気がついたのである。

 解くか、他の部分を探すか。

「無理だよ……今日中にやれだなんて……」

 なんで、こんなことしなければならないんだ。
 そうだ。
 咲美と喧嘩をしていて、それでだ。

 今週中でもよかったけど生意気だから今日中にやれ、とか成宮先輩に無茶振りされたのだ。
 ふう、とため息をついた。
 その時である、金属の重たい扉が開く音がした。
 誰かがこの用具室に、入ってきたようである。

 きっと成宮先輩だ。
 サボってないかチェックしに来たんだ。
 いや逆だ、きっとサボっていることを期待してチェックしに来たんだ。罰と称してより難題を吹っ掛けるために。
 本当に、意地の悪い先輩たちだよ。
 だいたいなにがアロー北陸だよ、なにそのコートネーム? 意味分からない。

「いま、やってますから!」

 真矢は振り返ることなく、手を動かし続けた。

 絶対に今日のうちに、作業を終らせてやる。
 一人で今日中なんて、普通に考えてとても無理だけど、何時までかかったっていい。
 絶対に、終らせてやるんだ。

 一体誰への意地なのか、真矢自身にも分からなくなっていた。
 すぐ隣に、ふっと人の気配、暖かみを感じた。
 すうっと手が伸びて、ネットを摘み上げた。

「これ、ぐちゃぐちゃだね」

 村谷咲美の声であった。
 咲美は、壁に立て掛けられた脚立などを利用して、ゴールネットを広げて張り、からまっている部分を解きはじめた。

「どうして?」

 真矢は立ち上がり、震える唇を弱々しく開いていた。

「二人の方が作業は早い。それだけ。先輩に掛け合ったら、手伝ってもいいっていうからさ」

 そういうと、咲美はにこりと笑った。
 だけどその笑顔、真矢はよく見ることが出来なかった。土砂降りに打たれたガラス窓のように、すっかり曇ってしまって。

 そう、真矢はボロボロと涙をこぼし、泣いていたのである。

     5
 新堂良子が崩れそうになる膝に手を置いて、屈み腰でぜいはあと喘いでいる。
 芦野留美とのキープ練習で、一分間全力で動けども奪うどころか足をかすめることすら出来ず、すっかり息が上がってしまっているのだ。

「あたしなんかじゃ、留美ちゃん、から、一度も奪えない、のは、仕方ないけれど、でも、もう少し体力、つけないとなあ」

 良子は額の汗を袖で拭った。

「でも、良子も動きよくなってきたよ」
「そうかな」
「そうだよ」

 留美は嘘をついた。
 どれだけ練習を重ねても、良子のボールを扱う技術はまったく上手にならなかった。

 入部したばかりの頃は、わざと手を抜いているのでは、笑わそうとしているのでは、などと思うこともあった。名門中学出身だからといって、こちらをバカにしているのかとも。

 でも、少し良子と触れ合えば彼女がとてもそんな真似の出来る性格でないことはすぐ分かる。
 いつでも前向きに全力投球。それが新堂良子なのだから。

 そんなきらきらした人柄にもひかれて友人関係を続けているわけだが、しかしここまで成長しないとこちらの気持ちも複雑だ。

 なんでこうも上達しないのだろう。
 まあ所詮は学校の部活だ。技術の向上以外にも、良子なりに様々なものを得て充実したフットサル生活になってくれればいいんだろうけど。
 と、いまのはちょっと上から目線だったろうか。反省。

「あ、そうだ」

 呼吸が整ってきたようで、良子は元気に顔を上げた。

「今日の数学でまったく分からないところがあったんだけど、留美ちゃん、あとで教えてくれないかなあ」
「なあに急に関係ないことを。あたしも人に教えられるくらい分かってないよ。だってバリゾーの数学の授業、なんか難しくてさ」
「まったまたあ」

 良子は茶化した。
 芦野留美は今年の新入部員の中で一、二を争うくらいフットサルが上手であり、それだけでなく学校の勉強も非常に優秀。お世辞にも勉強やフットサルが優秀有能とはいえない新堂良子や高木双葉にとって、純粋に羨望の的なのである。

 だというのに、留美本人はコンプレックスの塊であった。
 落ち着いて飄々とした態度とは裏腹に、自分のことをあまり好きではなかった。

 まず第一に、身体がごついこと。別に太っていたり筋肉質なわけではないが、背が高く、骨格が太いためだ。
 顔も、悪くはないがよくもない。ひたすら地味である。他人からの評価は聞いたこともないし聞きたくもないが、とにかく自分ではそう思っている。
 性格も、あまり女の子女の子したところがなく、要は可愛げがない。
 それがためか、恋人を欲せどもきっかけがない。彼氏いない歴イコール年齢だ。

 だから先日、勉強会で三人が集まった時に生じた雑談で高木双葉が過去の男性経験の数々を自慢げに述べていた時には、ついつい聞き出そうとしてしまいながらも同時に殺意を覚えていた。殺意は大袈裟にしても、自分の気持ちがドン底まで落ち込んだことに違いはない。

 良子も男性経験どころか交際経験すらないらしいが、そもそも彼女は自分で公言している通りそうした欲求自体がないようなので、傷をなめあうような仲にはなれそうもない。

 良子は自分自身に恋愛への興味がないというだけで、どこからどう見ても普通の女の子であり、その気になれば彼氏を作ることなど簡単だろう。

 興味あれど縁のない自分としては、なんだか良子が妬ましい。

 留美の兄弟は、長男、次男、自分、三男。と、男ばかりだ。だから自分もがさつで、だから恋愛のきっかけのようなものが一向に訪れないのだ。良子に会うまではそう思っていた。すべての責任を家族構成のせいにして、諦めていた。

 良子のところは、長男、良子、次男、次女。次女である妹はまだ幼稚園児であるというから、良子の人格形成が完成した時には男二人に挟まれていただけになる。

 そう考えると、うちも良子の家も大差はない。
 つまり環境は似たようなものということだが、でも自分はさばさば男のようで、良子は実に女子っぽく見えるという世の無常。
 女子っぽいといっても良子の場合は大人の女性というより小学生のちょっとバカっぽい元気な女の子のようなものだが、それでも女子は女子だ。

 つまり自分ががさつで男っぽくて恋愛のきっかけがまったく生じないのは、これまで散々と疎んじてきた兄弟のせい、ではなかったということなのだ。
 風呂上がりに素っ裸でうろつくようなアホ兄貴どもに謝るつもりなどは毛頭ないが、とにかくそういうことなのだ。

 あれ、なんでわたし、こんな恋愛のことなんか考えている?
 そうだ、劣等感について考えているうちに、いつしか自分で恋愛限定に話を持っていってしまっていたのだ。

 まあいい、確かに一番大切なのはその点だ。
 フットサルとどっちを取ると聞かれたら困るけど、恋愛も人生の重大要素。それがなければ、わたしもこの世に生まれていない。

 良子も恋愛話は好きらしいけど、あくまで他人限定で自分がどうのこうのはまるで興味ないなどといっている。
 もし本当なら、せっかく女子っぽく見えるその能力がもったいないよな。自分には皆無であるその素晴らしい力を、半分でもいいから分けて欲しいよ。

 というか、良子は本当に女子なのか? いや、自身の恋愛に興味がないなどそれはもう女子とは呼べないだろ。幼児か、男だろ。
 女の子っぽく見えるけど、男だ。

 でないとあまりに世は無常だ。
 ああ、なんかイライラしてきた。良子に罪はないけど、とにかくイライラしてきた。

「良子ってさあ」
「うん?」

 ちょっと口を尖んがらせたような留美の口調を、やんわり笑顔で受け止める良子。

「本当に女の子か?」

 さすがにその妙な質問は受け止め切れず、口があんぐりと開いたままになってしまった。
 あんぐりのまま、こくこくと頷いた。

「本当に本当だよね。証明出来る?」

 本当もなにも、なにをどうやって証明しろというんだ。とでも思ったか、良子は両手であんぐりを直しながら顔を赤らめた。

「あああっ、なにいってんだわたし。ごめん、良子。わたしって性格ががさつで、ちょっと気にしてるんだよね。家が男ばかりだからかなと思っていたんだけど、ほらでもそっちも男兄弟多くて母親いなくて、うちとほとんど同じだというのに良子は女の子っぽいだろう」

 話がちょっとだけ飲み込めたからか、ふにゃっとした笑みを浮かべる良子。

「いやあ、うちだってご飯の時は戦争ですよお。お茶碗飛ぶし、本当に。でも留美ちゃんはがさつなんかじゃないよ。細々気配り出来るし。落ち着いていて、かっこいいと思う」
「そのかっこいいとかいう評価が、好きじゃないんだけどねえ」
「ああ、そうなんだ、ごめん。でも男の人ばかりだと、多少がさつにならなきゃやってられないよね。うちなんか、お風呂上がりにお父さんと弟が裸で走り回ったりするしさあ」
「そうそうそうそう! やめろっつってもやめないんだよ。こっちは心から嫌がってるってのにさあ」
「留美ちゃん家も? おんなじだねえ」

 何故かガッツポーズを作る良子。

「うん。って、違うよ! おんなじだけど論点違う! おんなじ女子という生き物でおんなじような環境で育って、それでわたしと良子でここまで女子としてのオーラが違うのかって、それを話してるんじゃないか。まあ、だったらわたしも家ではいつもジャージ着てるのとかやめて、しっかり形から入ればいいんだろうけどさあ」
「あたしもよくジャージ着てるよお。家事炊事買い物なんでも出来て楽だしい、床に寝っ転がれて便利だしい」
「うわあ、それいうかね。ますますこっちの立場ないじゃないか」

 生活スタイルや着る物の共通点を挙げられたら、余計に素の女子能力評価が開いてしまうだけだ。

「うーん。悩みがどうにもよく分からないんだけど、じゃあさあ、形から入ったら? 人には人の方法があるわけで。ジャージ着るのやめて、とかいってたよね。じゃあ、お洒落なよそ行きの洋服を家の中でもどこでも着るようにすればいいんだよ」
「Tシャツとジーンズしか持ってない」

 あとはジャージしかない。

「じゃあさあ、どっか買いに行かない?」

 良子は、さも名案といった表情を浮かべた。

「しまむら?」

 名前を知っている服の店というと、留美にはここしかなかった。

「しまむらも安くて好きだけど、今回は東京にでもさ。あたし、まだ東京に行ったことなくて、ちょっと興味あるんだよね。原宿とか」
「原宿に行けば、あたしでも女子っぽく見えるようになるかな?」
「さあ」
「おい!」
「だって、もともと見えているんだから、さらにどうなるかなんて分からないよ。でも可愛い服を着れば絶対可愛くなるよ」
「なんなかったら?」
「あたしがもらってあげる」
「二十センチ違うでしょ、身長!」
「すぐ大きくなるもん!」
「どうやったら高一女子があと二十センチ伸びるんだよ」
「気合いで伸ばす」
「伸ばせるもんなら伸ばしてみろよ。よし、双葉も誘ってみんなで原宿行くぞ。可愛く見える服を選んでよね」
「いや、だからあたしもいつもジャージだから分からないって」
「えー。双葉にセンスあるかな」
「あたしよりは、遥かにあると思うけど……」
「他に誰か、付き合ってくれそうな子を探そうか」

 などと二人が話し合っていると、果たしてこれは神のはからいであるのか、丁度いい感じの人物が近付いてくるではないか。

 三年生のたかはし先輩が、ボール二つを器用に蹴り分けドリブルしながら良子たちの脇を通り過ぎようとした。

 この先輩は、学校の外では派手な服を着たり化粧をしたり、おしゃれ番長などと呼ばれている。
 日曜に佐原駅ホームで電車待ちをしているところを留美は見たことがあるのだが、帽子、重ね着した服、スカーフ、ミニスカート、ロングソックス、ポーチ、と自分にはとても真似出来ない完璧な組み合わせで、実に可愛らしい格好であった。
 これはまさに、うってつけではないか。

 頭を下げて教示願えば、ついてきてくれるかも。
 留美がそう思い、声をかけようとした瞬間であった。

「くっだらない服の話なんかしてねえで練習しろや、バーカ」

 先輩は中指を立ててシャーッと舌を出し、そのままドリブルで通り過ぎていった。

 初夏だというのに、寒風が吹いた。

「なんかあ、学校の外と違うというか、すっごい矛盾を感じるんですけどお」

 良子は高橋先輩の背中を見つめながら、寒風に耐えつつぼそり呟いた。
 続いて留美がやはり寒そうに、

「わたし、もう女の子らしいとかなんとか、どうでもよくなっちゃったよ」

 成れの果てがああだと思うと。

「まあとりあえず次の週末は秘密特訓で、後のことは後で考えるとするかあ」

 留美は大きく伸びをした。

「そうだね」

 良子も真似をして伸びをした。

「その次の週末も秘密特訓かも知れないしね」

 留美は腰を左右に捻り、腕を振った。

「そうだね」

 良子も真似をして腰を捻った。

「服も一生しまむらだけでいいや」
「そうだね。……ん?」

     6
「シャク!」

 高木双葉は良子のコートネームを叫び、同時に走り出していた。

 鈍台洋子をかわした新堂良子は、前を走る双葉の呼び掛けに応えてパスを出した。
 シュートを狙ったわけでもないというのに、宇宙開発。フットサルは床を転がすのが基本中の基本となる競技だというのに、特に焦る場面でもないのに何故か力んで思い切り打ち上げてしまい、ボールはゴールの遥か上に飛んで体育館の壁に当たった。

 味方は、せっかく同点に追い付ける絶好のチャンスが一瞬で潰えたことに苦い顔。

 双葉も心の中でため息をついていた。
 せっかく良子が珍しく良い守備からボールを奪って、だから良いパスを期待して走り出したというのに、良いパスどころか普通のパスすらこないとは。

 かっこよくシュートを決めよ思ったのになあ。
 まあええけど。

「シャクレ! てめえ流れを台なしにすんじゃねえよ、バカ! バーカ! 無能! シャクレ顎! チビ! シャクレ! 入って何ヶ月経つと思ってんだよ。しっかりやれや!」

 武朽先輩の怒鳴り声。
 パスミス一つで先輩にここまで罵倒されているのを見ると、双葉はもう可哀相でなにもいえない。自分も結構バカだアホだいわれるが、ここまで酷くない。

「はい!」

 良子は罵詈雑言の嵐にめげることなく、元気良く返事をした。
 まだ試合は続く。

「とにかくまずは守備からだよ、簡単に抜かせないようにしないと。せめて遅らせるくらいはしないと」

 相手チームの芦野留美が、小声で良子にアドバイスした。

「分かった」

 と、必死に相手に食らいつく良子であるが、気合いに能力がついてこず空回り。ピッチに存在しないも同然で、ことごとく突破を許してしまっていた。相手もみな、同じ一年生であるというのに。
 それだけならいざ知らず、ゴール前の混戦からオウンゴールを献上する始末。焦るあまり自分がどっちを向いているのかも分からなくなり、クリア方向を間違って豪快に蹴り込んでしまったのだろう。

 一年生ゴレイロの中で一番の実力者である九頭柚葉にも、これはさすがに止められなかった。
 こうして良子たちのチームは、追い付くどころか引き離されてしまった。

「ドンマイ、練習試合でよかったよ。つうかシュートちゃんと入るじゃん」

 味方にシュートを決めらてしまったゴレイロの九頭柚葉は、苦笑しながら良子の肩を叩いた。

「練習以外の試合に出られてたまるかよ!」

 とはピッチ脇に立つ荒上副主将の言葉。
 いくら注意しても改善されない良子のふがいなさに、腹立たしさがおさまらないようであった。せめて意地くらい見せられないのか、と。

「どうもすみません」

 佐原南での初ゴールだというのに良子に嬉しさはなく(当然だが)、ただ深く頭を下げるしかなかった。

「次あんなプレーしたら用具室行きだからな。よし、じゃあセット交替! C出てB入る!」

 副主将の指示に、良子たちはピッチを出た。
 壁際に腰を下ろして座る双葉と良子。双葉はあぐらをかいて、良子は体育座りだ。

 BチームとDチームの対戦を見ている二人。
 でも双葉は、あまり集中して試合を見ることが出来なかった。
 隣で膝に顎をうずめて座っている良子が、双葉にはなんだか元気がないように思えたからである。

 やっぱり落ち込んでいるんやろか。
 そら、ああまでボロカスゆわれたらなあ。
 心なしか、少し涙目になっているようにも見えるし。
 そうやろなあ、そらなあ。
 でもまあ良子なら大丈夫やろ。
 それより試合や試合、他人の勝負も我が血と肉や。

 と、目の前のミニゲームを見ることに集中しようとする双葉であったが、いつまでも良子が沈んだような態度を取り続けるのものだから、どうにもこうにも気になって、

「どうしたんや、落ち込んどるんか?」

 尋ねていた。
 どうせ、「なんでもないよ」とかいって明るい表情に戻るに決まっている、と思ってのことであったが、良子の返した言葉は双葉の予想に反するものだった。

「情けないなあって思ってね。精一杯頑張ってるつもりではあるんだけど、みんなとの距離を縮めるどころか、引き離されていく一方で」

 驚いた。
 良子が落ち込んでいるのである。
 涙目になっているという、見た目の通りの精神状態だったのである。

 そんな予期せぬ言葉を返された双葉はあたふたと慌てうろたえるが、返す言葉がなくて沈黙するしかなかった。

 どうして良子が落ち込んでいることで自分がこんなに慌てなければならないのか、自分でもさっぱり分からなかった。
 といえば嘘になるか。

 なんとなく見当はついている。
 双葉は、良子のフットサル技術がまるで向上しないのは心の問題ではないだろうか、と常々思っている。

 過去になにがあったか知らないが、例えば子供の頃にバカにされたりなど、なんらか抱えたものがトラウマとなって、それが技能に反映されてしまっているのではないか、と。

 体育の授業では、双葉を遥かに凌ぐ運動神経を見せる良子である。そうとでも考えなければ、フットサルだけどうしようもなく下手であることの説明がつかない。

 常に明るい表情を見せている良子であるが、心の奥では常に陰を抱えているのではないか。
 それを取り除けば、本当の意味での明るい良子になり、さらにフットサルの技術も向上するのではないか。

 相談に乗ってやりたいけれども、逆に心に傷をつけてしまうようなこと、おいそれと聞くわけにもいかない。
 そもそも、これらは単なる自分の思い過ごしという可能性だってある。

 以前に、いまの良子のままで別にいいじゃないか、と納得したはず。

 せや、きっと時間が解決する問題やろし、そもそも良子は落ち込んだりなどしとらん。

 と思っていた矢先の良子の落ち込みであったため、双葉はうろたえてしまったというわけである。
 掛ける言葉浮かばず沈黙した双葉は、自ら生んだその沈黙にも五秒として耐えられず、

「あ、あんな、良子っ。うちがな、なんでこんなエセ関西弁使うとるのか、教えてやろかっ」

 なんだってこんなこといってしまったんだろう。
 と双葉が後悔するのは、

「聞きたいっ!」

 と、からっと明るい表情の良子にがっと食いつかれた瞬間であった。

「うわ、復活しとるやん。やっぱり教えるのやーめた」

 慌てて損した。
 無駄に心配して損した。
 やっぱり良子は落ち込んだりしないんや。下手やろうと突き進む東北娘なんや。

「ダメだよ。教えるっていったんだから、教えて」
「嫌や」
「どうしてええ?」
「だって良子、全然落ち込んでへんやん。慰めてやろ思うたのに」
「えー、落ち込んでるっ。あたしとっても落ち込んでいるっ!」
「どこがや!」
「教えて教えて教えて!」
「うわああ、うるさいうるさいうるさい! 先輩にぶっ飛ばされるわ。用具室行くわ! ……しゃあないなあ。良子にだけやねんで」

 双葉は観念したという表情を浮かべた。

「うん。誰にもいわない。寝言でいっちゃうかも知れないけど」
「寝言でもいうな。あんな、小学生の頃に好きな男の子がおってな」

 双葉は語り出した。

「おお、双葉ちゃんの数々の恋愛遍歴は小学生時代から始まっていたわけですかああ」

 さっそく茶々が入った。いや、良子本人にそのつもりはないのかも知れないが。

「そのは話やめよな。前にぺらぺら話したこと、めっちゃ後悔しとるんやから。でな、続けるで……」


 その男の子は、大阪からやってきた子であった。
 双葉は、その容姿に一目惚れしてしまった。
 いわゆる、初恋である。

 ガリガリの、眼鏡をかけた、いま思うとどこがよかったのか分からない容姿であるが、とにかく一瞬でこの子かっこいいなと思ったのだ。

 これまでずっと大阪に住んでいた小学生が、関東に転校してきたのである。小学生である以上は当然といえば当然かも知れないが、男の子は関西弁をからかわれていじめられることになった。

 クラスの男子にからかわれ、関西弁を真似されて、変なあだ名をつけられて。
 そうしたからかいが毎日、毎日と続いた。

 一週間ほども経った頃、双葉もその関西弁を真似するようになった。

 からかうためではない。
 その男の子がいない時であっても、双葉は自分自身の言葉として関西弁を使うようになったのだ。

 つい数ヶ月まで自身がいじめられっ子であった双葉が考え付いた、それが男の子を守る方法であった。
 やめなよ、と大きな声でいじめっ子を注意することは出来ないけれど、これくらいなら自分にも出来る。

 上方漫才のような大袈裟な関西弁を常日頃から使うことで言葉をからかわれる対象が分散したことによってか、いじめっ子たちもやがてからかいに飽きがきて、段々といじめは終息していった。

 その件をきっかけに、双葉はその大阪から来た男の子と仲良くなった。
 関西弁を、たくさん教えてもらった。
 双葉がさっそくその言葉を使うと、男の子はイントネーションや使いどころについて注意しながらも、でも喜んでくれた。

 ある日のこと、男の子が市の病院に入院をした。
 なんでも生れつき身体が弱く、大阪でもよく入退院を繰り返していたらしい。

 少し遠いが自転車でも行かれるところである。
 双葉はことあるごとにお見舞いに行って、関西弁を使ってたくさん会話をした。

 一週間半が経ち、男の子は退院すると同時に千葉県を去った。
 父親の転勤に付き合って一家で千葉へと越してきたのだが、父親だけが千葉に残って、男の子は母親と一緒に大阪へ戻ったということらしい。

 こうして双葉の淡い初恋は終幕を迎えたわけであるが、それでも双葉は関西弁を喋り続けるのをやめなかった。

 自分がえせ関西弁を喋った時の、男の子のなんとも嬉しそうな顔が忘れられなかったのである。

 いつか、自分も大阪へ行ってみたいな。

 胸の奥にそんな思いを抱き、双葉は関西弁を喋り続けた。
 大阪の人からすれば不自然きわまりない、そんな言葉テレビでもよう聞かんという喋り方であったが、そんなことは双葉にとってはどうでもよかった。

 これまで自分が話してきたこの言葉が、既にオリジナルなのだから。
 双葉が、その子の前で顔を赤らめながら話してきたこの言葉こそが。


 一年ほどが経ったある日、その男の子が亡くなったことを風の噂で聞いた。

 どうやら、余命が長くないことを感じていた本人の希望により、生まれ故郷である大阪に戻ったということらしい。


「あんなに泣いたの、後にも先にもあの一回きりやなあ」

 双葉は照れたような微笑を浮かべながら、少し細めた遠い目で過去を見つめていた。

 うう、うー、と子犬の唸りのような声。
 ふと隣の良子へ顔を向けると、唇をぎゅっと引きつらせ顔の筋肉を痙攣させ、なんともみっともない表情で涙をボロボロとこぼしていた。

「おい、どないしたんや良子」
「だって、だって……」

 良子は拭っても拭ってもとまらない涙に、双葉へと飛び込んでその顔を埋めた。鼻水だらけのみっともない顔を。
 泣きじゃくる良子の姿に、怒るに怒れない双葉であった。
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